トロンプルイユの食卓

ぼたすけ

第1話

人体は油彩画である。食事という絵の具で形作られた芸術品である。名高い芸術家はより良い作品作りのために、色彩に拘る。同じように私も、よりよい人間作りのために、食事に拘っている。

ところで、人間をより豊かにするのは、他者との関わりだ。交流を断絶し、自身の内側に引きこもっていては、精神的成長は見込めない。同様に、肉体的成長も同種であるヒトによってのみ、促される筈なのだ。

それにも関わらず、大抵の人間は汚れた野菜や穢れた動物ばかり好んで口にする。人間の進化を、保守的な食事が阻んでいる現状をどう打開すべきか。考えるまでもなく、人間は人間を食すれば良いのだ。しかし、秩序なき共喰いはナンセンスだ。知性がない。

だからこそ、私は人間が秩序と規範に則って人肉を食める場を用意した。加えて、つまらない常識や旧式の倫理観を上書きするために、私自身が指導者の座に就いた。

人間を喰らい、更なる進化を求めるカルト教団「ひかりの食卓」教祖が、私​───────月灯(げとう)アカリであった。

さて、勘のいい人間ならば、とある疑問を抱いただろう。何故、自身が善行を説いていると熱弁しているのに、擁する団体をカルト等と自称するのかと。

答えは単純だ。私は、私が語った理想がすべて出まかせであると知っているからだ。共喰いによって、人間の心身がより強靭になるのであれば、とっくにヒトの主食はヒトと化しているだろう。人肉食は、不合理だからこそ、進化の過程で排除されたのだ。

私は私の掲げる教義が愚かであると知った上で、教団を束ねている。それならば、何故?と質問を重ねようとする者は、穴だらけの教義よりもお粗末である。現代社会において、カルト教団や新興宗教が根強く残っている理由を、よくよく考えてみるといい。














姉のスーツの色が変わったのはいつだっただろうか。私は、視界の端をちらつく袖と目を合わせた。自分のスーツが、奇天烈な赤になった日は記憶に新しい。おまけに、海外ブランドのこのスーツは、襟がハートを象っている。

『ゆらりには危険な場所に出向いて貰うからね。血を誤魔化せる朱色がいいよ』

無表情で、告げられたあの日に、私は妹ではなくなった。過激な思想を教義に掲げる教団の掃除屋に、うまれかわったのだ。そうでもしないと、姉は私を簡単に切り捨てたに違いない。断捨離の意識もないまま、私と姉の世界を繋ぐ梯子を焚べただろう。

私は、鼻を拭った。親指の付け根を見れば、べっとりと赤黒い固形混じりの液体が付着している。溜息をついて、足元に転がる意識のない人間を、革靴の先で蹴飛ばす。米俵よりも、軽い。ブルーシートに飛び散った血痕は、幼い頃に姉と遊んだ色水を連想させた。

姉であるアカリと私は、貧しい家庭に生まれ育った。身体が弱かった私に代わって、姉は公立進学校を卒業後、すぐに就職をした。紺色のスーツで至極まっとうに働いて、家に給料の殆どをおさめていた。それにもかかわらず、姉の持ち物はどんどん派手に変わっていった。やがて、家を留守にする日が増えた。表情からは柔らかさが掻き消え、侮蔑に裏打ちされた愛情を人間全般に示し始めた。

姉は、現在進行形で新興宗教の教祖をしている。カルト宗教と言い換えてもいい。いつからはじめたのか、どうして開祖と化したのか、私は知らない。

茹だるような夏。真っ黒な火葬場と真っ青な空をバッグに、ただ私はいざなわれたのだ。おかしくなっても姉は姉で、唯一の肉親で、美しい、聡明な、女だった。

地面に転がる人間は、いつの間にか息を止めていた。私はまだあたたかいそれを、布団で包んだ。薄手のワンピースは随分と高価そうだが、此奴は一体誰だったんだろう。そのまま、ドライアイスが敷き詰められた車のトランクに、死体とも人間とも言いきれない物体を放り込む。廃工場の地面を汚さないように、ブルーシートも折り畳めば、証拠隠滅が完了する、らしい。

アカリが指定した方法で足がついた経験はないが、捕まるのも時間の問題だろう。私は真っ赤なスーツで手の甲を拭うと、運転席に身体を滑り込ませた。逮捕よりも断罪よりも、姉の愛想が尽きてしまうifの方がずっと恐ろしい。

