第3話 最終章

 それから三日ほど経ったある日、会社の帰りの電車の中でのことだったが、美奈は誰かに呼び止められて、ふいに後ろを振り向いた。

「こんにちは、この間はどうも」

 美奈は、見覚えはあったのだが、すぐにはそれが誰だか分からず、ボーっとしていた。

「僕ですよ。ほら、バーで数日前にお会いしましたよね?」

 確かに言われてみれば、年配の男性と話をしていた男性だった。

 彼の雰囲気からすると、知っている人を見かけても、自分から声を掛けたりするタイプではないと思っていただけに、美奈には驚きだった。

「ああ、そういえば、この間の方ですね」

「いやだなぁ、顔を見ても思い出せなかったんですか?」

「ええ、私は人の顔を覚えるのが苦手で、しかも、面と向かってお話をしたわけでもなかったので、すぐには思い出せなかったの。ごめんなさいね」

 彼は、少し馴れ馴れしそうに話しかけてきたが、なぜか煩わしさは感じなかった。一人でボーっとしていただけに、声を掛けられて少し新鮮な気持ちになったのも事実で、今度は彼の顔を穴が空くほど見つめていた。

――こんな男は、きっとナンパな人なんだろうな。適当にいなしておけばいいか――

 と思い、最初適当にいなしておけば、今後どこかで出会っても、無視することができるだろう。この手の男は最初が肝心、ちょっとでもいい顔してしまうと、自惚れに走ってしまい、ありもしない自分の感情を勝手に作り上げられてしまう。それだけは避けたかった。そんなことは愚の骨頂であって、少なくともそこまで分かっていて、過ちだと思うような方向に向かうはずはないと思っていた。

 要するに、美奈は最初から相手にする気などなかったのだ。

 しかし、無下にするのは、性格的に自分が許せない、自分がされて嫌なことは、人にもしたくないという考えがあり、それをいつも心掛けていた。

 すると、彼はそれを見越したかのように、話し始めてすぐくらいに、

「人にされて嫌なことを、自分がしたくないと思っていることってあるでしょう?」

 その言葉を聞いて、思わず彼の方を直視して、目を見開いて、目を見つめた。彼はニコニコしながら、こちらを見ている。

 完全に見透かしていることを確信しての余裕の笑顔なのか、もしそうだとすれば、美奈は少し悔しい気がした。これだけたくさんの人が蠢いているのだから、中には想像もつかないようなことをする人が出てきても不思議ではない。相手の気持ちを分かるくらいのことは朝飯前だという人が、本当はそのあたりにはゴロゴロしているのかも知れない。

 美奈はなるべく平静を装い、彼に自分の考えの奥を覗かせないようにしようと思った。それにはさりげない返事しかない。

「そうね、私にもあるかも知れないわね」

 差し障りのない、ハッキリとしない返事が、この場合は有効ではないかと思えた。

「でもね、それって結局は、相手にとって失礼に当たることもあるんじゃないかって思うんだ」

 一瞬、ムカッときたが、何とか堪えて、さらに曖昧な気分になり、

「へぇ、そうなのね」

 きっと相手はバカにされたと思うかも知れない。一生懸命に話しているつもりであれば、余計にバカにされたと思うだろう。

 しかし、この男が相手であれば、別にいいと思った。別に深い仲になるわけでもないし、適当にいなしておけば、それでいいだけだったからだ。

 いつも一人でいると、一人がいいと思うようになるのと同時に、煩わしさから解放されたいというのが、一人がいいという一番の理由だということに気付く。

 人と一緒にいることが煩わしさに繋がるなど、他の人は考えたことがあるのだろうか?

 煩わしいことは、孤独を感じる人以外でも感じることがあるはずだ。

「煩わしいわね」

 と、口にする人ほど、まわりに人が集まってきたりするからだ。

 その人たちが口にする「煩わしさ」というのは、

「まわりにいる人の中の誰か」

 ということになるのではないだろうか。

 その意識がないから、まわりの人に対して、

「煩わしい」

 という言葉を口にできるのだろう。

 その男は、しつこめだった。

 普段なら完全に無視するところなのに、どうして相手をしてしまったのか、その男性の顔が、兄に似ていたからだ。

 この間、お店の中でも、

「兄に似ている」

 と、少しだけ感じたが、それは、兄と雰囲気が似ていると感じたことだった。会話の主導権は年配の男性が握っていたので、彼は、目立たないようにしていた。あるいは、猫を被っていたのかも知れない。猫を被っていたとしても、その時の美奈にそれを見抜くのは難しかっただろう。あの店は、感じたことを素直に受け入れることのできる雰囲気の店ではなかったからだった。

 雰囲気だけを感じることができたのは、どうしても、カウンター席という特徴上、横顔しか見ることができないからで、あくまでも雰囲気に兄を感じたから、横顔にも兄の雰囲気を感じただけで、本当は似ても似つかない人ではないかと思わせた。ただ、前をじっと見ている時の顔は、以前兄と食事に行った時、横に座ったことがあったが、その時に感じた雰囲気と似ていることは似ていた。以前に感じた人の雰囲気は、欠落した記憶の中に含まれているわけではなかった。

 しかし、今度は面と向かって話をしている。表情は隠しようがない。細かいところは微妙だが、全体的には本当によく似ている。それだけに、表情によっては似ている時と似ていない時の差がハッキリ出ていて、

「この人は兄ではないわ」

 と、他の表情がどんなに見紛うかと思うほど似ていたとしても、その一回感じたことだけで、兄ではないということは、自分の中で確定させるに十分だった。

 兄ではないと分かると、明らかに怪訝な態度が顔に出る。それが美奈の性格であり、人から、

「性格ではなく、性悪なんじゃないの?」

 と皮肉られたことがあったが、まさしくその通りである。

 美奈に対して、まわりの反応は人それぞれ、

「面倒見がいい人ですよ」

 という人もいれば、

「あんな淡白な人、見たことない」

 という人もいる。

 それだけ両極端な態度は性格にも表れている。美奈は相手によって態度を変えるが、相手も美奈だけ特別の対応をするという人もいるだろう。

 美奈は、自分が二重人格だと思っているが、まわりの人で美奈のことを二重人格だと感じていない人の方が多いようだ。

 二重人格というよりも、裏表がハッキリとしていて、思ったことを口にしたり、すぐ態度に表す。喜怒哀楽も激しく、性格的にきつさが前面に押し出される。そのせいからなのか、

「姉御肌」

 として、美奈を慕う人もいるようだが、美奈はそのことを知らない。もし知ったとすれば、

「私は、そんな面倒なことは嫌いだよ」

 と一蹴されるのではないかと思うことで、慕っている人の口からは、そのことを言い出すことはない。

 そんな美奈のことを一番分かっているのは、兄だった。うまく子供の頃にはコントロールしてくれていたおかげで、敵を作ることはなかった。その思いがあるからこそ、兄を慕う気持ちが生まれていたのと同様に、自分が姉御肌であるということも認識できた、だからと言って、できることとできないことがある。何でも引き受けられるほど、キップがいいわけではない。

 美奈の顔を見ると、

「お前は、本当に素直に生きているよな」

 と言って、羨ましがっていた。

「何でよ、私はいつも逆らってばかりじゃない。自分でも分かっているから、時々そんな自分が嫌になることがあるのに」

「それはそれでいいのさ。自分で嫌になるくらい、素直になれれば立派なものさ」

 兄が、どこまでも皮肉を言っていると思った美奈は、却って素直になれない。どこまでも兄に逆らおうと思ったくらいだ。

「どうしてそんなこと言うの? 私はそんなつもりないのに」

「そりゃそうだろうな。もし、そんなつもりがあるんだったら、ここまで素直になんかなれるはずないからな」

「分からないなぁ」

 兄が何を言いたいのか、いろいろと考えてみた。

 兄は、唐突にお世辞を言ってみたり、人をこけ落とすようなことは言わない。そういう意味では、素直に想いを言葉にできるのは兄の方ではないだろうか。

「美奈が正直だって言ったのは、自分自身に正直だって言ったのさ」

「あっ」

 言われてみれば気付くことがある。目からうろこが落ちたとは、まさにそのことではないだろうか。

「そうだろう? 人に言われて分かるだろう? そういうことって多いんだよ。特に美奈にはね。それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど、人から言われてハッと思いたつことが多い人ほど、自分に素直に生きている人間なんじゃないかって思うんだ」

「でも、自分に素直なのかも知れないけど、他の人とは違うって思いながら、私は生活しているんだよ」

「そうだろうね、言い方を変えれば、自意識過剰なのさ。あまりいい意味で使われることのない言葉だけど、俺は違うことを思うんだ。自分に正直になれないやつが、誰に対して正直になれるんだろうってね。まずは、自分なんだよ。自分に素直な人が本当に自分を分かっているとは思わない。逆に分からない人が多いんだと思う。だから余計に自分を分かろうとする。そうなると、次第に素直ではなくなってくる。難しいところではあると思うんだけどね」

「お兄さんのお話、結構難しいわね」

 美奈が分からないことを、兄は楽しんでいるように見える。そして、さらに楽しもうと、今度は理論責めにでもしようというのだろうか?

