最後の一撃

かくりよ

最後の一撃

 外へ出ると、コサック兵達の陽気な大声が聞こえた。

 もう午後の十時になるというのに、英気を養うべき兵士達はまだウォッカを呷っているらしい。彼らは息を白くする程冷たい空気と厚く積もった雪の上で、輪になって歌って踊って騒いでいる。

 自分がロシア人なら、まだその輪に入って一緒に楽しむ余裕があったかも知れない。だが、そんな想像をしている彼はプロイセン人だった。戦役の結果もまだ決したとは言えない状況下なのに、軍の宿舎の前でどんちゃん騒ぎをする気持ちにはなれない。楽しそうにロシア語で騒ぐ大声は、耳に逆らうばかりで酷く不快だ。

 彼は酔っぱらい達から目を逸らしながら、その輪のすぐ後ろを通って、目的地を目指すことにした。

 彼とロシア帝国軍が駐留しているコルティニャーニの宿舎、その脇に小さな厩がある。空になっていた倉庫を厩にして利用しているのだ。

 彼はその厩の前に明かりを見つけた。男が焚き火をしながら座っている。

 男の髪が火に照らされて鳶色に輝いているのを認めると、彼は男に呼びかけた。

「クラウゼヴィッツ」

しかし彼の呼び声は、夜空と雪原に虚しく響くばかりで、男には届かない。少し遠かったのだろう。白い溜息を吐いた。彼は雪を踏み分けて男に近付く。

 男は厚手の外套に埋もれるようにくるまって、ぼそぼそと何かを呟いているようだった。口元が小さく曇るのも気にせず、手元でペンを動かしているのが見える。彼は男が筆まめな人間だったのを思い出す。

 男の側まで行くと、男が手を止めた。ぼそりと呟く。

「本当の国家の有り様を知っている者は……」

男の呟きは彼にはコートに遮られて途切れ途切れに聞こえる。

「形骸的な政治指導者達を裁断する権利を持っている……」

男はそう言うと、締めにまた深く溜息をついた。

 そこでやっと男は、傍らに立っていた彼の存在に気付いたらしい。男が自分を空色の大きな瞳に映すのを見て、彼は改めて男の名前を呼んだ。

「カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ」

クラウゼヴィッツと呼ばれた男は、立っていた彼が自分の友人と知って、安心したように名前を呼び返す。

「カール・フリードリヒ・ツー・ドウナ=シュロービッテン」

呼び捨てにされた彼はクラウゼヴィッツの横にどっかと腰を下ろしながら、陽気にクラウゼヴィッツの肩を揺すった。

「ドウナ〝伯爵〟だろ〜?」

そう言って名前を訂正するドウナは、しかしそれを気にしていない様子だ。

 クラウゼヴィッツは先程まで書いていた手紙を畳みながら、ドウナに訊ねる。

「こんな夜分遅くに何のご用でしょうか、ドウナ伯爵?」

いたずらっぽく笑うクラウゼヴィッツに、ドウナは言った。

「ディービッチ将軍が、きみのことをお呼びになっていたのさ。クラウゼヴィッツ」

「将軍閣下が?」

ドウナの説明に、クラウゼヴィッツは少し驚いたようだ。

 ディービッチは、ロシア軍司令官であるヴィトゲンシュタインの軍団の前衛部隊の指揮官を務めている人物だ。彼らもまたヴィトゲンシュタイン軍団に所属している。特に、クラウゼヴィッツはディービッチの参謀だった。

 クラウゼヴィッツは膝を覆っていた外套の裾を払うと、軍人らしくサッと立ち上がる。

 すらっとした体格に綺麗な姿勢が、軍人らしさを際だたせているようにも見えた。ただ、閉めていなかった外套の前からちらりと見える軍服の上着の色だけは――これはドウナも同じなのだが――ロシアの濃緑だ。これだけは似合っているふうには思われなかった。

 クラウゼヴィッツは畳んだ手紙を雑嚢にしまうと、首を傾げながら呟く。

「何かあったかな……?」

彼には思い当たる節がなかったらしい。時間も遅いこともあってか、クラウゼヴィッツの態度は少し面倒そうにも見える。

 彼は近くに積もっていた雪を焚き火に蹴ってかけ始めた。終いに火の跡を踏み固める。

 火が消えるのを見て、ドウナも立ち上がった。

「ヨルク将軍との会談のことじゃないか?」

ドウナの言葉に、クラウゼヴィッツは「……ああ」と低い声を出す。

「……分かった、とにかく行ってみる。お知らせありがとう」

クラウゼヴィッツはそう言うと、知らせに来たドウナを置いて宿舎のほうへ歩き出した。


   *


 「失礼します」の言葉と共に入った、宿舎――というより、民家――の二階にあるその部屋は、酷い違和感を発していた。

 この宿舎にしている一軒家全体に対して言えることだが、人が住んでいないにしては不自然な程に小綺麗で、人が住んでいたにしては不自然な程に生活感がないのだ。

 その理由は容易に推測できる。ナポレオン率いる大陸軍の侵攻とそれによって引き起こされた今回のロシア戦役、それによる戦禍を避けるため、この家の主は家財の一切を持って避難したのだ。

 勿論、そういった家は他にも多く存在する。そんな、家主を失いもぬけの殻となった民家は、軍の宿舎として利用されていた。

 以上の理由でこの家の現在の主となっている将軍は、部屋の中央に配置された簡素なテーブルの横に置かれた、これまた簡素な――しかししっかりとした背もたれの付いた椅子に腰掛けていた。

