第2話 第二章

 美奈は退院してきて約二週間は大人しくしていた。

 部屋の中で音楽を聴いて、小説を読む。ポエムを書いてみたりしながら、気分はすっかり芸術家だった。

 その二週間の間に、美奈は一人の男性と知り合っていた。

 彼の名前は井坂吾郎という。

 井坂とは、家の近くのバーで知り合った。その日、美奈はなぜか時間がなかなか経ってくれないのを意識していて、そろそろ夕日も沈む時間だと思って時計を見てみれば、

「なんだ、まだ昼下がりの時間じゃないの」

 と、退院してから十日以上も経つのに、ここまで時間が長く過ぎた日を初めて感じていた。

 記憶が欠落する前の美奈は、一日が長く感じる日を、週に何度か経験していた。慣れているはずなのに、あまりにも久しぶりな気がするせいか、一日を長く感じるなど、久しくなかったように思えてならかったのだ。

 美奈が一日を長く感じる時というのは、妙に疲れやすい日でもあった。

 生理の日など、そんな兆候に見舞われていたし、ストレスが溜まるようだった。一日が長く感じるには、それなりに理由のようなものが存在したが、その理由は多種多様であって、一定していなかった。ただ、共通して言えることは、夕方、風のない時間を感じることができるということだった。それがいつも夕方で、「夕凪」と言われる時間であるということは知っていた。

 夕凪の時間を境に、昼が夜というまったく違う世界に逆転する。そのことを一番分かっているのは、一日を長く感じている日の自分だった。その日の何とも言えない疲れやすい一日は、昼が夜というまったく違う世界に変わると、身体も一変してしまう。

 それまで疲れから食欲もままならなかったはずなのに、日が暮れてしまうと、それまでの気だるさがなくなってくる。そして襲ってくるのが、食欲の復活だった。

 食欲が復活すると、おいしいものが食べたくてたまらなくなる。特に匂いが食欲をそそるもの。焼き鳥だったり、焼き肉だったり、ウナギだったりと、夜の街には、それまで気付かなかった食欲をそそる店がウヨウヨしている。

 いつものように、夕凪を感じようと、表に出た。夕日はマンションの谷間に消えていて、足元から伸びる影を確認することができなかった。

 今までは、夕凪の時間、最初から表にいるので、夕凪を感じている時、反射的に足元を見ている自分に気付く。足元から伸びる影は、これでもかというほど長く伸びているが、決して果てしなさを感じさせるものではない。長さを想像以上に感じるのに、果てしなさを感じることがないという、一見矛盾したような発想にも、合理性があるのだと感じさせるのが、夕凪という時間の魔力なのかも知れない。

 夕凪の時間というのは、

「一日の中で、一番魔物と出会う時間なんだ」

 ということで、この時間が「逢魔が時」と呼ばれていることを知ったのは、高校生の頃のことだっただろうか。

 高校生の頃の美奈は、何でも信じていた。そして従順なところがあり、人に逆らうことを知らなかった。

 人が右と言ったら、迷うことなく右を見ていた。それなのに、自分では、

「人と同じでは嫌な性格なのだ」

 と思っている。

 美奈の中で一番矛盾した人生を送っていたのが高校生の頃だったのかも知れない。

「人に逆らったらいけないんだ」

 という意識が一番強かった。下手に逆らって、その後の報復が怖かったのかも知れない。目の前で苛めに遭っている友達をまともに見てきた美奈だった。どんなに自分だけが虚勢を張っても、どうにもならないことくらい分かっていた。

 子供の世界から、大人の世界に脱皮しようとしていたのが高校時代。

 そう、ちょうど前と後ろでまったく環境が違うのは、昼と夜との違いに似ているからではないか、

「影がどんなに長くても、果てしなさを感じることなどありえない」

 そして、

「昼と夜のまったく正反対の世界には入り口があり、それが夕凪の時間なのではないか」

 という二つの発想が子供と大人の世界の差へと誘った。

 昼と夜の違いは壮大なもので、ちょっと簡単にイメージできるものではない。しかし、一人の人間にとっての、子供と大人の違いというのも、その人にとって、壮大なものであるに違いない。

「私にとっての高校時代は、夕凪のようなものだったんだわ。一歩間違えると、大きな穴に嵌りこんでしまって、抜け出すことができない。そんな思いをずっと抱いてきたのかも知れないわ」

 と、美奈は考えていた。

 高校時代を思い出しながら、いろいろなことを考えていると、気が付けばやっと夕凪の時間になっていた。その日の夕凪はいつもに比べ、時間が長かったように思う。いつもなら十分か十五分くらいのものだと感じ、気付けばいつの間にか、通りすぎている、

 しかし、その日は、なかなか夕凪の時間はしつこかった。

「三十分くらいはあったかも知れないわね」

 と感じたのだ。

 しかも、夕凪が終わる瞬間を感じ取れた気がした。夕凪が終わる時間を感じ取れたことで、夜がやってくるまでにこれも少し時間があった。

「気持ち悪い時間があまり長いというのも嫌だわ」

 早く通りすぎてほしいという意識は今まで夕凪に感じたことはなかった。

「魔物に出会う時間帯」

 と言っても、美奈には他人事だった。

 しかも、夕凪の時間は毎日必ずやってくる。飴の日もあれば、風が元々強い日もあって、夕凪を感じさせない日もあるだろう。しかし、それも影に隠れているだけで、確実に存在する。意識しているのに気付かないというのは、やはり他人事のように思うからなのかも知れないが。それ以外にも理由としていくつか思い浮かぶが、

「帯に短したすきに長し」

 というように、すべて中途半端に感じられてしまう。

「夕凪の時間を意識するのは、中途半端ではない時間を、自分自身で感じたいからなんだわ」

 と美奈は感じるようになっていた。

 夕凪が中途半端であってはいけないという考えは、そのまま子供の世界と大人の世界の違いに直結しているのかも知れない。

 美奈にとって、夕凪の時間が正真正銘の中途半端ではない正味の時間であることを、今再認識しているようだ。

 夕凪の時間が過ぎると、他の人であれば、夜のとばりが下りてくるのを当たり前のように感じられるが、美奈にとってが、時々、そのことに対して、疑問を呈することがあるのを、今思い出した。

 夕凪が毎日一定の時間になるのは分かっている。始まりと終わりの時間にずれはあるが、夕凪の時間というのは一定だ。

 そのことを意識していると、本当にそうなのかが疑問になってきた。

「夕凪が終わらないなんてことはないと思うけど、でも、終わってすぐに夜のとばりが下りるということは、本当に毎日の日課なのかしら?」

 と、考えてしまった。

 そう思うと、毎日当然のように、夜が明けて、昼になって夜が来るという決まっていることも、どこまで本当なのか、考えたこともなかったことに気付かされる。

 天体の法則で証明はされているのだから、当然のことなのに、何を疑問に感じるのか、不思議だった。

「やっぱり夕凪という時間が、何か思考回路に大きな影響を与えているのかも知れないわね」

 と思っている。

 美奈は、夕凪を特別な時間だと思っていたことに、今度は不思議な気がしていた。その時間は、他の朝だったり、昼だったり、夜だったりする時間と、何ら変わりのない。その時間が、美奈にとって、特別な時間でないことは、明白だった。

 時間の一つ一つに疑問を持っていたらキリがない。それは夕凪といえど同じこと、特別な時間だと思えなくもないが、思ってしまい意識してしまうと、毎日同じ時間だと感じていることが崩れてくるような気がするのだった。

 美奈の中で、今まで感じていたことが、少しずつ音を立てて崩れていくのを感じた。

「ひょっとして記憶の欠落とは、今まで感じていたことが少しずつだけど、音を立てて崩れていくのを感じたことから始まっているのかも知れないわ」

 と思うようになっていた。

 家を出てから、どこに行くという当てもなく、ただ歩いているだけでよかった。別に目的地があるわけではない。毎日、同じくらいの時間に家を出て、同じコースをゆっくり何も考えずに歩いている。気が付けば家についていて、時計を見ると、毎日ほぼ同じ時間の帰宅だった。

 所要時間としては、一時間弱程度、家に辿り着く誤差は、一分未満。何も考えずに歩いているからできることなのか、何かを考えていても、歩くスピードは本能なので、さほど変わりがないものなのか、美奈は後者だと思っていた。別に時間に差があろうがなかろうが、大したことではないはずなのに、なぜか気になるのだった。

 その日も同じ時間の同じコース、ただ、いつもに比べて時間がなかなか過ぎてくれないことが気がかりなだけだった。

 だが、時間がなかなか経ってくれないことの影響は、散歩している時にモロに出てきた。最初はさほど違いを感じなかったが、歩いているうちに、次第に疲れを感じるようになって、足の重たさが、身に沁みてきたのだ。

 いつもは一時間弱くらいの散歩なら、途中で休憩を入れずに歩きとおす。何も考えずに歩いているのだから、そっちの方がよかった。しかし、その日は違った。足が重たくてまるで棒のようになっていたこともあって、休憩を入れなければ額から流れる汗が、さらに気持ち悪く感じるようになるだろう。そう思うと、今まではほとんど意識したこともなかったが、途中にある公園のベンチで一休みすることにした。

 足元から影が伸びていた。だが、風もないのに、影が揺らめいて見えたのだが、気のせいであろうか。今まで足元の影を見て、最初から歪で細長いのは分かっていたが、風もないのに影が揺らめいて見えるのは、初めての経験だった。

「やっぱり、今日は疲れているのね」

 と、自分を納得させてみたが、身体の重さは、少しずつ解消されていくのを感じていた。

 身体の重さは、疲れに単純に比例しているわけではない。疲れからは、まず手足の指先の痺れを感じ、頭痛や身体から熱っぽさが感じられ、そこで初めて、身体の重さを感じる。一足飛びに身体の重たさを感じるものではないので、その日の身体の重さも、疲れだけから来ているわけではなさそうだった。

 だが、指先の痺れからは早々に解放され、頭痛もさほど感じたわけでもない。したがって、熱っぽさもなく、ただ、身体が重たいだけだった。

 生理には、まだだった。ただ、生理から生理の間を一クールと見るならば、一クールの間に一度は、身体の重たさを感じることはあった。もちろん、生理の期間を一度と数えると、まったくない時もあるのだが、生理以外で一度くらいは体調の異変を感じ、身体の重たさは常に最後にやってきた。

