第3話 脱出
藤崎は自分の書いている小説の中に入り込んでしまうことが結構あった。むしろ、主人公の身になって書かなければ想像などできるはずがないと思っていたからだ。
しかし、内容は現実世界からかけ離れているもので、なかなか想像の域に達することはできない。小説を書き始めた最初の頃は、そのことで悩んだものだった。
しかし、ある時から、自分の中にもう一人の自分を感じるようになると、もう一人の自分が小説の中に入り込んでいくのが分かった。
一度入り込んでしまうと、今度は入り込んだ自分の目で小説の世界を見ることができる。つまり、もう一人の自分というのは、
――小説世界に入り込むためだけに存在している――
という思いもあるくらいだった。
小説世界の中から表を見ることができるようになった理由に、もう一人の自分の存在を感じたのは、しばらくしてのことだった。なぜいきなり小説世界の中で自分の目線で見ることができるようになったのか不思議だった。何かのきっかけでもあれば分かるのだが、まったくいきなり前兆もなく始まった意識は、藤崎に不思議な感覚を残すことになったのだ。
同じ日を繰り返している感覚は、夢の中で見たものであり、忘れてしまったと思っている記憶の欠片を繋ぎ合わせて、失ってしまった自分の記憶としてよみがえらせようとする。
同じ日を繰り返しているのだから、同じ感情を毎日感じていることになるので、ここまで来ると、不思議でも何でもなく感じられるようになってくる。
小説世界と、現実世界の境目は、現実世界と夢の世界の境目と似たものがあるのだろうか?
そうであれば、小説世界は夢の中で見たことを客観的に描いているものであり、夢の中で見たものではないという思いを抱かせようとすると、客観的ではなく、自分の目線で見ることが不可欠になるだろう。
小説の主人公は、もう一人の自分だと思いながら小説を書いていると、どんどん発想が浮かんできた。
――やはり、客観的にしか見ることができないのだから、この世界は決して夢の世界で見たものではない――
と感じさせ、そう思うと、自分の意識が働いていない記憶が、生々しく執筆中に頭の中に浮かんでくるのだ。
小説を書いている時は、時間があっという間に過ぎている。
――心ここにあらず――
というのは、まさしくこのことではないだろうか。
どこまでが自分の意識から派生したもので、そしてどこからが、現実世界の自分だけが感じている「もう一人の自分」の意識によるものなのか分からない。心がここにないのは、どっちの自分なのか分かる時がくれば、なぜ同じ日を繰り返しているという発想が生まれてきたのか、理解できるようになるだろう。
あまり前世との関わりなど、考える方ではなかった藤崎だったが、小説を書きたいと思って、不思議な力や不思議な現象が書かれた本を読み漁ったものだった。その中には「タイムトラベル」、「パラレルワールド」などの不思議な現象や、「テレパシー」、「予知能力」と言った不思議な力が書かれていた。
最初は、自分が不思議な力や現象をテーマにした小説など、書けるはずがないと思っていたが、ある日急に、
「俺にはできる」
と感じたことがあった。
急に思い立つというのは、日ごろから頭の片隅であっても、意識の中に存在しなければ現れることはないと思っていた。急に何かを思いつくには、必ず「きっかけ」が必要で、発想が数珠つなぎに繋がっていなければ、そう簡単に生まれてくるものではない。小説の発想も、いくつか浮かんできたキーワードをいかにうまく結びつけるかが問題なのだろうが、一つの線が繋がれば、他の線を結びつけることは、さほど難しいことではない。
逆に、思いついたのであれば、一気にある程度の結論を導きだしてしまわないと、次に考えた時には違った発想を持っていることになるかも知れない。
メモっておけばいいのかも知れないが、発想が途切れるようなことになれば、後になってメモしたことを読み返しても、その時どんな感情で浮かんできた発想なのか、分かるはずはなかった。
藤崎が執筆する時は、その日のノルマを決めておく。ノルマは時間ではなく枚数にしている。枚数を決めておくというのは、それだけ集中して書いている時は、時間の感覚がマヒしているということである。
「集中していると、あっという間に時間が過ぎてしまっている」
ということなのだが、
「高速で移動していると、自分で感じているよりも時間はあっという間に過ぎてしまう」
という、アインシュタインの相対性理論。つまりは、おとぎ話でいうところの浦島太郎の発想が生まれてくる。浦島太郎を書いた人の発想も藤崎に似ていたのかも知れない。しいて言えば、
「小説家の性のようなものだ」
と言えるのではないだろうか。
まさか、こんなところで浦島太郎の話が結びついてくるとは思わなかった。ずっとモヤモヤしていたものが、この発想に辿り着くことで、結びついていなかった発想のいくつかを結びつけることができているようだ。
スナック「コスモス」のママから、浦島太郎の話を聞いた時、
――ごく最近、自分も似たようなイメージを頭に描いたような気がする――
と感じた。
それは浦島太郎の話そのものというわけではなく、いろいろな発想が紆余曲折を繰り返しながら辿り着いたところであった。
同じ日を繰り返しているのも、一種の「繰り返し」、まったく同じものを繰り返しているということだけが不思議に感じるが、微妙に違っていて、後からそのことに気づくということも、十分に不思議な世界への入り口を形成する力となっているのかも知れない。
藤崎の小説は、元々こういう「不思議な世界」や、「不思議な力」をテーマにした話が多かった。しかし、なかなか受け入れられる時代ではなかったというべきか、気分転換に書いたミステリーが、新人賞を取るのだから、世の中というのは皮肉なものだ。
当然、出版社の依頼もミステリー作家としての依頼だけだ。出版社の人間に、藤崎がどんな小説を書くのが好きなのかなどということは関係ない。
――ファンが求めているもの――
それがすべてだった。