 「ディービッチ将軍閣下」

クラウゼヴィッツは踵を鳴らし、敬礼する。

「クラウゼヴィッツ中佐、入室します」

椅子に腰掛けていた将軍――ディービッチは、彼の声を聞くや、振り返って笑顔で迎えた。

「待っていたよ、クラウゼヴィッツ」

ディービッチは嬉しそうにそう言うと、起立し、クラウゼヴィッツに手を差し伸べる。クラウゼヴィッツは彼に促されるがまま、部屋へ足を踏み入れた。

 クラウゼヴィッツは今ほどまでディービッチが座っていた椅子の側に立つと、将軍の着席を待って話を始める。

「先程の会談、お疲れさまでした」

「いや、こちらこそ同席ありがとう」

ディービッチは微笑みながら言った。


 この日――一八一二年十二月二十五日――の午前、プロイセン軍指揮官ヨルク将軍とロシア軍のディービッチ将軍は会談を行っていた。

 かねてより、ヨルクはフランス軍からプロイセン軍を離別させ、ロシア軍と和解する動きを取っていた。ディービッチはロシアに来襲したフランス軍が敗走して弱ったこの機会に、ヨルクにフランス軍を離脱するよう勧めることにしたのだ。

 会談はシェレルのとある空き家にて行われた。

 この家もまた家主とその家族が疎開した後だったらしい。しかし、その家族は他と比べて裕福だったようで、しっかり磨かれた長方形のテーブルと美しい装飾が背もたれに施された椅子が、綺麗に掃除された部屋の中に放置されている。

 最初に口を開いたのは、ディービッチ、そしてクラウゼヴィッツの正面、テーブルを挟んで向かい側に座るプロイセンの将軍であるヨルクだった。髪の白い老将軍が低く言う。

 「――ボナパルトのフランス軍はもう終わりだ」

彼は一言目で、自分の軍団が従属している大陸軍の敗北を認めた。

 ディービッチが息を呑む。ロシア戦役、即ち祖国戦争はロシア側が勝利したのだ。しかし、それを言うヨルク、そしてロシア側に所属するクラウゼヴィッツは動揺も興奮もしていない様子で、ただ相手の挙動を静かに伺っている。

 ヨルクは話を続けた。

「ボナパルト本人はフランス軍本隊を置いて今月五日にはさっさと帰ったようだし、後を託されたはずのミュラもすぐ脱走した」

「彼はフランス軍の元帥であると同時にナポリ王でもありますし、ナポリが恋しくなったのでしょうか」

ディービッチの皮肉に、ヨルクは答えない。ディービッチもそんな期待はしていなかったようだ。彼はプロイセン側からの情報に礼を言うと、「ところで」と本題を切り出す。

「今回我らがヨルク将軍閣下の元へ伺ったのは他でもありません。先程、将軍閣下が仰った通り、既にフランス軍は没落の一途を辿っております。この機会に、我らロシアと和解しませんか?」

 にこやかに話すディービッチの目の前に座るヨルクは、表情を変えることも目を輝かすことすらもしない。黙ってロシアの将軍の話を聴く姿は、むしろ不機嫌なのかと思う程だ。

 しかしディービッチも動じない。

「我らロシア軍人は、ロシア皇帝アレクサンドル陛下より、プロイセン軍に対しては戦争以前のように友好的に接するよう、指示されております。わたし自身も皇帝陛下のプロイセンへの友情を大切になさる意見に賛同しております。将軍閣下とは友好的に接したい――だからこそ、将軍閣下や閣下の隊の退路を妨害するようなことも全くしないとお伝えできます」

 彼の言葉は誠意あるものだった。だが対するヨルクは溜息を一つ漏らして言い捨てる。

「だが、全てが決定されたわけではない」

 ディービッチが小さく「え?」と言うのが聞こえた。

 動揺するディービッチと肩を落とすクラウゼヴィッツを前にして、ヨルクは席を立ち、そのままロシア側に背を向ける。

「ロシア側からのそのような申し出はありがたい。我らが国王陛下が望まれるなら、我々もぜひ応じたいものだ」

全然ありがたくなさそうに彼はそう言って、会談は終わりを告げた。

 結局、その会談でプロイセン軍とロシア軍が和解することはなかったのだ。


 「ヨルク将軍はあくまでもプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム陛下に従う姿勢のようですね」

クラウゼヴィッツはヨルクの言動に呆れた様子で言う。

「国王陛下の意に沿っての和解でないと、納得しないのでしょう」

ディービッチは「むう」と低く唸る。

 「ところでクラウゼヴィッツ。あの席でヨルク将軍が仰っていたこと、覚えているかい?」

言われて、クラウゼヴィッツは一瞬、視線を天井へ向けた。

「ヨルク将軍は交渉相手にプロイセン人将校をご要望でしたね」

彼の瞳が猛禽の――鳶のそれのように鋭く光ったように見えた。

「自分達の事情をよく知る者が入れば、交渉を有利に進められる――そういう考えなのでしょう」

ディービッチはクラウゼヴィッツの意見に首肯する。

 「今のところ、プロイセンは微妙な立場だ。ヨルク将軍のような人物がいながら君のような人間が我が軍にいることが、それを雄弁に語っている」

彼の言葉に、クラウゼヴィッツは苦笑した。

 実際、プロイセンの空気は独特なものだった。自分がボナパルトのフランス側に賛同するか、フランスに敵対する連合国側に味方するかなどを、衝突や罰されることすら気にせず主張することができたのだ。クラウゼヴィッツやドウナのようにフランス打倒を目的にロシア軍に移った将校が大勢出た一因である。

