4.終わりと始まり
鬱ウイルスの感染者数は依然増加しているが、自殺者数は激減した。
様々な問題はあれど、症状に対する手段があるという一点で薬の存在は確かに人々の希望となっている。
自分が、そして大切な人が、日毎に蝕まれやがて心身を壊され自殺に至ってしまう恐怖へ何もできずただ祈るだけの時代は救われたのだ。
問題のひとつである、薬をめぐっての犯罪は広がり続けている。
しかし政府や医療現場は毅然とした姿勢で、秩序を保とうと必死に努めている。
それは、次の手が来ると信じているからだ。
一旦の対症療法薬ができたことで、ワクチンの開発と薬の改良は更に前進していた。
これらが完成し安全に鬱ウイルスへ対抗できるようになれば、薬物依存患者の治療もより注力でき徐々に日常を取り戻していけるだろう。
今なんとか踏みとどまっている世の中へ報いる事ができる日がもうすぐ来ると、私たちも信じている。
信じて、いる。だから、もう少しだけ――
「――白衣さん」
「うん?」
今朝はキノコくんの生体試料をとっていた。
いつもと言えばいつもの、部屋の明り取りの窓から少し光が差し込む午前。
世の中がどうなろうと変わらない光。
それに似合わない声で、キノコくんが低く切り出した。
「……昨日の夜、ここで怪物を見たんです」
「え……」
怪物。キノコくんの言うそれは、幻覚キノコあるいはキノコくんに由来するものを摂取した生物に起こる現象。
キノコくんにだけ見えている、恐ろしく変貌した姿。
「ここ、って……?」
「深夜に外を見ていたんですが、所内に何かが見えて意識を戻したんです。そうしたら、廊下に……怪物が歩いていて。けどすぐに出て行ってしまいました」
「そう……誰かは、わからなかった?」
「はい。ただ出て行った時の様子からして、外部の人では無いと思います」
「……じゃあ、誰かが薬を……」
「白衣さん。あの人は多分、薬を大量に飲んだか、もしくは僕の胞子をそのまま吸い込んだと思います」
「そういう違いがわかるの?」
「はい、姿がなんて言うか……すみません、説明に使える言葉が出てこないです」
「いいよ。わかった、ありがとう」
説明が無くとも、その姿がキノコくんにとってどんな印象を抱かせたのかは彼の様子で想像がついた。
そして、キノコくんの言う通り薬を大量に服用もしくは"元"である彼の胞子を直接吸ったのであれば――とても平常ではいられないはずだ。
薬と胞子の保管場所と来ている所員の様子を確認し、場合によっては検査をしなければ……そうだ、その前に主任とセンパイにだけは相談したい。
私はキノコくんへの挨拶をそこそこに、一旦研究室の方へ戻った。
◆
「センパイ、あのっ――」
「あ。ねえ、主任がまだ来ないのよ。電話出ないし。アンタ何か聞いてる?」
「え……」
その時、私が思考する隙も無くデスクの電話が鳴った。
反射的にわずかに近かった私が受話器をとった。
何かとても嫌な予感がして、心臓が鳴り始める。
「もしもし……」
「あ、もしもし? お疲れ様です。ごめんねェ、今日ちょっと行けそうに無いんだよねェ」
「主任……えっと、大丈夫ですか?」
「うん、もう大丈夫。でもごめん、やっぱ明日も行けないかも、あ、いややっぱもうずっと行けないかも。あのさァ、一個謝らないといけないことがあるんだよね……薬をさ、薬と胞子をもう何回か盗んでこっそりやっちゃってたんだよね、ごめん、ほんとごめん……」
「あの、その件は大丈夫ですから後で話しましょう。それより主任、体調は――」
「――でもさァ!! ずるいよねェ、ずるいんだから仕方がないよ。だってズルいよ、なあッ!!」
主任の聞いたことのない荒い声が鼓膜を震わせた。
私の様子を見たセンパイが受話器を奪い取ったが、続く声ははっきりと受話器から漏れてくる。