 公園で休んでいると、西日はすでに沈みかけていて、その日は普段にも増して、赤い色の空を見ることができた。

 夕焼けというのは、まだまだ赤みが足らないが、それでも黄色には程遠い色だった。「沈む夕日を見るなんて、久しぶりだわ」

 前は帰宅途中で、毎日のように夕日を感じていたものだが、ここ最近は、夕日を見ても何も感じなくなっていた。

「それって記憶が欠落したのを実感し始めてからだったかしら?」

 記憶が欠落しているということは、医者から聞かされて分かっていたし、実際に思い出せないこともたくさんあった。しかし、実生活での意識としては薄く、特に入院中では実感が湧かなかった。

 夕日を意識していると、

「本当にあっという間に夜になっちゃうんだ」

 と、思わず呟いてしまうほど、空は黒く染まっていった。

 真っ黒な空の向こうには、星が少しずつ見えてきた。

「いえ、きっと元からあったのが、夜になったことで見えるようになっただけなんだわ」

 と、急に現実的な発想になる。その時に美奈が考えていたのは、

「光や色の加減で見えるはずのものが見えないということもあるんだわ」

 ということだった。

 それは、空に浮かぶ星に限ったことではない。実際に生活していても同じような現象が起こり得ているのかも知れない。それは心理的な面で、人の心であったり、感情であったり、普段から「見える」という概念とは違ったものであっても、光の加減が力を及ぼしているのかも知れないと感じていた。

 美奈は、身体の重たさから解放されると、その反動で、今度は身体を持て余してしまうほどの余力が戻ってくることがある。その日も身体を持て余し、身体が軽くなった気がしていた。

「このまま帰るのって、もったいないわね」

 と感じ、以前から気になっていたバーに寄ってみることにした。

 お腹も適度に空いていて、カクテルを呑みたい気分になっていたのだ。

 交通事故に遭ってから、アルコールは口にしていない。別にドクターストップがかかっているわけでもないし、事故のせいで、アルコールを受け付けなくなったというわけでもない。ただ単純に呑みたいと思わなかっただけだ。

 以前から気になっていたバーは、公園から程遠くないところにある。

 公園で休憩しようと思ったのは、最初からバーのことを意識していたからではないかとも思えてきた。

 公園を一歩踏み出して、足元を見ると、空が真っ黒な膜に覆われてしあったことで、光の恩恵を受けられなくなった。その分の光の恩恵は、路側に一定区間に立てられている街灯だけなのだが、数か所から当たる街灯のせいで。足元から伸びる影は、足を中心にして、数本伸びていた。

 それはまるで忍者の分身の術のようであり、歩くたびに、足元を中心にグルグル回って見えるのは、実におかしな光景だった。

 足元ばかり見て歩くと危ないので、舌を向いたり、前を向いたりと、首が疲れてくるほどの忙しさだ。そのせいもあってか、だいぶ歩いたつもりになっているのに、ほとんど進んでいないように見えるのもおかしなことだった。

 店が近づいてくると、ひと際明かりが煌々として見えてきた。それでも、中にお客はほとんどいないのではないかと勝手な想像を巡らせていると、まだ入ったこともない店の雰囲気を感じ取れるような気がしていた。

 今までバーと呼ばれるところに一人で入ったことのなかった美奈にとっては、勇気のいることだった。だが、それも記憶が欠落しているおかげなのか、この程度の勇気など、何でもないことのように思えた。

 記憶の欠落は、今までの意識を一変させた。

「何て、白々しかったんだろう?」

 と、感じることもあったり、

「悩みなんて言えるほどのことではないわ」

 というようなことを、真剣に考えていて、堂々巡りを繰り返していたりした。

 今から思えばそんなことは、

「敢えて答えを求めようとはしない行動を、自分の中で正当化させようとする意識が働いた」

 というだけのことにすぎなかった。

 ただ、正当化させようとしたことが、帳尻合わせだけにとどまっているのかどうかで、かなり解釈が違ってくるものになるのは分かっている。

 帰宅とは反対方向で、しかも、途中から脇道に逸れる。夜が更けた時間に、家と反対方向に向かって歩くなど今までになかったことなので、新鮮な気がしてきた。

 街灯は公園の近くまでに比べて、少し少なくなってきた。しかも、切れているものもあり、薄暗かった。それでも、何とか五分も歩けば、目的地に辿りつける。明々と煌々しく見えたのは、それまでが暗かった影響もあるのかも知れない、

 店に近づいていくと、さっきまでと打って変わって、あっという間に店の前まで辿り着いていた。

 そこからは早かった。

 店の扉の取っ手を握ったかと思うと、一気に扉を開けて、中を見渡した。こじんまりとした店内からは、テーブル席が目につき、その向こうのカウンター越しにマスターが洗い物をしている。

 カウンター席の手前の方に二人の男性客が座っていたが、扉の反応に気が付いて、こちらを見ていた。二人とも意外そうな表情をしている。

「一見さんが来るなんて、久しぶりだよな」

 と、手前側の年配の男性が隣に座っている美奈とほぼ同年代と思しき、大人しそうな青年に語り掛けている。

「ええ、そうですね」

 と、最初に驚いた表情とは裏腹に、落ち着き払って、返事している。

 二人は、そう言うと、すぐに前を向き直り、静かにグラスを口に向けていた。ジャズがBGMで流れているが、聞いたことがあるようなないような音楽を聴きながら、今度はまるで時間が止まったかのように、美奈は凍り付いて、立ちすくんでいた。

「いらっしゃいませ」

 最初は無視しているかのように見えたマスターが、そう言って、声を掛けてくれなければ、そのまま凍り付いたままだったかも知れない、その声を聞いて、我に返った美奈は、カウンターの奥まで歩み寄ると、一番奥のイスに腰掛けた。

 店に入ったことを、少し後悔していたが、考えてみれば、バーというのは、そもそもこうう雰囲気の店である。以前に馴染みにしていた店もあったが、そこは、店内も明るく、店員も客も多かった。

 何よりも店自体が広く、明るい雰囲気なのは、その店がチェーン店になっていて、店には店員に対してのキチンとした接客マニュアル存在や、店の雰囲気づくりには徹底した考えが張り巡らされているようだった。

 そんな店なので、来客者も素性の知れたような人しか来ないので、客が嫌な気分になるようなことはなかった。美奈は女友達数人で行くことが多く、今から考えれば一人で入ったことはなかったような気がする。ただ、今から思い出す記憶は、かなり前のもののように思えてならないのが、気になるところだった、

「そんなに私は、そのお店に行ってなかったのかしら? 最後に行ったのはいつだったんだろう?」

 思い起してみると、一年以上前の記憶しかないような気がした。

 そこまで考えてくると、

「そういえば、覚えている記憶のほとんどは、一年以上前のことばかりだわ。ここ一年の記憶というと、どれもが中途半端で、歯抜けの状態になっていて、まったく繋がっていない」

 一年前のある日が、その分岐点になっているような気がする。

――一年前のある日――

 それがいつのことだったのか正確には覚えていないが、出来事自体は、少なからず覚えているような気がする。

 そう、あれはちょうど一年くらい前のことだった。兄の建夫が美奈の前から姿を消した。その理由が何だったのか、今だったら、思い出すことができる。それが美奈の中でのターニングポイントになった日である。

 美奈は兄の建夫が好きだった。

 高校時代くらいまでは、兄として尊敬し、兄の考え方の独創性に憧れすら持っていた。友達の間では、

「美奈のお兄さんは、いつも一人で暗くて、何を考えているか分からないところがあって、気持ち悪い」

 というのが、大多数の意見だった。

 どんな意見であっても、美奈に対しては糠に釘だった。何を言われようとも、美奈は兄のことが好きだった。

 いや、そんな噂を立てられれば立てられるほど、兄を尊敬し、

「私も兄のようになりたい」

 と思うようになっていた。

 心の中でまわりの友達には、

「兄のことを何も知らないくせに」

 と、思っていて、何よりも、まわりが毛嫌いするのだから、自分が独占できることに喜びを感じていた。

 そんな兄は、

「俺は他の人と同じでは嫌なんだ、人が毛嫌いすることでも、誰もしないことなら、俺はする」

 どこか開き直ったような言い方をしていたが、美奈にはそれが「潔さ」に見えて、尊敬の念を抱いたのだ。今の美奈の性格の基礎は、兄からの今の言葉にあるのかも知れない。

 人の性格というのは、持って生まれたものと環境に左右されるというが、環境の方の大部分は、兄の影響を受けていると言っても過言ではない。

 そんな兄に、一年と少し前、彼女ができた。その女性は美奈とは似ても似つかない女性で、派手なところのある人だった。

「兄は騙されているのかも知れない」

 おそらく兄が女性と付き合うのは初めてだったのだろう。それまでの知っている兄とはまったく変わってしまい、毎日が有頂天だった。

「彼女のために」

 と、ずっと思っていたに違いない。

 そんな兄の姿を見ているに忍びなかったが、美奈は複雑な心境だった。

 もし、兄と付き合っている女性が、美奈と似ている女性だったら、どうだっただろうか?