 目線を落として黙り込むクラウゼヴィッツに、ディービッチは言う。

「そこでクラウゼヴィッツ。君がヨルク将軍の元に行って交渉してくれないだろうか?」

その言葉に、クラウゼヴィッツは現実に引き戻された。会談疲れの眠気や物思いの産物すら、衝撃で彼方に吹っ飛んでいく。

 目をぱちくりとさせるクラウゼヴィッツに、ディービッチは畳み掛ける。

「君には既にヨルクとの会談に立ち会ってもらっているし、その分ここまでの課程も一番把握できているはずだ。それに、プロイセン側だけでなく、クトゥーゾフ将軍やヴィトゲンシュタイン将軍からの信頼も厚い――勿論、わたしも君を信頼しているがね。それに――」

ディービッチはきょとんとして弁明を言い逃したクラウゼヴィッツを指す。

「ドウナよりも君のほうが、プロイセンの諸事情を象徴しているとわたしは考えているんだ」

 言われて、クラウゼヴィッツは驚歎した。微笑み、クラウゼヴィッツは敬礼する。

「是非、その任務を本職に果たさせてください」

その言葉を聴いて、ディービッチは満足そうに頬を緩ませた。

 すると緊張が解けたのか、ディービッチは部下の前で腕を天を突くように伸ばしながら、背もたれに寄りかかった。溜息を天井に向かって吐き出しながら、彼はぼやく。

「しかし、よく分からないお方だよ。ヨルク将軍は――」

今にも、このまま寝てしまいそうな姿勢のまま、ディービッチは不満気に眉間に皺を寄せる。

「見事にのらりくらりと、提案をかわされてしまった」

 余程、先程の会談ではぐらかされたのが気に入らないらしい。そんなディービッチに対して、クラウゼヴィッツは冷静な様子で言った。

「そうでしょうか? 本職はディービッチ将軍閣下は上手く交渉を進めておいでだったと思いますが」

ディービッチは「はは……」と苦笑する。

「きみがそう思うのは、わたしのヨルク将軍に寄せる信頼がそう見せたのだろうね」

「信頼ですか」

疑問符を浮かべるクラウゼヴィッツに、ディービッチは断言する。

「信頼だ」

 将軍は背もたれから身体を起こすと、怪訝そうに眉を曇らすクラウゼヴィッツに向かって言った。

「わたしは、今回の和解にはプロイセン側の得る利益が重要だと思っている」

ディービッチは立ち上がると、クラウゼヴィッツに背を向けてテーブルの向こうの端へと歩いていく。ディービッチは毅然とした態度で話を続けた。

「勿論、我々ロシア側としても、多少の利は確保したい。しかし、プロイセン側の得るもののほうがもっと大事だ。そうでなくては和解の意義は全くないからね。わたしは、わたしの力の限り、ヨルク将軍を信じ、この和解のために働くつもりだ」

 クラウゼヴィッツはディービッチの言葉に目を見開いた。彼の瞳が一瞬閃く。クラウゼヴィッツは何か言いたそうに口を小さく開きかけ――将軍がこちらを向いたのを見て、言うのをやめた。

 クラウゼヴィッツに向き直ったディービッチが言う。

「というわけでクラウゼヴィッツ中佐」

言いながら、彼は再びこちらへ歩を進めて来る。

「わたしに彼の人となりを教えて欲しい」

 その言葉は、クラウゼヴィッツには先程の信頼云々の話とは相反するように感じられた。

 椅子に座るディービッチに向かって、彼は訊ねる。

「ヨルク将軍を信頼されるのでは?」

「勿論信頼しているとも。だが、彼を更に信頼するために、ね」

 そう言って、ディービッチはクラウゼヴィッツに歯を見せた。それを見たクラウゼヴィッツは思わず視線を逸らす。ディービッチのその表情は、クラウゼヴィッツにとってあまり良いものに思えなかったのだ。

 クラウゼヴィッツは視線をディービッチへと戻すと、軽く息を吸った。

「本職の私見ですが、ヨルク将軍はとても陰険な方のように思われます」

「陰険? 先程の様子からはそのようには思えなかったが――」

クラウゼヴィッツの言葉に、ディービッチは眉を顰めた。ディービッチは不安げにクラウゼヴィッツに言う。

「わたしには公明正大に事に当たろうとして慎重になるような方に思えたが」

クラウゼヴィッツは首肯する。

「はい。ヨルク将軍は勇敢で公明正大にあろうとする方です。彼はきっと激しい情熱を内に秘めておられるのでしょう」

ですが、とクラウゼヴィッツは続けた。ディービッチは彼の一言に、安心して緩みかかった口元を結び直す。

「やはり陰険なお方であられるので、諦観しているように思わせたがったり、癇癪持ちの気もあるように思います」

 クラウゼヴィッツの説明に、ディービッチの表情は暗くなっていた。身体を横にぐったりと倒し、顔も下に向けていて顔が見えない。頭でも痛むのか、肘を着いた左手でこめかみを押さえている。クラウゼヴィッツも無意識に彼に倣って眉を顰めつつあった。

「では、今回の和解にはあまり前向きではないかもしれないのか……?」

ディービッチの悲観的な言葉に、しかしクラウゼヴィッツは

「決してそのようなことはないと思います。如何にヨルク将軍が陰険な方であろうと、彼がプロイセン軍の数少ない精鋭のひとりに変わりないのですから」

 クラウゼヴィッツは目を閉じ――すぐ開くや否や、こう言った。

「プロイセン軍にて、改革を進めておられる将校のひとりに、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍がおられます」

 ディービッチは、一瞬だけ、クラウゼヴィッツの表情が嬉しそうに緩むのを見た。

 そんなことはいざ知らず、クラウゼヴィッツは話を続ける。

「シャルンホルスト将軍はヨルク将軍を、反ナポレオン派の有能な将軍として重視していました。今回、ヨルク将軍がこうしてプロイセン軍指揮官に任ぜられたのも、少なからず彼の影響があったと思われます。ですから、ヨルク将軍が和解に応じてくだされば、ナポレオン打倒が容易になるはずです」

 しかし、説明を聴くディービッチの表情はそれほど明るくはならなかった。彼は低い声で言う。

「だが、我々はまだ交渉を始めたばかりだ」

身体を起こしながら、彼は続ける。

「未だフランス軍に従っていたほうが利は多かろうし、何より、我々が信用されているか不安もある」

 クラウゼヴィッツは何も言わない。だがディービッチの意見も分からなくもなかった。ヨルクの考えが分からないのは彼も一緒なのだ。同じ反ナポレオンの立場であっても、行動が一緒とは限らない。

 顰めっ面で思案していたディービッチは立ち上がると叫んだ。

「こうしてはおられない!」

クラウゼヴィッツが「えっ」と声を漏らすのに構わず、彼は歩き出した。

「我々も未だ落ち着くわけにはいかない。今後のヨルク将軍との交渉には慎重に慎重を重ねて臨まなくては」

言いながら、彼は扉を開けて部屋を出て行ってしまった。クラウゼヴィッツは小走りでディービッチを追う。しかしクラウゼヴィッツが将軍に声をかける前に、ディービッチは周囲に集まった将校や兵達に向かって号令を発した。

「戦闘準備! シェレル方面のヨルク軍の行動の警戒にあたれ」

 「将軍閣下」

やっと追いついたクラウゼヴィッツが口を開く。息を乱してはいなかったが、突然の戦闘準備命令にディービッチを凝視する。

「ヨルク将軍に不信感を持たれたのは分かりますが――」

クラウゼヴィッツの言葉をディービッチは制止した。

「ヨルク将軍のことは今でも変わらず信頼しているよ」

その言葉を聴いて、なおも疑わしげに首を傾げるクラウゼヴィッツに、ディービッチは言う。

「しかし、今フランス軍に合流されて和解交渉を水泡に帰すのも避けたいのだ」

 確かに先程のヨルク将軍との会談で、今夜は互いに何らかの軍事行動はしないことが取り決められた。しかし、それが破られない保証はない。しかも、このディービッチ軍団の場合、ヨルクの動き如何によっては、特別な役割を演じられない曖昧な立場に立たされることも考えられた。

 和解交渉を水の泡にされたくないというのは、ディービッチからの心からの言葉だっただろう。

 だがヨルクは一応はあのシャルンホルストが認めている人間だ。確かにヨルクを「陰険である」とは言ったが、反ナポレオンであり、ロシア軍との和解も望んでいる。そんな人物が、いきなり和解のための取り決めを反故にすることをしでかすだろうか?

 結局、クラウゼヴィッツは半信半疑のまま、自分の騎兵隊に戦闘準備をさせた。伝令にも馬から馬勒を外さないように言いつける。だが、気休めだ。

 彼はいったん宿舎の隣にある小屋に入った。ここの家主は戦乱を避けて家畜ごと出て行ったらしい。入った小屋の隅に藁が厚く積まれていた。

 クラウゼヴィッツは軍服のまま、その藁の上に腰を下ろす。願わくば、このまま何も起きなければいい――そう思いながら、身体を藁に預けようとした。

 が、やはりそうとはいかなかったようだ。クラウゼヴィッツが瞼を閉じかかったちょうどその時、彼の背後から銃声が轟いたのだ。

 クラウゼヴィッツは閉じかけた目をカッと見開き、弾かれたように身を起こす。小屋の外では銃声に驚く軍馬のいななきや、コサック兵達が騒ぐ声、そして銃撃戦の音が断続的に聞こえる。

 まさか、本当にヨルクの軍勢が攻めてきたのだろうか? クラウゼヴィッツは自分の脈拍が速まるのを感じながら小屋を飛び出した。

「どこから撃たれている?!」

彼の叫びに、小屋の入り口のすぐ近くで騎乗し、控えていたロシア人の部下が丁寧なドイツ語で答える。

「シェレル方面からです!」

 シェレルと言えば、先程のディービッチの号令の通りヨルクが陣取っている場所である。

 クラウゼヴィッツは舌打ちする。やはりヨルクが攻めてきたのだ。あの陰険のヨルクが!