ミステリーを書いていれば、数年はファンに受け入れられていたのだが、次第に飽きられてきたのか、同じミステリーでも、新たな新進気鋭の作家がデビューすれば、人気も持っていかれてしまう。それは作家の宿命のようなもので、藤崎も自分がデビューしたおかげで、自分の知らないところで他の作家が憂き目を見ることになったのではないかということを、いまさらながらに知ったのだ。
押しのける方に罪の意識はない。
「それだけ実力がないからだ」
下手に意識してしまうと、このように考えてしまうだろう。
実際に自分が押しのけられる番になると、やりきれない気分にさせられた。しかし、思ったよりも被害妄想はない。やはり心のどこかで、
「自分の実力は知れているんだ」
と感じているからであろう。
――誰も恨むことはできない――
かといって、自分自身を恨むこともできない。どうしようもない葛藤が、藤崎に襲いかかる。それはまるで躁鬱症の鬱状態のようだ。その時初めて、
「躁状態のない鬱状態以外のうつ病」
を感じていた。
躁状態を伴う鬱状態は、まわり全体を見渡しても、どこにも出口を見つけることができず、ふと我に返ってしまったことで、自分のいる場所がどこなのか、理解できずにいるに違いない。
自分のミステリーが売れなくなってきた時は複雑な心境だった。実際には売れなくなってきたのは自分だけではなく、出版界全体が不況ということもあったり、当時はネットの急激な普及により、ネットで読める小説がうけることもあって、その波に乗り遅れた作家や、少々古臭い小説を書いている作家は次第に売れなくなってきたのだ。
藤崎がどちらの影響を大きく受けたのかはハッキリと分からないが、そのおかげで、
「もう一度、奇妙な話を書いてみよう」
と思うようになったのも事実だった。
もちろん、今までのようなミステリーを書かなくなったわけではないが、時間を見つけて奇妙な話を考えるようになっていた。
それまで考えていなかった奇妙な話なのに、考え始めると、結構いろいろと面白い話が思い浮かんでくるものだった。
最初はなかなか浮かんで来ずに、
――さすがにブランクを感じるな――
と思っていたが、諦めずに考えていると、少しずつアイデアが浮かんできた。
浮かんできたアイデアは、それぞれに一見まったく違った発想に見えていたが、強引にでも結び付けて考えると、意外と違った方向から見ることができるというもので、どんどん膨らんでくる発想を、メモに書き加えていった。
書き始めると、結構早い。メモに書いたアイデアを一つ一つのパーツとして組み立てながら書いていくことは、元から藤崎の執筆方法でもあった。そうすることで、自分の世界の形成を容易にし、時間の感覚をマヒさせるほど、執筆に没頭できるのだった。
ミステリーを書いている時にも同じような感覚に陥っていたが、書きたいものを書いているその時とでは、考える姿勢が違っている。
真っすぐに背筋を伸ばして考えている時は、全体を冷静に見渡している時で流れに身を任せている。逆に背筋を丸めて、じっと見ている時は、一点に考えを集中させて流れに身を任せるわけではなく、流れは自分自身で作っていくものだった。
やはり好きなことをしている時というのは、向かう姿勢からして違うものだ。そのことをいまさらながらに思い知ると、次第に執筆の割合も、ミステリーから奇妙な話に変わってきた。
「どっちも売れないのなら、好きなことをするか」
と思ったからで、まだ少しは売れているミステリーを書きながら、奇妙な話を考える毎日は充実はしていたが、次第にマンネリ化してきたのも事実だった。
――同じ日を繰り返しているという妄想に憑りつかれるようになったのも、その頃だったな――
実際に経験というよりも感じたことではあったが、うまくフィクションと相まって、次第に納得のいく作品に仕上がっていく。それまではなかなか自分の思い通りの作品を書くことができず、好きなことをしているにも関わらず、ストレスが溜まりまくっていたのだった。
藤崎の中でリピートという発想は、今に始まったことではない。実は子供の頃から気になっていた発想だった。
子供の頃に見たテレビドラマに、奇妙な話のオムニバスがあったが、その中の一つにリピートをテーマにした話があった。
「なぜか、ラストを思い出せないんだよね」
内容としては同じ日を繰り返している人を主人公にした話だったが、不思議な世界に迷い込んで最初は戸惑っていたが、次第に主人公は不思議な世界に慣れてくる自分を感じ、気持ち悪くなっていた。
そして、同じ日を繰り返している人を躍起になって探していた。
「本当に、他にもいるのだろうか?」
半信半疑だったが、同じ日を繰り返している人を見つけなければ、何も始まらないと思ったのだ。
ドラマでは、屋台で隣り合わせになった人がその対象だった。屋台というと、人生の悲哀をテーマにしたドラマで、よく舞台となる光景だが、黄昏ている主人公と同じような運命に翻弄されている人と知り合うには、恰好の場面だと言えるだろう。二人は別に気が合っているわけではないので、話も淡々としていた。それでも相手はこちらの言いたいことを分かっているようで、
――どうやらこの人はずっとこの世界から抜けられないでいるらしい――
と感じた。
「明日も、またここで」
と別れ際に主人公がそういうと、
「今日……、だよね」
と、目を合わせることもなく独りごちた。
その言葉を聞いて、主人公はゾッとする。
――そのうちに、俺もあんな風になってしまうのか?
つまりは、新参者が主人公を訪ねてきて、同じような会話が繰り返され、最後に「今日」という言葉を改めて口走る、そんな光景が目に浮かんだ。
――ここでもリピートなんだ――
この屋台という小さな世界で繰り広げられるリピートは、主人公にとっての、
「生きている証」
であった。
普段は自分で生活しているというよりも、決められた線路の上を走るだけで、感情の入る隙間を与えない。そんな世界に作者である藤崎は何を込めようと考えていたのだろうか?
――もし、自分がこの抜けられない悪夢のような不思議な世界に入り込んでしまったら、どうなるだろう?
