分裂カプリチオ

花野井あす

分裂カプリチオ


 わたしの世界は、ある日突然、崩壊した。


 紅く染まった紅葉の落ち葉で、校門前の並木路がその様子を変容させ始めた秋のおとずれ。

 

 薄暗い教室の中で、女生徒たちがひそひそと、うわさ話に花を咲かせていた。膝頭をそっと隠すように覆い、ゆらゆらと揺れる濃紺色のスカートのプリーツと、少し膨らみ始めた胸を彩る、セーラー襟。品のある灰色のカラーテープが胸元にささやかな華やかさを添える。

 

 お揃いの制服に身を包んだ少女たちは柔らかな白い頬を紅潮させ、まるで厳かな儀式を執り行うかのように、声が外へ漏れぬように小さく細い手で口元を覆った。汚れを未だ知らぬかのような無邪気で足処気あどけなさをたたえた笑みを浮かべて。

 

 くすくす。

 くすくす。

「ねえ、見て、あれ。」

「やだあ。汚いわ。」

「なんて間抜けなの!」

 

 少女たちは悪意を確信して、だけれども、その本心を醜悪なものとは無縁で清らかであると言いたげな未だ幼さの残る愛くるしい笑顔でそれを隠している。

 

 彼女たちは、つい昨日まで、わたし――榎本えのもと希子のりこの学友だった。共に学び、共に遊んだ。帰り道に先生たちの言いつけを破って、一緒に寄り道もした。何処にでもいる、ごく平凡な同級の友人であったはずだ。

 

 くすくす。

 くすくす。

 

 にたにたと下卑た微笑みを浮かべ、頻りにこちらを見てはひそひそと耳打ちをした。すべての生徒たちが、自分を見て嘲笑っている。そう思うだけで身が竦み、冷や汗がじんわりと滲む。

 

 つと、女生徒の一人が話し掛けた。

 

「ねえ、榎本さん。」

「な、なあに?」

 

「その髪、どうしたの。なんてみすぼらしいの!」

「それに少し太ったんじゃない?」

「やあねえ。あの面皰にきび。お地蔵さんみたい。」

 

 皆がわたしを見て嗤う。

 

 わたしの所作ひとつひとつを見て。わたしの容姿のあらゆるところを見て。

 

 ああ、いやだ。いやだ。わたしが何をしたというの?わたしはそんなに無器量なの?わたしはそんなに愚鈍?

 

 くすくす。

 くすくす。

 

 次第にその愛らしい少女たちの顔が、歪み始めた。

 まず初めに顔の部位が――目が、鼻が、口が――上下左右にと動き、掻き混ざり、そして滲む。すべての少女が泥土を塗りたくったようなのっぺら坊になって、誰が誰だか判別がつかなくなった。

 

 次に無機物と少女たちとの境界線が滲み、すべての場所が誰かであり、誰でもない。と下卑た嗤い声に出していたを上げる口がその、すべてが溶け合った世界を縦横無尽に行き交う。

 

「間抜け、ごらんよ、見て!、なんて。」

「おやめ、嗤って、なさいな、しまうわ!」

 

 そして気がつけば、彼女たちの発する言葉が意味のわかるが、意図の解せぬものとなっていた。明白な敵意だけがひしひしと伝わってくる。わたしは腹立たしく、憎く、恨めしく感じていた。彼女たちのすべての言動がわたしの心を搔き乱した。

 

 それでもわたしは言葉にする勇気もなくて、机の上にあるノートに書きなぐるしか無かった。ひたすらに、黙々と、胸の内を燻ぶる嫌な気持ちを文字に落とした。

 わたしを侮辱するものすべて、消えてしまえ!

 私は何も悪くない!

 わたしが何をしたというの?


 すると段々に、自分の書いた文字すらも輪郭が溶け、瓦解していった。文字を構成していた部品が上下左右にばらけ、蟲の如く書面を蠢きまわる。

 

 ああ!いやだ、いやだ。

 すべてがわたしを否定する。

 すべてがわたしの思考を拒否する。

 この世界すべてからわたしは嫌われている。

 

 わたしは髪を搔きむしり、耳を塞ぎ、目を伏せた。すべてが崩壊し、わたしの知る世界では無くなっていく。


 わたしは独り、わたしの世界に取り残された。最早、目の前の世界はわたしの知るものでも、理解できるものでもない。わたしは何もしていないのに、世界のすべてがわたしに後ろ指を指して、わたしの元を去っていくのだ。

 

 再び瞳を開き、耳から手を離すと、目の前の景色はわたしの知る教室には戻らなかった。すべてが混ざり合い、境界線を、意味を無くしていた。この世界はただ何ものでもない何かを羅列し、わたしが混ざることを良しとしない世界。

 

 わたしは外へ飛び出し、に混ざり合った泥水とそこに敷き詰められた、紅い色の上を走った。わたしは嘲笑うすべてのものから逃げ出すため、ひたすらに走った。

 

 季節は秋。

 

 わたしの世界はばらばらになって消えた。

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分裂カプリチオ 花野井あす @asu_hana

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