メロンソーダ越しの彼女

すぐり

メロンソーダ越しの彼女

 冷えたグラスの中を、ストローで静かにかき混ぜる。メロンソーダの中で、からん、と音を立てながら、沈んでは浮かぶを繰り返す氷の様子を眺めていた。濁りのない緑色の世界は甘く、涼しげで心が落ち着くのだった。

 小さな気泡が空へと昇り、しゅわっ、と溶けて自由になる。グラスの外側に付いた水滴は下へと流れ、内側に付いた気泡は上へと昇るのだ。

 もう一周だけグラスの中をかき混ぜて顔を上げた。

 メロンソーダ越しに見える彼女は、僅かに眉をひそめ、知らない人から見たら機嫌が悪いと勘違いされるような表情をしていた。

 もちろん機嫌が悪いのではなく、ただ単に現在向き合っている課題に対して頭を悩ましているだけ。しかも、人生を左右するような大きな課題ではなく、高校の授業で出された数学の課題だった。

 高校に入ってからというものの、学校帰りに近くの喫茶店で一緒に課題をすることが日課になっていた。小学生の頃は、どちらかの家で一緒に宿題をしていたのだが、中学校へ進学するとともにそんな日常は自然消滅してしまった。明確な理由は無かったけれど、思春期特有の気恥ずかしさや、部活動による生活リズムのズレが原因だった気がする。

 それから高校生となりお互い別々の高校へと進学したのだが、帰り道でばったりと出会して以来、こうやって課題をしながら二人で時間を潰している。数年ぶりに戻ってきた二人だけの時間。安心感とぎこちなさが同居するこの空間は、不思議と居心地が良かった。

 僕の視線に気づいた彼女が、ノートから顔を上げ不機嫌そうに目を細めた。

「どうかしたの?」

「なんか大変そうだなって」

 そう言ってストローに口をつける。真剣な表情に見惚れていたという本音を、メロンソーダと一緒に体の奥底へ流し込んだ。喉で弾ける空気の粒に涙が出そうになる。

「そう思うんだったら手伝ってよ」

 不貞腐れたように言いながら、頬杖をついて、右手のシャーペンをくるりと回した。

「数学は無理だって。渚のほうが得意だろ」

「そうね。この前の期末試験も、私が数学を教えなければボロボロだったものね」

 そして静かに笑った。その笑顔は、子供の頃のあどけない表情ではなく、落ち着いておりどこか蠱惑的で大人びた表情だった。

 手元で溶けた氷が、からん、と音を立てた。

「英語を教えて欲しいって、泣きついてきたのはどこの誰だよ」

「私が悪かったわ……その事は忘れて。というか、そっちはもう課題終わったの?」

「今日のは簡単だったからな」

 ずるい、と呟きながら再びノートへと視線を落とす。

 彼女の視線につられるように、手元のメロンソーダを口に含む。昔から変わらないこの甘さと冷たさに安心する。

「ねぇ、聞きたかったんだけどさ」

 唐突に投げかけられた質問に首を傾げる。僕は次の言葉を待ちながら、数式を書き続ける彼女の姿を眺めていた。

きょうちゃんは、将来の目標って決まってる?」

 唇から零れた言葉は想像よりも現実的だった。

「将来?」

「そう。大学で何を勉強したいとか、その先の事も」

「いや、特に決めてないな。やりたいことも目標も特に」

 ふーん、と気の抜けた声を出しながら、緩慢な動きで持ち上げたコーヒーカップに口を付ける。それは砂糖もミルクも一切入れないブラックのコーヒーだった。

 子供の頃は一切口にしなかった甘味の無いコーヒーを飲む渚の姿が、メロンソーダを飲む僕よりも大人っぽく見えてしまい、グラスをそっと横にずらした。

「渚は何か決まっているのか?」

「うん」

 素っ気ない返事と共に、視線を僅かに上へとずらした。

 その儚げな視線の先には僕は居ない。どこか遠くの世界を、もっと未来を見ているようだった。大人になれない僕は、彼女の傍にいることが出来ない気がして、渚には聞こえないように小さく溜息を漏らす。

「私は法律関係の勉強がしたいなって。東京にある大学に行こうと考えてる」

「法学か」

「私の憧れの人がね、弁護士を目指してたの」

「そっか」

 想像よりも素っ気なくなってしまった返事。

 心の奥を支配した靄を晴らすようにメロンソーダを口にした。からん、と音を立てた氷でグラスが空になったことを知る。

 微かに残ったメロンソーダの香りと弁護士という言葉で、一緒にメロンソーダを飲んでいた、あの頃の記憶が炭酸の泡のように湧き上がってくるのだった。


 エアコンの効いた部屋で夏休みの宿題をする僕ら、机の上には山盛りになったお菓子に、二人が好きなメロンソーダ、そしてテレビでは弁護士か検事かが主役のドラマの再放送が流れていた。

