二進数でできた世界

バルバルさん

0と1で出来た世界

 魂とは電気信号である。


 脳内のニューロンを駆け巡る電気信号。それがわれわれの意識であり、魂の正体である。


 脳が停止した時にニューロン内の電気信号も消え、我々の体も停止する。


 それが死だ。


 電気信号をデジタルにすると、ゼロと一の二進数になるようだ。つまり、我々の意識や魂は、0と1で構成されている。


 そう、それがこの世界の真実。この世界で、泣いて、笑って、怒って、悲しむのは、0と1の組み合わせ。所詮は組み合わせなのだ。


◇◇◇


 親父は頭の良い人だったという。頭が良すぎるくらいに良い人だったらしい。


 らしい……というのは、俺が親父の科学者としての面をほとんど知らないからだ。


 親父は、俺や母さんの前ではとても優しい父親だった。テレビで笑って、俺のすることを喜んでくれて、偶に母さんに怒られてちょっぴり涙ぐむ。そんな、優しい人間らしい人だった。


 だけど、俺が知っていたのは本当に親父の一面だけだったらしい。


 親父が死んだのはつい先日の事。高校への入学を祝ってくれた数日後、精神脳心理学研究所とかいう、何やら怪しい名前の科学研究所の所長だった父は、研究所での事故で死んだ。


 やっと悲しみも癒えはじめて、親父の遺品の整理をしていた時に見つけたのがこのノートだった。


 難しい数式のようなものが書き殴られたノートの最後のページに書かれていた一文。


「世界の真理と摂理によって、魂あるものに幸福を与える」


 この文は、一体何を意図して書いたのだろうか。このノートに書かれた数式の意味する事は?


 俺も科学者の息子らしく、興味を持った。持ってしまった。


 俺の人生の当面の目標は、このノートの意味を、解き明かすことにした。


 そのために沢山勉強した。三年の間、必死で様々な分野の知識を付けた。


 そのかいあってか、このノートは脳科学についての何からしいということが理解できた。


 必死の勉強の副産物か、東京の有名大学に進学することが決まった俺。母さんも喜んでくれたその翌日の事。


 俺は車に轢かれた。


◇◇◇


 意識は0と1の組み合わせである。


 ならば世界はどうだろうか、我々が感じている主な意識、五感。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。


 それら全てを世界として定義すれば、0と1にできるのではないか。


 現に、マウスを使った実験ではマウスの感情などをグラフに表すことができている。


 つまり、この実験で使われているマウスの世界は0と1で説明できるということだ。


 ならば同じく脳を持ち、五感や意識、思考を高いレベルで備えている人間の世界を0と1で構成できないと誰が言えるだろうか。


 だから、私は。


◇◇◇


 苦しい。まるで水中で呼吸しているかのようだ。いや、その何百倍も苦しい気がする。


 ここはどこだろう。瞼を開けたいのに開かない。


 ひどく寒い気がするのに。寒いという実感というものだろうか、それが沸かない。


 時間が経っている気がしない。ずっと、時間が止まっているような、そんな気持ちの悪い感覚。


 一体ここはどこだ。俺はどうなったんだ?


 その時だった。何か、震えるような響きが襲ってきたのは。


「瞼を開けるんだ、和樹」


 響きとしか感知できない。そんな振動なのに。その振動が伝えたいことが何故かわかった。


 俺はもう一度、瞼を開けようとする。すると、驚くほどにすんなりと瞼が開いた。


 それと同時にこれ以上ない驚きが俺を襲ってきた。驚きの声も出てこない。それほどの驚愕。


 なぜなら、白衣を着た父が、目の前に立っているのだ。


 そして父の背後、そこには膨大な数の0と1という数字が、まさに世界の果てまで並んでいた。後ろを向けば、俺の後ろにもびっしりと。


 それだけなら、意識のはっきりとした夢と片付けたかもしれない。だが、何か生々しい現実感がこの世界にはあった。


「大きくなったな。和樹」

「お、親父? なんで……っていうか、ここは?」


 俺の様子が可笑しいのか、クスクスと親父は笑う。いつも、家でしていた、優しい笑い。


 だが、状況の異様さが、その笑いを不気味に感じさせる。


「ここは死後の世界と、現実の狭間だよ」


◇◇◇

 私のやろうとしていることを誰一人と理解しない。


 それどころか、私の計画を聞いた人はみな、冗談を言っていると捉えるか、奇異と恐怖の目で見てくる。


 なぜだ。私のやろうとしていることは、過去と現在を見ても誰一人成功せず、また、やろうともしなかった。そんな素晴らしい実験なのに。


 まだ私の研究が理解されるには世間や人は幼い。そういうことなのだろうか。


 だが、この研究と実験はやめるわけにはいかない。私の義務であり、責務だ。


 先日、高校に上がったばかりの和樹のためにも、絶対に成功させる。


 そう、絶対に。


◇◇◇


「死後の世界? じゃあ、俺は死んだのか」


 俺の絶望的な感情とともに吐かれた言葉。それを聞いても、父は不気味な優しい笑いを崩さない。


「いや、それは少し違うね。和樹は後ろに広がる現世で死んだ。でも、まだ死後の世界には行っていない。だってここは、死後と現実の世界の狭間だから」

「どういうことだよ、全然わからない。死んだんなら死んだで、死後の世界があれば、そこに行くものだと」

「そうだ。死んだら普通はこの先の死後の世界へ行く。でも、和樹。お前は行かない」


 親父が。何を言っているのかさっぱりと理解できない。いや、理解するのを心が拒んでいる。そんな嫌な感じがする。


 そもそも、親父と俺の後ろの、0と1の壁のようなものは何だ?