最初はそう思いながら書いていたはずだった。
それはあくまで書いている自分は主人公ではなく、他人事として冷静に見ていたから感じることで、いつの間にか、不安は消えていて、主人公の気持ちになっていることに気が付いた。
中に入り込めば入り込むほど、その不安が消えていく。それは単に感覚がマヒしているだけではないような気がしてきた。
本当に自分がこの悪夢の主人公だったとしたら、
「夢なら早く覚めてくれ」
と最初に思うに違いない。
この小説を書き始める少し前から、
――夢を見ているという夢を見ているシチュエーションを思い浮かべたくて仕方がない――
と思うようになっていた。
目が覚めて、
「ああ、夢だったんだ。よかった」
と悪夢から覚めた夢にホッと胸を撫で下ろすと、実際には目が覚めたという夢を見ていて、本当は悪夢から抜けているわけではない。
夢の中の悪夢と、実際の悪夢とでは若干の違いがあるが、
――悪夢から逃れたい――
という思いはいつもある。
だから、悪夢から覚めたという願望を、夢として見てしまったのだろう。つまりは、その時の夢の本質は、
――悪夢を見た――
という夢ではなく、
――悪夢から覚めた――
という夢を見ることだったのだ。
願望として見た夢なので、本当に目が覚めた時は、一瞬何が起こったのか分からないが、実際には、すぐに夢の本質に気が付き、悪夢から覚めたのが夢だったことに落胆の色を隠せなかった。
その時の悪夢は同じ日を繰り返しているというような夢幻ではなく、もっとリアルな悪夢だった。
金銭に絡むことで、
――切実とはこういうことを言うのだ――
といまさらながらに思い知らされたことだった。
藤崎が同じ日を繰り返しているという悪夢を思いついたのも、このことがきっかけになったのだった。本人は意識していないが、今まで見た夢の中で一番怖い夢だったということは間違いない。
その夢から覚めた時、藤崎は子供の頃に見た同じ日を繰り返しているというテレビドラマを思い出したのだ。本人はふいに思い出したように思っているが、実際には前兆があったに違いない。
そうでなければ、悪夢から覚めるという夢を見るという理由を思いつかない。藤崎は目が覚めるにしたがって、次第にそのことを理解できたような気がしていたのだ。
藤崎の小説は、同じ日を繰り返すというテーマを頭に思い浮かべた時、
――この話は難しすぎる――
と感じた。
そして、小説にするのを断念しようと思っていたのだが、
――執筆を可能にできるかも知れない――
と感じさせたのが、悪夢から目が覚めるというこの夢を見たことだった。
自分にとっての執筆は、まず頭に描いたことを言葉にできるかということから始まる。
書きたいと思っていることであっても、頭に描いていることが言葉にできなければ、始まらない。文章にできるかどうかという以前の問題だった。
藤崎は、言葉にしながら箇条書きにしてメモしていた。箇条書きなので、文章には程遠いものだが、箇条書きにすらできないことが多い中で、箇条書きにしてしまえば、逆に文章にすることはそれほど苦痛ではなかった。
箇条書きにした文節を読みながら文章を書いていくと、書きながら次の言葉が思い浮かんでくる。それが繋がることが小説執筆に繋がるのだった。
小説の執筆に姿勢などいらない。
どんな格好であっても、文章になってしまえば、それは藤崎の小説だった。決して文章力がある方だとは思っていなかったが、文章力よりも、
「いかに人の心を捉えるか?」
ということが大事だと思っていたのだ。
それでも藤崎が書いた小説を編集者の人に見せると、あまりいい評価を受けることはなかった。
「どうも独りよがりな文章ですね」
と言われてしまう。
その意識はなかったわけではないが、それでも面と向かって言われると凹んでしまう。編集者の人と話をする時は、それなりの覚悟をしていなければいけないようだ。
それでも編集者の人の言葉は真摯に受け止めていた。ただどこまで意識するかによって、心が折れてしまいそうになるので、なるべく、悪いことは忘れるようにしていた。
それでも気持ちは正直で、悪夢として見てしまう。何度目が覚めた時、
「夢でよかった」
と感じたことだろう。
しかし、その時は本当に夢から覚めた状態だったので、それ以上何も意識しなかったが、以前に見た、
――悪夢から覚める夢――
をある時思い出したのだ。
それを新しい小説のネタにしようとは、すぐに思ったわけではなかった。しかし、一度思い出してしまうと、今度は忘れられなくなってしまう。
――都合の悪いことは忘れてしまえばいいんだ――
という意識が崩れかけた瞬間だった。
そのまま思い出した意識を封印してしまうようであれば、それ以上小説を書くことはできなかっただろう。ある程度まで自分の限界を意識していた藤崎にとって、自分が小説家として復活するために、
「何かのきっかけがほしい」
と思っていた。
それ以降も売れるか売れないかというのは二の次で、それ以前の、
「このまま執筆していけるかどうか」
という基本的な発想から始まるのだった。
その時は、それほど大事なことだという意識はなかったが、過ぎてしまうと、自分にとって運命的な出来事だったということに気が付くものだ。一つの分岐点と言ってもいいだろう。
藤崎がパラレルワールドという発想を自分の小説に組み込んだのは、その頃からだった。もちろん、言葉も意味も知っていたし、
「テーマにしてみたい」
という願望はあったが、あまりにも漠然としているため、纏めることが難しかった。他の人の小説でパラレルワールドの発想を読んでみたが、藤崎の目から見て、
「どれも似たようなものだな」
という思いしか浮かんで来なかった。
藤崎は人のマネや、二番煎じを極端に嫌っていた。人の敷いたレールの上を歩くのが嫌だという発想が強いのだった。
藤崎が一番気になったのは、
「繰り返している」
ということだ。
それが時系列のような横軸だけでなく、
――同じ時間でも繰り返していることがあるのではないか?