 完全に美奈は、兄の手の平の上で弄ばれている。それを想像すると、何とも憎らしい限りだ。いくら逆らったとしても、抗うことなどできるはずもないのに、それでも兄の態度には、落ち着き以外の何でもないところを見ると、悔しさを解消することができない。

「我慢できないわ」

 屈辱感がこれほど自分に対して、苦しみを与えようとは、想像もしていなかった。美奈にとって、我慢できないという感覚は、生理現象以外ではあまりないと思っていた。中学時代に入り、思春期を迎えた美奈だったが。中学を卒業し、高校一年生くらいまでは、その気持ちは変わらなかった、やはり変わったのは、好きな人を初めて意識した時だったに違いない。それまで異性に興味を持った時であっても、そこまで自分が大人になりかかっているという意識はなかった。やはり、本当に好きになる人が現れるという「結果」が伴わないと、実感できるものではなかったのだ。

 兄は、本当に話をしていれば、目からうろこが落ちるようなことをよく話をしてくれる。

「あっ」

 と思うようなことをいつも話してくれることが、いつの間にかあたり苗のようになってしまっていた。

「私は、兄に頼りすぎているのかしら?」

 と思ったりもしたが、それ以上に甘えていることに気が付いた。

 兄に、あまり甘えてはいけないと思いながら、つい甘えてしまう。

「お兄さん、ごめんなさい。また美奈は甘えてしまいました」

 口に出して言ったことはなかったが、兄にはこの思いが分かってしまっているようだった。いつもニッコリと笑って、何も言わない。

「今さら、何も言うことはない」

 ひょっとしたら、父親が一緒だったら、ここまで分からないのかも知れないと、美奈は感じた。兄であることが当たり前で、実際に同じ母親なので、血の繋がりはある。それを気にするあまり、却って兄の気持ちが分かるというのも皮肉なものである。

 本当は、美奈が気にしすぎなところがある、兄は美奈の気持ちを分かっていて、わざと何も言わないのだとすると、そこは、年上であり、しかも慕われている兄であるという気持ちが強すぎることで、言いたいことも言えないのだとすると、兄にやはり甘えていることになるのだろう。

 そんな兄だったが、美奈に対して、

「お前は、どこか記憶が欠落しているところがあるのかも知れないね」

 と言われたことがあった。

「それはどういうことなんです?」

 美奈が記憶に対して、初めて欠落という言葉を意識したのは、この時の兄の言葉からだった。

「記憶は喪失するものではなく、欠落するものだというのが僕の考えなんだけどね。ちょっと乱暴かも知れないけど、たとえば、赤ん坊の頃のことを覚えている人って、まずいないよね?」

「ええ、そうね」

「たとえば美奈は、いつの頃から記憶があるんだい?」

「そうね、ハッキリと意識らしいと言えるとすれば、三歳の頃なのかも知れないわね。確か、あの頃、ハチに刺された覚えがあるもの」

「うん、そうだね。何か強烈なイメージがあれば、その時の記憶が微かに残っているののだよね。でも、それは記憶というよりも、人から言われて思い出そうとするから思い出せるものだろう? ほとんど意識などしていないはずだと」

「確かに、そうかも知れないわ。ハチに刺されたという記憶はあるけど、痛さの記憶は残っていないものね」

「本当に子供の頃の記憶は、断片的であり、しかも何かを感じる時の感情、痛みを感じる感覚、それぞれにいろいろあるのに、美奈は感情は覚えているかも知れないけど、感覚の方を覚えていないんだろう? でもね、反対の人もいるんだよ。いや、むしろ、感覚の方を強く覚えている人の方が多いのかも知れない。そういう人は、逆に、物心ついた頃の記憶を、自分で覚えていると思っているはずなんだ」

「お兄さんもそうなの?」

「お兄さんは違う。美奈と同じで、感覚よりも感情の方をよく覚えているんだ。それがどういうことを意味するのかというのは、一口には言えないけど、美奈の今の話を聞いて、僕と同じだったことが嬉しく思うよ」

 そう言って、兄はニッコリと微笑んだ。

「でも、私は時々思うんだけど、本当は、母親のお腹の中にいた時からの記憶というのを、本当は覚えているんじゃないかってね」

「それは僕も思うよ。僕は実は狭いところが怖いんだ。それはひょっとすると、母親のお腹の中にいる時の記憶が残っていて、『狭いところは怖い』という、感覚が残っているからなんじゃないかって思うんだ」

「でも、今お兄さんは、痛いとか身体で感じるものを感覚って言ったけど、怖いというのは、感情じゃないの?」

「いや、僕はそうは思わない。怖いというのは、痛みなどの感覚を条件反射として受け取った時に感じるものなので、感情ではなく、感覚に近いものだと思うんだよ」

「じゃあ、お兄さんは、お母さんのお腹の中にいた時の記憶が残っているっていうの?」

「そうは言っていない。お母さんのお腹の中の記憶は、残っていても、違う場所にあるんじゃないかって思うんだ」

「じゃあ、忘れていると思っているだけってことなの?」

「忘れているわけではなく、思い出す必要はないので、記憶の奥に封印しているだけだよ。そうじゃないと、記憶を格納する場所にだって、限界があるはずだからね」

「そうなんだ。私はあまり細かいことまで考えたことなかったけど、漠然と、記憶を格納する場所は無限にありそうな気がしていたのにね」

 美奈は、冗談っぽく話したが、兄は、それに表情を変えることなく、

「やっぱり、人間には無限なんて言葉はありえないんだよ。必ずどこかに限界があって、その限界に向かって近づこうとするのが努力なんじゃないかな?」

「でも、人間に限界はないっていう人もいるわ」

 美奈にも無限などありえないと思いながらも、それでも、敢えて兄に聞いてみた。その時の美奈はどちらかというと、自分の意見というよりも、一般論としての質問に徹しようと思った。それが何を意味するのか自分でも分からなかったが、美奈は、この場で兄に自分の気持ちをいきなりぶつけるのは怖い気がした。

 それは、この手の話は、この時が最初で最後ではなく、その後も機会があればすることになると思っていた。兄も話を一生懸命にしてくれるし、美奈も聞いていて飽きることはない。その時に結論など簡単に出るものではないことは分かりきっている。だから、今度話をする時まで、美奈の気持ちは抑えておこうと思ったのだ。

 だが、兄の考えは少し違っていたようだ。美奈が話を一般論に挿げ替えようとしたり、分かりきっているようなことを、わざと反論して聞きなおしてみたりするたびに、興奮して反論してくる。美奈にはそれが面白かったのだ。

 兄をからかっているつもりではなかったが、いつの間にか二人の話を客観的に見ている傍観者になっていることに気が付いた。

「お兄さん、お兄さんの話はよく分かるんだけど、限界ばかりだと、人間って面白くないんじゃないの?」

「そうかな? 無限を探すというよりも、自分の限界を知ることで、そこから派生するものを見つけることの方が、よほど人間らしいと思うんだけど?」

「人間らしい……」

「そう、人間らしいだよ」

 人間らしいという言葉を、その時じっくりと噛み締めてみた。

「人間らしいって、どういうことなのかしら?」

 すると、兄はゆっくりと話し始めた。

「人間らしいというのは、別にすべてに対して限界があるから、人間らしいという言葉を使ったわけではないんだ。たとえば、美奈は、動物の中で、人間が一番優れた種類だと思うかい?」

「間違いではないと思っています」

「そうだね、確かに総合的に考えれば、そうかも知れないね。でも、それって人間として考えるからそうなんであって、もし、他の動物に、感情などの感覚や、そして感性などいろいろ備わっていればどうなんだろうね? 逆にいうと、他の動物から言わせれば、人間は考えることはできるけど、他のことはできないと思っているかも知れないよ」

「それは感じたことがあります」

「だって、鳥は空を飛べることができるけど、人間は自力で空を飛ぶことができないでしょう? 確かに飛行機やグライダーなど空を飛べる道具はたくさんあるけど、しょせんは身体全体でコントロールできるわけではないので、鶏に適うわけはない。どうしてだか分かるかい?」

「いえ」

「鳥は、空を飛ぶのにいろいろ考えたりしないだろう。それは、空の上にいて当然だという感覚があるからさ。それを本能というのではないかな? 本能という意味で行けば、人間は、他の動物に比べて、一番劣っているものなのかも知れない。自然の摂理が存在しているとすれば、一番うまくその摂理に乗っていないのは、人間なんじゃなかな?」