 美奈には耐えられない心境だったに違いない。まったく違った雰囲気だったことだけが、美奈の中では不幸中の幸いだった。

 兄にとって、その女性と付き合っている一か月は本当に幸せに思えていたのだろう。しかし、その後に地獄が待っていうなんて、まったく想像もしていなかったに違いない。

 付き合い始めて、約一か月と経っていない頃、兄は急に相手の女性から別れを告げられた。理由は、

「あなたと一緒にいると、疲れる」

 という何ともわがままな内容だったが、兄のように純情で、女性と付き合ったことのない男性であれば、そんな納得いかないような理由で十分だとでも思ったのだろう。

 だが、もしその理由が本当であれば、まだ救いだった。本当の理由は、相手の女が二股を掛けていて、兄が敗れたということだった。たったそれだけのことなのに、どうして兄が苦しまなければいけないのか、こんな理不尽なこと、今までに美奈は、見たことがなかった。

「裏切り者」

 美奈は、心の中でそう叫んだ。兄にはとても本当のことを話せるわけがない。

「お兄さん、大丈夫?」

 と言って、慰めるしかなかった。

 しかし、兄の落胆の激しさは尋常ではなかった。これがあの尊敬していた兄なのかと思っただけでも悲しくなってくる。そんなある日、

「何だよ、その目は。憐みの目なのか、それとも嘲笑ってやがるのか、どっちなんだ? どうせ俺みたいなダサい男には、女なんて寄ってこないよ。惨めな兄を笑いたければ笑え」

 と、やけに絡んできた。

「お兄さん、しっかりしてよ。たかが女一人のことじゃない」

 美奈は、兄の取り乱した姿を見て、口にしてしまってはいけないことを口にしてしまったようだ。完全にパンドラの匣を開けてしまったようだ。

 兄は、その瞬間キレた。

「何言ってやがる。お前なんかに何が分かるっていうんだ」

 そう言うなり、美奈に襲い掛かった。

 恐ろしいスピードで、美奈の服が剥ぎ取られる。スカートを履いていたので、もみ合っているうちに下着が丸見えだ。兄の欲情に火が付いてしまった。

 しょせん、男の力に逆らえるわけもない。必死に抗ってみても、力が及ぶわけでもない。むしろ、相手が余計に興奮するだけだ。

 下着だけにされてしまった屈辱と、兄の今まで見たことのない形相にすっかり覚えてしまった美奈は、身体の震えが止まらない。

「このまま、兄に蹂躙されてしまうんだわ」

 と思うと、急に身体の力が抜けて行った。

 安心したのか、兄の手の力も徐々にゆるくなってきた。

 兄が、美奈の身体を優しく撫でてきた。さっきまでと違って、心地よい。

「お兄さん」

 美奈は。今度は覚悟ではなく、自分の中で兄を求めている自分に気が付いた。まったく変わってしまうまでにどれほどの時間を費やしたのか、美奈にはハッキリと分からなかった。

 次の瞬間、兄の手が震えだしたのを感じた。その時、初めて美奈には、兄と自分の立場が逆転したことを悟った。

 さっきまで恐怖に震え、血の気が引いていた美奈からは考えられないような余裕が、美奈の中にはあった。

「相手を憐れむには、自分に余裕がないとできないんだわ。余裕がない時に憐れむと、相手を余計に惨めにするだけなんだわ」

 という気持ちになっていたのだ。

 確かに憐れむ時の優位性は憐れむ方にないといけない。

 心に余裕のない人間が、相手に対して優位性があるわけもなく、立場の認識を間違えると、相手に対して失礼に当たるだけではすまなくなるだろう。

 兄を慰めるには何をすればいいのか、そればかりを考えていると、その時、兄の心境に大きな変化が起こり始めていることに気が付いた。

 それまで見たこともないような表情で悲しんでいることで、豹変していることも分からなくなっていた。

 兄の表情は、すでに兄としてではなく、オトコの顔になっていた。

 なぜ、そのことにすぐに気付かなかったのかと言われるかも知れないが、実は気付いていた。兄に対して何もできない自分に対しての憤りと、さらに皆が哀れもうとしていることで、余計惨めにさせられた兄の屈辱感がそんな表情にさせたのだと思っていた。

 兄がオトコになって美奈に抱きついてくるまで、どれくらい時間があっただろうか?

 美奈にはあっという間の出来事だったような気がするが、当の本人である兄には、かなり時間を要したと感じたのではないだろうか? その間にどれほどの紆余曲折が瞬間瞬間にあったのか、美奈には理解できる範囲ではなかった。

「お兄さん、やめて」

 美奈は、抵抗してはいけないと思いながら、女の性で、抵抗してしまった。

 だが、それこそ、兄の「思うツボ」だった。

 兄の顔は狂気に満ちていた。狂気の感覚が、平常心を凌駕したのだ。

――こんなことって本当にあるんだ――

 精神を凌駕する狂気など、なかなかお目に掛かれるものではない。美奈は急に冷静になって、兄の顔をしっかりと見つめた。

「何だよ、その顔は。俺に何の文句があるんだ。憐れんだ目をしやがって、お前は何様のつもりなんだよ」

 兄の罵声は酷かった。相手を完全に妹として見ていない。完全にメスとしてしか見ていないようだ。

――これが兄の本性だったのかしら?

 サディスティックな男性の存在を知らないわけではないし、その手の映画を見たこともあった。

 しかし、身内に、しかも一番身近だと思っていた兄が、サディストだったなど、今さらながらに信じられない心境だった。

 ただ、子供の頃の兄は、よく女の子を苛めていた。親やまわりは気になっていたようだが、妹である美奈には、そこまで気になることではなかった。

「これも兄の性格。悪いことだとは思わないわ」

 と、兄のすることは、どうしても贔屓目に見てしまう。それが今も残っていて、

「兄が襲ってきても、抵抗しないようにしよう」

 と思っていた。

 しかし、実際に襲って来られると、抵抗してしまう。これが本能というものなのか。本当に危険を感じたのである。

「さっきのは、本当に兄だったのかしら?」

 と、兄が美奈に罵声を浴びせて、今度は頭を抱えて丸くなって震えている兄を見ながら感じていた。

 こんなにも短い時間に、何度も豹変してしまう兄を見ていると、涙が出てきた。

 この涙は憐みの涙ではない。襲われたという恐怖の涙でもない。しいて言えば、

「打ちひしがれている兄を見て、何もしてあげられない自分に対しての涙」

 なのではないだろうか?

 涙は、喜怒哀楽、その精神状態でも流れてくるものだ。

 ということは、いつ何時、涙が流れてくるか想像もつかないということである。涙ほど流動的な精神状態を正確に表しているものはないのではないだろうか?

 そう思うと、美奈は、震えながら涙を流している兄の涙に対して、まったく違和感を感じない。

 兄に襲われたという感情は、これがもし、他の知っている男性から襲われるよりも、まだマシなものだと思っていた。

 今まで他の男性に言い寄られたこともないのに、襲われるなどありえないことだったが、オンナとしての部分を持ち始めた美奈は、誰にも言えるはずもないが、密かに「強姦願望」を持っていた。

「サディストに、蹂躙されたい」

 それは、すなわち自分がマゾであることを示しているということだ。

 それなのに、兄に襲われたというだけで、ビックリしてしまい、今まで自分が考えていたことをすべて否定しなければならなくなったことで、美奈は大きなショックを受けてしまった。

 その思いがいきなりトラウマに繋がったわけではないが、兄への感情が自分の中で間違っていたということが、自分を殻に閉じ込めることになったのは間違いない。

「兄が悪いんじゃないんだ」

 すべては自分が悪いのだと、兄を庇う気持ちが内に籠ってしまう性格を作り出した。美奈にとって、これまで兄は絶対の存在であり、自分の中で逆らうことのできない存在だった。

 兄の中に、他の男、つまり、美奈の中にある「強姦願望」のオトコと被ってしまったことがショックだった。

「兄は私にとって神聖な存在で、他のどんな男たちとも違うんだ」

 兄は、他の男たちと同じことはしない。もし、したように見えても、どこかが絶対に違っている。兄は本当に神聖な存在であると思っている。そんな兄が、自分の妄想の男性たちと同じことをするわけはない。

「少しでも違っていれば、兄を受け入れたかも知れない」

 と思ったが、あの場で、違いなど探せるわけもない。それだけ、ショックによるパニックは酷かったのだ。

 他の女性にフラれて、その憂さを妹で晴らそうとした……。

 本当なら、そんな兄を許せるはずなどないのだが、必死で許そうとしていた。それだけ美奈の中で兄の存在は大きなもので、

「あの時の兄はどうかしていたんだ。私が信じてあげないと誰も信じる人がいなくなってしまう」

 と思った。

 この思いは、逆に、

「兄を今なら独り占めできる」

 という考えにも結びついている。

「兄を一人占めすることができたら、私は、兄だけを見て生きていけるんだわ」

 と思うようになり、兄をフッた女性に感謝すらできるくらいだった。

 だが、兄の気持ちを一番分かってあげていると思った美奈が、本当は分かっていなかったことで、兄は頭の中がパニックになったのだろう。

「ひょっとすると、兄も私のことを好きなのかも知れない」

 兄妹で、男女関係や、恋愛感情など、タブーだということは分かっている。しかし、相思相愛なら、誰に止めることができるだろう。

「恋愛は自由だというのに、どうして、兄妹だとダメなの?」

 と理不尽な思いを繰り返す。

 しょせんは、誰かが決めたこと、ただの迷信のようなものなんじゃないかと、美奈は必死に考えた。しかし、太古の昔から言われていることだ。そう簡単に否定することなどできるはずもない。

 兄に襲われた美奈がパニックになったのは、兄妹での恋愛や男女関係はタブーだということを意識した証拠ではないか。美奈がショックを受けた理由の大きな部分に、そのことを信じていた自分への憤りがあったことは否めない。

 要するに、いろいろな思いが重なり合って、兄と自分の関係を否定しなければいけない自分に一番憤りを感じているのかも知れない。

「それにしても、襲われていてパニックになっている中で、どれだけのことを考えたのだろう?」

 と美奈は感じた。

「ごめんなさい」

 美奈は、思わず呟いた。

 それは拒否してしまった兄への思いなのか、いろいろな憤りを感じている自分に対しての思いなのか、

 その時の美奈は、言葉にできるとすれば、一言、

「ごめんなさい」

 と呟くしかなかった。封印してしまった記憶を、意識が伴っているとすれば、その時にもきっと、今の言葉を呟いたに違いない。

 最初こそ、力のこもった兄の腕で蹂躙され、動くことすらできなかったが、すぐに兄の手から力がなくなっていった。

 最初は兄の手の力が強すぎたことで動くことができないと思っていたが、実際にはそうではなかった。兄の鋭い眼光が、美奈の心に突き刺さり、動くことを美奈自信が否定していた。

 しかし、美奈が我に返り、兄の顔を凝視できるようになると、今度は、美奈の腕を掴んでいる力が次第に震えに変わっていくのを感じて、兄の表情が情けないものに変わっていた。

「どうして、そんな顔をするの? お兄様」

 美奈は、初めて兄のことを、

「お兄様」

 と呼んだ。

 今まで自分を蹂躙していたはずの相手なのに、相手が震えてるのを感じると、明らかにそれまでの感情が変わってきたのを感じ、呼び方に微妙な変化を与えた。

 しかし、表現は微妙でも心境は大いなる変化である。美奈は、兄に対してどうしてほしいと思っているのか、そして、自分がどうしたいのか、この状況で、必死に模索していたのだ。

 兄に対しての気持ちと、その時の自分への気持ちと、そのどちらが強かったのか、美奈には思い出せない。しかし、その時美奈の前には兄だけがいて、兄の存在が、自分の中で、自分よりも大きくなっていたのではないかと思えるほど、自分を思い出すことができなくなっていたのは確かだった。

