第4話 お礼参り

「人を好きになるということに、理由なんてない」

 ということを言う人がいるが、なつみはそんな言葉は信じられなかった。

 いや、考え方は人それぞれ、理由もなく人を好きになる人もいるだろう。しかし、それも理由に気付かないだけで、本当は理由はあるのだ。そう思わなければ、今まで本当に人を好きになったことがないと思っているなつみには、理解できないことだった。

 人を好きになるには、言葉で言い表せない理由があるのだと思えば、

「理由なんてない」

 という言葉も分からなくもないが、それも厳密に言えば違っている。そう考えていけば、理由がないというのは、言い訳にしかすぎない気がした。

 好きになった人が、好きになってはいけない人であり、そのことで悩むことになってから、理由のないことを理由にすることを思いつく。そんな人生はつまらないのではないだろうか。

 好きになった人が好きになってはいけない人だということを考えた時、真っ先に浮かんだのは、相手が肉親である場合だ。

――兄が妹を、姉が弟を……――

 そう思って考えると、そんな小説を今までにも読んだことがあり、読んだ時にどんなことを考えたのかということを思い出そうとするのだが、今となっては思い出すことができない。

――あれから自分も随分と大人になったから――

 と思っていたが、果たして大人になったと言えるのだろうか?

「禁断の愛」を、学生時代には胸を躍らせて読んでいたことだけは思い出す。では今はどうなのだろう?

「禁断の愛」と言えば、今の自分には、不倫という言葉が頭に浮かんでくる。無理もないことだ。自分がしていたことなのだから……。

 だが、今はその時のショックから立ち直り、忘れることのできない不倫への思いだったが、何かの拍子に思い出すこともある。

――また同じ過ちを繰り返すかも知れないわ――

 それは、自分の意志というよりも、襲ってくる寂しさから、自分は逃れられないと思うからだ。だが、最近になってから、自分があまり寂しさを感じなくなったことで、不倫を繰り返すことはないという自信があった。

――それでも、寂しさは自分の意志に反して、いきなり現れるものなのかも知れない――

 と感じている。

――その時になってみないと分からない――

 自分の意志で何とかなることであれば、こんなことは思わないが、意志を超越した凌駕が存在する場合は、そう思わなければ、悩み苦しんで、ずっと耐えていかなければいけなくなってしまう。

 なつみは不倫を経験し、

――私は堕ちるところまで堕ちたんだ――

 と思った時期もあった。

 そのせいもあってか、それから会社を辞めて、組織の中に入ることを嫌った。もちろん、自分で招いた種であることに違いないし、人のせいにするわけにはいかないが、それにしても、まわりから受ける冷たい視線は、

――どうしてあそこまで冷徹な目ができるんだろう?

 と、それまで親友だと思っていた人にまで、同じ視線を浴びせられた時は、さすがに心が折れてしまった。

 考えてみれば、自分の立場が逆であればどうだろう? 相手に裏切られたと思うのではないだろうか?

――何に裏切られたというのであろう?

 それは、自分が勝手に抱いた親友のイメージから相手がかけ離れていったことが、裏切りに感じるのだ。

 しかし、自分は何もかも失い、こんな時こそ、親友の暖かい視線を貰いたいと思っていても、

――裏切られた――

 と思っている相手に、そんなことが通用するはずもない。

――私が甘えているのか、それとも、相手が自分の気持ちを分かってくれないのか――

 陥ってしまった奈落の底では、すでに自分のことしか考えられなくなっている。

 そんななつみは、逃げるように会社を辞めた。当然、その時から前の同僚は、完全な「他人」になっていた。

 なつみはそれでもいいと思っていた。孤独が寂しいわけでもないし、逆に一人で我に返って、自分を省みるのもいいことだと思っていた。

 ママさんから、スナック勤めの話を聞くまで、誰とも話さない日が何日も続いていたが、別に意識しなかった。却って、余計なことを考えることもないので、それでいいと思っていたのだ。

 なつみは藤原に惹かれていく一方、相手があまりにも年上であることに抵抗があった。

 それは、前の会社での不倫を思い起させるからだ。

 不倫相手は、藤原とはまったく違っていた。今から思えば、相手は遊びだったのかも知れない。

「上司と部下の不倫」

 絵に描いたような不倫は、きっかけも結末も、

――他の人と、自分とでは比べものにならないほど、違っているんだ――

 と思っていたが、実際には、同じものだった。

 他の人とは違うということだけが、不倫の結末を悲惨にしないことだと思っていたのに、結局は皆同じだったと思った時、相手に対しての執着も、会社に対しての執着も一気に消えてしまった。

――緊張の糸がプツンと切れると、こんなものなのね――

 残ったのは、「孤独」という二文字だけだった。

 ここまでくれば、

――いかに虚勢を張ったとしても、言い訳にしかならないことは分かっている。言い訳をするくらいなら、何も言わなければいいんだ――

 と思うことで、なつみは孤独を甘んじて受け入れ、人と話をすることはなくなった。

 そんな状態なら、会社にいても、誰も相手をしてくれない。自分だけが責任を被ってしまったかのように思ったことで、会社を辞める決心がついた。

――まるで逃げるようだけど、もうここには私の居場所はないんだ――

 と思うことで、少しでも逃げの気持ちを拭い去ろうとしたが、無理なことだった。

――もう私は人を好きになっちゃいけないんだ――

 と思うようになり、その思いの間隙をぬうかのように、ママさんからのお誘いがあったのだ。

 スナックで働いていれば、人を好きになることはないだろう。相手は酔っ払い、口説いてきたりすれば、しょせんはナスやキュウリのような野菜だと思って、適当にいなしておけばいいことだった。なつみは、どちらかというと惚れっぽい方ではあるが、孤独に慣れた自分には、もう誰かを好きになるということはないと思っていた。