「そうかも知れないわ。動物は自分の身を守るために持って生まれたものを必ず持っているものですものね。保護色にしても、ハリセンボンにしても、スカンクにしても、すべて身を守るための術を持っているわ」

 美奈は、思いつく動物を思いつくままに言葉にした。

「ふふふ、確かに美奈のいう通りだ。しかし、今美奈が挙げた動物のラインアップはなかなか面白い。美奈の頭の中が見えてくるようだ」

「そんなに笑わないでください。私もお兄さんの話を一生懸命に聞いているとうう証拠でしょう?」

 美奈はそう言って、ニッコリと笑い、言葉を続けた。

「でも、それと記憶とがどこで結びつくのか、少し分からないところが多いわね」

「そうだね、記憶にも限界があるというところからだったね」

「ええ」

「人間には限界がないというのは、どうして美奈は思うんだい?」

「学校で、そんな話を聞かされた気がしたし、ドラマなんかの影響もあるかも知れないわね」

「確かに、限界がないという表現をする方が、途中で何かに挫折したり、挫折しないまでも、いろいろなことで悩んでいる人には説得力があるかも知れないな。でも、それは自分の中で限界を感じた人になら、説得力はあるかも知れないけど、まだまだ限界なんて考えたこともない人間に対して、却って惑わせることになるんじゃないかと思うのは、僕だけなのかな?」

 兄のいうことも分からなくもない。

「じゃあ、お兄さんは、一般論だと思っていることも、その人の立場や考え方によって、人から聞く話も吟味しないということを言いたいのかしら?」

「そこまでかしこまることはないとは思うけど、まったく何も考えずに話を聞いていると、そういうことになるだろう? それじゃあ、その人にとって、まるで『他人事』のように感じていると思われても仕方のないことだと思うんだ」

 確かに兄の言う通りだった。兄は続ける。

「相手が他人事のように聞いていると、話している人から思えば、きっとそこから先は、その人からは本心は聞けないと思うんだ。それはその人の無意識の中にあるものなのかも知れないんだけどね」

 兄の話を聞いていて、少し黙りこんでしまった。

 美奈には、確かに人の話を聞いていて自分でも他人事のように感じていることが少なくはなかった。それは、他人事だというよりも、自分のことを客観的に見ているということだった。

 美奈は、もう一人の自分の存在を時々感じることがある。

 それは、姿かたちはまったく自分と同じなのに、まったく違った考えを持っている人。しかし、同じところもある。それが感性であって、人の話を一緒に聞いているとすれば、きっと同じことを思うに違いないと思うような存在だった。

 だから、美奈は人の話を聞く時、もう一人の自分の存在を意識することが多い。それは本能的に作り上げる人物であって、一緒に聞いているつもりでも、感覚だけが、もう一人の自分に急に移っているのではないかと思うのだ。

 その時、横にいるさっきまでいた自分がまるで抜け殻のようになっているのを感じる。

「これが、本当の自分?」

 そう思った時、自分の中に感情も感覚もすべてなくなっているように思えてきた。

「一体、本当の私はどっちなの?」

 と、思うと、急にもう一人の自分の頭の中に、忘れてしまったはずのものが残っているように思うことがある。

「そうだわ、私がお兄さんの話を聞いていて、限界があるというところに違和感を感じたのは、兄がもう一人の自分の存在を知らないから言える言葉なのだと思ったからだわ」

 そう、兄はもう一人の自分の存在を知らない。

 美奈が、もう一人の存在を知ったのは、いつのことだっただろうか?

 中学に上がった頃だったような気がする。

 美奈は、まわりの友達に比べて、明らかに発育が遅れていた。ブラジャーを着用したのも、中学二年生になってからのことだった。小学六年生のことまでは、身長は高い方だったのに、中学二年生の頃には、前から数えた方が早いくらいだった。

 まわりの発育が早いのか、それとも、自分が晩生なのか、きっとその両方でなければ、ここまで差が付くはずもない。美奈は自分の成長が遅れているのを意識しすぎていた。悩みに思うようになり、それが、体調を崩すことになった。

 最初は風邪気味だと思ったが、風邪を引いた時の症状ではすまなかった。発熱だけで終わるわけではなく、じんましんのようまで出てきた。

 ビックリして病院に行ったが、先生からは、

「思春期ならありがちなことだね。あまり気にしないようにした方がいい」

 と言われ、薬を貰っただけだった。

 その頃から、医者もあまり信用できなくなっていた。交通事故に遭った時、医者の話を素直に聞いたのは、その時の意識を忘れていたからなのかも知れない。意識を忘れていたというのは、おかしな感覚である。美奈にとっては、意識を忘れていたというより、それこそ、

「記憶が欠落した」

 と感じたことであった。

 兄の話を聞いていて、少しずつ、

「今までの兄の話とは違っているようだわ」

 と感じるようになっていた。

「記憶は欠落するものだ」

 という話を感じたのは。その時の兄との話からだった。

 兄の口から、

「記憶の欠落」

 という言葉をハッキリと聞くことはなかったが、美奈がそのことを感じたのは、美奈にはもう一人の自分の存在を考えることができる感覚が備わっているからだった。兄が何を考えているか、その時ハッキリと分かったわけではないが、もし、父親が同じだったら。ハッキリと分かることができたのか、それとも、父親が違うことで兄の言葉をここまで客観的にだけではなく、自分のこととして聞くことができたのではないかと思うようになっていた。

 記憶の欠落は、今まで自分の意識の中から生まれたものだと思っていた。だが、それを意識させたのは、兄の言葉だった。

「喪失ではなく、欠落」

 これについても、兄の意見である。

「記憶というのは、なくなるものだと思うかい?」

 おもむろに兄は話を変えてきた。

「さっきのお兄さんの話からすれば、記憶を格納する場所に限界があるのなら、それを切り捨てるしかないんじゃないかしら?」

「じゃあ、なくなると思っているんだね?」

「ええ」

「そんなことはないのさ。だから、さっき、母親の羊水の話をしたつもりだったんだけどね」

「どういうこと?」

「子供の頃の記憶って、繋がっているわけではなくハッキリしないだろう? でも、それでも、思い出そうとすれば、忘れていたつもりのことを思い出すことができる。つまりは、肝心なところはちゃんと覚えているということさ」

 何となく分かりそうな気もしたのだが、兄が話をすることには、必ず裏がありそうな気がして、頭を整理するために時間もかかれば、疲れも相当なものだった。

 そのため、ついつい、楽しようとしている時には、余計なことを考えないようにしてしまう。それでも何とか理解しようと思うようになったのは、美奈が大学生になってからのことだった。

 それまで、いくら考えても理解できなかったはずの兄の話が、大学生になって、急に分かるようになってきた。どうしてなのか最初は分からなかったが、次第に分かってくるようになると、

「なるほど、当たり前のことだわ」

 と、感じるようになった。

「兄のことを、最初から疑って聞いてしまってはいけないんだ」

 それは、高校時代までの美奈の思考能力が、どうしても、大学入試の思考になっていたからだ。

 理屈に合わせた考え方と、暗記物を基本に勉強していたこともあって、理屈に合わないこと、自分の中の常識と異なっているものを勉強の骨格としてきたことで、凝り固まってきた考えでは、到底兄の「理屈」に適うものはなかった。

 だが、大学に入ると、まわりにはいろいろな考えを持った人がいることに気付かされる。友達もたくさん増え、同じような考えに見える人でも、それぞれに個性があって、雰囲気も違っている。

「高校時代の友達だって、そうだったはずなんだわ」

 皆同じ考えだと思ったのは、それぞれに競争意識が前面に出てしまって、自分の考えを隠すことが自然になってしまうと、誰もがまるで学校の勉強のように、型に嵌った性格にしか見えてこない。

「こんな人たちに自分の気持ちを言ったって、分かってはくれないわ」

 と、思うことで、結局自分も表に出ることはないのだ。

 何がどこで狂ってしまったのか。

 まるで、

「高速道路の帰省ラッシュの先頭はどうなっているんだろう?」

 という発想に似ている。ラッシュの先頭はハッキリしている。しかし、先頭より前はスムーズなのだから、急にラッシュになるというのもおかしな気がする。

 一般道路なら分からなくもないが、路線の数が変わるわけでもなく、信号機があるわけでもない。それなのに、

「なぜ、一体どこからラッシュって始まるのか?」

 と思うと、不思議以外の何物でもなくなるであろう。

 兄の話を聞いて、いろいろ思いを巡らせてくると、今まで分からなかったことも分かってくるような気がした。

 今までは人の話を聞いて、そのまま状況を思い浮かべる程度のことしかできていなかったので、なかなか兄の言いたいことが分からなかった。しかし、話の中から、情景やイメージを思い浮かべると、言葉がリアルさを帯びてくる。平面が立体に変わってくる。つまりは、「命を吹き込まれる」ようなイメージがしてくるのだ。