 力が弱まった兄の手を払いのけることは、美奈にはできなかった。

 力のない手で、兄に抱きしめられながら、明らかに情けなさを前面に出している兄に対し、憐みを感じている自分に気が付いた。

「すまない、美奈」

 顔を美奈の胸に埋めながら、兄は詫びた。

 兄は顔を上げることができない。身体はまだ震えている。震える兄の身体を軽く抱きしめながら、美奈は、天井を眺めていた。

 兄のことを思い出したからと言って、欠落した記憶が戻ってくるような気はしなかった。

 一年前の兄のことを思い出すと、美奈にとって、一年前のことがそれほど遠い過去ではないのではないかと思うようになった。

 思い出してしまった過去から、今を見ようとすると、今度はここ一年間の記憶の方が、遠い過去のように思えてならなかった。

 兄のことがあって、少し気が滅入りかけていたちょうどその頃、美奈は自分が誰かに見られているような気がして仕方がない時期があった。

「気のせいだわ」

 と自分に言い聞かせてみたが、そう簡単に気を紛らわすことはできない。それが、あの時の兄の視線に似ていたからだ。

「震えながら謝っている情けない視線」

 見上げるその眼は、何か物欲しげで、とても尊敬に値するものではなかった。そんな目ほど気持ち悪いものはない。相手が誰だか分からないところも気持ち悪く、今まで兄にしか感じたことのなかった気持ち悪い視線を、他の人から浴びるということを、絶対に許すことのできないものだと、美奈は感じていた。

 その人の存在は、夕方が多かった。

 仕事が終わって会社を出てから、普段はそのまま直行で家に帰る。その視線は、会社を出る頃から始まっていた。

 夕日を見ながら歩いていると、その男の存在を忘れるくらい綺麗な夕日を感じていた。会社の帰りに通りかかる小高い丘が、展望台のようになっているが、美奈はそこから夕日を見るのが、学生時代から好きだった。

 夕日を見ていると、その日何かをしたわけではなくとも、気だるさを感じる。それほど暑くない日であっても、汗が滲み出て、汗が身体に纏わりつくのを感じると、それが気だるさに結びついていた。

「この場所でなければ、ただ、気持ち悪いだけなのに」

 美奈は、この場所であれば、気だるさも心地よさに変わると思っている。

 綺麗な夕日が、そう感じさせるのか、それとも、時々吹いてくる風に心地よさを感じるのか、いろいろ考えてみたが、やはりこの場所の雰囲気全体が醸し出しているものに、心地よいバランスを感じるからなのかも知れない。

 小高い丘を夕日の時間帯に通りかかるのは、卒業してからの方が多くなった。仕事を定時に終えて、残業もなく帰ってくると、春以降であれば、ちょうど夕日の時間に差し掛かることができる。夏の日が長くなった時でも、どこかで時間を潰して、わざとこの時間に合わせて帰ってくるようなことをしたこともあったくらいだ。

 ちょうどその頃は、時間調整などしなくても、夕日の時間にちょうどよかった。その日もいつもと同じように展望台に差し掛かったのだが、その日は、何かを考えながら帰ってきたようで、夕日を見るまで、自分が何を考えていたのか、そして、まわりの景色をまったく意識していなかったことを、感じていた。

「いったい何を考えていたのかしら?」

 美奈の記憶の欠落には、規則性はなかった。ところどころ抜けているのだが、一つが大きく抜けているというわけではない。逆に細かいところでは覚えているのだが、大きく捉えた時の記憶が曖昧だったのだ。

 石でできたイスが、二つほどあるその場所は、道から少し入りこんだところにある。少し突き出したような地形になっていて、道が一直線に伸びるようになっているので、その突き出した部分を展望台のようにしているのだった。道の反対側は断崖になっているが、展望台の方から下は、少し緩やかになっている。それでも石の敷居が作られているのは、底から人が落ち込まないようにするためだ。もし、そこから落ちれば、民家の裏庭に一直線、敷居が立っていて当然だ。

 美奈は、時々イスに座り、夕日を見ることがあった。その時は最初からこの場所を意識していることが多かったが、その日は、この場所に差し掛かった時、急に思いついて、イスに座った。

 学生時代の頃に感じた気だるさを思い出したからなのかも知れない。

 気だるさの中に、汗が滲んでいるのは、学生時代と同じだった。ただ、学生時代と違って、今は化粧を施している。

 短大時代も化粧をしていたが、OLになってからでは、また違っていた。その日は、滲み出る汗に混じって自分の身体から滲み出ている香しい匂いに、急に懐かしさを感じた。

 懐かしさは、子供の頃に遡る。

 誰か大人の女性の後ろを黙って歩いていた記憶を思い出した。その後ろ姿は、明らかに母親ではなかった。母親の後ろ姿などまったく覚えていない美奈だったが、少なくとも母親の後ろをついて歩いた記憶はない。憎みこそすれ、慕って後ろからついていくなど、ありえないことだった。

 母は、美奈たち兄妹が、後ろからついてくることを嫌った。理由は分からないが、子供が嫌いだったようだ。

「それなら、どうして生んだのだろう? しかも二人も」

 その理由は、後から分かった。

 母親には、夫と呼べる人が二人存在した。最初に結婚した相手との間に兄が生まれ、そして次に結婚した相手との間に、美奈が生まれたのだ。兄妹がそのことを知ったのは最近のこと、だから、兄が美奈に迫って、男女の関係になったとしても、それは兄の中で気持ちが整理しきれなかったからなのかも知れない。

 しかし、その話を聞いて、美奈は冷静だった。

「そうなんだ」

 と、言葉にすれば、たった一言、これだけで終わることだった。

 やはり、子供への愛情が薄いのは、一緒にいた男性に対しての愛情が薄かったからなのかも知れない。

「やっぱり、私はあの母親の娘なんだ」

 と、今なら感じる。

 好きな人ができても、いつも尻すぼみである。最初は熱を上げていても、次第に冷めてくる。逆に相手の男性の方は、最初はそうでもなくても、後から美奈を好きになってくるのだから、お互いにすれ違ってくる。

「なんで、そんなに冷静になれるんだよ」

 と、相手の男から罵声を浴びせられても、仕方がないことだった。

「冷めちゃったんだもん」

 としか言いようがないが、それを口にすることはない。それだけの勇気を持ちあわせていないというべきか、それとも、いざとなると、潔さがなくなるというべきであろうか。美奈が自分のことを分からない一つの部分であった。

 その頃から母親を好きだとは思えなくなった。理由も分からず、毛嫌いされるなど、子供の理屈には完全に想定外である。

 母親を慕うことができないと思うと、余計に三十代前後くらいの女性が、どうしても気になってくる。年齢としては、母親よりも少し若いくらいが一番いい。母としてだけではなく、姉としても慕うことができると思ったからだ。

 その頃に慕っていた女性の後ろ姿を、美奈は思い描いていたのだろう。その人の後ろをついて歩いた記憶はあるが、なぜか、記憶の中の後ろ姿が、その人だと断言できない自分がいた。

 その女性の後ろ姿が母親でないことはハッキリと分かったのだが、どこか母親の面影を感じさせるところがあった。

 その後ろ姿に子供の頃慕っていた人を重ね合わせたのは、後ろ姿に母親の面影が残っていたからだった。

「憎んでいるはずの母親の面影を消そうとして、無理をして誰か他の人を思い出そうとでもしているのかも知れない」

 その思いは、半分当たっている。

 今、自分がしている香水。これは昔の懐かしい香りを覚えていて、好きになった香りだった。この香りが、実は母親の香りだったということを思い出したのが、本当に最近だった。

 そう、記憶の欠落を感じ始めてからで、一年前のあの頃には覚えていなかったことだ。

 美奈の記憶の欠落は、欠落だけを招いたものではない。少しだけではあるが、子供の頃に忘れてしまったような些細な記憶を、思い出させる効果があった。

 記憶の欠落を招いた交通事故で入院していた時には、そこまで気付かなかったが、明らかに交通事故の前には意識していなかったことを、今では意識するようになっていた。

「病院のベッドで、毎日同じような生活をしていたのなら、思い出すものも思い出さないのかも知れないわ」

 と思っていたが、微妙なところで、その考えも当たっていた、

 ということは、今は欠落している記憶も、今までの生活に戻ってしまえば思い出すことになると考えられなくもない。

 ただ、それを美奈は、よしとしないような気がする。それは、欠落した記憶が、自分の中で作為的に行われたことだとすれば、いくら元の生活に戻ったとしても、思い出すはずがないと思うからだ。

 逆に思い出してしまえば、自分の意図と反対になってしまうことで、美奈は自分の目的が果たせない自分を、果たして許せるであろうか?

 母親の後ろ姿を覚えていないのは、きっと、自分の面影がそこに存在していることを悟っているからなのかも知れない。普通なら自分の後ろ姿など、一番確認できない場所のはずなのに、それが分かっていて、どうして後ろ姿なのか? 美奈は、自分が本当に母親をどこまで憎んでいるのか分からなくなってきた。

 学生時代の美奈は、比較的男性に人気があった。

 ツンデレ風に見られるが、どこかあどけなさが残っている。

 そんな女性だというイメージで見られていたことを、友達から聞かされた。

「あなたは本当に役得よね。普通逆なら分かるのに、ツンデレ風の雰囲気の中にあどけなさが見えるような女性なんて。そんなにいないわよ」

 と、その友達は美奈を羨ましがっていた。

「そんなことないわよ。それより、私はツンデレ風なの?」

「そうね、どこか男性と距離を置くような雰囲気に見えるんだけど、それでもあどけなさが残っているんだから、最初はマイナス要素から始まって、最後にはプラスになるのだから、そのプロセスにおいての進化は、やっぱり女性の私たちから見ても、羨ましい限りだわ」

「そういえば、高校の時の女の先輩から、『あなたは、女性からも好かれるタイプだわね』って言われたの。その時に、女性からもって言われたことで、ひょっとして、男性からもモテるようになるのかしらって思ったの」

「高校時代までは少し雰囲気が違ったのかも知れないわね。きっと短大時代に変わる要素のようなものがあったんでしょうね」

「私には分からないの。短大時代は確かに他の大学の男性から、言い寄られたりしたけど、私のどこが好きなのかって聞いたら、皆、言葉を詰まらせていたわ。私のどこが好きなのかハッキリと答えられないような人とはお付き合いできないと思っていたので、ほとんど男性と付き合ったことはなかったわ」

「その答えを付き合う前から求めようとしているあなたは、すごいと思うわ。でも、その答えを求めたい気持ちは分かる。あなたにはきっと理想の人がいて、その人だったら、きっとそんなことは聞かないでしょうね」

