第2話

 あの日から三日間、母ちゃんが帰ってきてない。

 心配じゃないわけじゃないけど、長い時は一週間以上帰らない事もあったからもう馴れっこになっていた。

 お金も滅多にくれないから、時々投げ与えられる惣菜パンで腹を満たすしかない。世間体を気にしているのか、学校の給食費はぎりぎり払ってくれてるようで学校の給食が心底ありがたかった。

 だけど今日はついてる。部屋の片付けをしていたらゴミの合間から五百円玉が転がり出てきたのだ。こういった小銭は食べ物がなくなって、切羽詰まった時のために取っておく事にしている。

 

 月曜日の学校の帰り道。颯太は『あの人』にまた会えるんじゃないかと期待してタバコ屋の角を曲がる。

 満開を終えた桜が散り始め、お稲荷さんの赤い鳥居は細雪をかぶったようになっていた。だがそこにあの青年の姿はなかった。

 颯太は残念に思ったのと同時に寂しくも感じていた。

 ──もう会えないのかな──

 颯太には友達がいない。学校のみんなが当たり前のように持っているスマホもゲーム機もない颯太はクラスから浮いた存在だった。

 満開の桜のふわりとした芳香が漂う中、今日も『黒糖饅頭』をかすいい匂いが立ち込めていた。颯太にとって特別な香り。病気で痩せ細った父とこぼれれ桜の中で『黒糖饅頭』を頬張った最後の思い出。目が熱くなって悲しいのに、お腹がぐうううと鳴る。

 颯太はぎゅっと目を閉じた。涙が溢れ出ないように。寂しさや悲しさが胸の中でこれ以上大きくならないように。

「腹が減ってるのかい?」

 穏やかな声が頭の上から降ってきて、颯太がそっと目を開けると、あの和装の青年がこちらを覗き込んでいた。

「お兄さ……!」

 颯太は青年の腰に抱きつく。また会えたのが嬉しくもあったし、溢れ出た涙を見られるのが恥ずかしかった。

「おやおや」

 青年はじじむさい言葉を口から漏らすと、颯太の小さい背中に手を回して優しくぽんぽんと叩いた。

「──颯太は痩せているね。ちゃんと栄養とってる?」

「給食があるから平気」

「それだけじゃ足りない」

「仕方ないよ……」

 颯太は涙で詰まった鼻をすすり上げる。

 青年は黙って颯太の頭を抱き寄せて、涙が落ち着くのを待った。

 颯太は彼の着物をぎゅっと握り返した。ずっと誰かにこうしたかったみたいに。彼からはほんのり桜の香りがした。


 二人はお稲荷さんの低い石垣に腰を掛け、他愛のない話をしていた。颯太が動植物が好きな事、家に帰らないでほぼ毎日、閉館時間まで学校の図書室に入り浸ってる事。どんな本を読んで、どんな風に調べて、将来は父親みたいな研究者になりたい話とか、今まで他人ひとに話した事がない話がせきを切ったように、いろいろ。

 青年はそれを聞きながら時には相槌を打ち、時には微笑みながらその話を聞いた。まるで生前の父のように。


 次の日、颯太は学校が終わるとすぐに『桜木稲荷』へ向かった。

 いつもより時間が早いからあの人はいないかもしれない。だけどまだまだ話したい事がたくさんありすぎて待ちきれなかった。

 下校途中の他の子供たちもいたが、みんなコンビニのある表通りを行き、タバコ屋の角を曲がるのは颯太だけだった。

 役目を終えて花びらを散らす桜の木の下で、ほんのり淡い色をした羽織に風をはらませて青年は佇んでいた。その白い姿はますます透明度を増して空気に溶けてしまいそうに見えた。

「お兄さん!」

 自分を待っていてくれたみたいに思えて、つい嬉しくなった颯太は小走りで駆け寄る。

「颯太」

 青年は颯太の姿を認めると優しげに微笑みを浮かべた。

「今日は少し風があるけど、よかったら食べていかない? まだ温かいはずだ」

 そう言ってどこから取り出したものか、木を薄く削った経木きょうぎに包まれた『黒糖饅頭』を差し出した。

 思いがけない憧れの好物を目にして颯太は瞳をぱあっと輝かせる。

「あ、これ…… 僕、大好きで。ちっちゃい時に父ちゃんとよく食べてて──」

 颯太は経木の上にふたつ並んだ饅頭をひとつ手に取って半分に割る。するとモフモフと中のあんこから白い湯気が立ち昇り、芳ばしい香りがあたりを満たした。

 なんとなしに半分にした饅頭の片方を青年に差し出す。

「──……」

 青年は不思議そうに颯太を見返した。

「えっと、その……そうか」

 いつも父ちゃんとそうしていたから、つい同じ事をしてしまった。颯太は照れ笑いをしながら饅頭を頬張る。

 ──美味しいっ。

 以前と変わらない懐かしい香りと、温かくてふんわりとした食感が胸をいっぱいにした。まだ父ちゃんがいた時の幸せな頃を思い出す。

 なんで父ちゃんはあんな病気なんかにかかっちゃったんだろう。

 なんで父ちゃんはこんなに早くいなくなっちゃったんだろう。

 鼻の奥がじわりとする。

 ──いけない。涙が出そうになるから考えないようにしてきたのに──

 するとそれを見透かしたように青年は颯太の肩に触れ、お稲荷さんの石垣に腰を下ろすと、颯太にもそうするように無言で促す。

 颯太はそれに従い彼の隣に座った。こうすれば立っているよりも、涙で潤んだ目を見られなくて済むだろう。

 大きな桜の老木は所々若葉をのぞかせ、時折吹く強い風に合わせて壮絶に花を砕き、噴き出すように花びらを撒き散らした。

 こうなるとあっという間に葉桜になり、桜の時期が終わっていく。

 名残惜しくなって颯太はぼそりと呟いた。

「桜、散り始めちゃったね」

「僕は一番の見せ処だと思ってる」

 青年はすうっと目を細める。

 何故だかはっとして颯太は隣の青年を見上げた。

 その横顔はいつもどうりに穏和なのに、威風堂々として誇りに満ちていた。

 ──ああ……幼い少年はそのまま言葉を失う。


 二人は長い間、陽が落ちて星が見えるまではかなげに散る桜吹雪を見つめ続けた。

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