 「ヨルク将軍には後でたっぷり考えをお訊きしなければならないようだ」

と彼は怒気混じりに独り言ちた。周囲に集まっていた自分の部隊の者達に向かって言い放つ。

「我らもこの襲撃に応じなければならない。ぼくの馬を用意してくれ。急ぎ、シェレルへ進撃だ!」

 だが、その指示は空回りに終わった。部隊の者達が「了解」を叫ぶ前に、伝令役の騎兵が集団に割り込むようにして入ってきた――襲撃にすぐ応戦していたコサック兵の一人だ。

 コサック兵は、引かれてきた自分の馬を迎えるクラウゼヴィッツに向かって話しかけながら近寄っていく。酷く饒舌で、唇や舌が忙しなく動いている。だが、クラウゼヴィッツは自分が話しかけられているのに気づくと、首を傾げた。顰めっ面を部下に向ける。

「……彼は何と言っている? ロシア語は分からないんだ」

低い声で部下に訊ねると、彼はさっと馬から降りた。コサック兵の報告を翻訳して伝える。

「我が軍に侵入してきた敵騎兵隊を、シェレル村中へ追い返したと言っています」

「シェレル村中? ――やっぱりヨルク軍か」

 クラウゼヴィッツはドイツ語の話せる部下に「報告ありがとう」の翻訳を頼むと、即座に進撃の指示を撤回する。鈍い頭痛を感じながら、彼はディービッチの待つ宿舎へ踵を返した。


   *


 ヴィルキシュケンでディービッチの軍団が宿営地にしたのは、空き家ではなく、庭の広々とした農家だ。窓の外に広がる牧草地では、上着を剥かれブーツを脱がされた惨めな姿の捕虜を囲むようにして、コサック兵が白い雪の上を跳ね回っている。

 まるで獲物を得た未開の民のようだ――と、ずっと友人を待って立ち詰めているドウナが、顰めっ面でそれを見ていた。

 コルティニャーニでヨルクのプロイセン軍に襲撃を受けてから四日が経つ。あれ以来衝突は起きていないが、まともな会談も行われていなかった。結局、祖国への帰還を試みるヨルク軍団を追うように、ディービッチのロシア軍前衛部隊も移動を繰り返し、ヴィルキシュケンまでやってきだのだ。

 ドウナは溜息を着きながら、自分の後ろ頭をかく。すると、それと同じに自分の寄りかかっている壁のすぐ脇にあるドアからクラウゼヴィッツが出てきた。慌てて立ち直る。

 「よう」

ドウナは姿勢を正しながらクラウゼヴィッツに声をかける。彼には、一見クラウゼヴィッツが嫌に澄ました顔をしているように見えた。だが、その空色の瞳が滾るように揺れるのを、友人は見逃さない。

 クラウゼヴィッツは既に外套を羽織り、二角帽を小脇に抱えていた。手元には違う印の封蝋が押されつつも開封済みの書簡を二通持っている。

 「行くのか? タウロッゲンに」

ドウナが訊ねた。答えるクラウゼヴィッツの声はとても低い。

「行くとも」

低く、細い声でそう言って、彼は手元の書簡に目を落とした。思わず顔を伏せ、溜息を着くと、ぼそりと呟く。

「……もうチャンスは今日しかない」

 クラウゼヴィッツが農家の玄関に向かって歩き出すのを見て、すかさずドウナも彼について行く。自然と歩幅が揃って、二人は並んだ。ドウナがクラウゼヴィッツの手元に目をやる。

 クラウゼヴィッツの携えている二通の書簡は、とても奇妙に見えた。重要そうなものに見えるのに、既に封蝋が千切れて開封されている。しかも何度も読み返されているのだ。

 ドウナは思い切って、隣にいる前方を鋭い目つきで見据えるクラウゼヴィッツに訊いた。

「その書簡は?」

訊ねられて、クラウゼヴィッツはドウナのほうを向いた。ドウナが自分の手元を指しているのを見て、クラウゼヴィッツは書簡を彼の目の前に差し出す。

「ヴィトゲンシュタイン将軍の幕僚長であるドゥウレ将軍からディービッチ将軍に宛てた書簡と、今フランス軍の指揮を執っているマクドナルドからバッサウ侯爵への書簡だ」


   *


 ヨルク将軍率いるプロイセン軍の陣営に到着したのは、その日の正午だった。空は未だ雪の降る気配を見せていないが、冷たく吹き付ける風は強く感じる。

 クラウゼヴィッツが案内された古びた小さな小屋は、将軍ともあろう方が泊まるには不向きではないかと思われた。何しろ、酷く狭いうえ、吹く風で壁が悲鳴を上げるように軋む。心なしか明かりも少なく、とても正午とは思えない程仄暗い。クラウゼヴィッツは将軍のいるという部屋の前まで通されたものの、本当に誰かがいるのか疑わしかった。

 しかし彼はノックの後、構わず部屋の戸を開いた。

「失礼します」

暗闇を裂くような明瞭な声で名乗る。

「ロシア軍中佐、カール・フォン・クラウゼヴィッツです」

 すると、部屋の外に負けず劣らず暗い部屋の奥から、紙が折れる音がした。クラウゼヴィッツは部屋の中へ一歩を踏み出す。

 だが、そうはいかなかった。クラウゼヴィッツが踏み出した足を床に着くすんでのところで、ヨルクの嗄れた、しかし野太い怒号が轟いたのだ。

「それ以上近付くな!」

クラウゼヴィッツは思わず地団駄を踏んだ。部屋の入り口近くに立つ彼は、部屋の奥を見る。将軍は憤怒と悲哀の入り混ざったような震える声で言う。

「それ以上近付いてくれるな――儂はこれ以上、君達と交渉をするつもりはない。儂の立場を危うくする全ての交渉を取りやめる」

ヨルクの口から出た予想外の言葉に、クラウゼヴィッツは息を呑む。彼が「何故です」と問いを投げる前に、ヨルクはそれに答えた。

「ロシアの呪わしいコサック兵は、フランス軍の使者を通してしまった。そしてその使者が、フランス軍に合流せよと言ってきたのだ」

 クラウゼヴィッツは四日前のコルティニャーニの夜を思い出す。あの時、コサックの伝令が「シェレル村中へ追い返した」と言っていたのは、きっとそのフランス軍の使者であったに違いない。クラウゼヴィッツは頭を抱える。