――不倫相手の上司には、私が騙されただけだ――

 最初から、相手が騙すつもりだと思って対応していれば、不倫なんてすることはなかったのだと思うようになった。

 もっとも、その気持ちは、騙されたり裏切られたりしなければ分かるものではない。今のなつみになら、相手を野菜だと思えるような気がした。

 最近になって、なつみは一人の男性が気になり始めた。彼はまだ新入社員で、学生気分の抜けていない人だった。

 最初は上司に連れてこられて来ただけだったが、最近では一人でフラッと現れるようになっていた。それと入れ替わりに上司の方は来なくなった。理由を聞いてみると、

「あの人は転勤になりました」

 ということだった。

 サラリーマンに転勤が付きものだということを今さらながらに思い出したなつみだったが、今の自分は会社員ではない。まったくの他人事として話を聞いていた。

 彼は、光彦と呼ばれていた。苗字を聞いたのはだいぶ後からになってのことで、本人から、

「高橋光彦です」

 と改めて自己紹介されて、初めて知ったのだ。

 彼の上司は、

――兄貴気質――

 なところがあり、部下を下の名前で呼んでいるようだった。光彦以外にも部下を連れてきたことがあったが、その部下にも下の名前で呼んでいた。

 なつみは、どちらかというと、光彦よりも、もう一人の部下の方が最初は気になっていた。しかし、光彦が急に一人で現れたことで、なつみの彼に対しての見る目が変わったのである。

「僕は、なつみさんがいるから、この店にもう一度来たいと思ったんですよ」

 ママさんが奥に入りこみ、他に誰も客もいない間を縫うように、光彦はなつみに小声でそう言った。

 いつもであれば、適当に受け流すなつみだったが、その時は、何も声に出すことはできなかった。最初は、

――こんな坊ちゃん、私の眼中にない――

 というくらいに見ていたのだが、いくら上司が転勤でいなくなったとは言え、いきなり一人で現れるなど想像もしていなかった。

 そんな光彦が、社交辞令に近いお世辞を言うとはビックリであった。だが、彼の表情を見ていると、まんざらでもなく、お世辞ではないように思えた。それでも、

――坊ちゃんが虚勢を張っているのかも知れないわ――

 と、いつでもであれば、

「大人をからかうもんじゃありません」

 と言って、お姉さんが弟をいなすような態度を取ったのだろうが、その日は何も言えなかった。

 嬉しいという気持ちをハッキリと感じていた。

「お世辞であっても嬉しいわ」

 と、言ってあげればよかったのだろうか。

 しかし、そんな言葉を口にするのが失礼なほど、光彦の表情は真剣だった。一言も言えなければ、それ以降の言葉が続くわけもない。少しだけ、緊張した雰囲気がその場に充満していた。

「なつみさんは、僕のことをお坊ちゃまと思っているでしょう?」

 図星を突かれて、どう返事していいのか迷っていると、

「いいんですよ。私もずっとお坊ちゃまのつもりでいたんですからね。でも、僕は裕福な家で育ちましたが、裕福な家の子として生まれたわけではないんです」

「ということは、養子になられたということですか?」

「ええ、自分の両親を僕は知りません。物心ついた時には、今の義父と義母が、お父さん、お母さんでした。本当の父母ではないことを知ったのは、高校の頃です。その時ちょうど、祖母が亡くなったのですが、それを機会ということで、義父が話してくれました。もちろん、祖母もそのことは知っていたようですが、一番祖母になついていた私が、その話を聞くことで、祖母に対してもよそよそしくなるのを恐れたんでしょうね。祖母は結構長生きしたようですが、元々身体の弱い方だったので、いつ亡くなってもおかしくないということでした。それで、祖母の墓場には僕がよそよそしくなったイメージを持っていかせたくなかったんでしょうね。まったく僕が養子だなんて態度は、まったく見せませんでしたよ」

「お義父さん、お義母さんともに、優しかったんですね。羨ましいわ」

 なつみはそう言うと、遠くを見つめるような目で光彦を見つめた。その瞳の奥に写っているものが光彦には見えただろうか? なつみは何かを考えていたわけではない。羨ましいと言いながらも、光彦の何が羨ましいのか、特定できないでいた。

「優しい人たちですよ。本当の子供のように育ててくれて、子供の頃に言うことを聞かなかった僕に対し、怒っているんだけど、優しさがあるんですよ。実の親子でも、子供がいうことを聞かなかった時に説教している父親を見ていると、こっちが情けなくなるほど、まるで自分のストレスを発散させるためだけに怒っているのではないかと思えるほどなんです」