「こんなにこんなに苦労して毎日毎日疲れてんのにさァ、あっちもこっちもうるさくってさァ……! こっちはクマが消えねえのに、鬱になったからって優しくされていいもん貰ってキメてフワフワニコニコ幸せそうにしちゃってさァ! 羨ましくなっちゃったんだよ……疲れてさァ、もう……ちょっと夢見たかっただけなんだよ……必死こいて感染対策してるのに損してねえかなコレって思っちゃってもうさ……ご褒美だろコレはッ!! ああ、ああーダメダメダメ、もうダメなんだよ、無いとダメになっちゃったよ。戻ってくるつもりだったんだよ、ちょっとで済ますつもりだったんだ、信じて。ね……でももういいんじゃないかな? もういいだろッ! うるせェよッ! ごめん、もう戻れないんだ、コレが無いともう戻れないんだよ。後はよろしくね……みんなも来ればいいよ、コレより幸せなことなんかもう世の中無いと思うからさ、ああもう限界だから吸うね……あ、アァ……あっ、アアア――…」
最後に倒れるような物音がして、電話はそのまま切れた。
私もセンパイも言葉が出ない。息も思考もできず、心臓の強い音だけが響く。
主任は……
これから、どうしたら……もっと早く、気づいていれば……
「……っ、アタシちょっと行ってくるわ。病院連れて行かないといけないし。聞いてる?」
「え、あっ……うん。そう、だよね。病院……」
「しっかりしなさいよ。連絡するから、アンタはここに居て。わかった?」
センパイが部屋を出ようとすると同時に、所員がひとり駆け込んできた。
酷く慌てた様子で――電話のショックで今まで気づかなかったが、なんだか外が騒がしい。
所員が息を切らせ、くしゃくしゃになった一枚の紙を渡してくる。
そこには画質の悪いモノクロ写真と文字が印刷されていて――
『研究所に隠された巨大キノコ!』
『私たちの薬は成分を薄められたうえ厳しく制限されている。しかし国は我々を抑圧している一方で、こんなにも巨大なキノコを秘密裏に育てていた。』
『キノコの独占を許すな! 我々には幸せになる権利がある!』
写真は暗くノイズが多いが巨大なキノコが写っているのがわかる。
キノコくんの部屋の明り取りの窓から望遠カメラで撮られたのかもしれない。
首から下はほとんど写っていないが、写っていたとしても状況は変わらなかったろう。
彼らにとって重要なのは、首から上なのだろうから。
「なんなの、これ……」
「……薬の依存者が徒党を組んで、最近じゃカルトみたいになってるって聞いたけど、まさか……」
「どういうこと!? どうして……」
「とにかく、外の騒ぎがコレならまずいわ。全部ロック確認して、アタシは――」
突然、何かが割れるような大きな音が響いた。
私は咄嗟に駆け出し、センパイの声を捨ててまっすぐ向かう。
あの部屋に違いない。
◆
「キノコくんッ!」
「白衣さん……」
ドアを開けると、やはり床には散ったガラスとレンガのような物。
穴の空いた窓からは歓声のような音が流れていた。
このままここに居ては次に何が起こるかわからない……
「ついて来て、どこか……隠れないと!」
私はキノコくんの腕を引いて部屋を出る。
サンプル採取以外の目的で彼に触れたのは、これが初めてだった。
……いや、正確には二度目になる。
初めては彼が生まれたあの日、抱き上げたあの瞬間だ。
◆
「…………」
ひとまず飛び込んだのは、キノコくんの部屋より狭い倉庫。
ここは棚を含め大きな物をいくつか置いている為、私たちはそれらの間に座り込んだ。
窓はひとつも無く、ドアを閉め鍵をかければ暗闇になる。
腰を下ろしたのを合図に私は深く息を吐いて、それからまた心臓の音と自分の荒い呼吸音がうるさく聞こえた。
「……キノコくん、状況はわかってる?」
「全てではないですが。……皆さんは、僕が欲しいんですね。僕から出る胞子が」
「大丈夫だよ。きっともうすぐ警察が来てくれて収まるから……」
「……。収まるでしょうか? 僕の存在はもう露呈してしまったんです」
「…………」
「それに――警察もすぐには来られないと思います。外の混乱は激しく、集団は一部銃火器なども所持しているようです」
「なっ、なんでそんな物……!」
「どんな人も居るからです。警官だった人もいます。感染して薬を服用した人ばかりでもない。自ら、モジャさんのように……」
「…………」
主任……
電話が切れて以来この騒ぎで結局安否はわからない。
色んな人が、自分の力や知恵を総動員させてキノコくんを手に入れたいと思っている。
こんな騒ぎを起こしてまで。保っていたすべてを壊してでも。どんなことをしてでもという気持ちで。
このままなんとかやり過ごせたとして、その後は……
「――ッ!?」
暗闇に顔を伏せると同時に、強い揺れと轟音。
爆発――…!?
