終章 変わるために生きる
梅雨の季節だというのにもう真夏が着てしまったのではないかと思われるほど暑い日だった。そんな日であっても一恵さんは光くんを連れてバラ公園まででかけていく。こんな暑い日でも散歩に行くのだから、一恵さんはよほど光くんが好きなのだろう。もちろん光くんは後ろ足が悪くて引きずって歩いていたから、時折東屋で休憩しなければならなかった。
その日も、東屋で休憩していると、別の方角から、高野まりえさんがやってきたのが見えた。
「こんにちは。今日は暑いですね。なんか年がすぎるたびに夏が来るのが早くなってるみたい。まりえさんもお散歩ですか?」
と、一恵さんはまりえさんに声をかける。
「ああ、ありがとうございます。こんな暑い中、ワンコちゃんの散歩だなんて、一恵さんは面倒見がいいんですね。」
まりえさんは、一恵さんに言った。
「ええ。もうこの子のいない生活なんて考えられないほど、大事な家族になってくれました。私は、この子がいてくれて幸せです。」
と、一恵さんが答えると、
「そうなんですか。それでは、犬ではなくて、人間に対しても、そうやって面倒見が良くなってくれるともっと良かったのに。」
まりえさんは思わずそう言ってしまう。
「人間に対して?」
一恵さんは聞き返した。まりえさんは、あら、私がなにか面白いことでも言ったかしらという顔をした。
「一恵さん、少しだけど、これ、ワンコちゃんと一緒に食べて。夫の親戚から富士なしをもらったの。良ければ、頂いてくれると嬉しいわ。」
まりえさんは、一恵さんに一つの紙袋を渡した。
「でも、一恵さん、本当に私の事を覚えてないんですか?」
今までとは少し違う声色でまりえさんは言った。一恵さんは思わず、
「何のことですか?」
と聞いてしまう。
「本当に何も覚えてないの?」
まりえさんは、そういった。
「高野美香という女子生徒を覚えてませんか?あの、先日竹沢学園を見学させてもらったあの生徒です。」
「高野、、、美香さん?いえ、覚えてないわ。」
一恵さんがそう答えると、
「本当に覚えてないの?そうやって都合のいいことばかり忘れて、自分の有利なことだけ覚えているなんて、なにかおかしなところもあるわね。一恵さん、ほんとに何も覚えてないんだ。それじゃあ、美香のこともわかってないのかしら?私は人から聞いた話だけど、美香さんは、あなた達に、竹沢学園の入学を断られて、それで居場所をなくしたと思って自殺したのよ。あなたの、発言のせいで美香はどんなに傷ついたか。それなら謝らなくちゃいけないんじゃないかしら。美香さんを、自殺に追い込んでしまった美香さんの親御さんに。どう、これだけ話してもまだ思い出せないの?まあ、都合よく忘れるなんて、大人はなんて汚いものなんだろうかって、美香は今頃きっと何処かで泣いているでしょうね。」
と、まりえさんは、一恵さんに言った。
「そんな、そんな事、、、。」
一恵さんは、思わずそう言ってしまう。
「思い出そうとしても思い出せないんですね。まあ、自業自得ですわ。美香さんの気持ちをうんと味わえばいいわ。ああ、それから梨は早めに食べてね。この時期だから、すぐに腐ってしまったら行けないから。じゃあよろしくね。」
まりえさんは、先程の声色に戻っていった。
「ええ、、、まあ、、、。」
一恵さんは思わずそう言ってしまう。
「じゃあ一恵さん。次はまたどこか別のところで、お会いできるといいですね。いつもワンコちゃんと一緒に楽しそうに過ごしているけど、そういう日々も、もう少ししか無いと思ってね。じゃあ、私は帰るわ。」
と、まりえさんは、軽く頭を下げて、踵を返して、バラ公園から出ていった。一恵さんは、受け取った紙袋を持って、光くんと一緒に製鉄所へ戻っていった。
「只今戻りました。」
と一恵さんが玄関先でいうと、
「ああおかえり。わんこうの足を拭いてやってから入ってね。」
杉ちゃんに言われて一恵さんは、すぐに光くんの足を雑巾で拭いて、製鉄所の中に入った。
「これ何かなあ。誰かにもらったのか?」
そういうものにはうるさい杉ちゃんが一恵さんの持っている紙袋を見て言った。
「ええ、先日公園で知り合った、高野まりえさんという人にもらったのよ。」
と、一恵さんが言うと、
「へえちょっと中身を見せてみろ。犬にも食べさせてやりたいなあ。」
と、杉ちゃんはその紙袋をもぎ取って中を探ってしまった。しかし中を見てすぐに顔色を変えて、
「何だこれ、テンナンショウじゃないか!」