という思いを感じさせたからだった。
たとえば、悪夢から覚める夢を見たというのも、一つの「繰り返し」だった。
――夢の中で、夢を見ている――
最初にそのことを感じた時に思い浮かんだのは、箱の発想だった。
子供の頃に見に行ったマジックショーの中で、ピエロの余興として、大きな箱を開けるとその中に箱があり、さらにその箱を開けると、さらにその中には箱が出てくる。
箱はどんどん小さくなっていくのだが、消えてなくなりそうになりながら、それでも小さな箱はどんどんと出てくる。
マジックのようでマジックなのではないのかも知れないが、それこそ、ピエロの術中ではないだろうか。
マジシャンというのは、相手にいかにマジックのネタを悟らせないように、他の方向を向かせるかというのがミソだという話を聞いたことがあった。マジックでないように見えるからこそ、不思議な世界に誘われていく。
見ている方も、
「マジシャンがやっているのだから、すべてのことに何らかの意味があるに違いない」
という発想で見ている。そんな見物人の目や考えを逸らすのは難しいことではない。まったく意味のないことを、普通に演じればいいだけのことだった。
それこそ、「ブービートラップ」というものであろう。
藤崎は、小説を書きながら、自分がマジシャンになったかのように思いながら書いていた時期があった。ただ、そんな時は最初の発想は浮かんでくるのだが、発展性がなかった。それよりも、自分がピエロであるかのように見ると、結構発展性のある発想が思いついたものだ。
「ピエロの方がマジシャンを思い浮かべるよりも他人事のように思えるからなんだろうな」
と感じるのだった。
藤崎は、小説を書いている時は、自分の世界に入り込んでしまう。したがって、小説を書き始める前に思いついたことは、メモか何かに書き留めておかないと、忘れてしまうことが多かった。子供の頃から一つのことに集中してしまうと、他のことが目に入らないようになってしまうという思いを抱いていた。しかし、それが記憶できないということに結びついてくるなど、子供の頃に想像できるはずもなかったのだ。
「何事に取り掛かるにも、集中力が大切だ」
ということを子供の頃から言い聞かされていたので、集中できることに何ら疑いを持つことはなかった。そのため、大人になっても、記憶力が低下してきている原因がどこにあるのか、ずっと分からないでいた。それに気が付くようになったのは、小説を書いている間の時間を感じさせないということを意識するようになってからだった。
最初の頃は、小説を書いている間、時間を感じさせないなどと考えたこともなかった。集中することに神経を使っていたので、それ以外の弊害については、あまり意識しないようにしていた。そのため、小説を書いていて、時間が経ってから見た時に、
――あれ? これは何を思って書いたんだっけ?
と前後の文章を読み直さないと分からないくらいだった。
藤崎は自分の小説を時間が経ってから読み返すようなことはあまりしなかった。添削が大の苦手だからだ。そのかわり、書き始めに前の日に書いた内容を読み返すように心がけていた。
五十歳になって最初に書いた小説は、後になってからも読み返してみた。
――これは今までの自分が書いた作品でも最高傑作かも知れない――
と感じていた。
書いている時も、どんどん発想が思い浮かんできて、書き終えてみると、最初に作ったプロットと、まったく違った作品になっていた。今までにもプロットと違う作品になったことは結構あったが、書き始めの最初からまったく違う作品が出来上がるという意識を持っていたのは、この作品だけだったかも知れない。
最高傑作という発想は
――今までの自分が書いた作品の集大成のような気がする――
という発想からだった。
だが、この時藤崎は別の発想をしていた。
――この作品を書き上げたことで、別のパラレルワールドが開けて、もう一人の自分が、こちらを見つめているかのようだ――
と感じていた。
藤崎の思いは、いつの間にかもう一人の自分の中に乗り移り、気が付けば、今の自分を冷静に見ているようだった。
もう一人の自分の目から見ると、今の自分が考えていることとまったく違う面が見えているようだった。冷静に考えると、確かに落ち着いているように見えるが、考えていることは、
――同じ時間を繰り返している世界から、いかに逃れるか――
という思いだった。
藤崎は自分が同じ時間を繰り返していると思い込んでいる。そういう風に表から見ると見えるのだ。しかし、そう感じるのは、もう一人の自分だけで、他の人にも、当の本人も分からない。
――これは自分だけではないのかも知れないな――
他の人のことは分からないが、もし、他の人にももう一人の自分が存在し、同じように冷静な目で見れば、当の本人は同じ時間を繰り返していることを分かっていて、いかに逃れようかということを考えているようだった。
もちろん、そんなことを悟る人が他にいるとは思えなかったが、そういう意味で藤崎という人間は、
――選ばれた人間―
なのではないかと思うのだった。
藤崎は自分の小説の中で、もう一人の自分を描いた。そして、その存在を悟ることができるのは、選ばれた人間だけだということを書いたのだ。
しかし、藤崎は、
「何か、物足りなさを感じる。それが何なのか、見当もつかない」
と思っていた。
しかし、見当もつかないと思いながら、もう一つの考えとして、
「ほぼほぼ正解までたどり着いているのだが、そこからが遠い」
と感じてもいた。
「百里の道を行くのに、九十九里をもって半ばとす」
ということわざがあるが、自分もそのことわざにまんまと嵌っているような気がしていた。
正解が見えてきたとしても、自分がこれまで歩んできた道を顧みないことには、これからの距離がどれだけのものなのか、見誤ってしまうというものだ。
藤崎の中で、何が正解なのかということをいち早く知りたいがために、焦る気持ちが幻を見せているのかも知れない。見えたと思ったことで、自分の中に油断が生じたのかも知れないからだ。
「まるで、砂漠の中でオアシスを見つけたが、それが蜃気楼だったような心境に近いものがある」
と感じていた。
藤崎はこの小説にどうしても、
――同じ日を繰り返している――
という発想を入れたかった。
それもメインのストーリーとしてではなく、最後のシーンで、
「実は同じ日を繰り返していた」
という、どんでん返しのストーリー仕立てにしたかったのだ。
だが、それは結構な困難を極めた。