エンジンをかけ、アクセルを踏めばのっそりとした車体が動き出す。山道のあちこちに雪が残っているが、暖房はつけない。せっかく用意した贄が傷んでしまうからだ。

辺りには街灯ひとつなく、数寸先は墨を零した様な暗闇が広がっている。左右に暴れる蛇に似た道無き道を、静かに進んでいく。死臭を吸うのが嫌で、浅い呼吸を繰り返していると、頭痛に襲われた。

……そういえば、教祖になってからの姉は頭痛ひとつ訴えない。それどころか、妖艶な美貌にも益々磨きがかかっている。彼女が掲げる教義を実践すれば、自分もより身体が強くなるだろうか。

押し黙ったまま、思案を重ねること数十分。私は、肺にたまったよどみを吐気と共に吐き出した。

「……共食いは御免だ」

姉がどうしても、と望むなら話は別だが、私はあくまで屠殺場の人間に過ぎない。食べたい奴だけが、食べていればいい。

「……ああ、でも」

アカリの死体が誰かの胃袋に落ちるだなんて許せないから、アカリだけは私が全て貰おう。

ハンドルを右に切って、決意を新たにした瞬間、目の前に神殿を思わせる巨大な建造物が現れる。教団の本拠地であり、アカリと私の隠れ家でもある。北国の山奥に横たわる建物は、周囲の山景色とは不釣り合いだ。だからこそ、一般人は近付いてこない。はっきりとした異物は、避けてしまうのが動物の生存本能である。

私は正面入口ではなく、裏手の地下入口に身体を飲み込ませた。幾重もの扉をくぐり抜け、たどり着いた駐車場に車を停止させる。

すると、少し離れた場所で月灯アカリが手を振っていた。細身の立ち姿を目にしただけで、心臓がどきりと跳ね上がる。紫紺を滲ませた優美な黒髪に、涼し気な目元。紫を基調とした派手なスーツすら着こなす美貌の主は、軽やかな足取りで私に近づいてきた。

車を降りれば、切れ長の黒曜が私を捉える。形のいい唇が蠢き、響きの良い声でアカリは私を呼んだ。

「やあ、ゆらり。首尾はどうだい?」

「上々です、姉さん。成果物は、トランクに詰めてあります」

アカリ直々のオーダーを、私がしくじる訳がない。アカリは無表情のまま、視線をうつした。

「確認させよう」

姉の後ろに控えていた男女がトランクに歩み寄る。中身を確認したのだろう。彼らが深く頷くと、姉はほんの少し表情を動かした。喜怒哀楽どれにもあてはまらない。しかし、姉のかんばせはどんな感情を浮かべていても、有無を言わせぬ気高さがあった。思わず見惚れてしまう美貌である。姉は私の熱を含んだ視線に気づいているのか否か、淡々と呟いた。

「私は今から儀式の準備をする。ゆらりは、好きに過ごしているといい」

「わかりました。お気遣い、ありがとうございます」

従者に死体を持ち上げさせ、姉はくるりと背中を向けた。猫の尾の様に、長髪が舞う。あの死体は、これから捌かれる。姉の作ったカルト宗教の教義は、カニバリズムによる、救済だ。姉は指導者で、私は狩人。血みどろの処刑人としてどんどん手を汚しているからだろうか。教団の者にも、姉にも日に日に疎まれている気がしている。……先日よりも、目が合った時間が短かった。

先刻、アカリを喰らいたいと願ったが、前言撤回だ。アカリに食べてもらって、アカリの血肉になれたなら、どんなに幸せだろう。

つんと痛む鼻の奥を誤魔化すために、私は血腥い手のひらで、顔を覆った。



祭壇の上に、死体があった。私はそれを遠くから眺めていた。死体の皮膚は青白く、打ち上げられた深海生物のようだ。信者たちが、声を弾ませながら死体を取り囲んでいる。絢爛な光が照らす部屋は、それでも墨を流し込んだ暗さだ。死に対する恐怖も畏敬も存在しない空間。漂う雰囲気は、テーマパークのイタリアンレストランに近い。床には、返り血が目立たぬよう、赤黒いカーペットが敷き詰められていた。

