第3話

 翌日も颯太は『桜木稲荷』を目指してタバコ屋の前まで行った。この日は空の高いところで強い風が吹いていて、雲がすごい勢いで流れていっている。

 するとそこには工事現場にあるような赤いコーンが立ち並び、作業服を着た人が誘導棒を振っていた。

 空を見上げると、大きなクレーンがなにかを釣り上げてるらしく、いつも閑静な裏通りが喧騒に満ちていた。

 降り積もった桜が地面を真っ白に染めて、それは風に吹かれてブリザードのように舞い上がる。

 颯太は近づいてタバコ屋の角を覗き込んだ。その先では数人の作業員が見守る中、チェーンソーの音がけたたましく響き、木の粉を撒き散らしている。

 その光景を見た颯太のときが一瞬止まった。

 あたりには切り離された桜の枝が散乱し、桜の大樹はロープに括り付けられながら、小刻みに切り刻まれてた。

 あの『桜木稲荷』の桜だ。

「なんで……?」

 颯太は知らずのうちに口をついて出た言葉を言い終わらないうちに飛び出していた。

「いやだ。やめて! やめてよっ!」

「ああっ、だめだよ坊や!」

 作業員の制止を掻い潜り桜の木の元へと向かう。

──お父さんとの思い出の桜なのに! お兄さんの大事な桜なのに!──

 様子を見てたタバコ屋のばあちゃんが猫を抱えたまま、足をもつれさせ走り出てきた。

「颯太ちゃんっ!」

 その時、桜の大枝をぶら下げていたクレーンが急にバランスを崩して傾く。ばあちゃんが大きな声で何事か叫んでいた。

 叩きつけるような暴風が乾いた土煙を上げ、クレーンは切断途中の桜の幹を引き千切りながらタバコ屋の屋根を押しつぶす。

 その場にいたすべての人々が呆気にとられて騒然とした。

 