「私の理想の人?」

 美奈は、その時考え込んだ。自分の理想の男性が誰なのか、すぐには分からなかった。しかし、しばらくすると分かったが、それを口にすることはできなかった。

 それが自分の兄だということを悟られたくないという思いと、

「本当にそうなんだろうか?」

 と、考えている自分との間にジレンマのようなものがあったからだ。

 美奈は自分が果たして本当に誰が好きなのか、永遠のテーマなのだろうと思うようになった。兄だということを自分で認めたくないと思っている以上、他の男性の中に理想の人を見つけることができるかどうか、疑問だったからである。

 好きになる男性の基準は兄だった。兄の雰囲気を持っている男性を好きになるというのが、美奈の恋愛への第一歩だった。

 しかし、兄に襲い掛かられて、しばらくの間トラウマが取れなかったことから、

「私は、誰かを好きになったり、好きになってもらえる権利なんてないんだわ」

 と思うようになっていた。

 そんな時、兄が家を出て行ったのだ。

 急のことだったので、美奈も家族もビックリしたが、兄の消息を家族も探そうとしなかった。

「こんなにまでアッサリとされてしまったら、私は誰を恨めばいいの?」

 と美奈は考えた。

 兄を恨むのはお門違いである。ただ、理由が何にせよ、自分には何らかの形で示してほしかったと思っている。

 父親よりも、母親の方がアッサリとしていた。まるでいなくなってせいせいするとでも言いたげな態度に、美奈も家を出て行きたいと思うようになっていた。

 実際に家を出て行こうと計画はしていた。しかし、その計画が脆くも崩れ去ったのが、この間の交通事故だったのだ。

「家を出ようなんて考えたから、バチが当たったのかしら?」

 と、思ったが、何もバチが当たるようなことを考えていたわけではない。

「親は、どうせ私たちがいない方がいいんだわ」

 と、考えてみたが、これほど、虚しいものはない。親から相手にされていないと気付かされたことへの虚しさではなく、今までずっと生きてきて、ずっと変わらない状態が続いてきた虚しさだった。

 つまり、ずっと家族の誰がいなくなったとしても、悲しんだり、悔やんだりなどしない環境だったということに、まったく気付かなかった自分に、虚しさを感じるのだ。

 結局、兄を探すということを誰もしないまま、一年近くが経っている。その間に美奈が交通事故に遭ったのだが、この時も母親が世話を焼いてくれたが、それも、ただの義務的でしかなかった。

 兄がいなくなった時のことを覚えているからなのだが、家族に対しての冷めた気持ちが、自分の中の記憶を委縮させたのかも知れない。

 それにしても、見舞いに来てくれた兄と名乗る男性だが、今でもその人が誰だか分からない。

 兄の顔は完全に思い出したので、あの人が兄でないことは、分かりきっていることだ。

 それなのに、最後まで兄のつもりで美奈は相手をした。彼も、美奈を本当の妹のように接してくれた。

「本当にこの人が兄だったらよかったのに」

 と感じた。

 本当の兄とは似ても似つかないタイプの男性で、しっかりしているように見えるが、どこか抜けているところを持った、

「三枚目」

 と言える男性だった。

 だが、以前にどこかで会ったことがあるような気がするのは、今も変わっていない。印象深く記憶に残っているのに、いざ思い出そうとすると、意識が思い出すことを拒否しているのか、思い出すことができない。

 退院する少し前から、急に彼はやってこなくなった。それまでは、毎日のように来てくれていたのに、急に来なくなったことに対して、

「おかしいわね」

 と、看護師さんも話していた。

 看護師たちの間では、彼は人気があったようだ。

「私の理想の男性が、少し変わってきたのかしら?」

 と思うようになった時、今度は、兄と名乗る男性の顔の印象が薄れてきた。

 しかも、それまで思い出すことができたはずの兄の印象まで曖昧になってきた。

「私の記憶がまた薄れてきたのかしら?」

 と、思ったが、それ以外の意識はしっかりしているのだ。

 ただ、感じたことは、

「思い出したくない人の顔はハッキリと浮かんでくるのに、思い出したい人の顔がおぼろげになってきて、次第に消えていきそうで怖い」

 という感覚になってきていた。

 美奈は、今まで好きだと感じていた兄の顔がハッキリしなくなったことで、自分の理想の男性が分からなくなってきた。しかし、見舞いに来てくれた男性、彼が誰だか分かっていないが、それでも心に残る彼が、気になっていた。

 久しぶりにやってきたバーのカウンターに座っている一人の男性、彼が見舞いに来てくれた人に似ていることを思い出していた。彼の方は、美奈の顔を見て、驚く様子もないので、本人だという可能性は低いが、美奈は彼の顔を見ているうちに、次第に引き込まれてくるのを感じるのだった。

 兄が自分に対しての恋愛感情を抑えられず、結局自分の前から姿を消すように、急に出て行った時のことを思い出していた。

 隣に座っている見舞いに来てくれたと思しき青年と、年配の男性は、普通に話をしていたが、その話の内容も、どうやら、一年前のことのようだった。兄のことを思い出していた美奈だったが、その間、掛かった時間がどれほどのものだったのか、考えていた。

「結構、時間を掛けて思い出していたように思うのに、あっという間だったんだわ」

 と感じたのは、隣で話をしている二人の一年前と思しき会話が、まだまだ続いていることだった。

 美奈は兄のことを思い出しながら、隣の会話に聞き耳を立てていた、思い出しながら人の会話を聞くなど、普通ならできっこないはずなのに、なぜか、その時はできたのだ。それだけ隣から聞こえてくる会話は、美奈には無視できるものではなかった。

 考え事をしながらだったので、会話をすべて把握できたわけではないが、その中でも印象的だった会話は、しっかりと意識できていた。

「ちょうど一年前だったかな? わしはこの先の大通りで、交通事故を目撃したんだ」

 と年配の男性が、青年に話しかける。

「大事故だったんですか?」

「一見、大事故に見えたけど、その時の被害者は、それほど大きなケガではなかったんだ。それでも交通事故なので、救急車は出動して、そのまま被害者は、病院に運ばれたんだ」

「被害者というのは?」

「顔まではハッキリと見たわけではなかったんだが、まだ若い女性だった。二十歳過ぎくらいではなかったかな?」

「その事故が何か、印象に残ってるんですか?」

「ああ、その事故というのが、どうやら、事故ではなく、作為的なものではなかったかと思ってね」

「それは、どうして?」

「これもハッキリと見たわけではないし、警察も事故で処理したようなので、何とも言えないけど、後ろにいた誰かが、突き飛ばしたように見えたんだ」

「えっ、それじゃあ、殺人未遂ということになるじゃないですか?」

「それが本当ならね。でも、ハッキリと見た人はいないし、ただ、野次馬の中に、一人だけそれを主張する人がいたんだけどね。その人は、二十代後半くらいの男性だったんだ。最初は、警察が来るまで、結構興奮しながら、『あれは、事故じゃない。誰かが突き飛ばしたんだ』って主張していたんだけど、いざ警察が来ると、今度は急に黙ってしまったんだ。まるで、間違いだったかのように、恐縮して小さくなっていたよ」

「それもおかしいですよね。最初にそこまで感じたのなら、一応警察に話をしてもいいはずなのに」

「そうなんだよね。でも、それをしなかったということは、冷静になって考えた男が、自分が証言することで、何か不都合があるのではないかと思ったのかも知れないね。それを思うと、今でもその時のことがわしには忘れられなくなっているんだ」

 と、年配の男性が話していた。

 美奈は、その時に、

「この二人は、私に限りなく近い何かを備えているのかも知れないわ」

 と感じた。

 兄のことを思い出しながら、話を聞いていたが、その話がどんどん美奈の興味をそそる話になったことで、兄のことを思い出すスピードが速まった。そして、兄のことを思い出した瞬間、二人の話と結びつく気がしたのだった。

 兄の話を思い出したことで、余計に二人の話が、美奈の中で結びついてくるのを気にしていた。

 二人の話は、まだまだクライマックスがあるようだった。美奈が自分の世界から戻ってきて、二人の会話に耳を傾けると、そこは美奈が入って行けるだけのスペースが微妙で、とりあえず、話を聞いているしかなかった。

「さっきの兄とのイメージは、まるで夢の中にいるようだった」

 と感じたのは、自分が思っていたより、時間があっという間だったことが一番の原因だった。

「僕も、似たような話を聞いたことがあります。それは、一年前より、もっと前のことだったと思うんですが」

 と、青年は話し始めた。

 年配の男性は興味深げに青年を見つめている。自分も事故を目撃し、不思議な感覚になっていたのだから当然であろうが、実際に交通事故に遭った当人である美奈は、さほど興味深い感じがせず、逆に他人事のように聞いていた。

 青年は、おもむろに話し始めた。

「確か、三年くらい前だったと思います。これは本当に事故ではなく、殺人未遂だったんですが、ある女性が、他の女性を道に突き飛ばして、ケガをさせたという事件があったんですよ。もちろん、被害者も加害者も知り合いだったわけですが、被害に遭った方は、完全に拍子抜けしていて、どうして自分が突き飛ばされなければいけないのか、分からないようでした」

 年配の男性が口を挟む。

「確かに、自分の知らないところで恨みを買っていたりするものだからね。親友だと思っていても、少しでも嫉妬心が湧いてくれば、それが恨みに変わってしまうこともある、それを思うと、恐ろしい気がするけどね」

「そうですよね。いつ誰に突き飛ばされるか分からないと思うと、怖い気もします。これが、それほど仲がいい相手でなければ、そこまでの憎しみというのは湧いてこないものだと思います。だって、その人にとって、誰かを突き飛ばすということは、完全に捕まることを覚悟の上でするわけですから、あまり自分に関わりのない相手のために、そんなリスクは負いたくないですからね。そんなに仲が良くない相手であれば、その時は理由の方が気になるところですね」

「恨みというのは、本当にその人にしか分からないことが多いからね。実際に恨まれている方には、そんな意識がないことが多い。だから、突き飛ばすにしても、容易なことだったりするのかも知れないね」

 二人の会話は、美奈にも納得のいく内容だった。しかし、だからといって、それが正しいというわけではない。理屈は分かるが、それを正当化してしまっては、理不尽がまかり通る世の中になってしまうのではないかと思えた。いい悪いの問題ではなく、人間関係の問題に的を絞ることが果たしてできるのだろうか?