『ねぇ、格好良いね』

 目を輝かせた渚が興奮気味に話していた。彼女の視線は、ドラマの主人公に釘付けになっていた。僕はそんな様子に嫉妬したのだろう。

『俺は将来弁護士になるんだ』

 子供ながらのつまらない虚勢だった。

『すごい! 杏ちゃんも格好良いね』

 懐かしい子供の頃の記憶だった。


 ころん、シャーペンの転がる音で過去の思い出から現実に引き戻される。

 ん-、と声を漏らしながら背を伸ばす渚の姿が視界に入る。

「改めて聞くけどさ、本当に杏ちゃんは将来の目標とかは無いの?」

「目標なんて無いな。ちゃんとした目標がある渚が羨ましいし、その憧れの人に近づけると良いな、応援しているよ」

 あのころと同じ、僕はただ虚勢を張ることしか出来なかった。

 虚飾に塗れた言葉では、精一杯背伸びをした言葉では、ただ彼女の背中を押すだけしか出来なかった。

「そうね、ありがとう」

 伏し目がちの彼女はそう言って笑いながら立ち上がる。

「ごめん、今日はもう帰るね」

 一瞬だけ見えた、潤んだ瞳と硬く結んだ口元が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 空になったコーヒーカップと、帰り際にふわりと香った柑橘の香りだけが残る。

 知らない内に彼女は大人になっていく。

 いつか訪れるであろう別れを僕は待ち続けるしかない。

 それまで僕はちゃんと彼女の良い幼馴染でいられるだろうか。彼女の将来を、憧れを応援し続けることが出来るだろうか。

 空になったメロンソーダのグラスに視線を落とす。

 溶けた氷がグラスの中に溜まっていた。

 グラスの外側に付いた水滴がゆっくりと下がり、グラスの内側で付いた気泡が上へと昇っては消える。すれ違うだけで決して交わることの無い二つの姿を眺め、残った氷水を飲み干した。僕の憧れも、想いも全て流し込むために。

 からん、と音が鳴る。

 胸の奥が締め付けれるような痛みに、僕はコーヒーを注文した。

 それは青い、青い痛みだった。




 原稿用紙から視線を上げた彼女が笑う。

「どうだった?」

「どうって言われてもね」

 そう言って、今度は微笑んだ。

 それは蠱惑的で大人っぽい笑みだった。

「笑ってないでさ、勝手に読んだんだから感想聞かせてくれよ。こっちだって恥ずかしいんだから」

「これ学園祭のクラス劇のシナリオでしょ?」

「まぁアンソロジーだから短いし、これ自体は練習で書いたみたいなもんだけどな」

「それにしては台詞少ないし、内容も渋くない?」

「やっぱり派手な方が面白いか」

「それに」

 そう言葉を区切って、そっと人差し指を立てた。

 細く白い指が小さく動く。

「これ私たちが元ネタでしょ」

「やっぱり分かるか、だから嫌だったんだよ」

「流石にね。だってメロンソーダも法学部の話も、喫茶店で課題してるのも、得意科目も全部が私と貴方だもん」

 つい先日、クラス劇の台本を任せられ、勢いに任せて書いたのだった。シナリオなんて書き慣れていない僕はゼロから話を組み立てることは出来ないわけで、過去にあって出来事を物語っぽく落とし込んでみたのだ。僕の中にある弱さと後悔を吐き出すように。もちろん、これは練習の意味を込めて書いたので、このまま劇にするつもりはないけれど。

「あと名前も似てるっていうか……渚って私の名前から一文字取っただけでしょ」

「名前を考えるのが難しいんだよ。知らない人が見たら渚がなぎのことだとは思わないだろうし」

「杏ちゃんっていうのも、漢字は違うけど私が子供の頃に呼んでいた呼び方だし。ねっ、京ちゃん?」

 久しぶりに凪から聞いた懐かしい呼び名に、心臓が大きく鳴った。動揺を隠すように手元に置かれたコーヒーを口にする。口内に広がった苦みに眉を顰めそうになるのを我慢し、思いっきり胃の中に流し込む。どれだけ飲んでも未だにコーヒーの苦みには慣れない気がする。どれだけ背伸びをしようとしても、僕はまだ大人になれない。