 光彦にとっての親と、なつみにとっての親とでは、考え方が天と地ほどの差があるような気がする。元々他の人と比較するようなものではないと思うのだが、特に光彦の場合は義理の仲である。それを思うと、どうしても比較しなくては気が済まないというほどになっていた。

「子供の頃の思い出が結構大きな記憶として残っているんですね?」

「そうですね。何と言っても、本当の両親だと思っていましたからね。二人とも、僕に対しては衝突するところはなかったですね。僕に対しての思いは二人とも同じだったようで、子供のことで喧嘩をする他の家庭が信じられませんでした」

 子供のことで親が喧嘩するというのは、当たり前のことのように考えていた。それが、本当の親としての愛情だからである。しかし、こうやって光彦を立派に育てた親がいて、それが本当の親ではないと聞けば、想像するのは、どうしても優しい義理の親である。

 もし、義理の親が喧嘩ばかりしていたら、どうであろう?

 きっと光彦は途中で家を出ていたかも知れない。本当の両親も知らずに、育ての親が喧嘩ばかり、そんな人生はなつみには想像できない。そんな登場人物を描くドラマがあったとしても、生い立ちをドラマの中で映すことはないだろう。

 なつみは、光彦を見ていて、

――これ以上、光彦の家庭のことを想像するのはやめておこう――

 と思うのだった。

 その気持ちが伝わったのか、光彦は話題を変えた。だが、実際には結局話題というのは元の位置に戻ってくるのであった……・

「なつみさんは、願いが叶う神社というのをご存じですか?」

 なつみはハッとした。それまで光彦に同情的な感情を持っていたが、それどころではなくなった。一気に警戒心から防御癖を張り、自分としては、心の中に侵入されないように、「心の中の結界」を作ったつもりでいた。

「いえ、聞いたことはなかったですが……」

 なつみとしては、精一杯知らんぷりをしたつもりだったが、相手に通じているだろうか?

 今までのなつみは、結構考えていることを顔に出したり、態度に出したりしていた。それを、

――正直者だから仕方がない――

 という風に悪いことだというよりも、いいことのように思い、自分を正当化していたのだ。

 中学の頃まではそれでよかったのだが、高校生になってくると、そうも行かなくなった。

「正直者がバカを見る」

 という言葉があるように、正直に何でも答えていると、思わぬしっぺ返しを食らったり、悪くもないのに、悪者にされてしまったりしていた。

――何て理不尽なのかしら?

 と感じ、それでも自分の正当性を信じていたが、そんななつみをターゲットにして、悪賢く立ち回る人を身近に感じた。

 それまで親友だとばかり思っていた人間が、いつの間にか、なつみを利用するようになった。その人を信じて、自分の中の正当性を信じることが一番だと思っていた気持ちが、次第に崩れていくのを感じた。

 それでも、長いものには巻かれるもので、いつの間にか、自分がバカを見ないように立ち回れるようになっていた。

「なつみもバカじゃなかったのね」

 とでもまわりは言いたげなのだろうと思っていたが、意外にもそんななつみにまわりは一目置くようになり、ターゲットは別に移っていた。そういう意味では長いものに巻かれたのはタイミング的にバッチリだったのだろう。おかげで、自分で意識することもなくまわりに馴染めるようになったのはありがたかった。ただ、それでも正直者という意識はなつみの中から消えたわけではなかった。

 光彦がいう、

「願いが叶う神社」

 というのは、なつみが意識している神社に違いない。しかも、最近その話をよく耳にする。まるで都市伝説のような話を、短期間に二人から聞くというのは、本当にただの偶然だとして片づけていいものなのだろうか?

 なつみは、知らんぷりをしながら、まるで初めて聞いたかのように、いかにも興味を持ったという素振りを見せていた。

「そんな神社があれば、本当にいいですわね」

 興味を持っているかのように見せても、自分も意識していることであるだけに、どうしても言い方が他人事のようになってしまうことを、なつみはあまりいい気分を持っていなかった。

「でも、その神社、僕が効いたところでは、そんなに手放しで喜べるような場所ではないということなんですよ」

 なつみはその話を聞いて、思わず頭を傾げてしまった。その様子を見て、光彦はどう感じただろう?

 光彦は続ける。

「この話を聞いたのは、義父からだったんだけど、僕を養子にしたのは、お義母さんが子供のできない身体だったからだということは、祖母から教えられていたんだとね。でも、祖母も知らなかったことだけど、お義父さんとお義母さんの二人が密かに神社でお百度を踏み、子供が授かるようにお参りをしていたというんだ。それが、願いの叶う神社ということだったんだけど、どうしても医学的に無理な出産は、さすがに神頼みで何とかなるものではなかった。でも、最終的に出産を諦めたお義父さんとお義母さんの気持ちが通じたのか、この僕を養子にできたという話だったんだ」

「そうだったんですね」

「はい、その神社のすごいところは絶対に不可能な願い事であっても、違った形で叶うことができるところではないかと思うんですよね」

 確かにその通りだ。

 なつみは、その神社を捜し求めていたが、いまだに見つけることができない。

 そういえば、藤原さんも、

「三社参りをした時、三つすべて含めたところで願いが叶う神社というのではないか」

 という話をしていたのを思い出した。

 二番目が重要だと言いながらも、最初の一つで止めておくかどうかも重要だ。それは二番目があるかないかに関わっているということでもあった。

「そういえば、前に知り合った人が、願いが叶う神社の秘密は何件の神社を回るかということで、さらに重要なのは二番目の神社だという話をされていました。三社参りの発想なのですが、二番目が重要と言いながらも、三社すべてを含めて、『願いが叶う神社だ』ということを訴えていましたね」

 この話を聞いて、光彦はどう感じるだろう?