 美奈は、二人の話を聞いていると、

「私もひょっとしたら、本当に誰かに突き飛ばされたのかも知れない」

 と思った。

 しかし、その時、まわりには比較的人がいたはずだ。もし、突き飛ばされたのだとすれば、目撃者がいてもおかしくはない。それなのに、

「誰かが突き飛ばした」

 などという話は一切聞かれなかった。警察から、そんな尋問を受けたわけでもないし、そんな話がどこかから洩れてくることもなかった。

 だが、二人の話を聞いているうちに、あの時、背中に違和感があったことを思い出した。誰かに突き飛ばされたのだと言われると、

「その通りかも知れない」

 と、納得できてしまう。

「人に恨みを買うようなことなどないわ」

 と、一刀両断できればいいのだが、どこで誰に恨まれているか分からないと思うと、ハッキリ断言できない。しかし、公衆の面前で、突き飛ばされるほどの恨みを買っているとはどうしても思えない。この気持ちのやり場をどうすればいいのか、美奈はしばらく悩んだ。

「そういえば、確かあの日……」

 母親に似た人を見かけた。

 美奈が家を出てから、実家にはしばらく帰っていなかったので、本当にそれが母だと言いきれない。むしろ、見間違いだと思う方が、十分に確率が高かった。

 兄の顔も、母の顔も忘れかけていた。父の顔など、とっくの昔に眼中になかったが、母と兄の顔は、十分に覚えていた。

 元々、ずっと一緒にいた人でも、環境が変わって会うことがなくなると、すぐに相手の顔を忘れてしまうことが多かった。人の顔を覚えるのも苦手で、一度や二度会ったくらいでは、なかなか相手の顔を覚えられなかった。

「私には、覚えられないんだ」

 という自己暗示も手伝って、余計に覚えることができないでいた。

 二人の男性の話は、美奈に影響を与えたが、話を聞いているうちに、次第に他人事のように思えてきた。

 最初、若い男性を、

「兄に似ている」

 という印象で見たことで、親近感が湧いてきて、話している内容が、いかにも自分のことのような錯覚を覚えさせたのだが、よく見てみると、若い方の男性が、兄に似ているのが自分の錯覚に思えてきた。

「交通事故の話が、私の経験と被ったことも大きな影響だったのかも知れないわ」

 と感じた。

 自分の経験と被ってくる話をしている相手に対して、親近感が湧いてくるのは無理もないことだ。

 他人事だと思えてくると、美奈も思わず口を挟みたくなってきた。

「人に恨みを買うのって、そんなに頻繁にあることなんでしょうか?」

 いきなり話に入ってきた美奈に対し、一瞬訝しげな表情をした年配の男性は、

「結構あるかも知れないけど、人を突き飛ばすほどのことは、よほどでなければありえないと思うよ」

 と話した。

「俺もそう思う。そんなに頻繁にあったら、警察や病院はいくつあっても足りないからね」

 ただ、それは一般論だ。人の心に戸は立てられない。犯罪を犯す人間を、一般論で当て嵌めていいものなのか、考えものだった。

 美奈は、その時、確かに誰かを追いかけていたような気がした。それが母親に似た人だったのかも知れない。その時のことを思い出すと、母親の顔というよりもイメージが思い出させる。シルエットに浮かぶその人の顔はハッキリとしないが、母親がイメージされていることには違いなかった。夜の街の車のヘッドライトに照らされて、その人が振り返った時、母親だと感じたのは間違いない。

 その人を追いかけるように駆けだした時、どうやらそのまま、道路に飛び出してしまったようだ。

 その時、運転席に見えた顔。一瞬だけだが母親に見えた。恐怖の中で思い浮かんだ顔が母親だったのかも知れないが、瞬きをする間に、その顔にシルエットが掛かってしまった。そして、まるで魔法に掛かったかのように、母親の顔が、美奈の意識の中から、スーっと消えていくのを感じた。

「母親の顔を思い出すこともないかも知れないわ」

 と、思うと、そのまま意識が遠のいていくのを感じた。

 気が付けば病院のベッドで寝ていたわけだが、そこまでの意識は、気が付いてからすぐにはあったようだ。そして意識がハッキリしてくるうちに、その記憶が薄いで行く。それはまるで夢に見た内容を、目が覚めるにしたがって、忘れていくかのようだった。

 病院のベッドの上で、天井を眺めていた時、母親の顔が浮かんできたのは確かだった。すぐに記憶と同じように薄らいできたが、目を瞑ると、瞼の裏に浮かんでくるのだった。

 怖くなって目を開けると、もうそこに母親の影はない。しかし、目を瞑るとまた浮かんでくるのだ。半日は、その繰り返しだっただろうか。目を瞑るのが怖かった。

 美奈が自分の記憶が欠落していることに気付いたのは、ちょうどその頃だった。

「私は、一体どうしたのかしら? 病院のベッドにいるのは、交通事故に遭ったからだということは分かったのに、その時の心境を思い出そうとすると、意識が記憶を拒否しているようだわ」

 と思った。

 それは、自分が母親に対して抱いている嫌悪感に比例しているように思えたからで、嫌悪感が、恐怖心として欠落した記憶の中で残ってしまったことが大いに影響しているのかも知れない。

 記憶の欠落が、自分の嫌な部分だけを欠落させてくれているのなら、幾分か気も楽になるというものだが、実際には、嫌な部分が残っているのも事実だった。

「いや、その考えは少し違っているのかも知れないわ」

 美奈は、自分でも臆病だと思っている。特に「恐怖症」と名のつくものは、ほとんど苦手である。

 高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症、それぞれに理由があるが、今回自分が臆病だと感じたのは暗所ではないだろうか。

 目の前にあって、それが見えない。これほど怖いことはないのではないだろうか。

 母親に対して嫌悪感があることは、前々から分かっていたが、嫌悪感が恐怖に繋がるとは思わなかった。今まで嫌悪感はあっても、恐怖は感じたことがなかった。

「嫌悪感というのは、恐怖が胸のうちにあれば、存在しえないものではないかしら」

 と思っていたからだ。

 人を嫌いになるのに、相手に恐怖をいちいち感じていては、キリがない。

 美奈が母親に抱いた恐怖心を、それ以前に、誰かに抱いていたことを思い出していた。

「お兄さんにだわ」

 彼女にフラれ、美奈に襲い掛かろうとした時の、兄にだろうか?

 いや、違う。あの時の兄ではない。あの時の兄は、どうかしていた。どうかしていた相手に対して恐怖心を感じても、時間が過ぎれば頭の中で風化してくるものだ。

 しかし、それ以外で兄に恐怖心を感じたという意識はない。

「これが記憶の欠落がもたらした影響なのかも知れないわ」

 意識の中にない記憶が、時々目を覚ます。

 記憶というのは、その場を支配した意識が、忘れたくないという本能の中で、自分の中にある装置を使って、決められた場所に格納されることをいうのだと思っていた。つまり、意識が存在しなければ、記憶も存在しない。記憶が存在するということは、意識の存在を意味することになる。

 それなのに、意識したこともないことが記憶として残っているということは、意識自体が記憶として残っていることで、記憶が一つのものとして成立するのだと考える。そのうちの意識だけがなくなってしまえば、記憶の方も自然消滅するだろう。

 普通なら、記憶だけが消えてしまい、意識だけが残っていることで、

「忘れた」

 という気持ちになるが、意識の方が先に消えてしまえば、忘れたという意識もなくなってしまう。

 ただ、何かが存在したことだけは確かである。その思いが、

「記憶の欠落」

 として、美奈の中に残っているのだ。

「忘れたということと、記憶の欠落では、まったく意味が違っている」

 と感じる。

「記憶喪失ではなく、記憶が欠落している」

 というのは、そのことを本能で悟っていたから、決して、記憶喪失だとは、美奈の口から出てくることはなかったのだ。

 では、兄のいつに恐怖を感じたのだろう?

 それは、兄とは異父兄妹であることを知らされた時だったのかも知れない。

 美奈は、少なからず兄に憧れを持っていた。

 血の繋がりさえなければ、好きになっていたに違いない。

 そんな時、兄とは、父親が違うと気付かされたのだ。誰に聞いたわけでもないのに、そのことに気付いたのは、本能的なものだったのだろうか?

 いや、そんなことはありえないと今でも思う。やはり誰かに教えられたのだ、

 しかし、言葉に出して教えられたわけではない。そんな記憶は残っていないからだ。記憶にともなう意識もなかったが、それも記憶の欠落から起こったことではないのは、分かっていた。

「教えられたとすれば、兄から以外には考えられない」

 それが美奈の結論だった。

「兄は、知っていたんだわ。そして、本当は私にも教えたいと思いながら、妹を苦しめることになるのを恐れて言葉には出さなかった。でも、本心は知ってほしいと思っているという気持ちのギャップが、兄に言葉にできないまでも、態度や雰囲気で教えようとする態度を、妹として読み取ったのかも知れない」

 そして、兄には、自分がそのことを分かったと悟らせないようにしなければいけない。今度は立場が反対だ。

 いや、兄は妹が知らないものだとして接している。妹は、自分が知ってしまったことを兄に悟られないようにしている。お互いに気を遣っていることだが、兄は、きっと何も気付いていないだろう。

 そう思うと、辛い思いをしているのは、兄よりも美奈の方である。

「きっと兄は、自分の方が辛いと思っているに違いないわ」

 今までの兄であれば、それでもよかった。

「お兄さんのためなら、何でもできる」

 とまで思っていた。

 それは同じ父と母から生まれた兄妹だと思っていたからで、父親が違うということが、これほど意識の中で、相手への気持ちを一変させるものだなどと、思いもしなかった。

 美奈の父親は、ほとんど家にいなかった。正直、いい父親、いい夫だったという意識はない。母とはいつも喧嘩をしていた。金にだらしない父は、いつもギャンブルをしては、母親と喧嘩になったのだ。そんな父親が、本当は自分の父親ではなかったということで、兄とすれば、

「どうしてあんな人を父親と呼ばなければいけないんだ」

 というジレンマがあっただろう。美奈とすれば、

「兄は、あんな父親の子供ではなかっただけでも、羨ましい」

 という気持ちになっていた。それは、美奈が兄に逃げられたような感覚に陥ってしまったからに違いない。

 兄の気持ちからすれば、最初の父親がどんな人だったかということも分からずに、血も繋がっていない、しかもろくでもない男が、父親面しているのだから、溜まったものではないだろう。