「でも、私よりも、もっと深く考える人がいるのに、どうして兄を受け入れようとする人が少ないのかしら?」

 ひょっとすると兄は、他の人と美奈を明らかに差別しているのかも知れない。他の人には言えないようなことを美奈だから話せて、美奈には言えるけど、他の人にはとても言えないということがいくつかあるに違いない。

 前者と後者は、一見同じことのように思えるが、実は違っている。前者は美奈の視点から見ていて、後者は、他の人の視線から見ている。ただ、客観的にどちらも同じくらいの高さから見ていたのでは、そんなことは分からない。状況を話で聞いたとしても、それは一つにしか見えていないに違いない。

「美奈は、記憶が欠落しているのかも知れないね」

 と、兄がビックリするようなことを、平気な顔をして言った。

 いや、平気な顔をして言ったというのは、思いこみであって、淡々と話したことから、平気な顔に見えたのかも知れない。

 兄は、時々ぞっとするほど冷静になることがある。

 元々、落ち着きのある方なので、なかなか見逃されがちだが、妹の美奈だからこそ、余計に怖さを感じる状態だった。

 兄が落ち着き払った時は、まったく顔が変わってしまう。

「そうだ、病院に見舞いに来てくれた男性。気持ち悪いくらいに落ち着き払っていたわ。途中から、表情も出てきたので安心したけど、最初は本当に能面のようで気持ち悪かったわ」

 と、思っていた。

 あの人が本当に兄だったのかどうか、よく分からない。今でこそ兄の顔を思い出せるけれど、あの時は、記憶がどうのというよりも、兄の顔を思い出そうとした時、どんな表情を思い出そうかということが分からなかったのだ。もしイメージできていたからといって思い出せたかどうか分からないが、兄でないという思いは今でも強い。

 人の顔を覚える時、相手の表情がいつも同じ人であっても、その時々でまったく違う顔をする時であっても、

「覚えられる人は覚えられる。覚えられない人は、どんなに想像し、頭に焼き付けようとしても覚えることはできないんだわ」

 と思うようになっていた。

 要するに表情が多彩であっても、印象に残るのが一つであれば、同じことである。逆に一つの表情しかできないような人は、特徴がないのか、そのすべてが特徴なのか、簡単に覚えられるか、どんなに時間を掛けても覚えられないかのどちらかではないだろうか。

 病院に見舞いに来てくれた男性を、最初はどうしても、兄だとは思えなかった。第一印象というのは大切で、その第一印象で、初めて会ったようにしか思えなかったからだ。

 しかし、彼が来なくなる前は、今度は違う意味で、

「この人は、兄ではないんだ」

 という確信めいたものがあった。

 それは、兄であってほしくないという思いだった。

 そこには、二つの気持ちが存在する。

 一つは、兄は兄であって、自分にとって唯一人の兄だという感覚だ。確かに父親は違うかも知れないが、それだけに兄は、余計に血の繋がりを意識する兄であってほしいという考えだった。

 もう一つは、

「彼だけは兄であってほしくない」

 という考えだ。

 兄であれば、一番近い存在であるにも関わらず、一番拘束される関係でもある。少なくとも恋愛感情はタブーであり、抱く感情は、

「兄として慕う」

 という感情以外を持ってはいけない。

 その感情は、子供の頃から続いているものであり、最初の一つに戻ってしまうが、

「自分にとって唯一人の兄だ」

 という考え以外何もなくなってしまうだろう。

 あの人は、美奈がそろそろ精神的にも落ち着いてきて、自分のこともいろいろと考えて行こうと思っていた矢先に来なくなった。これからだと思っていた美奈にとっては、肩透かしを食らったような形になってしまい、拍子抜けしたのも事実である。

「あの人は、私の心が読めるのかしら?」

 誰にも自分のことなど分からないはずだと思っている美奈にとって、急に来なくなった彼が少し怖い気がした。

 美奈が、自分のことを誰にも分からないだろうと思うようになったのは、中学の頃だったような気がする。成長期の中で、自分だけ遅れてしまっていて、まわりに対して最初は恨めしさを抱いていたが、ある日急に、そんな感情がスーッと抜けていくのを感じていた。それはまるで自分が、誰にも束縛されていないことを証明しているかのような心地よさで、まるで宙に浮いているとでも表現すればいいのだろうか。

「雲の上でプカプカ浮いている」

 そんな感情だったのかも知れない。

 だが、明らかにまわりの目は、気を遣っているかのようであり、変によそよそしさがあった。

「そんなに気を遣わなくてもいいのに」

 と、思えば思うほど、まわりの目が気になってくる。

 最初は、善意からなのかと思っていたが、よくよく見ていると、憐みを感じる。

 憐みを感じると、自分に情けなさを感じ、さらに情けなさは、自己暗示を引き起こすことに気付いたのもその時だった。

「私は情けない人間なんだ」

 何とも、捻くれた考えである。自虐的と言っていいだろう。

 しかし、その時の美奈は不思議なことに、自虐的な考えが、どこか心地よかったりした。その理由を分からぬまま大きくなったわけだが、その理由が、

「自分から逃げていることだ」

 ということに気付かなかったのだ。

 自虐を認めるということは、自分にとって簡単なことである。

「人がどんな目で見ようと、自分は自分」

 その考えは、美奈にとって一本筋が通っている気がするのだ。

 ただ、それを「逃げ」だとして理解できるかどうか、それがその人にとってのターニングポイントなのかも知れない。

 もし逃げだと理解できていなければ、同じ空間をずっとクルクル回っているだけになるかも知れない。

 狭い空間というわけではないが、まわりすべてに限界がある。まるで、映画のセットのような舞台の中を、自分の世界だと思っている。

 限界を感じないくせに、決して自分が引いた線から表に出ようとはしない。無意識の中に線を引っ張ってしまって、それが自分にとっての「結界」であるということに気付かずに、結界を意識するわけではないので、その世界の限界を感じることもない。そんな世界を自分で作っているのだろう。

 ただ、それは、美奈だけに言えることではない。

 他の人皆、同じようなことなのではないだろうか。

 人の心を読もうとしたとしても、よほどの能力を持っていないと、人の心を読むことなどできるはずはない。それは、「結界」の存在を知らないことから始まるのだという意識は、よほど自分のことを分かっていないと感じることはないだろう。

 しかも、「結界」というのは、誰にでもあるものなのかどうか、美奈は疑問だった。

 ひょっとすると、

「いずれどこかで気付くことのできる人にしか、結界を持つことは許されない」

 という考えの元だとすると、結界を持っている人は、本当に限られているのかも知れない。

 美奈は気付いた。結界に気付いたことで、自分が大きな世界だと思っていることにも限界があり、まるで箱庭のような世界で蠢いているのだろうと思うと、少し怖くなった。

 なぜなら、自分たちのいる世界を箱庭だとして考えるとすると、その箱庭を上から覗いている人がいるのではないかと思うからだ。

 まるでマジックミラーのように向こうからしか見えない膜がある。だが、結界を意識できた人には、マジックミラーの効力はなくなってしまい、上から覗かれているのが分かってしまう。

 しかも、覗いているのが、当の本人だったらどうだろう?

 覗かれているところを感じた瞬間。目を瞑れば、今度は箱庭を上から覗いている自分の目線になっている。その時は、

「箱庭の中にいるのが自分なんだ」

 という意識はまったくない。あくまでも、虫を飼っている容器を上から覗いているような感覚になっているに違いない。

 見られている方は、あまり上を意識しない。

 天井は、空であり、地平線は、はるかに見えているが、普通、そう簡単に見えるものだろうか?