 最初は黙って聞いていたが、無意識に腕組みをしながら、

「う~ん」

 と唸り、少し考えていたようだ。

 それが、自分の記憶を呼び起こしている行動なのだと、最初から気が付いていたような気がする。

「僕もその話、以前にどこかで聞いた気がするんですよ」

「お義父さんやお義母さんや、お祖母さんから聞いたお話ではなくですか?」

「ええ、それがいつだったのか分からないんですが、つい最近までまったく覚えていなかったことを、今、なつみさんの話を聞いて、一気に思い出されたような気がして仕方がないんです」

「ええ、いつだったのかハッキリしない割には、その話の信憑性を疑わなかったことを思えば、きっと子供の頃だったのかも知れません。子供の頃の僕は、何でも信じるところがありましたからね」

 なつみの性格である、

――正直者――

 というところに、類似した性格なのかも知れないと、なつみは感じた。

 子供の頃はなつみも確かに、何でも信じていたような気がする。その思いが嵩じて、

――正直者というのは、正義なんだわ――

 と感じるようになったのだろう。

「なつみさんのお話は、今聞けば、最初に聞いた時とイメージが違っています。たとえ、前に聞いた時のように信憑性を疑わないとしても、それは違った切り口からではないかと思うんです」

「それはどういうことですか?」

「子供の頃に聞いたのだとすれば、たぶん、まったく疑うことを知らなかった時期だと思うんですが、今は少なくとも、そう簡単にはモノを信じようとしない性格になっていると思うので、少なからずの疑いを持って聞くと思うんですよ。でも、遠回りはするが、結局は信憑性を考えた時、疑う余地のないものになって戻ってくる。そういう意味では子供の頃に感じた信憑性よりも今の方が、ずっと理論的な考えの元の信憑性だということが言えるかも知れませんね」

「私も、最初はこの話を聞いた時、信憑性を考えましたが、どうしても理解できないところがあったので、残念ながら私には信憑性がありません」

「僕はこの話を誰から聞いたのかというところが問題なのではないかと思うんですよ。昔教えてくれた人は確かどこかのおじさんだったような気がするんですが、今思い出してみると、そのおじさんの話を聞くのをいつも楽しみにしていたような気がするんです」

「私にこの話をしてくれたのも、おじさんでしたが、その人とはほとんど面識のない人で、いきなりそんな話をし始めたので、話し半分聞いていたので、あなたほど信憑性があるようには思えなかったのかも知れませんね」

「ただ、僕も子供の頃にその話をしてくれたおじさんは、話をする時はいつもいきなりだったんです。どこからそんな話題が出てきたのだろうと思い、降って湧いたような話は子供心に楽しいものだったのかも知れない」

 きっと光彦が考えている信憑性と、なつみの考える信憑性という言葉では、意味的なもので、すれ違っているように思う。一言で信憑性と言っても、いろいろ考える発想があるのかも知れない。

 なつみと光彦は、たまに店の外で会うようになっていた。光彦が誘ったからだが、なつみもまんざらではなかった。

 最初、まだ新入社員で、自分よりもだいぶ年下というだけでも自分と住む世界が違うように感じていたのに、さらにお坊ちゃまの雰囲気を感じさせる光彦に興味を持つなどありえないと思っていた。

 しかし、「願いが叶う神社」の話をした頃から、なつみは一目置くようになっていた。さらに彼の中での「信憑性」という言葉が、どこかなつみの気持ちの中で共鳴したのようだ。

――感性の問題かしら?

 考え方や、意見の違う人であっても、感性が引き合うことはあるのだと思っているなつみには、光彦がそんな相手であることを認識し始めた。そして、もう一つ気になったのは、光彦の言っていた「おじさん」というのが、自分の中の藤原という人物とかぶってしまったことだった。

 それは、その二人が同一人物であるかないかというのは問題ではない。光彦となつみが見ている方向が問題なのだ。お互いに同じ方向を見ているのであれば、そこにさらに何か共鳴するものが燻っているような気がしたからだ。

 なつみは、あれから光彦と会って話をするのを、デートだと思うようになった。その頃はまだ光彦の本心を教えられていなかったから、必要以上の意識がなかった。何度目かのデートを重ねてくると、さすがになつみも、

――そろそろでは?