「さて。和樹も疑問に思っているであろう、このゼロと一の壁について説明しようかな」


そして、親父はいたずらが成功したかのような、そんな笑みで俺に近づく。


「和樹。私の後ろの壁が死後の世界だ。そして、和樹の後ろの壁が現世とでもいえばいいかな」

「え?」

「これが私の研究と実験の成果だよ、和樹。私は、現世と死後の世界をゼロと一で再構築したんだ。私の死と同時にね」


◇◇◇


 私は、死後の世界があるかという人間の潜在的恐怖。それに打ち勝つための研究を続けてきた。


 そして、やっとたどり着いたのだ。世界を0と1で再構築する方法に。


 これを実行することにより、この現世と魂の世界、所謂死後の世界というものを0と1で再構築できる。


 世界は二進数で表現できる。0か1か。この法則を支配することにより、私は。


 全ての魂あるものへ、幸福な未来を約束することができるのだ。


◇◇◇


「ど、どう言うことだよ。この0と1の壁が、現世と死後の世界?」

「私の言葉の通りだよ。いいかい? 我々の世界は、全て0と1で構成されている脳の電気信号によって表現されている。なら、実際にこうして0と1に再構成できても不思議ではないだろう? 例えば」


 親父は壁に触れると、0と1でできた塊を取り出す。するとどうだろう。その0と1はリンゴになった。

 さらに壁から塊を出すと、それは包丁になった


「こういう風に、リンゴも包丁も。全て0と1だ」


 親父はリンゴを剥き始める。そして、剥かれた皮は再びゼロと一へと変換されて壁へと吸い込まれていく。


 そして、剥いたリンゴをかじりながら、父は話し続ける。


「さて、理解できたかい? 私が0と1に世界を再構成したことを」

「まあ、理解っていうか、その、凄い事過ぎて理解が追い付かないんだけど。ところで、俺は」

「死んだんじゃないのか、という疑問だね。確かに、和樹は死んだよ。で、この死後の世界の0と1の壁に組み込まれるはずだった。それを私が止めたんだ」

「え」

「まだ、和樹はやりたいことが沢山あるだろう? だから、こうして死後の世界へ行くのを止めたんだ」

「ど、どうやって」

「ははは。魂も所詮は0と1。そう再構成した私に不可能はないよ」


 なんというか言葉が出てこなかった。目の前の存在は、一体なんだ?


 本当に、親父なのか?


 あの、優しかった親父が、こんな狂気の沙汰のようなことをするのか?


 世界を0と1。そんな二進数で支配するなんて。


「さあ、長話が過ぎたね。さあ、和樹が生き返るよう、ゼロと一の値を変えようか」

「ま、待ってくれ。俺を、生き返らせるなんて」

「生も死も、所詮は0と1の上の出来事。変えるなんて造作もない」


 そんなの間違ってる。たった一人の人間の意志が世界を支配するなんて。


 生き返ることができるのは嬉しい。やりたいことはたくさん残っている。


 でも、何かが訴えてくる。こんなのは間違っていると。


「親父は生き返らないのかよ」

「ああ。私は二つの世界の管理をしなければならないからね。じゃあ、生き返ったら、お母さんによろしくな」

「どうすれば、生き返ることができるんだ」

「後ろの壁を触ればいい。それだけだ」

「そっか。わかったよ」


 俺は、ある決意をもって、後ろの壁を触った。


 親父にお礼の言葉は言わなかった。


◇◇◇


 生き返った俺は、再び勉強を始めた。


 この世界は0と1でできている。今飲んでいるコーヒーも、書いている紙も、持っているペンも。


 俺の怒りも。


 親父は……あの存在は。もう優しかった親父じゃない。自分を、神かなにかと勘違いした存在だ。


 ならば俺が止める。この世界を0と1の支配から、奪い返す。


 そのための研究を俺はしている。科学者として。親父だった存在を止めるために。


 死後の世界もこの世界も。俺が再び元の世界に再構成する。この決意も、親父の掌の上かもしれないけど、知ったことじゃない。


 そもそも、親父はすべてを支配出来てはいない。支配できているのなら、俺が車に轢かれることもなかったはずだ。


 だから、チャンスはある。


 この世界は、もしかしたら0と1で表現できるかもしれない。


 だが、それを絶対と思って、神を気取った親父の支配からは脱却しなければならない。


 絶対に、絶対に。


 俺たちの自由のために。


 自由に生きて、いつか死んで。だから必死に生きて。けど死ぬ。


 だから俺たちは生きるんだ。


 自由に全てを感じ、0と1だけじゃない、様々な多様性の人生を送り、死ぬ。


 だから、生きるんだ。


 それを、あの世界で世界を支配する親父に教える。


 それが俺の命題。


 一生を生きる意味となった。

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