 天橋立を思い出した。

 股の間から覗いたのは、天橋立の景色だけではなかった。

 あの時は空と海の間の水平線が見えた。

「あんなに、空が広いなんて」

 その時初めて感じたことだった。

 その時の水平線の位置を思い出していた。海と空の位置の割合が、実際に感じていた一とは全然違っていることにビックリした。逆さから見るということは、新鮮なだけではなく、人の感性を迷わせるに匹敵する力を持っているようだ。

 その力が、箱庭のような部屋に籠められているようだ。

 逃げを考えないと、箱庭の中にいても、それとは知ることはない。籠の中の鳥だったり、容器の中の虫や動物は、本当に自分のまわりの結界を意識していないだろう。結界を意識しているとすれば、逃げを感じることになる。彼らには、逃げを感じさせるものはなく、ただ本能の赴くままに生きているだけなのだ。

 逃げを感じるのは、人間だけなのかも知れない。

 人間の本能は、まわりを理性という膜に包まれていて、理性が強ければ強いほど、本能が表に出ることはない。

 本能が他の動物よりも劣っているというわけではなく、経験値が少ないのだ。

 しかも、動物たちは、本能を意識することなく行動しているのだろうが、人間は本能に気付くことがある。その違いは大きなもので、本能に気付く時、一緒に理性にも気付くのだろう。

 裏を返せば、理性に気付くのであれば、本能にも気付いている。そして、本能に気付けば理性にも気付くはずだ。

 それぞれに表裏一体であり、切っても切り離せない関係になっていることは明白だ。美奈は、最近、そのことに気付き始めた。そこには、

「記憶が欠落している」

 という事実が横たわっているからなのかも知れない。

 美奈に声を掛けてきた男は、確かにこの間のバーで見かけた男性だったのだが、別に話をしたわけではない。彼も美奈を意識していなかったし、美奈も彼を意識したという気持ちはない。

 彼は、年配の男性と話をしていた。ほとんど聞いていて相槌を打っていただけだが、彼への感想は、

「聞き上手っぽそうな感じだわ」

 というものだった。

 それなのに、急に声を掛けてきたことがビックリした。控えめで、知っている女性であっても、道で見かけて声を掛けることができないような男性だと思っていたからだ。

「人は見かけによらないというけど、彼は特にそうなのかも知れないわ」

 美奈の兄は、どちらかというと社交的だった。自分からあまり話しかけることはなかったが、数人の会話では、いつも輪の中心にいた。話題性が豊富なところもあるが、やはり性格的に社交的だというところが強いのだろう。

 美奈は、兄が出て行く前を思い出していた。

 あの頃の兄とよく話をしていたものだが、その中に、家を出ようとしているメッセージが隠されていたのかも知れないと思うほど、兄は饒舌だった。

 そういえば、よく美奈のいいところや悪いところを分析してくれたものだった。辛口なところもあったが、暖かさが感じられた。

「もう、酷いわね」

 と、甘えたように言っても、

「ちょっと言い過ぎたかな? 悪かった。でも、お兄ちゃんの言うことは聞いておくもんだよ。いずれ、必ず思い出すことがある」

 と、急に真剣な表情になった。今から思えば、あんな兄の表情を見たことはなかった。そこにも、メッセージが含まれていたのかも知れない。

「兄は、何が言いたかったのだろう?」

 今さらのように思い出す。それは、まるで、

「美奈なら分かっていることだろう?」

 と言いたげに聞こえたからである。

「私のどこが分かっているというの?」

そういうムキになるところが、分かっている証拠なんじゃないか?」

 きっと兄は、こう返すに違いない。

 会話の想像はつくくせに、言いたいことが分からない。これも、自分の記憶が欠落していることと関係があるんだろうか? 分からないことをすべて記憶の欠落に結びつけようとする自分が、まさか「逃げ」に走っているかのようで、少し自分を信じられなくなりかかっている美奈だった。

 バーで、兄に似ていると思ったこの男性。よく見ると、兄にそれほど似ているわけではない。

 なぜ、兄に似ていると思ったのかを思い起してみると、バーで年配の男性の話を聞いている時の真剣な横顔が、兄に似ていたからだ。

 ただ、美奈は今まで兄の横顔をまじまじと見たことはない。ほとんどが正面きって話すことが多かったので、そう思ったのだが、この男性の横顔を見たことで、兄の横顔に似ていると思いこんでしまったのかも知れない。

 思いこみというのは、一度してしまうと、それよりレベルが下がることはない。時間が経つにつれて、その思いは強くなり、勝手に美奈の中で妄想として暴走していたのかも知れない。

 彼は名前を嘉村幸雄と名乗った。

「嘉村さんは、この間のお店には、よく行かれるんですか?」

「ええ、時々行きますね。俺の場合は結構気まぐれなので、思い付きで行動することが多いんですよ。だから、曜日が決まっているとか、時間的に何時頃ならいるとかいうことはあまり分からないですね」

 これは、兄とは違うところだった。兄は、常連の店を持っていたが、行く曜日も大体の時間も決まっていて、そこに「思い付き」という発想はなかった。

「僕は、行きたい時に行っているつもりなんだけど、結局いつも同じなんだよね。しかも精神状態も同じ。逆に一番行きたくなる時を選んで行っているわけだけど、それが偶然いつも同じなのかも知れない」

 だが、普通に生活していれば、週単位で楽しい時というのはある程度決まっている、翌日から二日間休みだと思い、開放的な気分になれる金曜日の夜など、楽しい気分になるのは当たり前で、誰もがそうであろう。しかし、兄の場合は、普通の人とは少し違っていたような気がする。

「だって、皆と同じだったら、混むだけじゃないか」

 敢えて、人が多くない時を選んでいた。

 兄には社交的なところはあるが、人ごみが嫌いだったり、美奈と同じように、

「人と同じでは嫌だ」

 という思いを持っている。

 思いという意味からいけば、美奈よりも強いかも知れない。

 嘉村と、兄は、雰囲気が最初似ていると思っただけで、知れば知るほど兄とは違う人だということを認識させられる。

「どうして、似ているなんて思ったんだろう?」

 今までにここまで兄に似ている人を見たことがなかった。

 と言っても、兄は今まで誰とも似ていると思わなかった。

 たまたま、自分の知り合いに似ている人がいないだけなのかも知れないが、美奈にとっての兄は一人だけだという思いが強いことから、

「兄のような人は、他にはいない」

 と、思いこむようになったからなのかも知れない。

「嘉村さんは、人と同じだと嫌だって思ったことありますか?」

 似ていないと思いながらも、なぜか兄を意識したような質問になってしまう。

 嘉村という男、最初に兄に似ていると思った以外のところでは、どこと言って特徴のない男に見えた。それは、最初に兄に似ているというインパクトを植え付けられてしまったことで、似ていないと感じると、どうしても平凡な男性にしか見えなくなったからである。だが、そんなに平凡にしか見えない人間が多いとは思えないことから、平凡に見えるということ自体が、彼の特徴なのではないかと思う美奈だった。

「そんな風に思ったことはないな。でも、人と比較されるのは、あまり嬉しいものではない」

 答えも至極平凡だった。

「そうですか? 人と比較されるのって確かに嫌だけど、人より優れているところを人から指摘されるのって、嬉しいものですよ」

 本当は、美奈も人と比較されるのは嫌だったが、なぜか反対のことを言ってみた。

「それでも、俺は嫌だと思うな」

 そう言って、美奈を軽く睨んだ。

 まるで兄と比較していたことを見透かされたようで少しビックリしたが、それでも平静を装っていた。

「でも、今日、ここで会うというのも偶然ですよね」

 と美奈が言うと、

「そうかなぁ、俺はあまり偶然って信じる方ではないんだけどね。出会ったのならそこには何かの意味があるんじゃないかな?」

 言葉に対して逆らいたいのか、それとも、本心から言っていることなのか、それとも、偶然という言葉が嫌いなだけなのか、その時は、彼の気持ちを垣間見ることができていなかった。

「今日出会ったのは、何か意味があるというの?」

 美奈は、彼の返事をドキドキして待った。その返事の裏に、美奈への気持ちが含まれていたらどうしよう? という乙女チックな考えがあったからだ。

「何かあるんじゃないかな?」

 しかし、彼の回答は曖昧なものだった。ガッカリしたというより、肩からガクンと力が抜けていくのを感じていた。

 話し方もつっけんどんに聞こえ、

「そんな言い方しなくても」

 と、ボソリというと、

「口説き文句の一つでもほしかった?」

 と、まるでこちらの気持ちを見透かしたような言い方に、さすがに美奈も苛立ちを覚えたのか、

「そんなもの、いらないわよ」

 と、今度は声を荒げて答えた。明らかにふてくされたような悪意を感じさせる返事だったに違いない。

 知らない人が見れば、どう思うだろう? よほど仲のいい男女が、喧嘩をしているように見えるに違いない。まさか、今日が二回目だとは思わないだろう。しかも、最初は話もしていない。そして二回目は出会ってすぐのことだった。

「なかなか君は面白い」

「茶化さないでよ」

「茶化してなんかいないさ。これで普通だよ」

 今度はニコニコし始めた。

「この男に一体どれほどの表情があるのだろう?」

 と思いながら見ていると、自然と美奈は自分の顔が歪んでくるのを感じていた。

「でもね。そうやって表情豊かに相手に接するといっても、最後には辻褄が合うことになっているのさ」

「辻褄が合うとは?」

「帳尻が合うと言った方がいいのかも知れないね。キチンと、同じ鞘に収まるものなのさ」

「言っている意味が分からないんですけど」

「世の中って、ほとんどが反動で繋がっていると思うんだよね。普通の人には信じられないような発想なのかも知れないけど、普通、世の中って、自然の摂理があって、それにともなって動いているんだって、あまり考えたことのない人にでも、説得力があるわよね」