 と思っていると、案の定光彦の方から、

「僕はなつみさんのことを好きになりました。もしよかったら、僕とお付き合いしてもらえませんか?」

 ベタな告白だったが、下手に捻った言葉よりも、気持ちをストレートにぶつけられた方が、心に響くというものだ。光彦の気持ちを甘んじて受け止めようと思ってみると、光彦の様子が少し変な気がしてきた。

――まるで心の奥を見抜かれているような気がする――

 恋愛感情を意識するまでは感じなかったが、急にそう思うようになったのは、なつみ自身も、光彦のことを最初から意識していた証拠なのかも知れない。

 ただ、なつみには以前の不倫の経験から、

――もう、普通の恋愛は私にはできないかも知れない――

 と思っていた。

 一度、不倫という「パンドラの匣」を開けてしまったことで、引き返すことのできない結界を超えてしまったという意識が強かった。

 しかも、不倫をしている時は罪悪感だけだったが、終わってしまうと、罪悪感というものが背徳感だけではないことに初めて気づかされた。

 罪悪感と背徳感、同じもののように思えるが、背徳感だけでは、罪悪感のすべてを満たしていることにはならない。罪悪感には、背徳感とは別の何かが備わってこそ、罪悪感だと言えるのではないだろうか。

 罪悪感に対するイメージは、あまりいいものではない。しかし、それ以上に背徳感というものは、悪いイメージしか湧いてこない。

 ということは、

――罪悪感の中にある「悪いイメージ」すべてを、背徳感が請け負っているのではないか?

 という考え方も成り立つのではないか?

 逆に言えば、

――罪悪感の中にある背徳感以外のものは、決して悪いものではない――

 ということになるだろう。

 確かに、罪悪感を抱いている人が、すべて悪いイメージというわけではない。罪悪感を抱くことで、悪い道に入ることなく、悪い道への防波堤の役割を示していることもある。そう考えると、不倫というのは罪悪感を持っていたというよりも、

――背徳感が前面に出た罪悪感が燻っていた――

 と言えるのではないだろうか。

 今までのなつみは、罪悪感と背徳感を一緒に考えていたことで、不倫を乗り越えての恋愛への一歩が、なかなか踏み出せないでいた。しかし、最近は徐々にその違いが分かるようになってきた気がしている。

「時間が解決してくれる」

 と言っていた人がいたが、確かにその通りだ。立ち直ろうと必死にあがいたとしても、時間が経てば、あがこうがあがくまいが、結果は一緒で、しかも、同じ時期に降り立つのではないだろうか。それを思うと、

――時間というものに対しての心の余裕をいかにして持つか――

 ということが重要になってくるような気がする。

 年を重ねるごとに、時間というものへの感覚がマヒして行っているような気がしているが、実際には、余裕というものが育まれているのではないかと思うと、到達点が同じであっても、何も不思議に感じることはない。不倫の痛手がいつの間にか消えていくことを、

――時間の魔力――

 と考えるのは大げさな気もするが、時間というものを感じることなく無為に過ごしていくことを思えば、決して大げさではないのだろう。

 なつみは次第に背徳感が薄れていくのを感じた。本当であれば、戒めとしての背徳感が残っているべきなのだろうが、前に進むという意味では、罪悪感だけが残っていてしかるべきだと思っていた。

 光彦の告白をすぐには受け入れられない自分がいた。光彦にはそれが、

――慎重に先のことを考えている――

 と思われていれば、それでいいと思っていた。まさか、光彦がなつみの中に、以前不倫をしたことがあるなど、想像もしていないと思っていたからだが、男性の中には、

――それでもいい――

 と思っている人もいるに違いない。

 中には、相手が不倫をしたことがあるという事実を盾に、自分の優位性を確かなものにすることで、女性との付き合いを成立させようと思っている人もいるかも知れない。

 それは女性にとっては、好きになるに値しない相手であり、女性の弱みに付け込んだ卑怯な付き合い方である。

 最初からぎこちないのは当たり前のこと、主従関係は今の世の中では考えられないような封建的な考え方を生むに違いない。

 この場合の主従関係は、アブノーマルな性癖である、SM関係とは異なるもので、主は絶対的な強みを持っているのだが、それは相手の弱みという、

――なくなってしまえば何の効果もないーー

 と思われる諸刃の剣のようである。

 なつみは主従関係というものを、不倫で経験していた。ただ、それはプレイの上でのアブノーマルな関係であり、目に見えない力が影響していた。

 それが、信頼関係であり、決して相手の弱みを握ることで、優位性を保つものではなかった。

 光彦には、そんな優位性は見当たらない。あくまでも純粋になつみに告白していた。あまりにもベタな告白が彼の不器用さを物語っていて、

――あんなにベタで不器用な男性に悪い人はいない――

 という思いを、なつみも持っていた。

 それでも、

――私が過去に不倫していたことがバレてしまう――

 と思った。

 もし、これが少しでも打算的なところがある男性ならここまでは思わなかっただろうが、不器用で純粋な男性だからこそ、なつみは悩んでいた。

 実に皮肉なことである。

――本当は、もっと私のことを知ってほしいと思うはずなのに――

 実際にそう思っているからこそ、どこでボロが出るか分からない。そんなビクビクした関係を、本当にお付き合いと言えるのだろうか。

 本心とは違う思いを頭の中に抱きながら、なつみはジレンマに陥っていた。それまでにもジレンマには幾度も陥っていたが、好きな人を目の前にしてのジレンマは初めてだった。本来なら悩むほどのことでもないのかも知れないが、それだけ不倫の痛手はなつみを臆病にしたのだった。

 なつみは、光彦の話を思い出していた。

 彼もそれなりに苦労したに違いない。両親を知らずに、他人から育てられている。しかし、その他人というのは、光彦にとっては、本当の両親よりも深い愛情を感じている相手だということだった。

