こぼれ桜

小豆

第1話

 ひらり──


 桜の花びらが舞う小学校の帰り道。

 春の到来が遅いこの地域では、日差しが暖かくなっても、空気はまだまだ冷たい。そんな中を颯太は早足で通り抜ける。


 顔見知りになっている店番のばあちゃんと寝坊助のミケがいるタバコ屋を曲がった先には古い和菓子屋があって、その斜向かいの大きな桜の木の下には『桜木稲荷』という小さなやしろがあった。

 痩せっぽちの少年は時々小銭を握りしめてはこの店の駄菓子コーナーに来るのを楽しみにしていた。だけどちょっとずつ貯金もしている。

 いつもここの前を通りかかると黒糖のなんとも言えない芳香が鼻をかすめた。それはこの店の名物『黒糖饅頭』をふかかす匂い。

 しっとりとして柔らかな生地は厚めで、なのに中のあんこはたっぷりで、生地にもあんこにも芳ばしい黒糖の香りがぱんぱんに詰まっている。

 饅頭としてはやや大きめで値段も十円、二十円の駄菓子と比べると可愛くない。小学四年生の颯太がそうそう買えるものではなかった。

 和菓子屋の前でふと足を止めると、満開の花を誇らしげに咲かせる桜の大樹を見上げる。

 今よりもっともっと小さい頃、父ちゃんと散歩した帰り、蒸かしたての黒糖饅頭を半分こにして二人で頬張った思い出があった。

 

──美味しかったな。あったかい饅頭──


 父ちゃんがいなくなってから一度も口にしてない。幸せな思い出はどんどん遠のいて頭の中で希薄になっていく。

 小さな鼻に桜の花びらが乗っかって思わずくしゅんっとくしゃみをした。


 颯太が家に帰ると部屋の中はごった返しの散らかり放題だった。

 スーパーの袋やコンビニ弁当の残骸の向こう岸には母ちゃんがいびきをかいていた。万年床の布団の上に横たえた体がすえたアルコール臭を漂わせている。

 そんな母ちゃんが寒くないように颯太は布団を掛け直した。きっと今日はもう起きないだろう。この家ではよくある光景だった。

 まともな食事は給食だけ。それ以外は一日一個の惣菜パンを半分にして朝と夜に分けて食べる。これが颯太の日常風景だ。



 次の日の下校時刻。今日も颯太はいつもの帰り道を早足で歩いていた。

 家に母ちゃんがいない事を祈りながら。あの汚い部屋を片付けてしまいたい。

 