六名の信者は、教団に長年貢献してきた幹部達である。漸く褒美を口に出来ると、欲望に目を光らせていた。幹部は、全員醜く老いている。六人のうち、四人が男、二人が女だ。

私は、アカリに「好きに過ごせ」と命じられ、結局、彼女の後を追った。ヒトを解体する現場に対する不快感よりも、姉への不透明度が増す方が嫌だった。

かといって、他の信者たちと同一視されるのも癪に障る。そのため、隅でじっとしていた。アブノーマルを煮詰めた部屋の中で、姉のかんばせは変わらず美しかった。

どれだけ、アカリの顔を眺めていただろう。彼女が物々しく、玉座から立ち上がる。それだけで、談笑していた信者たちが、静かになる。跪き、頭を垂れる。アカリは、聖母を思わせる微笑を浮かべた。

「君たちの素晴らしい善行に、今日は報いよう。食事の時間だ。君たちの賢さも、美しさも、より一層輝きを増すと約束しよう」

たったそれだけの言葉を吐いただけに過ぎない。いや、この空間においては、姉の言葉は純金よりも重かった。

アカリは、手元に存する黄金の杯に、粘つく赤黒い液体を注いだ。完璧な笑みを刻んだまま、一気に飲み干す。

次の瞬間、信者たちは高らかに叫び出した。

「ひかりの食卓、万歳!」

「勝利に感謝を!」

「勝利、万歳!勝利、万歳!」

大声で、腕を挙げる者。咽び泣きながら、地に頭を擦りつける者。たった六名の狂乱にも関わらず、熱量の凄まじさにじっとりとした汗が止まらない。

私は知っていた。姉が飲み干した粘液が、鉄の匂い付けをした果汁であることを。それを、信者は当然の様に人間の血液だと疑わないことを。私自身も、事実を知っているにも関わらず、糾弾する気にはならなかった。

興奮の渦の中央で、アカリが従者に銀色の刃物を手渡す。再び、辺りが静まり返る。

「贄に、感謝を」

アカリは短く呟いた。解体がはじまるのだ。死体の解体は、私を含め、アカリに選ばれた数名のみに許可された行為である。確か、今日の従者は解体がはじめてだった筈だ。優越感で、胸がいっぱいなのだろう。ヒトの死体の前で、凶器を携え、頬を赤らめている。

「アカリ様に、感謝を」

解体役が高らかに宣言し、屍顔を覆う布を剥ぎ取った時だった。

「あ、あのっ……!」

姉でも従者でも信徒でもない声が、響き渡る。

「私、まだ、生きてます……!」

その言葉を聞くよりも早く、私は走り出していた。私は目を疑った。腰の護身刀に手をかけ、 姉と祭壇の間に滑り込む。何が起こっているのが、理解できない。死体だった筈のそれは、ゆっくりと起き上がった。血の気を失った青白い顔が、瞬きを繰り返している。真っ青な瞳と、目が合った。あろうことか、死者が私を見ている。きん、と耳鳴りがして、周囲の音が遠ざかっていく。どうして。確かに、私はこの少女を殺したのに!

「あの、ここは……?貴方たちは、一体……?」

死体が喋っている。信者達も、従者も、恐怖で硬直するなか、アカリだけが悠然と言った。

「お会い出来て光栄です。我らが聖女よ」

「……聖女?」

「貴方は人間として死に、聖女として蘇ったのです。無礼をお許しください。他の贄と同じ儀式を踏み、はじめて、貴方は命を吹き返す」

アカリは、死者に近づき、あろうことかその手をとった。信者に向き直り、続ける。

「君たちも驚いただろう。聖女降臨の儀は、誰にも告げず実施する必要があったんだ。聖女の誕生を見届けた君たちには、祝福と幸福が約束される!君たちの進化と、聖女の恵みに、万歳!」

もう訳が分からなかった。頭痛がする。震えていた信者たちは、指導者の言葉に縋るしかなかったのだろう。小刻みに肩と声を揺らしながら、叫び出した。

「アカリ様、万歳!」

「聖女様、万歳!

「万歳!万歳!」

私だけが、黙っていた。聖女と呼ばれた元死者は、祭壇に座り込んだまま、アカリの手を強く握りしめていた。何がどうなっているんだ。間違いなく殺したのに。死者蘇生の術など、存在する訳がないのに。喉がからからに乾いていく。こめかみを、冷や汗が伝った。アカリは満足気に笑っている。



姉はもう姉ではないのかもしれない。

これは、気づいてしまった私と、蘇った聖女と、狂い咲きの教祖の、お話。



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