 母を憎んでいるかも知れない。ひょっとすると、美奈のことも憎んでいるのかも知れない。そうでなければ、いくら父親が違うとはいえ、彼女にフラれたくらいで、美奈に襲い掛かってくることはないだろうと思っていた。まだまだ男心を知らない美奈にとって、兄の行動は、平面で結んだ線の上でしか理解できないようだった。

 兄が家を出た本当の理由、それを美奈は知らない。たぶん、分かることはないだろう。自分のことが原因かも知れないとは思っても、自分のことが原因であるなら、それ以上詮索することができないからだ。

 もし、自分のことが原因であれば、兄に襲われた時、拒否してしまったことで、兄に嫌われた。あるいは、憎まれているのではないかと思うからだ。それは母親のことともダブって考えてしまい、きっと母親のことを考えた時、自分では収拾をつけることができなくなるのではないかと思うからだろう。

 逆に、兄が美奈のことを今でも好きだった場合も考えられる。一緒にいるのが辛くて、家を出ていった。それであるなら、本当に美奈は罪作りと言ってもいいだろう。

 美奈が悪いわけではない。兄が悪いわけではない。どうしようもない二人の間にある性が、大きな溝を作ってしまい、お互いに近づこうとするならば、どこか、渡れるところを探し、遠回りをしなければならない。

 どちらも悪いというわけではないので、どうすれば近づけるかということが分からない。摂理を理解するのであれば、

「悪いところを修復する」

 というのが、一番の近道のはずなのに、その悪いところが見つからないのだから、どうしようもないというものだ。

 世の中には、摂理や理屈だけで解決できないことが山ほどある。それを美奈はその時に感じていた。

 学校で習うことは、摂理や理屈によるものがほとんどで、応用となると、なかなか発想が浮かんでこない。

 特に美奈は、摂理で物事を考える方なので、少しでも理屈に合わないことがあると、すぐに考えが堂々巡りを繰り返してしまう。兄が家を出て行ったのは、摂理に合わない理由の方が強いような気がした。

 兄がどこにいるのか分からない時、

「お兄さんは、もう私のお兄さんじゃなくなったんだ」

 と思った。

 それは、兄としてではなく、オトコとして見ることができるんじゃないかという思いも少なからずあった。

「オトコとして見ることができれば、どんなにいいだろう」

 と思ったこともあった。

 それは、兄のことが好きだというよりも、兄妹という垣根を取り払うことができれば、お互いに違った目で相手を見ることができて、しかも、

「自分の気持ちに正直になれるのではないか」

 と思ったからだ。

 自分の気持ちに正直というのは、それだけ、兄のことを好きだったということであり、今まで兄として見ているつもりでも、オトコとして見ている自分に気付いたのだとすれば、それは美奈自身、自分が女であることの証明だと思ったのだ。

 自分が女であるということを改まって考えたことはなかった。ただ、ひょっとして女としての厭らしさを感じた時があったとすれば、兄が失恋した時、兄に襲われる前に、兄をフッた女性に対して、嫌悪感を抱いた時だろう。

 その中に嫉妬心が芽生えていたのだとすれば、美奈は十分に自分に女を感じることができる。

 フラれた相手をどのように癒していいのかも分からず、

「兄が自分のところに戻ってきてくれた」

 という感情だけが表に出てしまったことが、兄の中にある自尊心を傷つけたのかも知れない。

 妹にまで馬鹿にされていると思ったのか、それとも、自分の気持ちに正直になれない自分の口惜しさを妹にぶつけるしかない自分に、嫌気が差していたのかも知れない。

 その日、バーではほとんど自分から口を開くこともなく、店を後にした。

 店には二時間くらいいただろうか。あっという間だったと思ったが、時間は結構経っていた。

 美奈が入ってきてから店を出るまで、他の客が入ってくることも、そして、先に帰ることもなかった。ずっと同じ空気に支配され、それを感じていると、時間だけが過ぎていくような気がして仕方がなかった。

 美奈が店を出ても店の雰囲気は変わっていない。美奈が帰ろうとしても、誰も気にする人はいない。お互いに干渉しないのが店の主義なのか、それとも、美奈が見えていないのか、実にありえないほど、アッサリとしていた。

 普通なら、

「こんな店、二度と来るものか」

 と思ってしかるべきなのだろうが、どうしても気になってしまう。それは美奈が気にしていることをいとも簡単に話題にしていたからで、まるで知っていて話題にしているかのようだった。そのくせ、無視を決め込んでいるのは気持ち悪く、

「一体、どういうことなのかしら?」

 と、思わせる店であった。

 それにしても、この店は、今まで何度か近くまで来ていて、気にはなっていた店だった。美奈は、バーなら、一人でも平気で入ることができるので、気になる店なら、今までに何度か立ち寄っていてもよさそうなものだった。

 それなのに立ち寄らなかったのは、いつもここを通る時間が中途半端だったこともある。いつかは寄ろうと思っていたが、中途半端な時間だと立ち寄る気にはなれなかった。その日は今までになく時間に余裕があったので立ち寄ったが、初めて立ち寄った感動よりも、拍子抜けした気分が強いのは事実だった。

 店を出てから、しばらく歩いてみた。

 足元から伸びる影は、歪に見えて、追いかけるようにして歩いていると、気が付けば、結構先の方まで歩いている。時間もそれなりに経っていて、店の中で止まっていた時間が動き出したことを示しているようだった。

「時間が凍るって、こういうことなのかしら?」

 店の中では、誰に気を遣っているわけでもなかった。第一、まわりの誰も気を遣い合っているわけではない。思った通りに行動し、思ったことを言っているだけだ。そこに流れる空気は、明らかに美奈の知っている時間の流れとは異質なものだった。

 その日は、夕凪を感じてからというもの、時間の感覚が少しおかしいのかも知れないとは思っていた。それでも何か一点を見つめることで、時間の感覚が少し元に戻るのではないかと思えた。

 道を歩いている時に、足元の影を見つめるのもそうである。絶対に追いつくことのできない自分の影を追いかけていると、時間の感覚がマヒし、あっという間に過ぎる時間が、それまで異質なものだった時間を、元に戻す効果を示してくれるかも知れない。

 月が出ているのを見るのもいつ以来だろう?

 元々、足元と星空を交互に見ながら歩くのが好きだった。一か所に目を留めてしまうと、疲れが余計に溜まるからだったが、時間の感覚がマヒしてしまうことも、若干気にしていた。

 その日、美奈はそんなにたくさん飲んだという気はしなかった。時間的にも二時間程度、それに感覚的にはあっという間だったような気がする中で、そんなに呑んでいるはずもなかった。

 それなのに、空に浮かんだ月を見ると、赤く見えていた。月が赤く見えるのは、酔っ払った時の特徴だったのだが、自分ではあまり呑んでいないつもりでいたが、実際には呑んでいたのか、それとも、精神的に酔っ払う何かが美奈の中に潜んでいるのか、どちらにしても、飲んだ量に比べて、効き目は抜群だった。

 公園に座ってベンチにいると、心地よい風が吹いてくる。

「ここで、少し酔いを醒まして行こうかしら?」

 と思い腰を下ろすと、落ち着いた気分になったと同時に、それまでの疲れがドッと出てきたのを感じた。その疲れがスーッと抜けてくるのを感じると、頭が痛い時に飲む頭痛薬を思わせた。

 頭痛薬は、眠くはならないが、効いてくる時、身体から力が抜けてくるのを感じることができる。それも一気にではなく、徐々にである。一気に力が抜けてくると、それまでよほど疲れていたことを思わせ、それ以上に身体に痺れを感じるほどの心地よさが伝わらないと、簡単に元には戻れない気がしてくる。

 頭痛薬は風邪薬と違って、眠くなる成分がほとんど入っていないので、鎮痛効果を身体が受け付ける時、感覚をマヒさせるほどの力がなければ、効果は得られないのではないだろうか。

 その日は、飲んでもいない頭痛薬で、痛くもなかった頭がスッキリしてくるようなイメージを持っていた。スーッと気分が落ち着いてくるのを感じると、今度は風がさっきに比べて冷たく感じられるようになった。

 寒いというところまでは行っていないが、寒さを感じることもできない自分が、今普段の自分なのかどうか、疑問に思うことで、公園のベンチに座っている時間が、もう少し長引くように思えてならなかった。

「ミャー」

「うわぁ」

 足元を見ると、いつの間にか一匹の猫が寄ってきていた。尻尾を立てたかと思うと、ゆっくりと萎えてくる様子が、何ともしなやかに見え、今の美奈にはない、落ち着きのようなものを感じさせた。

 美奈は、本当は猫よりも犬の方が好きだった。猫が強かなのを知っているからなのだが、子供の頃に引っかかれた記憶があったからだ。

 せっかく可愛がってあげようと思っているのに、いきなり引っ掻かれた。しかも、その時まわりにいた友達皆から笑われた記憶があった。

 家に帰れば、

「何、あんた猫なんかの相手をしたの? それでケガを? バカじゃないの?」

 と、母親から、これ以上ないというほどの罵声を浴びせられた。

 その時は知らなかったが、母は猫が嫌いだった。なぜ嫌いなのか分からなかったが、母の性格からすれば、そうなのかも知れない。

 母は、猫に似ていた。人に媚を売ることを、何とも思わない。そのくせ、自分の家族には厳しい。自分に甘く、まわりに厳しいなんて、これ以上わがままな性格もないものだ。

 そう思うと、母を嫌いになったのと同時に、猫も嫌いになった。その分、犬を好きになったのだが、考えてみると、猫も災難だ。勝手に思いこまれて、嫌いになる口実にまでされたのだから。

 母を嫌いになった理由は、父を嫌いになったことから始まっていた。

 父は、本当に子供が嫌いな人のようだ。

 大人が子供を叱るのは、子供が悪いことや、理不尽なことをしたから叱るのだと頭で分かっている。父は、子供が悪いことをしようがしまいが、自分の気がむしゃくしゃしていれば、酒の力に任させてなのか、お決まりの怒りが飛んでくる。そこにモラルや理性は感じられず、自分の感情に任せた怒りがあるだけだ。

 子供はそういう理不尽な怒りには敏感だ。子供だからこそ、敏感なのかも知れない。

 そんな父に対して、理不尽だと思っているのかいないのか、母は逆らうことをせず、何も言わない。そして一人になった時、それまでの鬱憤を晴らすかのように、子供に当たるのだ。

「父も父なら、母も母だ」

 と思うが、単純に比較できないところがあるように思う。

 そんな父に対して、母は憎しみを感じている。

 では父は母に対してどうなのだろう?