メインテーマで考えていた発想よりも、同じ日を繰り返しているという発想の方がインパクトが強いからだ。どうしても、インパクトの強い方に意識が行ってしまうので、途中のストーリーがダラダラしているのではないかと思えてきた。
淡々としたストーリー展開というのは、藤崎の中で十分にありだと思えるものだった。淡々とした展開があればこそ、ラストシーンが生きるのだ。
「最初にある程度深いところの印象を植え付け、ラストで最大のインパクトを含んだ解決編を描く」
それが藤崎の作風だった。
そのために、途中がどうしても淡々とした流れになってしまう。特に時系列を重んじてしまうと、余計に流れに逆らっていないことで、インパクトは皆無に等しい。中には、飽きてしまって、読むのをやめてしまう人もいるだろう。
しかし、藤崎はそれでもよかった。
「本当に俺の小説を読みたいと思ってくれる人にだけ支持されればそれでいいんだ」
と思ったからだ。
そういう意味では、売れっ子小説家になりたいとは思わない。少数派でも根強いファンのいる作家の方が、自分に合っていると思っている。売れっ子小説家になってしまうと、一時期のブームとしてのセンセーショナルが強い分だけ、ブームが去った後は忘れられてしまうかも知れないという危惧があった。
「息が長い小説家」
というのを、最初にデビューした時から目指していたが、さすがにここまで売れなくなるとそうも言っていられない。何とか年を取ってきたとはいえ、もう一度起死回生を狙ってみたいと密かに思い続けている。
自分と同じ時期にデビューした作家の中で、自分よりも売れていた人が何人消えていったことだろう。辞める時期が絶妙だった人は、別の世界へ、
「華麗なる転身」
を遂げたかも知れないが、迷いからなかなか抜けられなかった人がその後どうなったのか、藤崎は知らなかった。
元々藤崎も、
「自分よりも才能がある」
と思っていた小説家が何人も消えていっているのを危惧していた。中には自分と作風が似ている人もいて、会ったこともなければ、顔も知らないのに、勝手にどんな人物なのか、勝手に想像していた。
自分よりも才能があると思っていた人の中には、小説家が本業ではない人もいた。サラリーマンをやりながら作家活動をしていたり、主婦をしながら作品を書いていたりする人たちだ。
彼らがどうして自分よりも優れていると思える作品が書けるのか、すぐには分からなかった。しかし考えてみれば、当然のことなのかも知れない。
なぜなら、彼らは元々から小説家である人と違い、俗世間の中で生きてきたのだ。それだけ読者に「近い存在」であり、読者を引き付けることや、納得させることができる内容の小説を書くことができるのだ。
――じゃあ、俺たち小説家は、独りよがりであったり、自己満足に浸っているだけの作品だけしか書けないということなのか?
と、思えてならない。
小説家というものは、悲しいかな、一人の仕事なので、他の人と違った意味で、プライドが高い。独りよがりであったり、自己満足に浸るのも無理のないことだ。逆に自信過剰なくらいの方が、人には書けない優れた作品を書くことができるのだと以前からずっと思っていた。
藤崎がスナックに行くようになったのは、小説を書いている時以外の一人の時間を充実させたいという思いがあったのも事実だが、俗世間の人たちを観察できるかも知れないという思いがあったのも事実だ。別にアルコールが好きだというわけではないが、スナックにいる間、別の次元に入り込んだかのような、不思議な時間が流れていたのだ。
藤崎にとって不思議な時間は、執筆している時間だった。
時間があっという間に過ぎてしまい、不思議な世界にいつの間にか入り込んでいて、気が付けば戻っているという次第である。
スナックにいる時も同じように時間の感覚がマヒしているが、同じマヒでも、かなり違うマヒである。小説を書いている時は、一人静かに自分の世界を形成しているのだが、スナックにいる時は、まわりの空気を意識しながら、自分だけの世界を形成しようとしているような意識が、自分の中にはあったのだ。
スナックにいる時は、別世界を意識しているので、まわりの人を意識すると言っても、苦痛ではなかった。
藤崎は、普通に生活している時に、まわりを意識するのが苦痛だった。元々、億劫な気分から始まったのだが、決して藤崎はものぐさというわけではない。意識することが、自分の中で必要以上な行動を起こしてしまうことを危惧していたからだ。
藤崎がスナックに行くようになって、もう一人の自分を余計に感じるようになった。スナックに行くようになって、そのきっかけとは違ってきているのを感じると、まわりを意識するどころではなくなってきたのだった。
だが、もう一人の自分を意識する方が、まわりを意識しているよりも気が楽だった。
「きっと他の人は、まわりを意識する方が楽なんだろうな」
まわりの人も、もう一人の自分を意識していると思っていた頃は、そんな風に考えていた。
「だから、俺と違って、他の人はまわりの人間とうまく付き合っていけるんだろうな」
と思っていたのだ。
藤崎は自分のことを不器用だと思っている。
他の人とうまく付き合えないから、一人の時間をうまく使っているという意識をなるべく持たないようにしていた。自分の不器用さを、これ以上思い知らされたくなかったからで、
――必要以上に思い込むことは、ロクなことにならない――
と感じたからだ。
藤崎は、ママが時々あらぬ方向を見ていることに、最初は気づかなかった。最初こそ、自分だけを見ていると思っていたのだが、あらぬ方向を見ていることに気づいていたのかも知れないが、敢えて認めようとはしなかったのかも知れない。ママが挙動不審な時があるのは最初から分かっていたが、その部分もひっくるめて、藤崎はママのことが気になっていた。
――どこか神秘的なところがある人だ――
神秘的という言葉が実に都合よく、曖昧であることを知っての上で、ママを神秘的な女性だという目で見ていたのだ。
「藤崎さんが時々分からなくなる」
ママは、そう言って藤崎に抱きついてくる。
相手が分からなくなるという言い方は、本当なら、別れを切り出す時の言葉のように感じさせるが、ママから別れを言い出す素振りは感じられない。藤崎自身も、ママの口から別れの言葉が出てくるなど、想像もつかなかったのだ。
一度だけ、ママの口から別れの言葉が聞かれたことがあったが、次の日にはあっけらかんとしたママがいて、
「そんな言葉口にしたのかしら?」
聞くのが怖くて、次の日から話題にも出さなかったが、もし聞いていれば、こう言ったに違いない。
――とぼけているんだろうか?
