第八章 必ずとってやる

一恵さんは、一生懸命本を読みながら、ノートになにか書いて勉強を始めていた。一体何をそんなに一生懸命やろうとしているのかと製鉄所の人たちはみな不思議がっていた。

「なんでも、犬を使って精神疾患の治療を行ういわゆるドッグセラピーの勉強を始めたそうです。あの光くんという犬を拾ってきたのが、起爆剤にななったんじゃないですか。」

ジョチさんがそう説明すると、杉ちゃんもなるほどといった。

「そうなると、うちのフェレットも、役にたたせて貰えないもんかな?」

「まあ、彼女が資格を取れば、もしかしたらなにかするかもしれませんね。」

杉ちゃんとジョチさんは、そう言い合っていた。そんな事を言われても、一恵さんは、勉強をつづけていた。そうかと思ったら、ちゃんと光くんの散歩にも行くし、結構規則的な生活を送るようになってきた。

その日も、暑い日だったが、

「さあ、お散歩に行きましょうね。」

と言って、一恵さんは、光くんと名付けた白いボルゾイを連れて、今日もしっかりと散歩に連れて行くのだった。いくら足が悪いワンちゃんであると言っても、連れて行くのだった。ちゃんと襟のついたシャツを着て、スラックスをしっかりと履き、靴はスニーカーを履いている。以前の様な、むとんちゃくな服装でもなくなっていた。腕にはカバーを付けてちゃんと日焼け対策をして、頭にはきちんとつばのついている帽子を被って、きちんとした服装になっていた。

それでも、光くんは、後ろ足が不自由であり、長時間歩くことはできなかったから、30分ほど歩かせたら、必ず何処かで休憩させなければならなかった。なので、公園の東屋で必ず休憩させていた。その日も、一恵さんは東屋のベンチに座って、持ってきた水を光くんに飲ませたりして、休憩していたところだったのであるが、東屋に汗を拭きながら女性が一人やってきた。

「あら、あなたはたしか、先日お会いしましたよね。お名前は確か、高野まりえさん。そうではありませんか?」

一恵さんがそう言うと、

「ええ、あなたは確か、竹沢一恵さんでしたね。」

と、彼女も答えた。ということは高野まりえさんに間違いなかった。

「えーと確か、フリーでライターをやってらっしゃるんでしたね。私、ほら今、心の病気の治療中なので、覚えていることは口に出して言うようにしているんです。もし不快に思われたらごめんなさいね。お許しください。」

と、一恵さんは言った。

「いいえ、そういう事はありませんでしたが、人のプライベートをなんでも口にしてしまうのはちょっと。」

まりえさんはそういうのであるが、一恵さんは、にこやかに笑ったままであった。

「そうかも知れないけど、親しみを込めてということもあるわ。」

一恵さんは表情も変わらなかった。

「まあ確かにそうですね。ですが、その白いワンちゃん、結局飼い始めたんですか。」

まりえさんがそう言うと、

「ええ、もうすっかり家族の一員です。今の彼のお陰で私があります。彼のお陰で私は、ドッグセラピーをしたいという新たな夢を得ました。だから、もうホント、彼に感謝したい。彼のお陰で、私は、出かけることができるようになったんです。生活にもハリが出てきたし、本当に嬉しい。」

一恵さんはとてもうれしそうに言った。

「そうなんですか。それでは、犬のお陰で、いろんなことができるようになってきたわけですね。それは嬉しいことですね。人生で決定的な事が起きたときをギリシャ語ではカイロスというようですが、一恵さんにとっては、犬を飼い始めたことがそれだったのかな。」

まりえさんは、文筆業らしくそういう事を言った。

「きっとそうかも知れません。人間、すごいことが起きるときと、そうではないときとあると思います。すごくつらくてしょうがなくて、ただ苦しいということしかできない日もあるけれど、そういうときは、変わるのを待っているしかない日もありますよね。そういう人は意外に多いのでは無いでしょうか。だから、そういう人に、犬と一緒に過ごしてもらって、心を解してもらうようにしてほしいと思ってるんです。」

一恵さんは光くんを撫でてやりながらそう言った。

「そうですか。その白いワンちゃんのお陰で、一恵さんは明るくなれたんですね。それは本当に良かったです。その子は、人見知りもしないんですね。変に人を怖がっている様子もないですし、なんかすごく人懐っこくて可愛いですね。」

まりえさんも思わずそう返してしまった。なんだかかわいい犬を見ると、すぐに手を出してしまうのは、いけないことのような気がした。それくらい白いボルゾイは、愛らしくて可愛いのだった。