 悲しみに声を細くしつつも、将軍は話を続けた。

「もはや全ての疑念は消え失せたのだよ、クラウゼヴィッツ。我らはフランス軍に合流する他ない」

 クラウゼヴィッツにしても、ヨルクの立場が分からないでもなかった。

 今のところは、プロイセンはフランスと同盟関係にある。フランス軍に従属し、合流する動きを取れば、彼らに対してより良い体裁は整えておける。それにヨルクはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムに従う立場を取っていた。彼の従う国王陛下は、オーストリア帝国もフランスと同盟中の状態での同盟離脱を恐れているに違いない。

 だがそうは言っていられないのだ。任務を果たし、ロシア軍とプロイセン軍の和解に繋げなければならない。

 クラウゼヴィッツは暗闇の中にいるであろうヨルクに言った。

「本職はこの事態について、閣下に反論するつもりはありません。しかし、とにかく明かりをください」

「また儂の口から同じことを言わせるのか?!」

再度拒絶の声をあげたヨルクの様子に、クラウゼヴィッツは仕方なく黙った。部屋の奥からも、激憤を抑えるような大きな溜息の声が聞こえる。

 「儂はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム陛下に仕える者だ。国家を侵す炎を恐れる陛下を守る者だ」

ヨルク将軍が小さく呟く。

「君の今いるロシア陣営には、〝ドイツ人〟などという訳の分からん概念を盲信しているシュタインやアルントも出入りしていると聞く。仮にロシア軍と和解したところで、そんな馬鹿共に我がプロイセンの軍が踊らされるわけにはいかん。儂の率いている軍はフリードリヒ・ヴィルヘルム陛下より預かっている軍なのだぞ!」

また声を荒げたヨルク将軍は、肩で息をしているようだ。ヨルクは息を整えると、まるで消えゆく炎のような声で言う。

「儂は陛下の御意向なしに、国を炎に晒すつもりはない……」

 クラウゼヴィッツは老将軍の悲憤を聴き終えると、再び口を開いた。

「ヨルク将軍閣下。本職は今、プロイセンのために戦うロシア軍のプロイセン人将校として来ています」

彼の声は明瞭で、地に根を張る若木のように堂々としている。

「ドイツ民族主義などというものを煽る者ではなく、ましてやフランスに追従するような者でもなく、プロイセンの敵と戦う、ひとりの愛国者として」

 その彼の言葉を、暗闇の中で聴いているヨルクはせせら笑った。

「愛国者?」

将軍の口から発せられる言葉は、まるで馬鹿な行いをした子供を相手にしているかのようだ。クラウゼヴィッツの着ている濃緑のロシア軍服の上着を指して言う。

「クラウゼヴィッツ、君が自分を愛国者と称するなら、何故君はロシア軍にいる? 愛国者なら、祖国の軍の軍服を着て、国王の命に従って行動するべきだ。君の行動は全く以て非国民のそれではないか!」

「閣下、本職はそうとは思いません」

クラウゼヴィッツはきっぱりと反論する。

「本職は嘗ての同胞や仲間に弓を引いてでも、ナポレオンという〝破滅の元凶〟に立ち向かうことこそが、国を救うことに繋がると考えています」

彼は闘志を両目に漲らせ、未だ暗闇の中にいるヨルクの双眸を真っ直ぐ見据えて言った。

 だが将軍も負けずに言い張る。

「馬鹿な! 国王陛下あってこそのプロイセンなのだぞ。プロイセンが〝王国〟であることを忘れたか?」

ヨルクの瞳に雷雨の降りしきる蒼茫たる空の色が見えた。「それとも……」と恐怖を口にする。

「君もまた、アルントやシュタイン、グナイゼナウ達のように、一連の戦いを〝王冠の知らない戦争〟とでも言うのかね……?」

しかしクラウゼヴィッツはヨルクの恐ろしげな問いを、「まさか」と肩を竦めてすっぱりきっぱりと否定した。

「誰が何を言ったかなどは知りませんが……もし本当に、これがその〝王冠の知らない戦争〟なら――」

 言いながら、クラウゼヴィッツは言葉に詰まった。

 彼の様子を伺うヨルクにはどう見えただろうか。クラウゼヴィッツは自分の脳裏に、親友の影がちらつくのを見た。しかしその影は、先程まで一緒だったドウナの形をしていない。

 その影を追いながら、クラウゼヴィッツは続ける。

「本職や仲間はわざわざ同国人や親兄弟と敵対して、戦い、命の奪い合いをしてまで、ロシア軍に参加しなくて済んだでしょう……」

 影はクラウゼヴィッツの言葉に微笑んだかのように見えた。

 ――そうだ。

 優しく微笑む影の口元が、クラウゼヴィッツに向かって囁く。クラウゼヴィッツは影の名前を呼ぶ代わりに、息を噛みしめた。影は微笑みながら、暗闇の中に溶けていく。彼は消えていく影に「待て」とは言えなかった。正面には押し黙るヨルクがいる。

 クラウゼヴィッツはヨルクに迫った。

「ヨルク将軍閣下、明かりをください」

嘆願するような気持ちで、将軍に言う。

「本職は閣下に、ここへお持ちした数通の書簡をご覧になって戴きたいだけです」

 ヨルクは唸った。

 俄に、クラウゼヴィッツの立つ入り口の後ろ、小屋の廊下が騒がしくなった。誰かが慌ただしく入って来たらしい。「火急の用だ、通してくれ……」という声と共に、こちらへやってくる足音が聞こえた。