「颯太」

 一瞬の出来事になにが起こったかわからず、颯太が恐る恐る目を開けると、あの青年が自分を抱きかかえて倒れていた。

「平気かい?」

「ぼく……」

 声を出そうとして言葉を詰まらせた。自分たちが地面とクレーンの間のほんの小さな隙間にいることに気がついたのだ。

「怪我はない?」

「う、うん」

 どこも痛くない。ただ血の気を失った彼の顔を見上げることしかできなかった。

「颯太ちゃん!」

 腰を抜かしていたタバコ屋のばあちゃんがよろよろと歩み寄ってくる。

 青年はどうにかしてクレーンの下から這い出すと、颯太を引きずり出すようにして立たせてくれた。

「よかった、怪我はないね」

 膝をついて一通り颯太をよく観察すると、ようやくいつものように微笑んだ。

 それと同時に駆け寄ってきたばあちゃんがぎゅうううううううと抱きついてくる。

 ──痛い。苦しい。

 ばあちゃんは驚いただの、肝をつぶしただの、いろんなことを耳元で喚いていて、お兄さんはそんな僕らのことをそばで膝をついたまま見つめていた。

「あんた……」

 言いたいことを言い尽くしたばあちゃんが青年に向き直ると、彼はそっと口元に指を当ててばあちゃんの言葉を制止した。

「あと、お願いしますね?」

「わかってる。わかってたよぅ。もしかしたらそうなんじゃないかって」

 下を向いたおばあちゃんは顔をますますくしゃくしゃにして歯をくいしばる。颯太には二人の間に交わされた言葉が理解できない。

 わけがわからず颯太は助けを求めるように青年に視線を向けた。

 すっくと立ち上がった青年はクレーンの転倒とともに引き倒された大きな幹を見やって苦笑する。

「もう、君もわかっていたんだろう? 僕はこの辺りでは一番古くてね。百年以上この場所を見つめてきたんだ。体もだいぶ傷んでて、木材としても使ってもらえないだろうな」

 颯太は首を振った。

「やだ。わかんないよ」

 わかりたくなんかなかった。彼の言葉が最期の別れのように聞こえる。

「いいかい? 将来の話をしてくれたよね。過去や現在いまが辛くても、未来は君だけのものだ。他の誰にも決めさせちゃいけない」

 青年は長い指をした両手で颯太の頭を包み込み、額をあてがった。

「そしていつか、君だけの花を……自分に誇れる素敵な花を咲かせて」

 颯太はぽろぽろと大粒の涙をこぼしながらこくんと頷き、それを見届けた青年はそよ風のようにふわりと微笑んだ。最初に会ったあの日みたいに。


「あと、お願いしますね。桜さん」

「……わかってるよぅ」

 横でへたり込んだまんまのばあちゃんは寂しそうに目を潤ませる。


 この事故を受けてたくさんの人が集まってきた。遠くからは救急車のサイレンが近づいてくる。

 その音に耳を傾けた青年は春の風に身を預け、羽織の中を桜吹雪が吹き抜けた。


      *     *     *

 

 怪我らしい怪我はなかったものの、颯太はタバコ屋のばあちゃんの付き添いで病院へ緊急搬送された。

 だが、それから数日間、母親との連絡が取れず、颯太の恵まれない生活環境が露呈する事になり、颯太は父方の祖父母に引き取られる事になった。


 転校する前の日にタバコ屋のばあちゃんと猫のミケにお別れを言いに来て『桜木稲荷』の横に大きな切り株が残されているのを見て悲しくなる。

「ばあちゃん、桜って名前なんだね」

「ふふん、私みたいな美人にぴったりな名前だろ?」

「んあ……」

 颯太は言葉に詰まる。

 あの日以来あの和装の青年を見かけることはない。

 周りにたくさんの人がいたにもかかわらず、誰も彼を見ていなかった。サクヤと名乗った青年についてタバコ屋のばあちゃんもあまり話してくれない。

 颯太は笑われるかもと思いつつ、ここであった事、サクヤと名乗った青年について話してみた。

 タバコ屋のばあちゃんは不思議そうに口を開けていたが、しばらくすると懐かしそうに相好そうごうを崩してゆるゆる話し出す。

「あの人はねぇ桜の花が咲いている時期にしか現れなくて、誰もが見えるわけじゃないんだよ。あたしがあの人に会った時は戦争が終わったばかりでねぇ、みんなが大変な思いをしてたんだけど、ふらりと現れたあの人が側にいて微笑んでるだけで幸せな気分になったもんだぁ。まるで満開の桜に包まれてるみたいにね」

 今度は颯太が口を開ける番だった。やっぱりそうゆうことだったのか。ではきっともうあの人には二度と会えないんだなと颯太は思い、また悲しさが胸に込み上げる。

「あの人、ああ見えて結構スケコマシでさ。あたしが若い頃なんかよくからかわれたもんなのよ」

「──は?」

「んふふふ♪」

 膝に乗せた猫のミケを撫でまわしながらにんまりする。

 タバコ屋の桜ばあちゃんはいつもこうなのだ。どこまでが本当の話なのかわかったもんじゃない。颯太は少しばかりじれったさを感じた。

「それで──」

「寂しいかい?」

「──……」

 急に真顔になった桜ばあちゃんにどきりとして思わず黙る。

 桜ばあちゃんは唐突にぽんと両手を打ち鳴らす。

「そうだぁ、盆栽作るしか能のないうちのじいさんがね、寿命が近いって言って、あの桜の枝をいくつか挿し木してたんだ。颯太ちゃん育ててみないかい? わからない事があったらいつでもうちのじいさんに聞けばいいから」

 そう言った桜ばあちゃんは庭の隅から小さな植木鉢を持ってきた。それは青々とした新芽をつけた『ソメイヨシノ』の幼木。

「あんたは大事なものを手放しがちだから、今度は大事にするんだよ」

 颯太は落とさないように両手で受け通ると、その可愛らしい小さな苗木をまじまじと見つめる。


 風に小さな葉がふわりと揺れると、あの人が微笑んでいる気がした。



 

                                《END》

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こぼれ桜 小豆 @Hashibami666

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