「それはきっと、一恵さんが愛情を持って飼って居るからですわ。だから、彼もそれに応えるつもりで可愛くなったのでしょう。」

なんだか思わずそう言ってしまう。

「あら、どうしたの、まりえさん。なんだか落ち込んでいるみたいだけど。」

一恵さんに言われてまりえさんは思わずびっくりしてしまった。

「え?私、そんなふうに見えました?」

思わず聞いてみると、

「はい。そう見えるわ。どうかしたの?なにかあったんなら、口に出していったほうがいいわよ。私はそれも、ここで学ばせてもらったの。」

と一恵さんに言われてしまう。

「いえ、そんな事ありません。まあ強いて言えば今日はものすごく暑いですよね。だからそのおすそ分けかな。あははは。」

まりえさんは、すぐにそう言い返すのであるが、

「ほんと、嫌なことは溜め込んでは行けないですよ。それは必ず誰かに相談してね。どんな人でも、悩んで変わろうと言う気持ちは持ってるわ。きっと、それから変われることもあるわよ。だから、それをしっかり忘れないで、生きていかなければだめなのよ。」

一恵さんに言われてしまって、思わずぽかんとしてしまった。それと同時に、12時を告げる鐘がなった。

「それでは、私もう行くわ。お昼ごはんの時間だから。それでは、また何処かでお会いしましょうね。」

一恵さんは椅子から立ち上がり、光くんを連れて、東屋を出ていった。まりえさんは、その一恵さんの様子をなんだか不安そうに眺めていた。

まりえさんは、しばらく呆然としていたが、すぐに我に返って、急いで一恵さんとは反対方向に帰っていった。まりえさんが帰っていったのは、表向きはごく普通の建物なのであるが、玄関先に植えられている大きな木の下に、「フリースペース大きな栗の木の下で」と書かれた看板が設置されれていて、その隣にローマ字で「TAKANO」という表札が設置されていた。

まりえさんは、その表札の家の玄関ドアを開けて、家の中に入った。

「ただいま。」

まりえさんが小さくつぶやくと、

「おかえり。どうだった?」

と、夫の高野和男さんがまりえさんを迎えた。

「ええ。まあ元気そうだったわ。」

まりえさんは答える。

「そうか。事件のことは思い出していないみたいだったか?」

和男さんにいわれて、まりえさんはちょっと答えるのに躊躇した。

「どうだったんだよ。」

もう一度言われて、まりえさんは

「ええ。まあ、元気そうだったわ。多分事件のことは思い出していないわね。変わったことといえば犬を一匹飼ってたわ。なんでも、何処かで拾ってきた犬みたい。それを利用してペットセラピーするって言ってたわ。」

と、答えた。

「そうか。いくら大事なものをとって言っても、彼女は雑草のようにすぐ立ち直るんだな。」

和男さんはそういった。

「それでは、また除草剤を巻かなければならないな。」

「ちょっとまって。」

まりえさんは、和男さんに言ってしまう。

「あの犬を、一恵さんから奪うのは、ちょっと可哀想すぎるわ。とてもお行儀が良くて、愛想のいい犬よ。それを一恵さんから持ってしまうのは、ちょっと私は、可哀想過ぎると思う。」

「女ってのはどうしてそういうところで優しい気もちが出てしまうんだろうね。」

と、和男さんは呆れた顔で言った。

「だって、竹沢一恵にバカにされて、なんとかやっつけたいと思ったのはお前だろ。それに、これを完遂しなければ、美香に顔向けできないと言ったのはお前じゃないか。だから俺たちはこうやって。」

「そうね。」

まりえさんは自分の机を見た。そこには小さな位牌と、15歳位の若い女性が微笑んでいる写真が置かれていた。

「だから最後まで徹底的にやろうと言ったじゃないか。あのとき半狂乱になって、美香を返して、美香を返してと怒鳴っていたのは何処の誰なんだよ。」

和男さんに言われてまりえさんは確かにそうだと思ったが、でも同時に一恵さんの顔を思い出してしまった。

「でもねえ。私は、なんだかあの一恵さんをひどい目にあわせてやろうという気持ちには、、、。」

まりえさんは思わず言ってしまう。

「何を言っているんだ。あの竹沢夫婦は、教育者としてはたしかにすごかったかもしれないが、俺たちの事を、散々馬鹿にして、美香を自殺に追い込んだのは、あの二人なんだぞ。だから、あの二人をひどい目にあわせてやろうとお前は泣いていたじゃないか。それに、竹沢に恨みを持っている人物だって居るんだから、あたしたちが罪に問われることはないって、お前は散々言ってただろ。それを完遂しないで終わりにしてしまうなんて、美香になんと言われるか。」