 タバコ屋の角を曲がり、いつもの『桜木稲荷』の赤い鳥居が見えて、やしろを覆い尽くしてしまいそうな立派な桜の木、そして──


 白い──


 白い着流しにほんのり淡い色の羽織を着た青年が煙るように咲き誇る桜の木の下に佇んでいた。

 死人のような白い顔をうつむけ、色素の薄い柔らかな髪を春風が時々ふわりともてあそぶ。

 颯太は言葉を失い立ちすくんでいた。

 その空気に溶け入りそうな姿に最初は幽霊だと思ったのだ。

 だけど違った。履き古された下駄を素足に履いて、白い肌が益々血の気を失って寒そうだったから。

 颯太がそう思ったのと同時に青年がおもてを上げた。その物憂げな瞳は硝子玉のようで、無感情な視線をこちらに向ける。

「あ……」

 颯太はぞくりとして小さく声を漏らした。しかし、不思議と嫌な感じはしない。

「えっと……あのぉ……」

「お詣り?」

 見た目よりずっと落ち着いた声が短く問うた。

「は、はいっ! いいえ、違いますっ!」

──ああ、我ながらすごく間抜けな返事だと颯太は思った。

 青年はくすくす笑いながら鳥居へと手招きした。

「どうぞ、空いてるよ」

「──……」

 違うのに。お稲荷さんのお詣りだと思われたらしい。それでも颯太は仕方なく社の前に進み出ておずおずと手を合わせた。

 お詣りを済ませて振り返ると、青年は珍しいものでも見るみたいに小首を傾げていた。

「よくここに来てるよね」

「ぼく、お兄さんに会うの初めてだよ?」

 この街で若い男性の和装姿は珍しい。ましてや彼の端正な容姿は一度見たら忘れられないだろう。

「きみが気がついてないだけで僕はよく見かけてた」

「え……」

 颯太は反射的に後退る。まわりの大人たちから口を酸っぱくして言われてた事を思い出したのだ。

「あの……知らない人とは話しちゃいけないんだけど」

──とは言ったものの、相手が悪い人には見えなかったので、なんだか申し訳ないような気持ちになった。

「ふむ、なるほど」

 それを聞いた青年はきょとんとして細い顎を手でさすり、年寄りみたいに独り言ちた。

「僕はサクヤ。ここの近所に住んでるんだ。君は?」

 颯太の目線に合わせるように和装の青年はしゃがみこんだ。

「んー……颯太」

 颯太は言いつけを破る罪悪感でちょっとだけ言い淀む。

「これでお互い知らない人じゃないだろ?」

 そう言って彼は前髪を揺らした。

──そうか? そうなのかな。うまく丸め込まれた気がしないでもないけど。でも悪い人じゃないみたいだ──

 はにかんだ笑顔を浮かべると颯太は彼の澄んだ穏やかな瞳を見つめ返し、

 サクヤと名乗った青年は人懐っこくふわりと微笑んだ。


 はらはらと花びらを散らす桜の木を見上げながら青年が言った。

「きみはよくこの木を見上げていたけど、花が好きかい?」

「うん。このお稲荷さんのところの桜が一番好きなんだ。この辺りじゃ咲くのが一番遅いんだけど、咲き始めたらぶわーって咲いて、それがすごく綺麗で。お兄さんもここの桜を見に来たの?」

「──そうだね。この辺りでは歳をとった『ソメイヨシノ』は年々数を減らしているから」

「ソメイヨシノ?」

 青年は感慨深げに桜の幹に触れる。

 その様子がひどく寂しげに見えて颯太はなんだかそわそわした。

 ソメイヨシノといえば、たしか桜の種類のひとつだ。学校にはヤマザクラや八重桜なんかも植っている。

「あ、あのね駅前まで行けばたくさん桜が植わってるよ! それからぼくの小学校にもたくさん咲いてるし」

 青年を元気づけようと颯太はめいいっぱい明るく振る舞った。

「あれは違うんだ」

「え?」

「あれは最近植え替えられた若い木か『ジンダイアケボノ』……『ソメイヨシノ』の近縁種なんだ」

「キンエンシュって近い親戚ってこと?」

「そう。よく知ってるね。最近暖かくなったろ。それに災害の後、環境が変わってたくさんの『ソメイヨシノ』が枯れた。生き残った古い樹もみんな衰弱してしまって太い枝が突然折れたりしてる」

「人の多いところだったら危ないね」

 颯太は咄嗟に公園や学校、歩道など人がたくさん通りかかるところばかりに桜が植っているのを思い返していた。

「そうだね。だから今この辺りではより丈夫な品種や別の樹が街路樹として選ばれているみたいだ」

 目を閉じながら彼は淡々と語った。

「お兄さんは『ソメイヨシノ』が好きなの?」

「ずっと一緒に育ってきたんだ。今はこの樹だけになってしまったけど、昔はこの辺りにもたくさん桜が植わってて、春になるとね競うように一斉に花を咲かせて、それは賑やかで……すっかり寂しくなってしまったな」

 力なくゆっくりと首を巡らせた青年は通りの向こうの新興住宅地を見やった。

 たしかに颯太が幼稚園に通っている頃、あの辺りには畑や雑木林が多くて、神社への参道だったこの道には桜がたくさん植えられていたのを思い出した。

 今は真新しい家々が小ざっぱりと並ぶばかりで、この『桜木稲荷』の他に桜の木はなくなっていた。

「颯太」

「は、はい」

 急に名前を呼ばれて颯太は面食らう。しかも呼び捨てにされてなんだか照れくさいような、くすぐったいような気がした。

「帰らなくていいの? そろそろ陽が傾いてきた」

 青年は羽織の袖に両腕を入れて寒そうに肩をすくめた。

「ああ、本当だ」

 どこか心地のいい彼の声にすっかり話し込んでしまってたようだ。

 せまい道をはさんだ向こう側では和菓子屋のおばちゃんが暖簾のれんを片付けて閉店の準備をしている。

「──この桜はひとりぼっちになっちゃったんだね」

 去り際に颯太の口から自然にそんな言葉がついて出た。

「──……」

 青年は小さく息を漏らすとはかなげに微笑んで、颯太の背中を見送る。

 颯太が一度だけ『桜木稲荷』の方を振り返ると、白い和服姿が花霞のように霞んで見えた。

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