けたたましい警報器の音。遠くから悲鳴と、複数の足音が広がっていく。
「何人かに侵入されました。警察が駆けつけて応戦してくれているようですが……ここも危険だと思います、白衣さん」
「で、でも……!」
他に隠れる場所なんてない。どこへ逃げろって言うの。
キノコくんを外に出す訳にもいかない。
彼を外に出してしまえば、もう世界は二度と元に戻れない気がする。
いっそこのまま隠して隠し続けて、あれはガセだったんだと収まってくれさえすれば――
「大丈夫だよ、キノコくん。こんな倉庫、誰も見に来ないから。だから……」
「白衣さん」
キノコくんの潜めた声をかき消すように、ドアノブが乱暴に回される。
いつの間に、こんなに足音と声が溢れていたのだろう。
私は急ぎ近くの荷物を引きずって、強く叩かれ続けるドア前へ運んだ。
ただの倉庫のドアであるそれは脆く、鍵の壊れる音がして数センチ開く。
「おい、ここだ! 人がいるぞ、ここにキノコがあるんだ!!」
「誰もっ――何もありません、やめてください! 帰って!」
体重を掛けて荷物を抑えるがドアは閉まらない。
じりじりと押され、少しずつ開いていくのがわかった。
早く、早く誰か……
「お前らで独り占めしてたんだろう! 本当は税金吸いながらキノコも吸いまくってたんだろ!」
「そんな訳ない、どうしてそうなるの!? 私達はっ、みんなが助かる薬を作るために毎日――」
「じゃあその薬はいつできる!?」
「そんな、の……でも、もうすぐ…本当にもうすぐなんです! もう少しだけ、」
「あと何日、何年後だ! 俺達はいつまで苦しめばいい!?」
そんなの……
そんなのわからない。
だけどその回答は、彼らに向けてあまりに不誠実に感じた。
私も立場が違えば同じことを思ったのかもしれないから。
「いやもういい、もうどうでもいいキノコを寄越せ!!」
「やめて――っ」
「それさえありゃみんな救われるんだ――!」
「白衣さんッ!!」
銃声が耳をつんざくと同時に、視界が揺らぎ体が浮遊する感覚。
周囲の輪郭が暗くぼやけていき思考も閉じていく中、誰かに強く抱き寄せられた。
すべての音がこもって遠ざかっていく。
最後に、私を抱く手の熱さだけを感じた。
結局私、誰のことも救えなかったな……
世界中の誰ひとりも、自分のことも。
ごめんね、ごめんなさい……
お父さん、お母さん…センパイ、主任、みんな…
キノコくん――…
…………
◆
鬱ウイルス対策チームの研究施設前には、多くの人々が群がっていた。
騒ぎの発端である依存症患者集団、警察、消防、野次馬、報道機関……各々の譲れない争いによって辺りは混迷を極めていた。
特に依存症患者らの声は引くこと無く、施設を取り囲むようにして皆一貫した主張のもと暴動に加担している。
彼らの主張はただひとつ。
「キノコを出せ!」
夢に取り憑かれ、それが薬だった過去も、それがなんの為に生まれたのだったかも彼らの中では消え去っていた。
彼らにとってそれはもう生活であり酸素であり、この行いは生きる時間を守るための正義であると信じている。
死に至る病が発見されて以来、恐怖に勝利すべく歩み続けたわずかな歴史の末路。
とうとう世界は、ここまで来てしまっていたのだ。
「――おい、アレなんだ?」
暴徒と警察とで一際人の集まっている中、誰かの声があがった。
不思議と喧騒の声は小さくなり人々は顔を上げる。
建物の屋上。そこへ向けて次々と視線が集まっていく。
彼らの目に映ったのは、太陽を遮るようにして立つ何かの姿だった。
「人か……?」