とでかい声で言った。その声がとても大きくて、ハリのある声だったので、すぐに製鉄所の人たちにわかってしまった。
「でもまりえさんは梨をもらったって。」
と一恵さんが言うと、
「お人よしもいいところだな。テンナンショウとは、食べたら死んじまうような危険なものだよ。すぐに燃やして処分してしまおうぜ。」
杉ちゃんが言うと、ジョチさんも動かしづらい足を動かしてやってきて、
「テンナンショウをもらったんですか。一体誰にもらったというのでしょうか。誰も食べなかったから良かったようなもので、誰かが食べたら大変な事になりますよ。すぐにそれを差し出した人物を警察に通報しなければなりません。その人物は名前を名乗らなかったのでしょうか?」
と言いながらスマートフォンを引っ張り出し、警察に通報してしまおうとした。
「待って!」
と、一恵さんが言った。
「なんですか、本当にテンナンショウを食べてしまったら、みんなここにいないことだって可能になるんですよ。それくらい、恐ろしい植物です。それをあなたに手渡したんだから、明確な殺意があったんだと思いますよ。だからすぐに警察に通報しなければいけませんよ。」
ジョチさんがそう言うが、
「ですが、私は、彼女から聞いたんです。美香さんという人がいて、私が美香さんの入学を断ったばかりに、美香さんは自殺してしまったと聞きました。そんな可哀想な人がいたのだったら、私が成敗されても仕方ありません。」
と、一恵さんは言った。
「はあ、それじゃあおまえさんは、美香さんという人に対面した事は覚えてないのか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、覚えてないんです。どうしても覚えていません。だけど、まりえさんからその事を聞かされて、もしそういうことが事実だったら、私はその人になんて酷いことをしたんだろうと。」
一恵さんはそういうのだった。
「つまり、美香さんという女性と対面した事は覚えていないが、その事を聞かされたのを覚えているというのなら、その事実が本当にあったことかどうか、警察に調べて貰う必要がありますね。もしかしたら、警察の捜査もそのあたり突き止めているかもしれないですね。それに、一恵さんが、美香さんと言う女性と対面したのなら、また事実関係が変わってくるのではないかと思います。」
ジョチさんは、そういって、すぐに華岡のところに電話をかけてしまった。一恵さんは、待ってといったが、そういう話に慣れているジョチさんは、平気で話しを伝えてしまった。電話の奥から、情報をありがとう!と涙ながらに言っている声が聞こえてきた。
「それでは、まりえさんは逮捕されてしまうのでしょうか?」
一恵さんは電話をし終えたジョチさんに言った。
「ええ、いずれはそうなってしまう可能性もありますね。まず美香さんという女性のことが確定して、そしてまりえさんという女性が、あなたにテンナンショウを渡したということが証明できれば、あなたへの殺人未遂罪も考えられますね。そのまりえさんと言う女性が、なぜ美香さんのことをあなたに聞かせたのか理由がわかれば、」
「もしかして、美香さんのお母さんだったんじゃないかな?」
と、杉ちゃんが言った。
「杉ちゃん、あまり断定的に言ってはなりませんよ。」
ジョチさんはそう言うが、
「いや、なんか直感でさ。」
と、杉ちゃんは言った。文字の読めないせいか分からないが、杉ちゃんの勘は、大体的中するものである。外れたということは殆どない。
「その、一恵さんにテンナンショウを渡したまりえさんという人は、美香さんと言う人のお母さんだったんじゃないか?それで、美香さんのことを、一恵さんに知らせたくて、一恵さんにテンナンショウを渡したんだ。そうすれば辻褄が合うだろう。もしかしたら、竹沢玲さんも、女中の秋山さんも、まりえさんたちの手によって殺害されたのかもしれないなあ。もうちょっとそこら編は調べてみないとわからないだろうけどな。」
「そうですね。その可能性は高いですね。竹沢一恵さん、ほんとに美香さんという女性とお会いしたことは覚えていませんか?そのあたりの記憶というのは、思い出せないのでしょうか?」
ジョチさんがそう言うが、一恵さんは申し訳無さそうに、
「本当に覚えてないんです。まりえさんにもそう言われましたけど、都合のいいことばかり忘れて、それ以外の事は欠落しているって。」
と言って涙をこぼしてしまった。
「わかりました。仕方ありませんよ。そういう事は今の医学ではどうにかできる問題ではありません。それは諦めなければならないと思います。ですが、美香さんのお母さんという人が、まりえさんであるという可能性は十分にありますね。」