「それがどうしたというの?」

「つまりは、その人にとって、奇抜な発想であっても、必ず揺り戻しの作用が働いて、辻褄を合わせようとするんだ。たとえば、デジャブなどのような自然現象ではない自然の摂理に逆らうような現象、これもその人にとって、辻褄を合わせようという作用が心の中に働いて生まれてくる現象らしいね」

「私は、何か記憶が欠落しているんだって、ずっと言われてきたわ」

「記憶の欠落というのは、君に限ったことではなく、誰にだってあるものさ。どんな記憶が欠落しているっていうんだい?」

 男の口から出た言葉は以外なものだった。

 記憶の欠落なんて、普通ありえないことだという発想から、ずっと美奈は、自分の欠落した記憶についていろいろ考えてきたのだ。彼の話を聞いている限りでは、

「欠落している記憶について考えるなんて、無駄なことさ」

 と言われているように思えてならない。

「記憶の欠落が誰にでもあることだなんて、簡単には信じられないわ。私の欠落した記憶は漠然としていて分からないの。でも、感覚で感じるのと、私は記憶が欠落しているって教えてくれた人もいたの」

「それは、きっと身近な人なんだろうね。そうじゃないと、他人に対してそんなことを感じることはないだろうし、余計なお世話だと、君がその人に対して思うはずだからね」

 確かにそうだった。兄以外の人から、記憶の欠落を言われても、まず信じることはないし、彼の言う通り、

「余計なお世話だわ」

 と、思うに違いないからだ。

 美奈の返事がなかったので、彼は構わず話を続けた。

「確かに記憶の欠落というのは、俺は誰にでもあることだと思っている。俺だって最初は信じられなかったんだけど、記憶が欠落していると考えると、いろいろ辻褄が合ってくる音に気が付いたんだ。元々、俺の場合、記憶の欠落は人から言われたわけではなく、自分自身で気付いたんだ。学生時代の俺は本当にいつも一人で、孤独を抱いた生活をしていたんだ。嫌だと思ったことはなかったけどね」

「一人でいることが嫌じゃないという気持ちは分かるわ。でも、どうして誰でも記憶が欠落しているんだって言いきれるのかしら? あなたのことは何も知らないけど、この意見一つで、あなたのことをこれ以上知りたいとは思わなくなるようなの」

「俺は君に絶対に自分を知ってほしいと思っているわけではないけど、君が知っているより、君のことをよく知っているような気がするんだよ」

「それは、私自身があなたのことを知っているよりということ?」

「違うよ、君が、自分自身のことを知っているよりということだよ」

「どうして、そんなことが言えるの? あなたとはほとんど会話もしたことないし、この間のお店が初めてで、今日が二度目になるわけでしょう? 私のことを知ることなんてできないはずだわ」

「そこが君の記憶の欠落でもあるんだろうね。君は覚えていないだけで、俺とは面識もあるんだよ」

「えっ、そうなんですか?」

「君が気になるのは、どこで? それともいつ頃? のどちらなんだろうね?」

 彼はにやけながら言った。どうやら、美奈からの回答を分かりきって、わざと質問を浴びせているような感じだった。

 美奈は、逆らいたい気持ちもあったが、敢えてそのまま答えた。

「いつ頃という方が気になるわ」

 彼がしてやったりの表情をしたのがすぐに分かった。美奈も最初から想像していたことだからだ。

 彼は満を持したつもりで答える。

「あれはね、君がまだ中学の頃だっただろうと思う。でも、ここまで言っても、君には絶対に分かるわけがないんだよ」

「どうして、そう言いきれるの?」

「だって、君の意識は中学時代に戻るだろう? そして、中学生に戻った目で、俺を見て、そして、中学生の俺を思い浮かべようとする。顔にはニキビ面の男の子の顔でも浮かんでいるんじゃないかな? 髪型も散切り頭かも知れないね」

 正面の男性の顔には、もちろん、今さらニキビなどあるわけもないし、髪型も、サラリーマン風であった。スーツ姿がもっとも似合っている姿から、中学時代を思い浮かべるには、少々苦労するが、やってできないことはない。

「僕の中学時代を思い浮かべようとしているでしょう? それがそもそもの間違いなんだよ」

「どういうこと?」

「俺はね。中学時代の成長期に頂点に達してから、ずっと成長が止まってるんだ。自分でも信じられないけどね。でも、またどこかで一度グーンと成長して、しばらく止まるのかも知れない。面白いだろう?」

「面白いって……。それを私に信じろっていうの?」

「ああ、信じてもらうしかないんだけどね。と言っても、今までこの話をして信じてくれたやつは、一人もいなかったよ。まあ、これも俺にとっての『人生の辻褄合わせ』のようなものさ、『帳尻合わせ』と言った方が、適切かも知れないけどね」

「あなたも、『辻褄合わせ』なのね?」

「そうだよ。俺たちに限らず、誰だって、大なり小なり、いろいろな辻褄合わせを抱えているということさ」

「それが、あなたの考え方なのね?」

「そうだよ。もちろん、俺の考えなので、強制するわけにはいかないけど、でも、俺の話を君なら信じてくれると思っている。今は頭が混乱しているだろうけど、冷静になって考えれば、少しずつ氷が解けるように分かってくるさ」

「私は冷静なつもりだけど?」

「冷静というのは、冷たいから冷静というわけではない。水面にまったく波紋がないだけが冷静じゃないんだよ。逆に年輪のように穏やかに揺れている場合も冷静と呼ぶ場合もあるし、表面上まったく揺れてなくても、底の方で何かが蠢いていることだってあるんだからね」

 彼の話に、次第に引き込まれていくのを美奈は感じていた。

 兄から話を聞いているような錯覚に陥っていた。兄もこういう話をするのが好きで、美奈は、兄がしてくれる話を聞くのが好きだった。

 しかし、こういう話をするのは、兄とだけだという思いがずっとあったので、正直戸惑っているのも事実だ。どこか小賢しい感じを受けている馴れ馴れしいこの男に、兄を重ねて見るなど、そんな自分をあまりよく思っていなかった。

 それにしても、この男が美奈の前に現れたというのは、本当に偶然ではないのだろうか?

 声を掛けてきたのは彼だったが、彼が美奈のことを知っていたとは思えない。それなのに、まるで中学時代の自分を知っているような言い草は気になった。

 ひょっとして、彼の中での記憶の欠落した部分を思い出すカギを、美奈が握っているのかも知れないと気付いたのではないだろうか。そのことを何かのきっかけ(この間のバーで見かけたこと?)で知り、美奈のことを少しだけでも調べたのかも知れない。それで待ち伏せして、もう一度自分の中で何かを確認したいと思ったのだろうが、彼の中で、美奈も記憶の欠落を意識していたことを知り、自分に優位性を感じたのかも知れない。

 誰もが記憶の欠落した部分を持っているとしても、それを意識しているものなのかどうか、彼は明言していない。きっと、そこはあやふやな気持ちなのに違いない。

 美奈は、彼が兄とどこかで繋がっているのかも知れないとも思っている。彼を見ていて、兄を意識してしまうのは、彼の雰囲気の中に兄を感じるからで、それは色というか、匂いのようなものを、感じるからではないだろうか。

 兄が今どこにいるのか、とても気になっている。嘉村と名乗る男性が現れるまで、正直兄のことは意識していたが、気になっているというところまでは感じなかった。

 いなくなった時は、

「お兄さんも、嫌になることはあるわよね」

 と、いなくなったこと自体を不思議に思うことはなかった。それでも、次第に気にはなってきたのだが、ある日を境に急に気にすることもなくなっていた。

 それなのに、また気になり始めたとすれば、美奈が交通事故に遭った時のことだった。

 それまで、記憶の欠落について、おぼろげに意識していたが、なるべく考えないようにしていた。そして、事故の瞬間に、記憶の欠落が意識していたことすら忘れてしまったようだ。