「失礼します!」

足音の主が言った。クラウゼヴィッツが振り返る。

「ザイトリッツ少佐、ただいま帰還しました。ヨルク将軍閣下に、急ぎ報告が――」

 ございます、と言い掛けて、ザイトリッツは言葉を濁らせた。まだ張りつめた空気の中にあるクラウゼヴィッツと目が合ってしまったのだ。お世辞にもあまり機嫌良さげに見えないクラウゼヴィッツに睨め付けられ、ザイトリッツはたじろぐ。

 すると、暗い部屋の奥から椅子を引く音がした。ヨルクが落ち着いた声色で言う。

「構わん、ここへ来て聴かせてくれたまえ」

 将軍の声に元気を取り戻したザイトリッツは、クラウゼヴィッツを退けて部屋へ入った。ザイトリッツが部屋の奥へ暗闇に紛れて消えていくのを、クラウゼヴィッツが目で追う。

 「して、陛下のご回答はどのような――?」

というヨルクの少々不安げな声が聞こえる。しかし、ザイトリッツが「陛下の御心は――」と言う細い声が耳に入ったきり、彼らが部屋の更に奥に移動する足音に掻き消されて聞こえなかった。

 だがその耳打ちはすぐ終わったようだ。ヨルクは満足そうに「うむ」と首肯し、ザイトリッツを「分かった、ありがとう」とねぎらう。

 クラウゼヴィッツはザイトリッツの報告が終わったのを確かめると、再び将軍に向かって言った。

「将軍閣下、本職が任務を達成しないまま帰還するなどという困惑した状態にしないでください」

彼の催促の言葉に、ヨルクは観念した様子で未だ部屋にいるであろう将校を呼びつける。

「ザイトリッツ、明かりを持ってきてくれたまえ」

 燭台に火が灯され、クラウゼヴィッツはやっとヨルクの姿を確認した。

 ヨルクは、数日前の会談の時よりもやつれて見えた。それでもまだ気高い態度に見合った精気を感じさせるのは、将軍という職業故か。

 「ありがとうございます」

クラウゼヴィッツはそう言うと、部屋への一歩を踏み出した。ヨルクの元へ歩いていくと、携えてきた二通の書簡を将軍に手渡す。

「ロシア軍指揮官ヴィトゲンシュタイン将軍の幕僚長ドゥウレ将軍からディービッチ将軍に宛てた書簡、そしてフランス軍指揮官マクドナルドからバッサウ侯爵への書簡です」

 ヨルクは書簡を受け取ると、それらを見比べるようにして読み始めた――


 ドウナが、震える手でしかもまごつきながら、恐る恐る書簡を開いていく。

「ドゥウレ将軍の書簡によると」

クラウゼヴィッツが、ドウナが集中して書簡を読んでいるのを覗き込みながら言う。

「ヴィトゲンシュタイン将軍の軍団はあさって三十一日には前衛がシルピシュケン、将軍の本隊はゾンマーラウに着くらしい」

 彼はタウロッゲンへの出発前に、ドウナに二通の書簡を見せていた。時を遡って、数時間前の出来事である。

 「それが予定通りに実行されれば、ティルジットにいるマクドナルドの軍とヨルク将軍の軍は遮断される……」

そう言って、ドウナは書面から顔を上げた。ドウナの表情は、これからヨルク将軍に渡されるものを読んでいるだけあって、真剣というよりも深刻そのものだ。

「でも、まだマクドナルドのフランス軍のほうが強力じゃないか?」

「それは問題ないだろう。戦力差はマクドナルドにもヨルク将軍にすらも知られていない。それに、もし遮断できなくても、両軍ともにその後の撤退行動は難しくなる」

「それは好都合だ!」

ドウナが喜びの声をあげた。

「ヨルク将軍はロシアとの和解を望んでいるし、これで是が非でも和解交渉を進めなければならなくなる」

クラウゼヴィッツはドウナの言葉に嬉しそうに首肯する。

 「それに、マクドナルドからの書簡だ」

クラウゼヴィッツはそう言うと、ドウナが今読んでいたマクドナルドからの書簡から目を逸らす。クラウゼヴィッツの気まずそうな行動をとるのも無理はなかった。ドウナも苦々しげに呟く。

「こちらの動きはばれているんだな……」

溜息混じりに、彼は言った。

「〝いささかも嫌悪することなく、確固たる態度をとる〟とは言っているが、プロイセンに与する人間が解任されるのは明白だ」

「ヨルク将軍を含めて、ね」

 ドウナは読み終えた二通の書簡を元通りに丁寧に畳むと、クラウゼヴィッツに手渡す。

 「もうヨルク将軍が、国王陛下の命に従って、嫌々フランス軍にくっついている必要はなくなった」


 ――書簡を読んだヨルクは眉を曇らせた。

「クラウゼヴィッツ」

ヨルクは低い声で彼を呼ぶ。

「クラウゼヴィッツ、君をプロイセンのために戦うプロイセン人と見込んで問おう。このドゥウレ将軍の書簡の内容が真実であると保証できるか?」

将軍の真剣な問いに、クラウゼヴィッツは答える。

「プロイセンのために戦うプロイセン人としてお答えします。本職はその書簡の内容の誠実さを保証します。しかし、実際にその書簡の通りになるかは保証できかねます」

「何故」

と、ヨルクは重ねて問うた。クラウゼヴィッツははっきりと言う。

「将軍閣下もご存じの通り、精一杯の最善を尽くしても、実際にそれが実を結ぶとは限らないからです」

 クラウゼヴィッツはヨルクを見据えた。ヨルクもまた、クラウゼヴィッツの言動を見定めるように、じっと見返し――書簡の文面に視線を戻した。クラウゼヴィッツは固唾を呑む。