と普通なら思うのだろうが、藤崎にはとぼけられているという意識はなかった。
ただ、藤崎のことが時々分からなくなるという言葉は、藤崎の耳から離れることはなかった。今では自分のことが分からないと言われても、
「ママから見ても、自分のことが神秘的に見えているからだ」
と思うようになった。この場合の神秘的という言葉も、実に都合よく、そして曖昧な言葉に違いなかった。
「相手のことが分からなくなったからと言って、それが別れに直結するわけではないのよ」
と、ママは言っていた。
それまでの藤崎は、付き合っている相手が自分のことを分からないと言ってきたら、
――別れが近い――
と思い込んでいた。
実際に別れることになった確率はかなり高いので、余計にそう思ってきた。しかし、相手が別れを決めるまでには、もっと紆余曲折があったに違いない。
本当に相手のことが分からなくなったので、別れようと思うのであれば、
「あなたのことが分からなくなった」
と口にすることはないのではないかと、今では思っている。
何も言わずに別れた方が、相手を悩ませることもないと思うはずだからである。
しかし、本当はハッキリとした理由を言ってくれないと、男としては、簡単に引き下がれない。潔く別れればいいはずだと分かっているくせに、その場になると、未練タラタラの状態になり、自分の意志どおりなのか、まず理由を知りたくなる。
理由をハッキリさせてくれないと、
――まだ、修復の見込みはある――
と思ってしまうからである。
男というものは、相手からズバッと言われると、引き際を潔くすることができるというもので、中途半端が一番いけない。女性の方も気を遣ってのことなのだろうが、それが仇になり、ストーカーのようになってしまう人も出てくるだろう。
別れを切り出す方が、相手に対してハッキリとした理由を言わないのは、いくつか理由が考えられる。
まずは、自分でもハッキリとした理由が分からない場合である。
頭の中で理解しているのかも知れないが、それを言葉にして、相手に納得させる自信がない場合である。
もう一つのパターンとして、嫌いになった自分を正当化したいという思いがある場合ではないだろうか。何を言っても相手を傷つけてしまう。そうすれば、悪者は自分になってしまう。自分の中で、そんな自分が許せなくなることを嫌ってのことだろう。
ただ、ママのように、一度は決心して別れようと思ったことで、藤崎に別れを切り出したのに、翌日になると、そんなことを言ったということすら忘れてしまっているのか、何もなかったかのように振舞っている。
藤崎もここまでされると、しらばっくれるしかなかった。なかったことにするのは難しいが、心の隅にとどめておくことくらいはできる。
それがママの性格であることは、まだその時は分かっていなかった。
――ママは二重人格なんだろうか? それにしても、本当に忘れてしまっているのだとすれば、少なからず、自分たちの間に噛み合っていない部分が存在しているのかも知れない――
と感じていた。
「あなたを見ていると、以前付き合っていた人のことを思い出すの」
二人きりのベッドの中で、行為が終わり、気だるい時間を過ごしている時、ママが呟いた。その時は軽く聞き流したが、それ以降、少しでも何かがあれば、ママが藤崎の後ろに見える過去に付き合っていた男性を見ているように思えて仕方がなかった。
――別れを切り出してみたり、過去の男を思い出すと口走ってみたり、ママは自分に何か別のものを求めているのではないか?
と思えて仕方がなかった。
それまでは自由にすることが、ママへの愛情だと思っていたが、拘束することをママが望んでいるのではないかと思うと、ママの顔に急に恍惚の表情が浮かんでくるのを感じたのだ。
ママはスナックを経営しているくらいなので、人付き合いはうまいと思っていた。この店を自分でも持つまでは、繁華街の高級クラブでホステスをずっと続けていた。ママも口では、
「私がナンバーワンだったというわけではないんだけどね」
と言っていたが、高級クラブで接客をしているくらいだから、人付き合いが苦手なわけはないだろう。
しかし、実際に、
「私には家族も友達もいないのよ」
と言っていたが、それも、
「あなただから話すのよ」
とくぎを刺すような言い方だったが、弱音ではないが、他の人には決して見せられないところを自分にだけ見せてくれるというのは、藤崎にとって、男冥利に尽きるというものだった。
「私って、不器用なのよね」
と、投げやりになったような口調で話してくると、
「どうして、そう思うんだい?」
と、藤崎は投げやりなママに対して、直球でグイグイ入り込んでくる。口調は穏やかだが、ママの本意がどこにあるのか、それを探ろうと目は真剣だった。
「気が合う人としかまともに話ができないのよ。それも、本当にその人が自分と気が合っているのかということを探りながらになるので、最初は慎重そのものなの。でも、少しでも気心が知れると、言わなくてもいいことまで言ってしまい、相手をしらけさせることも少なくなかった。加減を知らないというか、そういう意味で不器用なのね」
「でも、それだけ真面目で純情だということなんじゃないかな?」
「真面目で純情なことっていいことなの? 私にはそうは思えない。不器用さをごまかす時に使う詭弁のような気がして仕方がないのよ」
「それでも、俺は真面目で純情なママのことが好きなんだよ」
自分に酔ってしまいそうな言葉を口にしたが、ママは考え込んでしまった。それは、喜びたいんだけど、素直に喜ぶことのできない何かがママの中にあるということのように思えた。
「藤崎さんとは、同じ周期の中にいるような気がしているんですけど、急に遠い存在に感じられることもあるんですよ」
とママは話した。
「というと?」
「私は、藤崎さんの中に、私が抱えている人に言えないことと同じものを感じていたんですが、藤崎さんも同じことを感じているんじゃないですか?」
藤崎は戸惑った。
きっとママの言いたいことは、同じ日を繰り返しているということであろう。しかし、どうしてママも同じような相手がそばにいることに気づいたのだろう? 少なくとも、藤崎はその時ママから言われるまでは、ママも同じように同じ日を繰り返しているなどと思ったことはなかった。
それはママに対してというわけではなく、他の人に対しても同じだった。
――自分だけが同じ日を繰り返している――
つまりは、自分が小説の中で創造してしまったことが、自分に振り返ってきているだけだと思ったからだ。
しかし、ママからその話を聞くと、同じ日を繰り返しているのは自分だけではないような気がしてきた。だが、そう考えると、
――どうして皆何もなかったように毎日を過ごしているように見えるんだ?