――本当の両親から捨てられたり、殺されたりする時代なのに――

 毎日のようにニュースでは、子供を殺した親が逮捕されたなどの話題や、あるいは、高温の車の中に、自分の子供を置き去りにしてしまったなどという、過失で済まされない重大な罪を犯している話を聞く。それを思うと、ある意味、光彦は幸せなのかも知れない。

 いや、下を見ればキリがない。不幸な人はとことん不幸と言えるのではないだろうか。そう思うと、なつみはやりきれない思いに陥ってしまう。もう少しで鬱状態に入りこんでしまいそうな予感を何とか乗り越えて、

――冷静にならなければ――

 という思いが、乗り越える際に必要な感情だった。

 なつみは、不倫相手の村山のことを思い出していた。今さら思い出すことと言っても、楽しかったことはほとんどない。最後に修羅場にならなかっただけマシだったのかも知れないという思いを抱いたことを思い出していた。それも自分に対しての言い訳に過ぎないことだ。

――あの人も苦しんだのかしら?

 村山は奥さんのところに戻ればいいが、自分は一人孤独に耐えなければならない。

 そう思った時、不倫の理不尽さを思い知った気がしていた。

 だが、それはなつみが自分のことしか考えていない証拠でもあった。確かに村山も奥さんのところに戻ればいいと言っても、そこには修羅場が待ち構えていることだろう。そのことは分かっていたはずなのに、どうしても自分のことを最優先に考えることで村山のことを考える余裕などなかった。そのことに気付かなかっただけでも、なつみは、

――自分だけが不幸のどん底にいるのだ――

 と考えていたことだろう。

――不幸なんて言葉、軽々しく口にするものではないのかも知れない――

 そんな風に思い始めたのもその頃からだった。

 不倫の代償として、必要以上のことを考えないようになったのは、感覚がマヒしたからだと思っていたが、その代わり、いろいろな縛りが自分に襲い掛かっていることをなつみは感じていた。軽々しく口にするものではないという思いも、その中の一つであり、重要な発想でもあったのだ。

 なつみとの交際を真剣に考えている光彦も、過去に言葉では言い表せないような苦労を重ねてきたに違いない。生い立ちを聞いていただけでは、これまでの人生をいくら要約して、会っている間の何回か聞かされたとしても、たったそれだけの時間で言い表せるものではない。

 しかも、気持ちを表現するには、あまりにも波乱万丈の人生だったように思えるからである。

 波乱万丈などという言葉、自分のまわりの人にふさわしい人はいないと思っていた。ななぜなら、不倫をしていた自分ですら、波乱万丈な人生だとは思っていないからだ。それは感覚をマヒさせることで自分の気持ちに整理を付けたと思っているなつみには、今さら波乱万丈という言葉を使えば、せっかくマヒさせた感覚が元に戻ってしまい、今までの時間と労力が、完全に無駄になってしまうからだった。

 かといって、

――波乱万丈という言葉を使える人は、自分が考えているよりも、もっとたくさんいるかも知れない――

 と思っていた。

 そういえば、光彦の生い立ちで興味深い話をしていたのを思い出した。

「僕の義理の両親は、子供ができない自分たちを呪うようなことをせずに、絶えず神様にお参りしていたんだ。お役度を踏んだりもしていたんだけど、なかなかご利益に預かることはできなかった。それでも懲りずに続けていると、神様のご加護はあるもので、この僕を養子にできる機会に恵まれたんだ。律儀な両親は、お礼参りをしようと思ってその神社を再度訪れたが、そこで神主から、『この神社ではお礼参りをしてはいけないという言い伝えがあるんじゃ』と言われたそうで、お礼参りをするならということで教えてもらった神社にお礼参りをしたらしいんだけど、その神社にしか参ることをしなかった。そのせいでなのかは分からないが、少なくとも両親がそう思っている。それは、すぐその後に、医者から、子供が産めない身体だという宣告を受けたのだというんだ。お礼参りがとんだことになってしまった」

 一度、息を切り直して、彼は続ける。

「でも、そのおかげで、僕は両親の本当の子供以上に愛情を受けて育った。確かに血の繋がりほど濃いものはないのかも知れないけど、そのせいで、少なくとも血なまぐさい感情が湧いてこないだけよかったのかも知れない」

 彼はそういうと、

「世の中、ポジティブに考えればいくらでもいい方に向かっていくし、逆にネガティブになれば、どん底で這いつくばっていくことになるというものなんだ」

 と、悟ったように、まるで自分に言い聞かせるかのような言い方をしていた。

 そんな光彦を見ていると、彼のここまでの人生を知らなくても、感じることができるような気がした。

――今までまったく知らなかった相手のはずなのに、ずっと前から知っていて、しかも、彼のことが気になってずっと見てきた――

 という思いに駆られるのだった。

「初めて会ったような気がしないわ」

 と、思わず口から出てきたのを光彦は聞き逃さなかったのか、にやりとしたのを思い出した。

 なつみとしても、自分の意識の元に出てきた言葉ではないので、ハッキリとした気持ちの根拠は分かっていない。それなのに、彼は分かったように微笑んでいるのを見ると、少し面白くない気持ちになったのも事実だった。