ジョチさんはそう言って彼女をなだめたが、彼女は涙をこぼして更に泣き続けるのだった。水穂さんが、知らないうちにやってきて、
「彼女をそっとしておいてやったほうがいいと思います。この事実を受け入れるのには、非常に時間がかかると思います。」
とジョチさんに言った。
「もちろん、事実は事実だから、それはちゃんと認めるんだな。そして、それに対してどうするかを考えるか、が人間にできることだ言うのもまた事実だ。それは、ちゃんと受け取らなくちゃいけないぜ。それはな。」
杉ちゃんが腕組みをしてそういうと、
「そうね、、、。確かに、そのとおりにしなければならないと思います。ですが、彼女の気持ちも考えると、本当に彼女が可愛そうではないかと思ってしまうのです。だって私にできなかったことが彼女にはできたんです。それを私が失わせてしまったというのなら、私は何ていうことをしたのか。そういうことなら、私が死んでお詫びすればよかったのかもしれません。」
一恵さんはそういうのだった。
「そうですか。それではとても優しいんですね、一恵さんは。そういうことなら、そのとおりにしないで、生き抜かなければなりません。第一、あなたが死んでお詫びしてしまったら、光くんはどうするんです。また飼い主に裏切られて、余計に傷つきますよ。そして、これからは、新しくペットセラピーをして、美香さんや、ご主人の分まで生き抜いていかなくちゃ。」
水穂さんが一恵さんにそういった。
「でも私、まりえさんの気持ちになって考えたら、もう、私はなんて酷いことをしてしまったんだろうって。酷いことを、なんて酷いことを。私、どうして美香さんを受け入れてやれなかったのでしょう。主人のこともどうして覚えていないのでしょう。なんて私は酷い人間なんでしょう。それでは、もう生きている価値なんて無いんじゃないですか。もう、終わりにするしか無いのではないですか!」
水穂さんは、一恵さんの頬を平手打ちした。杉ちゃんがよせといったが、水穂さんは聞かなかった。
「誰でも、つらい過去とか消したい過去とかそういう事は持っているんです。それを背負って生きていかなくちゃいけないのが人間なんですよ。それは、みんな同じです。あなただけ特別ではありません。いつもさらけ出している事はできないですけど、でもときにそれを口にすることで、人間は再び生きようという気持ちになるのではないかと思うんです。」
「私、、、。」
一恵さんは、床に崩れ落ちて、幼児のように泣いた。ジョチさんがもうすぐ警察が来ると思いますと言ったが、杉ちゃんは、ちょっとまっててもらおうぜと言った。
「凶器になると思われるテンナンショウも、ちゃんと保存しておきますね。もちろん、テンナンショウも腐るものですから、そうならないうちに証拠として立証しなければなりませんからね。」
と、ジョチさんは紙袋の中身を確認していった。
それと同時に、光くんが立ち上がった。そして不自由な足で、一恵さんに近づき、その額をなめてやった。
「なるほど。人間も犬もだいたい一緒とは、こういう事を言うんだな。犬は飼い主に似るというが、正しく彼も一恵さんにそっくりじゃないか。」
「ええ、一恵さんは、それほど優しい人です。だから、竹沢学園を作ったのもそこから来ていると思います。ただ、人間ですから、完全無欠にできるわけじゃない。だから、彼女、美香さんが救いを求めてきたとき入学を断ってしまったんですね。でも、人間は、失敗したらそのままで居られる動物では無いことも確かですよ。それを、教訓にすることができるじゃないですか。そこを忘れないで、ずっと生き抜いてほしいと思います。」
杉ちゃんと水穂さんは、光くんが一恵さんの額を舐めてやっているのを眺めながら、そういったのであった。
「竹沢さん、警察です。あの事件のことがわかったっていうから急いで駆けつけてきました。それではお話を伺えないでしょうかね?」
と、華岡たちがやってくる声がした。でも一恵さんは泣いていた。とても応答できそうに無いと判断したジョチさんは、先程渡されたテンナンショウの袋を持って、急いで玄関先へ言った。一恵さんはずっと泣いていた。光くんは一恵さんが泣いている間、ずっとそばについていて離れなかったのである。