和男さんに言われてまりえさんは変な方向を見てしまった。

「そうかも知れないけど、あたしは、もうこれ以上いいかもしれない。だって一恵さんは、随分苦しんだと思うわ。ご主人を亡くして、いろんな事実が明るみに出て。あたしたちもそうだったじゃないの。美香が自殺して、学校で美香がどんな生徒だったかがすごい浮き彫りに出て、すごい大変だったでしょ。だから、もう、一恵さんを苦しめるのは、やめたほうがいいわ。」

「バカ!そういう事言うからお前は美香を守れなかったんじゃないか!だから、美香のできなかったことまでしてやろうと思ったんじゃないか!そんな事してどうする。美香は二度と帰ってこないんだぞ。それなのに、竹沢は堂々と生きてる!そのうえ美香をなくした事だってこれっぽっちも苦しまなかったじゃないか!きっとアイツラには、ただの入学希望の生徒としか見えなかったはずだ!でも俺たちにはかけがえのない一人娘だったってことを思い知らせてやりたいとお前は散々言っていたじゃないか!」

和男さんは、まりえさんに言った。もしかして、男の人というのは、こういう悲しい事に直面すると、女よりも衝撃が大きいのではないかとまりえさんは思った。

「だから絶対完遂しなければ行けないんだ。それも竹沢一恵の大事なものをとっていくことで、竹沢一恵を苦しめていくこと。それが美香の親として唯一、美香に伝えてやれることじゃないか!」

和男さんに言われてまりえさんはそうだなと思い直した。だけどまりえさんは、またあの白いボルゾイと一緒に居る一恵さんの顔を思い出してしまった。

「しっかりしてくれよ。お前がそこでめげてしまったら、美香も怒っていると思うぞ。俺たちを、ここで生かしているのは、美香はきっと、竹沢に仕返しをしてやれと言っているのだと、お前が散々言っていたじゃないか。それを取り消したいなんて、簡単には言わせないぞ。」

「そうね。」

まりえさんは、和男さんに言われて、もう一度美香さんの遺影を見た。確かに美香さんはもう帰ってこない。その遺影に写っている彼女の顔は、二度と見ることはできないということもまた事実であった。その苦しみは、本当に苦しかった。美香さんの葬儀のときも、自分は半狂乱になるように泣いたのだった。周りの人達は、まりえさん泣きすぎですよと言ったくらいだ。でもまりえさんは、そのくらい泣いてしまったのだ。もう一度いうが、美香さんは二度と帰ってこないのだから。

思えば、美香さんが病気になってしまった責任も、自分だったのではないかとまりえさんは考えていたことがあった。小学校までの美香さんはとても明るくて活発で授業を盛り上げてくれるということで、学校の先生にもすごく頼りにされる生徒だった。小学校はそれでいいとされる。小学校までは。でも、中学校に行ったらそうはいかなくなる。中学校では試験の点数が全てである。だから、美香さんは良い生徒から悪い生徒になってしまった。美香さんは、授業ではよく挙手をして、楽しそうにしていたのに、試験でいい点を取れなかったから、学校で厄介者扱いされてしまった。まりえさんも和男さんも、それは当たり前のように感じていたから、そういう事に順応できない美香さんをかばってやることはできなかった。それは自分にとって大きな誤算だとまりえさんは思っている。

美香さんは、中学校で厄介者になってしまって、学校に行かなくなってしまった。学校の先生に、言われたことを何回も思い出しては暴れ、和男さんが無理やり精神科に連れて行ったこともあった。そんな生活が3年間続いてしまって、和男さんも、まりえさんも、文字通り、生きた心地がしなかった。

だけど、その三年間のあと、竹沢学園が富士市に学校を建設するとチラシを出した。そこであれば、不登校の生徒さんであっても、再教育をしてくれるとパンフレットに書かれていた。竹沢学園を教えてくれたのは、まりえさんの母だった。それは、本当に地獄に仏ということだと思っていた。まりえさんは、暴れる美香さんに、新しい学校ができたと告げた。始めは受け入れてくれなかった美香さんだけど、次第にそういう学校ができてくれたということを聞いてくれるようになった。それで、まりえさんたちは、美香さんを連れて、竹沢学園の校長先生にあってみようということにしたのである。