――こちらの気持ちはお見通しというわけね―― 

 少し癪に障ったが、それでも、嫌な気はしなかった。それだけしっかり見つめてくれているということであり、嬉しくもあった。

 なつみは、光彦といて安心感のようなものを感じた。包容力のようなものを感じたが、年下に感じるものではないことを不思議に感じていた。

――これが、藤原さんに感じたのであれば、分からなくもないが――

 と思っていたが、そういえば、藤原には父親と同じくらいの年齢であるにも関わらず、包容力を感じることはなかった。

 しかし、藤原に対して好意を持っていないわけではない。むしろ慕っているのだ。それなのに、どこか冷たいところを感じるのは、彼が冷静沈着で、理屈っぽいところがあるからだろうか。その分というべきか、年下にも関わらず、光彦に対しては、藤原のような年上に感じるべきところを、すべて光彦に感じた。

――光彦さんをただの年下の男の子として見ない方がいいのかしら?

 と感じたが、そう思うと今度は、どこか物足りなさを感じるのだった。

 やはり、最初に感じたことを信じて、年下として見ているに越したことはないように思えたが、藤原に対しての感情は、それだけではいけないようにも思えた。

 まったく関係のないと思っている藤原と光彦、少なくとも共通点があるとすれば、なつみ自身を通して見ることが唯一の共通点である。したがって、共通点を主観的に見ることはできない。それがなつみにとって、今後の判断を誤らせることになるかも知れないと思うと、不安なことが山積しているように思えた。

 年齢も外見も考え方もまったく違っている二人の共通点を、気が付けば探そうとしているなつみだったが、気が付いた時最初に感じるのは、

――何を無駄なことをしているんだろう?

 見つかるわけはないという思いよりも、比較すること自体、二人に対して失礼だという思いがあるからだ。

――もし、自分が一人の男性から、他の女性と天秤に架けられているのを知ったら、どんな思いをすることになるのだろう?

 と考えてしまう。

 なつみは、最初、

――藤原さんには、何もかも見抜かれているようだ――

 と思っていたが、次第にその思いが薄れていった。

 その代わり、光彦が目の前に現れてから、今度は光彦に対して、何でも見透かされているような気がしてきたのだ。

 藤原に対しては、最初は強い思いだったにもかかわらず、次第に尻すぼみになっていったのに対して、光彦の場合は、最初はそれほどでもなかった思いが、次第に膨れ上がってきて、しかも、そのことに気付いてからも、勢いが衰えることはなかった。

――一体、この人は私をどの角度から見ているのだろう?

 見つめられている感覚はあるのに、その方向を見ると、そこには彼はいない。

――恐ろしいスピードで移動しているのかしら?

 とも思ったが、どっしりとしたその様子からは、動きは感じられない。彼には、素早さというよりも、

――動かざること山のごとし――

 と言った方が正解であった。

――いつから、そんな思いを抱くようになったのだろう?

 年下というだけで、どうしても上から目線になることを気にしていたなつみだったのに、どうしたことだろう。それは同い年であっても同じことだった。同い年なら、男性より女性の方がしっかりしている。なつみは、付き合う相手として、

――年上ならいくつでも構わない。年下であれば、三つか四つ下まで、しかし、同年代は考えられない――

 と思っていた。

 年上もいくつでも構わないという思いは最初から抱いていたわけではない。ひょっとすると、不倫をした時に感じたことだったのかも知れない。

 不倫に対して罪悪感を持っているが、背徳感がなかったのは、この思いからだったのかも知れない。分かっていても、背徳感と罪悪感の二つの立ち位置を分かっていなければ、自分を納得させることはできなかったであろう。

――藤原さんと、光彦さん。似ても似つかないように思っていたけど、本当にそうなのかしら?

 なつみは小さな綻びを感じていたが、その綻びがまるで細胞分裂のように、どんどん広がっていき、いつの間にか、全体を捉えることができないほど大きくなってくるのを想像していた。

 今ではなつみを通してしか見ることができないのだが、それもなつみ自身にしか見えないことだ。

 藤原を知っている人は、光彦を知らず、光彦を知っている人は、藤原を知らないはずだろう。

――でも、本人どうしは?

 と考えてみると、それに対しての答えは、当事者二人にしか分からないことだはないだろうか。

 なつみは、鳥居をくぐった時に見た、境内で手を合わせてお参りをしている女性の姿。それが自分であると直感した。しかし、お参りしている姿を見ていると、それがいつの自分のことなのか、なかなか思い出せなかった。確かに過去にお参りした時、

――誰かに見られているような気がする――

 という思いを持った記憶があった。

 ただ、それも一度キリではなく、何度かあった。しかも、ほぼ同じ時期にである。時期が同じだったこともあって、

――やっぱり気のせいなんだわ――

 と思った。

 それは、自分の精神状態が後ろを意識してしまうような、そんな不安定な時期だったのだということで片づけようとしていたからだ。

 確かに、不倫を重ねていた時期のなつみは、精神的に不安定だった。その影響が実は今もまだ燻っているように思っていた。

――時々、前兆もないのに、急に不安に襲われることがある――

 と感じていた。

――私は、このまま結婚できないんじゃないか?