「いや、あれは……」
人のような、しかし人ではないそのシルエットは屋上の縁に黙って立っている。
誰も彼も言葉を失った一瞬の静けさ。
――直後。
「キノコだああぁぁーーーーっ!!!」
それは人々の中へ飛び降り、皆の眼前に迫るのは巨大なキノコ。
湧き上がる大歓声に呼応するように、大量の胞子が舞い上がった。
まるで煙のように肉眼で見える程の胞子は風に乗り、瞬く間に広がっていく。
自らの意思と関係無く、いずれ全ての人々はそれを浴び吸い込む事となる。
こうして、人類を震撼させた脅威は消え去ったのだ。
魔法のように。
◆
――1990年。
窓から明るい外を見れば、静かで平和な時間が流れている。
少し浮足立った気配を感じるのは祭りでも始まるのかもしれない。
私は窓に背を向け部屋の隅へ戻り、机上の蓋を閉めた試験管を見つめた。
麻薬成分を含まない、うつ症状を改善させる薬。
あの襲撃事件からしばらくして、私の目指していた新薬は完成した。
従来の薬に比べて副作用も少なく効果も高い。……理論上は。
この薬はきちんと効くのか、本当に安全かどうか確かめることはできない。
もうこの世界には必要ないからだ。
ストレス、絶望、不安…そんな心に悩み苦しむ患者はどこにもいない。
あの日、私は撃たれたあと同じ倉庫で目を覚ました。
銃弾は私の右肩をかすめていったようだが止血の応急処置がされており、顔は防護マスクを被っていた。
ショックで倒れたものの傷は浅く、今は痕が残った以外で支障は無い。
外から漏れる人々の声色から、世界が一変しもう取り返しのつかなくなった事態を悟った。
私は裏手から隠れるように逃げ出した。幸い、誰も私のことなど見向きはしなかった。
その後なんとかこの部屋で生活を始め、ついに念願は果たされる事となる。
鬱病患者は居なくなった。
薬も完成した。
――私の願いは、すべて叶ったのだ。
「…………」
世界はどの歴史よりも平和な時代が訪れた。
人の心に埋められない穴など無いと、哲学は消え去り神仏は眠りにつく。
幸福な新人類は、呼吸や食事と同じ列にキノコの胞子を喫することが追加された。
私は未だに旧人類のまま、"彼"のことを思う。
彼にとって、この世界はどんな風に見えているのか……
澄んだ空を、人の微笑みを見る度に。鳥のさえずりが、誰かの笑い声が聞こえる度に想像する。
私だけが知っている。そして私でさえ想像することしかできない。
光り輝く万人にとって、彼に見えているものなど犠牲にすらならない。
人々にとってこの光をもたらすのは、ただのキノコだ。
「あの時、私が……」
床を見つめ、出会ったあの始まりを思い出す。
そもそも彼は私の不注意で生まれた存在だ。
その事実を彼が知っているかどうかすらわからない。
どちらにしろ私は謝罪すべきだったのに、答えを恐れてずっと言い出せずにいた。
「……私のこと、恨んでるだろうな」
彼がこの世に生まれた原因は私。彼に初めて注射針を刺したのも私。そして監禁して、研究材料として扱い続けたのだ。
大いなる目的の為と信じて、得られたものはなんだった?
そうしてこんな結果になって、私を恨んでもおかしくない。むしろそれが道理だ。
頭の中で謝罪するたび、彼の姿をした私自身の声が責め立てた。
「……ごめんね……キノコくん……」
背後の窓を、誰かがノックした。
END
幻覚キノコマン_Novel @sui_hope
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