もちろん、竹沢学園は、学校として開校してなかったのであるが、まりえさんたちは、ぜひ学校見学させてくれと言った。そして、美香さんを連れて、竹沢学園に電話して、校長の竹沢玲先生と、奥さんの竹沢一恵先生と話をさせてくれと懇願した。竹沢先生たちは、快く了解してくれた。

その当日、美香さんは嫌そうな感じだったが、まりえさんはやさしい先生が居るからと言って、美香さんを一生懸命なだめて、一緒に連れて行った。とりあえず、市民文化会館のカフェで、竹沢さんたちはあってくれることになっていた。美香さんを連れて、指定された場所に連れて行くと、竹沢校長夫妻は、にこやかな顔をして待っていてくれたのだった。

でも、ここまでだった。まりえさんたちは、美香さんが学校にいけなくなってしまって、家で大暴れを繰り返していると話し、どうか彼女を治してくれと、竹沢校長夫妻に懇願してしまったのだ。それが、美香さんはもう両親は自分を捨ててしまうのだと感じてしまったのだろう。それに一恵さんが美香さん一緒に頑張ろうねと言ってくれたのが、美香さんはとてもつらかったのかもしれない。いずれにしても、美香さんは自宅に帰ったあと、まりえさんと和男さんにおやすみなさいとだけ言い残し、処方されていた睡眠剤を料理用の酒と一緒に大量に飲んで死んでしまった。朝、美香さんが起きてこないので、まりえさんが部屋に入ったときはもう遅かった。遺書はなかったが、美香さんが自殺を図ったことは明確だった。

それからは、たしかに、和男さんの言ったとおりである。まりえさんは、確かに半狂乱にもなったし、先程言われた通りの発言もしている。そして、美香の気持ちをわからせるために、竹沢一恵の一番大事なものをとってしまえと怒鳴ったこともある。それで夫がその通りにしてくれたのであるが、実際に竹沢一恵さんにあってみると、彼女はとても優しそうで、あの白い犬を、大事に育てているようだった。それに、一恵さんの夫である竹沢玲が、宦官症であったことも報道されたが、まりえさんはそのような事は知らなかった。竹沢夫妻は、ただのうのうと生きているだけだと思っていたが、一恵さんもそういうことで随分苦しんだのではないか。それを思うと、なんだか夫がしているように、一恵さんを亡き者にしてやろうという気持ちにはどうしてもなれなくなってしまった。

「まりえ。」

と、和男さんに言われて、まりえさんは振り向いた。

「もういいかんげんにしろよ。美香ががっかりするかもしれないぞ。そんなんで、ママは本当に情けないって、言っているかもしれないぞ。次の獲物はあの白い犬だ。犬なんて人間より簡単にやれるんじゃないのかな。お前、竹沢一恵が、いつも犬の散歩でバラ公園に来るって言ってたよな。」

と、和男さんは言っている。

「ええ、たしかにそのようだわ。」

と、まりえさんは言った。

「だったら、毒の入った餌を犬に食べさせてということはやれるんじゃないのかな。毒はこないだと同じでいいだろう。遅効性の毒であれば、その場ですぐにはやれないし、犬が死ねば竹沢一恵はまたパニックになる。そうして更に落ち込んだところで、美香のことを記した手紙を、竹沢のところに送れば、竹沢一恵は、きっと自殺に追い込まれるだろう。よし、これで俺たちの復習は完了だ。そうすれば美香に恥ずかしくない顔向けができるよ。」

和男さんがそう言っているのを聞いて、まりえさんは、そんな事本当にできるのだろうかと思ってしまった。

「幸い、警察は美香の事は調べていないようだし、できるんじゃないのかな。竹沢一恵を、すぐに苦しめて死なせるのではなくて、じわじわと追い詰めて、美香がそうしたように死なせてやりたいと言ったのはお前だ。だから、今度こそ美香を喜ばせてやろうな。」

和男さんは、そう言って、薬箱の中から小さな瓶を出した。その中に何が入っているか、まりえさんも知っていた。だけど、それを使うのは、もう少しあとにしたいというか、もう使いたくないという気持ちが湧いてしまった。でも、美香さんの遺影を改めて眺めてみて、まりえさんはやっぱり一恵さんは許せないと思ってしまったのだった。

「竹沢一恵は、お前のことを覚えていないようだったんだよな?まあお前は演劇科を出ているわけだから、他人になりすますことは得意だと思うけど。」

と、夫は言っている。確かにその通りだった。

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