 結婚適齢期という言葉が死後になっているのではないかと思うほど、結婚年齢が上がってきている今であっても、結婚に対しての執着は人並み以上にあるのではないかと感じているなつみだった。

 一度でも不倫に染まってしまうと、同年代の男の子が頼りなく感じられる。

――幼く見える――

 と言ってもいいくらいで、自分の中で燻っている背徳感だけではなく、まわりの男性の頼りなさを思えば、結婚できないことを正当化しようと思うほどのなつみだった。

 結婚に何の必要があるというのだろう。

 一生の伴侶というが、家庭という狭い範囲に閉じ込められ、旦那と子供に縛られる。表に出ようとすると、独身時代からは想像もできないほどの労力を必要とする。それだけのものを犠牲にして得られるものは一体何だというのだろう?

 一度入りこんでしまっては、そう簡単に抜けられない。戸籍が汚れるということは今の時代ではさほど気になることではないが、子供ができてしまえばそうも行かなくなってくる。生まれてくる子供には何ら責任はないのだ。

 そう思うと、結婚というものに対して、持っていた憧れはすでになく、色褪せたイメージしか残っていない。

 なつみは、神社でお参りをしていた自分が、不倫の精算を考え、神様にすがろうとしていた時のことを思い出していた。

 確かにあの時のなつみは、これ以上ないというほど、弱気になっていた。それまでずっと張ってきた気が、一気に萎えてきたからである。不倫というものはそれだけ気を張っていないと務まらないものだった。

――えっ?

 そこまで考えてくると、自分が今考えている結婚と対して変わらないではないか。不倫をしている時も、今思えば、不必要だったのではないかと思うほどに気を張っていたではないか。

 同じような感情ではないかと思ってみることを予想できたことが、あの頃の自分を思い出させ、神社でお参りしている自分を浮き上がらせたのかも知れない。なつみは、不倫をしていた時期から今までの時間を、かなり長い時間だったように思っていたが、その距離を一気に埋めるかのように、目の前にその頃の自分を浮かび上がらせたのだとすれば、そこには何らかの意味があったように思えてならなかった。

 だが、よく見てみると、何度も頭を下げているようだった。

――私は、あんなに頭を下げたかしら?

 その時初めて、それが自分であると分かってから、自分ではしないような行動を取っていることに違和感を感じた。今思い返して、不倫の精算をお願いに来た時にお参りをした自分も、あんなに頭を下げていたわけではなかった。

――おや?

 あれだけ頭を下げていた自分が、こちらを振り向いて、こちらに気付かない様子で、境内の裏に帰っていく姿を見ると、その表情に、わずかではあったが、微笑んでいる姿を見ることができた。自分がお参りに来た時は、お参りをしただけで、何かの結論が出たわけではない。したがってまだまだ緊張の面持ちだったはずなのに、一瞬でも見せたあの余裕とも思える笑みは何だったのだろう?

――自分なのに、自分ではない――

 そんなイメージを見ることができた。

 そういえばなつみは光彦から、お礼参りに行くことを勧められた。

「お礼参りというのは必要なものなんだよ。最初にお参りしたことを、確定させるためには絶対に必要なことで、本当はお参りをしたことのほとんどは叶うんだけど、その継続が難しいために、お参りなんて迷信にしかすぎないんだって、叶わなかったと思っている人が言っているだけなんだ。その意見が主流になっているから、神頼みという言葉は、叶わないことでも最後は神様に祈るしかないというような思いを抱いてしまうんだよ」

 確かに彼の言う通りだった。

 だが、藤原にそんな話をすると、

「そんなことをすると、二社になってしまう。三社参りというのは、それぞれに単独のお参りでなければいけないんだ」

 と言っていた。その上で、

「二番目が必要だと言ったのは、そういうことなんだよ。二番目にお礼参りなどを入れてしまうと、叶う願いも叶わなくなってしまう。もちろん、それは最初の神社が、『願いが叶う神社』である場合のことだけどね」

 なつみは、最初に神頼みをしたおかげなのか、不倫を苦しみながらでも何とか終わらせることができた。もし、光彦のいうことが本当であれば、お礼参りをしていれば、苦しまなくても済んだのかも知れない。

 なつみは、光彦と出会って結婚に対しての思いが変わってきたのを感じた。

 それまでは、

「結婚なんて、百害あって一利なし」

 とまで思っていたほどだったが、自分が寂しさという肝心なことを忘れているのに気が付かなかっただけだ。藤原と出会って、寂しさを思い出すことができた。それをなつみは恋愛感情だと思っていたが、どうやら間違いだった。親に対する感情に近かったのだ。

 今では藤原の感情を、父親の感情だと思うことができる。


 神頼みが藤原と円満に別れられたおかげではなかったか。

 光彦とは円満なお付き合いが続いている。

「お礼参りには行ったかい?」

 光彦に言われて、

「ええ、行ったわよ」

 となつみは答えた。

 実際には行っていなかった。だが、なつみはウソをついているわけではない。

 それは、鳥居を通り超えて目の前に見えたお参りをしている自分。それは、光彦との結婚を願い、それが成就したことでお礼参りをしている自分の姿だったからだ……。


                 (  完  )

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セカンダリー・プレイス 森本 晃次 @kakku

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