 すると、ヨルクがふ、と口元を吊り上げるのが見えた。将軍は彼に向き直り、

「君の言う通りだ。一本取られたよ、クラウゼヴィッツ」

と言い、クラウゼヴィッツに歩み寄る。クラウゼヴィッツは目を丸くして、ヨルクの差し出した手を握る。相手が驚いているのに構わず、ヨルクは続けて言った。

「ディービッチ将軍に伝えてくれ。明朝八時、ポツシュルンの水車小屋にて是非会談がしたい、儂はフランス軍やその軍事目的から離脱する、と」

 その言葉に、やっとクラウゼヴィッツは任務の達成を実感した。息を呑み、改めて将軍の手を強く握り返す。

「返答、ありがとうございます……!」

 ヨルクは握っていた手を離すと、一秒程、部屋を右往左往した。部屋の隅に控えていた将校を呼びつける。

「……ザイトリッツ!」

「はい、将軍閣下!」

 はきはきと嬉しそうに返事をするザイトリッツを見て、クラウゼヴィッツは小さく笑う。ヨルクの姿が、彼にはシラーの『ヴァレンシュタイン』の主役に重なって見えたのだった。

 ヨルクはザイトリッツのほうを向いて言う。

「ザイトリッツ、すぐにマッセンバッハの騎兵部隊の者に、我らと同様の行動をとるように伝えよ」

ザイトリッツは感情を表に出さずにはいられない、情熱的な質を持っているらしい。喜びを露わにして将軍に答えた。

「了解しました、将軍閣下! きっと皆も、私同様に閣下のお考えに賛同してくれるでしょう!」

ザイトリッツの台詞は、聴いているほうが赤面してしまう程熱っぽい。ヨルクはその言葉に口元を綻ばせた。

「君は良いことを言ってくれるね」

 ザイトリッツは将軍に一礼すると、クラウゼヴィッツの後ろの出口から去って行く。ヨルクはその背中を見送りながら、「しかし、クラウゼヴィッツ」と彼の名を呼んだ。クラウゼヴィッツはヨルクに向き直る。先程までのザイトリッツの様子に呆れ気味の将軍の顔が目に入った。

「君達若者は、どうやら老人のように泰然としていられないようだ」

 クラウゼヴィッツは首を傾げる。どうやらザイトリッツと一緒に扱われたようだが、自分は充分落ち着いているつもりなのだろう。

 それを察してか、ヨルクは付け加えるように言った。

「時機を待つより先に動こうとする傾向にあるように感じたのさ」

ヨルクの言葉にクラウゼヴィッツは、

「今回の将軍閣下のご決断を否定するつもりはありませんが……」

と、老将軍の疑問に答える。

「きっとこのご決断がなくとも、いつかはナポレオンは失脚すると思います。ですが、その〝いつか〟はいつ来るのか、本職には分かりません。世の中は我らの思う以上にゆっくり変わるもの。その〝いつか〟を待てるほど、本職の気は長くありません。運命の神の情けによって与えられる希望はたかが知れていると思いませんか?」

「まるで時の流れを早めたようだな」

ヨルクは呟く。クラウゼヴィッツはわざとらしさの透けて見える笑顔をして見せた。老将軍は背を向ける。

「本当に、若者は儂等老人のように、泰然としていない……」

ヨルクの羨望の入り交じる独り言を聴きながら、クラウゼヴィッツはそこを後にした。


   *


 クラウゼヴィッツが小屋を出た時は、既に夜になっていた。

 身体を締め付けるような寒さに、彼は一瞬目を細める。吐息が凍てつく。だが、その白い息の隙間から垣間見えた雪原の上に、突き抜けるように高い星空が見えた。紺青を幾重にも流したそこに煌めく輝きを、クラウゼヴィッツは見上げる。

 その時、紺青の上を小さな宝石が滑っていくのを見た。鳶のように小さく弧を描いて飛んでいくそれを見て、クラウゼヴィッツは胸に幸せが満ちていくのを感じる。

 ああ、おかしいな、と彼は思った。未だ戦いは続くのに。自分も祖国に戻れるか分からない。

 白い息を吐きながら、クラウゼヴィッツは出発前にドウナに言った台詞を思い出す。


 クラウゼヴィッツは、ドウナに自分の任務についての説明を終えると、彼から二通の書簡を受け取った。ドウナが農家の玄関のドアを開ける。外は幸いにも晴れていた。しかし吐く息が白くなるのは相変わらずで、踏み分ける雪が小さく音を立てる。

 クラウゼヴィッツは、玄関の前で彼の馬を引いて待っていた兵から手綱を受け取ると、後ろに立つドウナを振り返った。

「じゃあ、行ってくる」

まるで近所の市場に買い物に行くような様子のクラウゼヴィッツを見て、ドウナは微笑んだ。

「次に会う時は、ロシア=ドイツ義勇軍の陣営でな」

そう言う親友に、クラウゼヴィッツは馬に飛び乗りながら応える。

「家族で揃って元気に会おう」


 クラウゼヴィッツは雪原に向かって踏み出した。自分の吐息を追い越して、先ずは自陣に帰るのだ。

 ――次の戦いまで、あと何日。

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最後の一撃 かくりよ @bskakuliyo

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