 それなのに、医者に指摘されて、最初は分からなかったが、次第に欠落した記憶があることを思い出した。

 その時に兄を意識したのだが、まさか、兄と名乗る男が現れるとは思わなかった。

「もし、私の意識がしっかりしていて、兄じゃないと看破したとしたら、どうするつもりだったのかしら?」

 それを思うと、かなりの確率で、美奈が彼を兄ではないと言いきれない何かを持っているのを分かっていなければできないことだ。

 ひょっとして、見舞いに来た男性は、兄が差し向けた人なのかも知れない。

 何かの理由で自分が出て行くことができずに彼を差し向けた。しかし、そんなリスクのあることを、引き受ける人間もよくいたものだと思う。

「兄に何か弱みを握られているのか、それとも、兄にしかできない何かを期待しているのか、少なくとも私の想像もつかないことが、二人の間に成立していたに違いない」

 と、思っていた。

 美奈の想像、いや、妄想ともいうべき考えは、とどまるところを知らなかった。

 兄の行方を、嘉村と名乗る男性が知っているかも知れないと思う。本当なら、無礼とも思えるような態度の男性に対し、ここまで話に付き合うというのは、美奈の中で、何か探りを入れようという確固たる意志が存在していたからだ。

「本当なら、こんな人、相手になんかしないのにな」

 と思ったのも事実。それも最初から感じたわけではなく、

「なぜ、こんな男の話に興味があるんだろう?」

 という思いで最初は話をしていた。

 それが、似てもいないように見えるのに、どうして兄を意識させられたのかということから、彼への興味が深まったことに気付くと、次第に想像を巡らせるようになった自分に気がついた。

 それにしても、嘉村と名乗る男性が中学時代とほとんど変わっていないということを言いたいのだろうが、確かに彼の言う通り、美奈はまず自分が中学時代に戻り、中学時代の目で、彼の中学時代を想像しようとすると、今の彼からは想像もできないほどの少年が思い浮かんでくる。それは、冷静さというよりも、活発な少年である。

 ということは、中学時代から今に至るまでの間に彼にはターニングポイントがあり、性格を変えるほど大きな何かが彼には存在したということになる。

 そのことに探りを入れようとしているが、ふと、美奈は不安に襲われた。

「私は兄の消息を聞いて何をしようとしているのかしら?」

 急に兄に対して、不安を感じた。

 兄と二人きりになった時に何があったか。それを思い出した。

 確かに兄の精神状態が荒れている時ではあったが、今の兄を美奈は知らない。ひょっとすると、自分の知っている兄とはまったくの別人になっているかも知れない。それを思うと恐ろしい。兄が自分から現れるわけではなく、嘉村と名乗る男を差し向けたのだとすれば、自分に会うことができない何か理由が存在しているように思ったからだ。

「兄に、誰か新しい女性がいたらどうしよう?」

 美奈とは似ても似つかない女性。しかも、少しケバい女……。美奈は兄のそばに女性がいるとすれば、そんな女しか思い浮かばない。

 別に清楚な女性が兄に似合わないわけではにないと思う。むしろ、清楚な方が似合っているのかも知れないが、想像すると、どうしても、清楚な女性ではありえない。

「自分以外は、似ても似つかない女性だと思うからかしら?」

 と感じた。

 しかも、兄とその女だけではない。まわりには人が何人かいる。集団の中の中心にいるのが、兄とその女だった。

「これって何なの?」

「今までの兄から、いかに遠い想像をするかという、イメージの限界を見ているようだ」

 と感じた。

「私は、本当に兄が嫌いで拒否したわけではない」

 そのことを、兄は分かっているはずなのに、あの時の兄の表情は、見下ろすような表情というよりも、見下していた。

「お前は、一体何様のつもりでいるんだよ」

 と言いたげな表情に、美奈は身体が竦んでしまって、起き上がることさえできなかった。兄を「他人」として感じた瞬間だった。

 それから、兄の顔をまともに見ることができなくなった。そして、そのまま兄は姿をくらましてしまった。だから、美奈が兄を思い出す時は、どうしても見下された顔しか思い出せないようになっていそのため、兄の顔を思い出したくないという気持ちが作用し、記憶の欠落も手伝って、兄だと言われれば、少々似ていなくても、兄に見えてしまうのかも知れない。

 交通事故に遭った時、運転していた人に見覚えがあると思ったのは。

「もしかして、兄ではなかっただろうか?」

 という意識が頭を掠めたからだった。

 恐怖を目の前にすると、見えなかったものが見えたり、見たくないものが違った形で見えてしまったりするらしいと聞いたことがあるが、

「見たいと思っている人が、恐怖の形で目の前に現れる」

 ということもあるのかも知れない、

 その時に一番思い出せそうだった人の顔をまったく予期していない形相で想像してしまったことで、その人のことを、二度と思い出せなくなることだってありえないとは限らない。

「俺は、君の兄さんから、言伝を持ってきたんだ」

「えっ?」

 嘉村は、そう言って、兄の話をし始めた。

「君のお兄さんは、君たちの前から姿を消しても、君のことを一番気にしていたんだよ。もちろん、君の記憶が欠落していることも気になっているうちの一つなんだよ。でも、それ以上に、君に対してしてしまったことを後悔していた。悪かったって言っていたよ。その気持ちは本物だと思うよ」

「兄は今、どこにいるんですか?」

「君のお兄さんは病気で、今入院しているところなんだ。命に別状があるというわけではないんだが、どうにも時間がないようで、それを気にしていた。本当は会ってやってほしいという思いがあって、俺がここにやってきたんだ。これは君の兄さんの頼みではなく、俺の一存なんだけどね。本当は会いたいと思っているくせに、そのことは一言も口にしなかった。俺には、それが不憫に感じられるんだ」

「兄が私に会いに来れないのは、入院していて、身体を動かすことができないからなんですか?」

「それもあるけど、君のお兄さんは自分から会いに来てはいけないと思っている」

「そんな……。二人きりの兄妹なんだから、遠慮することなんてないのに、そんなに私に対して敷居が高いと思っているのかしら?」

「敷居が高いというよりも、お兄さん自身が、何か考えていることがあるようなんだ。今は放っておいた方がいいと俺は思っている」

 兄は一体何を考えているというのだろう?

 嘉村はそれから一言、

「君のお兄さんは、何か、自分が辻褄合わせをしているんじゃないかって気にしていたんだ。俺が『どういうことなんだ?』と聞いても教えてはくれなかった。お兄さんの中でもその答えが表現できないほど、あやふやなものなのかも知れないね」

「辻褄合わせというのは、私も頭の中に漠然としたものがあって、ハッキリとは言えないんだけど、私の思っている辻褄合わせと同じものなのかしら?」

 一つ気になったのは、美奈が入院していた時に、兄だと言って現れた人。あの人の存在は、今のところ、自分にどういう意味を持たせるのか分からなかったが。

「ひょっとして彼の存在自体が辻褄合わせなのかも知れない」

 と思うようになったが、考えてみれば、世の中の一つ一つを見つめたとして、どれだけの無駄だと思えることがあるだろうか。その中にいくつかは、辻褄合わせになるような存在があり、すべてが無駄なことではないとすれば、

「世の中も捨てたものではない」

 と思うことができる。

 美奈や兄が辻褄合わせと感じていることや、美奈の欠落してしまっている記憶も、無駄に思えることであっても、必要不可欠なものではないだろうか。

 嘉村は、また話し始めた。

「俺は、時々、誰かの生まれ変わりなんじゃないかって思うことがあるんだ。俺が生まれた瞬間、ちょうどその時に息を引き取った人がいて、その人の魂が俺の中に一緒に入ってきたというイメージなんだ……。ということは、俺が生まれることが決まった瞬間に、その人は亡くなる瞬間が決まったのか、それとも、俺が生まれることが決まった時、俺に生まれ変わることのできる人間が決定したのか、どちらにしても、生まれてくる俺が、すべてのカギを握っていたんじゃないかってね」

「そのことを考えるようになったのは、いつ頃からなんですか?」

「中学の頃からだったと思うよ。その頃は、君のお兄さんの存在も知らなかった頃だからね」

「兄とはいつから?」

「ちょうど三年前くらいからだったかな? 彼は君のことでいろいろ悩んでいたようだ」

 兄は、そんなに前から悩んでいたようだ。

「何に悩んでいたのかしら?」

「君のことを好きになってしまったって言ってたよ。その時に、自分の記憶が欠落していることに気が付いたようなんだけど、どこが欠落しているのかが分からない。それが辛そうだった。ただ、そのおかげで、自分の人生は辻褄合わせだっていうことを悟れたのはよかったと思っているようだ。俺も実は彼と似たような思いがあってね。同じように妹を好きになってしまった時期があったんだ。俺もビックリしたんだが、君は俺の妹にそっくりなんだ。顔や見た目がソックリというわけではなく、雰囲気や考え方が似ているような気がする。ひょっとすると、君の欠落した意識を、俺の妹が持っているんじゃないかって思うくらいになったんだ」

 嘉村の目が、次第に男の目に変わってくるのを感じ、身構えてしまった美奈だった。

 嘉村が話した兄の話が本当だとすれば、嘉村も自分の妹を好きになってしまったことで、二人は意気投合したのではないかと思えてきた。

 嘉村の視線に厭らしさを感じると、嘉村がどれほど妹のことを好きになっていたか分かってくる気がする。怖いのは怖いが、そんな話を聞かされると、嘉村も可哀そうな男ではないかと思えてきたのだ。

 そう思うと今度は、自分の兄が、嘉村の妹に対して、今、嘉村が自分に抱いている感情を持ったとすればどうだろう?