他の人の気持ちも聞いてみたい気がしてきた。
それにしても、誰もそのことについて触れようとしない。それは誰にも話してはいけないという「暗黙の了解」なのか、それとも、意識はしているが、自分以外に同じ日を繰り返している人などいないという思いから、口にするのを躊躇っているのか。はたまた、話してしまうと、開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまい、まるで玉手箱を開けた時のように、一気に年を取ってしまい、考える間もなく、死に至ってしまうと思っているのか。そのどれにしても、藤崎の発想ではない。藤崎独特の考えがあったが、それはあくまで、同じ日を繰り返している人など他にいるはずもなく、想像できたとしても、決して創造はできない。創造してしまうと、待っているのは、
――抜けられないことに対しての恐怖――
に他ならないからである。
藤崎は、自分が今考えていることを、同じように今考えている人がいるような気がして仕方がなかった。それはママではない。ママであれば、一緒にいる時、すぐに気づく気がしていたが、ママを見ている限り、そんな素振りは微塵にも感じられなかった。
むしろ、ママは藤崎の考えよりも先に進んでいるような気がしていた。藤崎が今考えていることなどは、ずっと以前に考えていて、今は考えることをやめているのか、気配もなかった。
ママが何かの結論を得ているような気がしているが、これから考えをまとめていこうとしている藤崎の行き着く先と同じかどうか、ハッキリとしない。まったく違うところに着地しているのではないかと思う。同じところに着地するのであれば、考えている時期が同じでなければいけないような気がするからだ。
今、自分と同じことを考えている人がいるとすれば、心当たりがあるとすれば、日向であった。ひょっとすると、他にもたくさんいるのかも知れないが、同じことを考えているという気配を感じるのは、自分が知っている人でなければならないだろう。そうなると、考えられるのは、ママと日向だけだった。後の人たちは仕事上で繋がっている人たちばかりで、表面上の付き合いであり、気配を感じることができるまでの親密さや相手を見る時の真剣さが違っているのだった。
――腹の探り合いをしているような人は、相手に弱みを決して見せないようにしようとしているに違いない――
本当は、角度を変えれば相手の弱みを見ることができるのだろうが、それと同時に自分の弱みも見られてしまう恐れもあった。自分よりも相手の方が百戦錬磨だと思うと、藤崎は、とてもじゃないが、仕事上だけで繋がっているような相手に対し、正面からしか見ることができなかった。
――それでも探り合いをしなければいけないのだから、仕事上の付き合いというのも、因果なものだ――
と思えてならなかった。
日向という男と、まともに話をしたことがなかったが、相手は藤崎に興味を持っているようだった。藤崎の謎かけに対して、最初から分かっていたように不敵な笑顔を浮かべたその時の顔を思い出した。一瞬、ゾッとしたが、その時の不敵な笑みは、後から考えると気持ち悪いというよりも、頼もしさすら感じられた。
藤崎は今、「脱出」というキーワードが頭の中を巡っていた。それは同じ日を繰り返しているこの世界からの脱出であり、夢を見ているのであれば、夢の世界からの脱出であり、躁鬱状態を繰り返しているのであれば、安定した精神状態への脱出であった。
ただ、脱出した後のことは何も考えていない。まずは脱出に全神経を傾けなければいけないと思うからだ。
だが、同じ日を繰り返している人生に、藤崎は物足りなさを感じている。
「明日のない人生なんて、何が楽しいというのだ」
この思いは、同じ日を繰り返している人、誰もが思っていることだろう。
同じ日を繰り返している人が他にはいるはずがないと誰もが思っていたとすれば、考えはまわりにある結界を超えることはできないだろう。
もし、同じ日を繰り返しているいわゆる「リピーター」の連中と話ができるとすれば、
「君はいつから同じ日を繰り返しているんだい?」
と聞いてくるだろう。一番の関心事はそこにあるのではないだろうか?
同じ日を繰り返している人の存在は、ある時点で何か突発的なことが起こり、どれだけの人間が繰り返しているのか分からないが、皆同じ時点からスタートしていると思いたいだろう。
しかし、
――いつから繰り返している?
という発想は、その日一日が終わり、新たに次の日に進めた人が感じることだ。確かに午前零時を回る瞬間に、もう一度前の日から始まっているのであれば、その日を一日と考えることができ、
「一週間前から」
などと、七回繰り返していれば、そう答える。
同じ日を繰り返していると言っても、まわりの環境が前の日と同じというだけで、その日を過ごしている自分はある程度自由だった。逆にいえば、自分だけが前の日と違った感覚と、行動する自由が与えられていると思えたのだ。
そうなると、自分がリピートした日の他の人たちは、同じ日を繰り返しているのであれば、前の日とは違う人だということになる。そういう意味で、もし今日話をした人と日にちを繰り返した「次の日」に出会って話をしても、きっと昨日話したこと、いや、藤崎自身のことも記憶にないだろう。違う人間なのだから、当然のことだ。
「同じ日を繰り返している世界は、三次元の自分たちがいた世界に、さらに別の世界、パラレルワールドというキーワードを結びつけた、
――四次元の世界――
ということになる。
SFなどで言われている四次元の世界は、同じ時間に見えない別の世界が開けているという意味で、パラレルワールドの発想に近いものがある。もう一つの次元というのは時間という感覚で、点、線、面から立体が生まれて自分たちがいるはずの三次元の世界が形成されているが、藤崎が考えるところの四次元の世界というのは、リピートしている人がたくさんいるのだが、最初の日に話した相手と次の日では会うことができない。つまりはリピートを繰り返すごとに、同じ人間であっても、人が絡むことで違う人間同士になっている。それだけ厚みができる世界であり、それまで立体の概念とはまったく違った世界が無限に広がっているという発想だった。
そのことに気づいている人がどれだけいるのだろう?