「やっぱり勝手に題材にしたの怒ってる?」

「全然。でもね、ひとつ聞きたいんだけど良い?」

 凪が開いていたノートを閉じてテーブルの隅に寄せた。

「何でもいいよ」

けいがいま法学部を目指しているのって……」

「……悪いか?」

「ううん、全然」

 嬉しそうに凪が笑った。

 久しぶりに見た、屈託のない懐かしさを感じる笑顔に安心する。

 凪の言葉で思い出したあの日の記憶に嘘をつかないように、いつまでも子供のままでいないように、少しだけ遠くを見てみようと思ったのだ。遠くを見ていた凪と同じものを見ようとするその最初の一歩が、将来の目標を決めることだった。それは『俺は将来弁護士になるんだ』という幼い虚勢を現実にすること。

 もちろん、凪の憧れの人に対する嫉妬や対抗心もあるけれども。

「じゃあ、最近コーヒーを飲み始めたのも?」

「もうやめてくれ……」

「ふふ、でも京が変わって無くて安心したわ」

 凪はそう言うが、そもそも自分自身、全然変わった気がしていない。いつまでも大人になれなず、子供のままだと思っているから。僕的には、凪の方が変わった気がしていて、それが羨ましくも寂しくもあったのだ。

 もしかしたら凪も同じ気持ちだったのだろうか。そうだとしたら少しだけ嬉しい。

「でもこの話、一つ間違っているんだよね」

 そう言うと人差し指を立てた。

 その指先に吸い込まれるように僕が首を傾げていると、すみませんと通りかかった店員を呼び止めた。

「京はメロンソーダで良いよね?」

 突然のことでただ頷くしか出来なかった。

 滞りなく注文を済ませると、凪が再びノートを開く。解きかけの数式が徐々に解へと近づいていく。

 そしてちょうど解き終えると同時に、テーブルへ二つのメロンソーダが運ばれてきたのだった。いや、正確にはメロンソーダとクリームソーダだった。

 凪が嬉しそうにクリームソーダを受け取る。

「正確にはメロンクリームソーダだよ、私が好きなのは」

「あれ、そうだっけ」

「このサクランボが添えてあるメロンソーダが好きなんだよ」

 だって可愛いし、とアイスの上に添えられたサクランボを指で摘まむ。

 幼い記憶の中で、凪が同じようにはしゃいでいる姿を思い出した。眼の前の様子はあの頃とは変わっていなかった。

「京は何か勘違いしていると思うけど、私も全然変わってないわ。想いも気持ちも、あの頃のまま」

「いろいろ難しく考えすぎていたみたいだな」

「そうね」

 喉の奥に引っかかっていたつっかえが取れたような感覚に、グラスを寄せてメロンソーダを飲む。久しぶりに飲んだメロンソーダはとても甘く、とても優しい味がした。

「あとさ、子供の頃の約束って憶えてる?」

「凪とはいろんな約束したからな」

「うん」

「でも多分約束ってあれだよな。大人になったらっていう、二人だけの秘密のあれ」

「正解、憶えていてくれたんだね」

「忘れるわけない」

 それは幼い頃、まだ世界がこんなに広いと知らなかった頃の約束。

 二人だけの秘密。

「僕はまだメロンソーダが好きだし、あの頃から好きなものは何も変わってないつもりだよ」

「私も変わって無いよ」

 お互いに口を噤んだ。

 視線だけが絡み合い、次の言葉を口にするのに呼吸ができなくなりそうになる。

「大学を卒業してもお互いメロンソーダが好きなままだったら、そのときは……」

「楽しみに待ってるわ」

 メロンソーダ越しの彼女は、口元を緩めながら嬉しそうに笑っていた。僕らにしか伝わらない二人だけの秘密の会話。その言葉の重みが大人びて感じ、少しだけむず痒くなった。

 凪の潤んだ瞳も僕の滲んだ視界もメロンソーダの炭酸のせいだろう。

 顔の火照りを冷ますようにストローを口につける。甘く冷たいメロンソーダに気持ちが落ち着く。

 大人になれない僕とメロンソーダ。

 あの頃からこの甘さと、僕らの想い、そして秘密の約束は変わらない。変わり続ける世界の中で、変わらないものの優しさが支えになり、希望にもなる。

 からん、と音が鳴る。

 グラスの内側についた水滴が伝って、浮かび上がる気泡と交わった。

 それは青い、青い喜びだった。

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メロンソーダ越しの彼女 すぐり @cassis_shino

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