ジョチさんが、一恵さんが高野まりえという女性に、テンナンショウをもらったということを話して、おそらく竹沢玲の殺害や、家政婦の秋山さんの殺害も、高野まりえの仕業ではないかと話し終えるまで、一恵さんはずっと泣いていた。水穂さんも杉ちゃんも、それを止めることもしなかった。おそらく、泣き続けられる時間なんて、本当に少ししか無いということを知っているからだ。
何時間か経って、新たな情報を得た華岡たちは、大喜びして帰っていった。多分、これで事件は解決だと思ったのだろう。警察関係者にしてみれば、事実がわかるということは嬉しい事かもしれない。だけど、一般の人達からしてみれば、本当に悲しい事実でもある。ましてや、一恵さんのような記憶に障害のある人物ならなおさらだ。
それから、しばらくして、テレビは高野まりえさんと、高野和男さん夫婦が逮捕されたというニュースばかりを報道した。高野まりえさんと和男さんの娘である高野美香さんが、自殺してしまったことも報道された。それ故に引き起こされた感情は、テレビに出演している偉い評論家の方方が分析した。一恵さんはどうしたかといえば、また誰とも口を効かない、蝋人形のようになってしまった。いくら本人を説得してもだめだった。仕方ないから、光くんの散歩は、製鉄所に通っている利用者が行うこともあった。
杉ちゃんたちは、いつもどおりに、製鉄所で過ごしていたその日。
「私、あらためて、頑張ることにしました。」
と、一恵さんはそう言いながら製鉄所にやってきた。
「一体どうしたんだよ。」
杉ちゃんがそうきくと、
「いつまでも落ち込んでは居られないですもの。主人と、美香さんの分まで頑張らなくちゃだめだって思います。」
と、一恵さんはにこやかに笑っていった。
「そうですか。わかりました。じゃあこれからの進路はどうするんですか?」
とジョチさんがそう言うと、
「ええ、とりあえず光と、またドッグセラピーの勉強をしようかなって。人を育てることはできませんでしたが、今度は、犬を育てることにしようかと。それを通じて、私や主人が夢見ていたこともできるかもしれないですし。」
一恵さんはにこやかに言った。
「夢見たものってなんですか?」
と、水穂さんに聞かれて、一恵さんは、そっと笑みを浮かべた。
「ええ、いろんな失敗を繰り返してきましたけど、私が、夢見たものは、やっぱり誰でも、やり直せるってことを伝えたいんじゃないかなと思います。主人も、それを夢見て、ワケアリの人が行くような学校を作りたかったんだと思いますし。私達は、子供を作ることはできなかったのですが、他人の子供さんを、応援してやろうって誓ったことだけはよく覚えてますし。」
一恵さんはそういうのだった。先日受けた検査で、一恵さんはやはり事件のことや、夫の日常生活などのことで、まだ思い出ていないことがたくさんあると言われたばかりだ。だけど、そういう事を言うことができたのだから、少なくとも何か感じてくれることはできたのだろう。
「それに、私はつらいときに、こうしてそばに居てくれる人が居ることで立ち直ることができました。だから今度は私の番です。」
「私の番?」
一恵さんがそう言うと、ジョチさんはそう聞き返した。
「ええ。私は、事件が解決するまで、とても苦しい思いをしてきました。そのときにとてもありがたかったのは、理事長さんや水穂さんがそばに居てくれたことです。世の中にはそれで苦しんでいる人たちはとても多いはずです。答えは唯一つ、それを背負ったまま生きていくしか無いってことも、水穂さんが聞かせてくれました。だけど、人間それを口で言ってもわからないこともわかりました。わかってもらうためにはそばに居てあげることが必要なのです。私は、そういうことができる人間になりたいと思います。」
一恵さんは、そういうのだった。ジョチさんは小さなため息をついて、
「そうですか。それならわかりました。それを目指して頑張るわけですね。でも、僕たちは、あなたに対して、なにか声掛けをしたつもりは、ありませんがね。」
と、したり顔で言うが、一恵さんは、にこやかにこういうのだった。
「いいえ。皆さんは私が変わろうというきっかけを作ってくださったのです。だから、これからは、私がそういう役目をになっていけたらいいなと思います。」
「そうかそうか。良かったな。それでは、やれるだけやってみな。」
杉ちゃんは、一恵さんにそう言うと、一恵さんはにこやかに笑って、ドッグセラピーの本とノートを開いて勉強を始めたのだった。
夢見たものは、、、。 増田朋美 @masubuchi4996
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