誰もが暗黙の了解のように同じ日を繰り返していることを話さないのは、その世界では自分以外は前の日と同じ人間ではないことを無意識に悟っているからなのかも知れない。同じ日を繰り返すことで、同じ人と二度と同じ感情になることができないという思いを悟ったとすれば、それは実に悲しく、寂しさが込み上げてくることに違いない。
その発想は、子供の頃に見たテレビドラマに由来するものがあった。
屋台で会った人に、
「今日……だよね」
と言われた主人公を見た時、ゾッとした感覚。あれは自分の身に置き換えてみてゾッとしたのだった。
多感だった子供の頃、いくら感情移入が激しく、敏感に感情に響くとはいえ、テレビドラマの主人公に対し、そう簡単に自分に置き換えることなど、できるわけもないからだ。だが、それだけに気持ち悪さが残った。
――言い知れぬ不安感、底知れぬ失意――
理由が分からないだけに、考えれば考えるほど、落ちていくものだった。
あの時のドラマで見たラストはハッキリとは覚えていない。なぜ覚えていないのかというと、
「ラストシーンよりも印象的なシーンがあったから」
に他ならない。
「今日……だよね」
と言った男性、その人がそれからどうなったのか。
「この世界から抜けるには一つしかないのさ」
そう言って、彼は屋台を出てから、ビルの建設現場にフラフラと歩いていく。
屋台のおじさんも、お金も払わずフラフラ席を立った男に対して、咎めるようなことはしない。それよりも、ただ見つめているだけだった。
その眼にはフラフラ歩き出した男を見守るように決して目線を逸らしたりはしない。歩き出した男も、自分の運命を分かっているかのように、歩いていく。
屋台のおじさんが、
「同じ日を繰り返しているんだから、あそこで何が起こるのか、彼はちゃんと知っているんだよ」
と、じっと見守っている。
「これで何人目だろうね」
タバコを燻らせながら、屋台のおじさんはそう呟いて見つめている。男が笑ながらこちらに向かって手を振っている。まるで「さようなら」と言っているかのようだ。
「ガラガラ、グシャッ」
あっけなく潰れてしまったその姿を、藤崎も目を逸らすことはできなかった。
――最初から分かっていた気がする――
そう藤崎少年は感じていたが、次のおじさんのセリフも印象的だった。
「毎度ありがとうございます。またのご来店、お待ちしております」
そう言って、何事もなかったかのように目を逸らした。
そこから先はあまり記憶がない。死んだはずの男が、出てきたような気がした。
「死んでも、この世界から逃れられないんだ」
これがドラマを見た藤崎少年の印象だった。
脱出不可能な世界、まるでメビウスの輪を見ているようだ。
「抜けたと思っても、後ろにある鏡から、またここに戻ってきてしまう」
これこそ運命。逃げることのできない運命。
藤崎は、この思いを持ったまま年齢を重ねてきた。さすがにトラウマとまでは思わないが、この世界の存在を信じたまま年齢を重ねたことで、同じ日を繰り返す自分の運命に気づいてしまったようだ。
――気づかないなら、気づかないままの方がよかった――
子供の頃のあの日、あんなテレビドラマなど見なければよかったのだと感じていた。
藤崎は、もしこのドラマを思い出さなければ、自らの命を絶つことが、この世界から逃れる唯一の方法だと思ったことだろう。
しかし、このドラマを思い出したことで、自殺を思いとどまることはできたが、今度はどうしても抜けることのできない世界が確定してしまったかのように思えたことは、後悔してもし足りなかった。
藤崎は、同じ日を繰り返しているこの世界を、
――四次元の世界とリピート――
によるものだと思っている。
何かを繋いで、永遠の命が繋がっていると考えると、同じ日を繰り返しているという意識を持っている自分が、午前零時を境に、別人になっていると思えてならない。
実際には、同じ日を繰り返しながら、繰り返している本人は生身の身体。確実に年を取っているのだ。
年を取るということは、老いていくということ、老いてくれば永遠の命の発想も怪しいものだ。もし、永遠の命を繋いでいるのであれば、午前零時を過ぎて次の日になった時、自分とは別のもう一人の自分が、翌日にはいることになる。
藤崎がもう一つ疑問に思っているのは、
「同じ日を繰り返している自分は、本当に自分だけなのだろうか?」
と感じることだった。
昨日には昨日の自分、明日には明日の自分が存在している。
「彼らも同じ日を繰り返しているのではないか?」
と思うと、他の日の自分ももう一人の自分というより、自分そのものに近い存在に思えてきた。
藤崎は、昨日の自分、明日の自分と、何らかの関わりを持っているような気がした。それ以前やそれ以降の自分とは関わりがないのにである。
藤崎は、昨日の自分を思い返してみた。
――一体、何を考えていたのだろう?
その時、同じ日を繰り返す前兆のようなものを感じた。そして、そのことを知っている人が少なくとも二人はいるような気がした。
一人はママである。そして、もう一人は日向だった。
二人とも、藤崎を見る目は、目の前にいても、かなり遠くを見つめる目をしていたのだ。別人であるにも関わらず、その表情はまったく同じに見えた。
「考えていることがまったく同じだったら、どんなに顔が違っていても、同じ顔に見える時があるのかも知れないな」
藤崎は、そんなことを考えていたことがあった。
それが自分自身にも言えることだということを、今回初めて知った。もう一人の自分の存在は、以前から考えていたことだったが、
「いるとしても、まったく違う世界にいるんだろうな」
と、その時感じたのは次元の違いだった。
どんでん返しのように、絶対にお互いにその潜在を意識はできても、見ることのできないものだとして、藤崎は信じていた。
そしてリピートを繰り返す自分、さらには、昨日や明日の自分と、どこかで接しているように思えてならない。そうでなければ、藤崎以外の人にも、もう一人の自分の存在を意識させ、話題にするくらいであってもいいと思ったからだ。話題にできないのは、それぞれの中での伝説のようなもので、暗黙の了解がすべてを示しているからなのではないだろうか。
藤崎は、同じ日を繰り返していると感じた時から、日向と会うことが多くなった。逆に言えば、日向と会うことが多くなってから、同じ日を繰り返していることに気づいたともいえるのだ。
きっかけがどっちだったのか分からない。
藤崎は今、どこかの世界に飛ぼうとしている。それは開けてはいけない「パンドラの匣」である「玉手箱」を開けてしまった瞬間だった。その時藤崎が感じたのは、
「もう一度目を開けて、その時またリピートだったら、たまらない」
ということだった……。
( 完 )
永遠を繋ぐ 森本 晃次 @kakku
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