「兄を取られてしまう」

 という感情になってきた。

 まさか、兄が好きになる女性に対して、嫉妬しているということになるのであれば、自分も、本当は兄を好きだったということになるのではないか。

 美奈は、混乱してしまった。

 その混乱を招いたのは、目の前にいる嘉村と名乗る男性。

 最初は、

「兄に似ている」

 と思い、面と向かって話し始めると、

「そんなに似ていないわ」

 と、感じた。

 しかし、彼の口から兄の話が聞かされると、今度は、

「兄のようだ」

 と、また感じるようになっていた。

 短時間のうちに目まぐるしく相手への感情が変わってくると、どれが本当なのか分からない。しかし、それでも明らかにしなければいけないと思うと、どこかで帳尻を合わさなければいけなくなる。

「まるで彼の発想のようだわ」

 帳尻合わせと、辻褄合わせ、表現は違うが似たようなものである。どちらもニュアンス的には、

「終わりよければすべてよし」

 というような、プロセスは別にして、結果さえよければ、問題なしにしてしまおうという考えである。

 しかし、逆に言えば、結果から、帰納的に遡り、原因を見つけ出すことが大切な間合いもある。

 今の美奈は、どちらかというと見えない結果を求めるために、プロセスを大切にしているという考えが強い。この考えが、一般的な考えではないかと思われる。

 だが、その理屈だけですべてが理解できるほど、世の中というのはうまくできているわけではない。時には、結果があって、そこから遡ってみることで、自分がどれほど無意識のうちに、うまく立ち回っていたのかということに気付かされることもある。それこそが帳尻合わせであり、辻褄合わせでもある。

「帳尻合わせと、辻褄合わせって、本当に同じものなのかしら?」

 美奈が考えるのは、どちらかが大きく、小さい方は、大きな方にすっぽりと包まれるのではないかという考え方であった。

 美奈は大きな方を、辻褄合わせだと思っている。帳尻を合わせるという言葉のニュアンスは、時間的なものの最後を合わせるという言い合いで使われることが多い。ほとんど時間的なもので、それ以外はなさそうにも思う。しかし、辻褄を合わせるというのは、意味合いとしては理屈を合わせることに繋がる。理屈を合わせるのには、時間的な帳尻も含めて、考えられる。そうなると、やはり帳尻合わせは辻褄合わせの中に含まれると考えるのが、自然ではないだろうか。

「お兄さんは、今どこにいるんです?」

 美奈は、ふと不安感に駆られた。それでも、しっかりとした声で聞いた。それでも指先の震えは止まっていない。次第に痺れに変わってくるようだった。

「君のお兄さんは、もうこの世にはいないんだ」

「えっ」

 今度の声は、蚊の鳴くような小さな声だった。

「どうして……」

 と、呟きながら考えていたが、何となく分かっていたことだった。兄がすでにこの世にいないと言われても、ショックを受けることはないと思っていたのに、ショックを受けてしまった自分に対して、

「どうして……」

 と、呟いたのだ。

 兄がこの世にいないということは、何となくではあるが分かっていた。それを意識し始めたのは、美奈が事故に遭う前後だったように思う。そして、確信めいたことを感じたのは、美奈が入院している病院に、兄と名乗る人物が現れた時だ。

 美奈は、その人を見た時、不思議と安心感があった。兄ではないと分かっているのに、兄だと言ってやってきた人物に気持ち悪さを感じなければいけないはずなのに、安心感を与えられたこと、そこに兄の力が働いているような気がしたからだ。

 しかもその力は、生きている人間では叶えることのできないもの、したがって、兄が今までの兄ではなく、超常な力を発揮できる場所に旅立ったことを意味していた。すなわちそれが死の世界に通じるものだという予感が的中した。

 美奈は、ずっと以前から、兄がいなくなったのは、自分のせいだという気持ちを強く持っていた。最初は、兄を拒否したことが死につながるのだと思っていたが、どうもそうではない。

 理由まではハッキリとしなかったが、自分が与えてしまったショックのせいで死に至るのであれば、美奈が兄の死を予見することはできないはずだ。兄の死が自分以外のところで存在しているからこそ、予見できたのだ。

 しかし、まったく自分に関係がないというわけではないのかも知れない。兄が嘉村の妹に美奈を見てしまい、溺れてしまったような気がしていた。

 彼女がどのような女性なのか分からない。

 もし美奈よりも性格が悪ければ、少々であるなら、兄も目が覚めることもあるだろうが、結構な性悪女であれば、比較した相手が美奈だっただけに、ショックはかなりなものだろう。

 逆に彼女が、天使のような女の子だったとすれば、最初こそ幸運をつかんだ気持ちになって有頂天な日々が続いたかも知れない。しかし、兄が見ているのがあくまでも美奈であれば、ある時突然我に返ってしまい、自分が彼女と美奈を比較して見ていたことに、自己嫌悪を感じ、自己否定に入るかも知れない。

 どちらにしても、相手は美奈ではないのだ。そのことにいずれは気付くことになる。その時どのような精神状態であるかによって、死を選ぶことは十分に考えられる。

 美奈は、兄の精神状態を、頭で分かるというよりも、感覚で感じようと思った。

 頭で考えようとすると、とても考えが及ぶはずはない。自分で作った結界を超えることはできないからだ。

 感覚で感じようとすると、頭で理解する方がより深いところまで入りこめるはずなのに、それができないことに気付いたまま感覚を研ぎ澄ましても、頭で考えるほど、堂々巡りを繰り返し、結界にぶつかることはない。

 他の人であれば、ここまで辿り着いても、感覚に力がないため、予見することはできないが、美奈は予見できたのだ。

「記憶喪失になるには、きっかけがあり、何かショックなことを忘れようとしたり、見なかったことにしようという意志が働いて、記憶を失うことが多い」

 と聞いたことがあるが、美奈の場合のような記憶の欠落は、記憶喪失と同じようにきっかけはあるのだろうが、何かショックなことを忘れるというよりも、これから起こることを予見してしまったことに対し、同じように自分の中で意志が働く。ただ、それは何かの辻褄合わせであることを重々承知で、忘れようとするよりも、むしろ忘れたくないという意志が強く働いた時に起こるものではないだろうか。


 美奈は、自分が交通事故に遭った時のことを思い出した。

「私は、忘れたくない」

 と、強く何かに対し。心の中で叫び続けていた。それがこれから起こる何かだということを予見したまま、交通事故に遭った。

 後ろから誰かに押されたような気がしていたが、後ろを振り返ることはできなかった。咄嗟のことではあったが、振り向けないわけではない。それなのに、振り向けなかったのは、それがもう一人の自分だったからなのかも知れない。

 その時の目撃者は、皆が皆、

「彼女は、フラフラと道に飛び出した」

 と口を揃えていうに違いない。

 もし、それが違っているのであれば、その世界は、元々いた美奈の世界ではなく、背中を押した人の世界となるのかも知れない。

 美奈は、かすり傷で済んでいたが、本当は生死を彷徨うほどの大事故だったはずだ。それを誰も不思議に思わないというのは、本当にあの時の病院は、今のこの世界だったのだろうか?

 美奈が交通事故に遭ったその瞬間。兄はこの世を去っていた。予見だったはずなのに、時間がピッタリだというのは、同じ世界の出来事ではないという証拠なのかも知れない。

 美奈は嘉村を目の前にしながら、自分のことを思い出していた。欠落した記憶が戻ってくるにつれて、美奈は今いる世界に違和感を感じた。

「私はここにいていいのかしら?」

 思わず口にしてみたその先に、逆光に立っている一人の男性を見つけた。両手を広げて待っているその人が、兄であることはハッキリと分かった。

 今の美奈は、何も考えず、兄に向かって歩いていける。

「同じ瞬間に結界を超えないと、会うことのできない場所らしいんだよ」

 と言って兄は、美奈を抱きしめる。

 後ろから押された美奈は、兄と一緒に新たな一歩を踏み出したが、背中を押してしまったもう一人の自分は、欠落した記憶を抱えながら、現世を生きていくしかないのだった。

「俺は、そんな君を、大切に思うよ」

 嘉村はそういうと、美奈のポロポロと頬を伝う涙を拭いながら、抱きしめていたのだった……。


                  (  完  )

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辻褄合わせの世界 森本 晃次 @kakku

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