 同じく憎しみを持って対応しているように見えるが、同じ憎しみでも特徴の違うものだ。母の憎しみは、明らかに父に向けられているものであるが、それを悟られないように子供に当たっている。しかし、父の感じている憎しみは、誰に対してというわけではなく、漠然と憎しみが身体の中から湧いて出てくるようだった。

「こんな憎しみ方なんて、今までに感じたことがない」

 まだ、子供だったから、信じられないものを見たような気がしていた。

「母親の先に見えているのって、何なのかしら?」

 母親は父親を明らかに憎んでいるが、父親の背中だけを見ているような気がしない。その先に何かが見えていて、見えるものを怖がっている気がしてきた。そのため、自分が虚勢を張ることで、父親に対して、少なくとも相手に優位性を持たせようとは思っていないのだろう、

 それだけ、奥が深いのか、先を見ているのか、何か、自分たちには想像もできないものを心の奥にしまい込んでいるようで、恐ろしくなる。美奈は憎しみを感じながら、恐れも感じながら、その中で、また違った感覚を、父には持たなければいけないのだと思うのだった。

 母親が見ているのは、ひょっとすると父親の背中ではないのかも知れない。父親を憎んでいることで、父親と同じでは嫌だという考えが芽生えているのだとすれば、父親の見ているものとは違う何かを探しているように思う。それが見つからないことで苛立ちを覚え、子供たちに当たっているのだとすれば、いい迷惑ではあるが、その何かを母が見つけたとすれば、それは、家族が家族でなくなる瞬間なのかも知れないと思った。

 元々、家族だなんて言える間柄ではなかったように思う。皆それぞれ勝手なことを考え、自分が一番正しいという考えを持っているのだとすれば、家族なんて、最初からいらないのではないかと思えてきた。

 ある意味、皆それぞれ自分を想っているのだから、

「同じ考えを持っている」

 と言えないこともない。

 だから、喧嘩になっても、憎しみ合っていたとしても、そこに相手に介入しようとする気持ちはない。それはそれで、悪いことだとは思わなくなってしまった美奈は、きっとまわりから、捻くれた性格だという風に見られているに違いない。

「記憶を喪失したわけではなく、欠落したというのは、他力ではない、自分の中から記憶をわざと欠落させようとする意識が働いているからなのかも知れない」

 と感じた。

 美奈は、孤独を怖いと思わない。寂しいとも思わない。一人でいることが孤独なのだとすれば、それは至極当然のことであり、他の人が、

「一人でいるのは寂しい」

 と言っている意味が分からない。

 だからといって、一人でいることを寂しいと思っている人が、甘い考えだなどとは思わない。

「他人は他人。それでいいんじゃないかな」

 と思うだけだった。

 ここで他人のことをとやかくいうことは、孤独を至極普通のことだと思うことと、矛盾を生じると感じる。美奈は孤独を、

「自分は他の人とは違う」

 という位置づけの証明にしようと思っているのだ。

 孤独を怖いと思わないのに、夢を見て、怖いと思うことがあった。

 それは、もう一人の自分が出てくることだった。

 もう一人の自分から見つめられることを、怖いと感じるのは、自分が自由でありたいという願望から来るものなのではないかと、最近になって考える。逆に言えば、自分が自由だとは思えないから、自由を求めるのであって、その感情が、夢の中で、

「自分の一番怖いもの」

 として、表現しているのかも知れない。

 美奈が犬よりも猫の方が好きになってきたのは、孤独を怖いものだと思わなくなってからのことだった。

 一人でも生きていける動物の代表として、猫をイメージした。確かに人間に媚びてエサを貰おうとするが、だからと言って、人間に堕ちるわけではない。媚びているように見えて、実は相手を見下しているような雰囲気に、美奈は気高さすら感じる。

 猫が寄ってくるのを見ると、以前は気持ち悪がったものだが、今では可愛く思える。

「お前も孤独なんだな」

 と、声を掛けると、

「ミャー」

 と言って目を細め、喜んでいるように感じるからだ。寄ってくる猫の方も、他の人を相手にするのと、美奈を相手にするのとでは、かなり違っているのではないかと思える。

「お前から見た私は、どんな風に写っているんだろうね」

 と、猫に語り掛けるが、猫は構わずに、足元ですりすりしているだけだ。

「ふふ」

 美奈は猫に向かって微笑みかけるが、それが本当に猫に向かってのものなのか、美奈は自分でも分からないでいた。

 しかし、他の人であれば、そこまで考えることはないだろう、そこまで考えるのだから、美奈には他の人にはない何かが自分には備わっているように思えてならない。

 それが一体何なのか、自分が他の人と違うところ。その答えを今までに見つけたことがあったはずだ。しかし、今は残っていない。欠落した方の記憶の方にあったに違いない。「記憶は本当に欠落していて、喪失したわけではないのかしら? そして、喪失は消失と違い、どこかに残っているものなのかしら?」

 美奈はいろいろ考えていた。

 自分の記憶が消えたとは思わない。自分のどこかに必ず残っているものだと思っている。思い出すことがあるなしなのか、それとも思い出すための時間なのか、それとも格納された場所の違いからなのか、表現の差がどこにあるのか、美奈は考えていた。

「ミャー」

 そんなことを考えていると、猫はじっとこちらを見ている。自分のことしか考えていないように見える猫が、じっと見上げているのである。その表情から何を考えているのか、ハッキリとは分からないが、少なくとも、怯えから見上げているものに思えてきた。

 美奈の身体のどこかに力が入りすぎている場所があるのかも知れない。

 猫は微妙にそのことを悟り、何かを訴えようとしているのだが、その表情の違いは人間には分からない。

 猫は自分一人で生きていく習性を持っていることから、相手に表情から何を考えているのかを悟られないようになっている。そして、もしそのことを悟るとすれば、自分が生きていく中で、唯一信じることができる相手ではないだろうか。

 そんな相手がたくさんいるとは思えない。だから、美奈は、

「唯一」

 という言葉を使ったのだ。

 その唯一の相手は、美奈にもいるのだろうか?

 そして、その人はすでに美奈の前に現れているのであれば、それを分かっていないのは、美奈の方だけなのかも知れない。

 相手は分かっていて、美奈がいつ気づくのか待っているのだとすれば、相手に最初から優位性を持たせてしまったことで、美奈にとって、どのような影響があるのかを考えてしまう。

 猫が自分を見上げていると思った時、思わず微笑んでしまった自分に、猫も微笑みかけてくれたのを感じた時、

「同類だという憐みを感じているのかしら?」

 と、勝手に相手が微笑んでいると思ったことを、正当化しようと、そんなことを考えてしまった。

 それを自分で悪いことだとは思わない。美奈にとって、猫と一緒にいる時間は、

「相手が猫であっても、気持ちが通じ合う時間」

 だという感覚でいるからだ。

「猫に自分を置き換えて見ている」

 と言ってもいいだろう。

 猫が上を見上げたのなら、美奈も上を見上げているような感覚になる。しかし、実際は目の前にいる猫を見下ろしている。同時に二つの感覚になるなど、美奈には到底できることではない。必ずどちらかの心境になるのだが、その瞬間瞬間で、目が自分の側だったり、猫の側だったり入れ替わることはできた。

 子供の頃は、誰にでもできることだと思っていたが、人と話をしていると、

「あなた、それってすごい特技よ。誰にでもできるってものではないわ」

 と、かなり驚いていたのが印象的だった。

「そうかしら? 私は誰でもできることだと思っていたわ」

 というと、

「私がビックリしているのが、他の人ではなく、あなただからよ。あなたのように不器用な人がよく、そんな器用なことができると思って、それがビックリなのよね」

 確かに彼女のいうように美奈は不器用だった。

 料理をさせれば、味付けのバランスはめちゃくちゃだし、学生時代に絵を描かせれば、ひどいものだった。今でこそ、自分にバランス感覚がないからだと分かるのだが、その当時は、ただ、下手くそなだけだと思っていた。

 下手くそなのは、それなりに理由がある。本人の性格によるものであることが大部分を占めるのだろうが、それを探求しようとするかしないか、まずそこからが問題だ。

「下手くそなら、下手くそでもいい」

 と開き直ってしまったのでは、その先は何もない。そんなことは本人が一番よく分かっていることであり、開き直ることで、自分を正当化させようという考えは、少し乱暴なのだろうか。

 ただ、同じ開き直るのであっても、どうして下手くそなのかという理屈が分かっていれば、そこから先が何もないということはない。

「ないなら、何かが生まれるようにすればいいんだ」

 と、ポジティブになれるかも知れない。

 また、他の何かを探すこともできるだろう。その人の性格は一つとは限らない。新たに生まれるものもあれば、変わっていくこともあるからだ。

 美奈は、そのあたりのことも分かっているつもりだが、どうしても、

「自分は他の人とは違う」

 という気持ちが根底にあり、人と交わったり、協調し合うことは苦手だった。やはり、子供の頃から培われたトラウマが、完全に美奈にこびりついていて、剥がれることはないようだ。

「トラウマってなんだろう?」

 父や母、兄に対しての気持ち? つまりは、家族というものに対しての歪んだ感覚が、自分に孤独を感じさせ、そして、孤独に恐怖や寂しさを感じさせない気持ちにさせることで、自分を正当化させようとしているのだろう。

 猫の顎を撫でてあげると、ゴロゴロと唸っているのが聞こえる。

「気持ちいいのかい?」

 と、声を掛けると、うっとりした顔をしている。ゴロゴロと言っている姿は、美奈から見れば、苦しんでいるように見えないことはない。

「見ようによって、変わってくるんだわ」

 と感じた。

 相手が違えば、表現も違ってくる。相手が人間の場合は、仕草から、ある程度何を考えているか分かる時がある。そんな場合、ほとんどが、

「この人には裏表がある」

 ということで、厭らしい部分が見えてしまう。

 裏表のない人間なんて、本当はいないと思う。だから自分は他の人とは違うという考えで、自分を正当化させようとする。つまりは、自分も人間だということである。

 猫を見ていると、裏表という概念は考えられない。感情があるとすれば、それは本能から生まれるもので、人間に分かるはずのないものだと思っている。それだけ、人間と動物には、超えることのできない大きな溝があるのではないかと美奈は思っている。

 それは、美奈が自分の中にずっと抱え込んでいた考えであった。

 それを表現するすべがなく考えてきたことなのだが、超えることのできない大きな溝は、美奈の中から欠落した記憶に結びついているものなのかも知れない。

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