サイコバニーと、あの日

惟風

忘れられない

「ねえ、あの自転車とってきて」


 キュッと大きな瞳を細めて、リっちゃんが私に囁きかけた。

 ピンク色のTシャツから伸びた白い腕が、駅前に無秩序に群がっている二輪車を指差している。

「また、そんなこと言う」

 自分の声が震えていないかどうか、それだけが気がかりだったことだけを覚えている、実際にそう返事したかどうか今となっては朧気だ。

 夏の、日が落ちて尚和らがないくどい熱気、酒と吐瀉物の入り混じった臭気だけは思い出せる。だってそれ等は十数年を経た今もあり続ける現実だから、思い出すようなモノではないのだ。

 あの日。

 リっちゃんはいつもみたいにねだった。

「とってきて」

 この「とる」は正しく「盗る」で、リっちゃんはこれまで幾度となく私にせがんだ。

 コンビニの前に並んだ誰かの傘とか、そういうものを。

 最初は冗談だと思ってた。でも、私がとらないということがわかると小さくて紅い唇を尖らせて、ムスッとした。そしてすぐに、「じゃあいいよ」と自分でとりにいくのだ。

 慌てて止めてもケラケラ笑うだけ、手にした戦利品を振り回しながら軽やかに駆けていく。

 そんな娘だった。

 そんな娘なのに、どうしてか、いつも一緒にいた。私より少し低い背丈を十分に活かして上目遣いで見つめられると、断われなかった。

 手に入れたモノには興味がなくて、かといってスリルを楽しんでいる風でもなくて、とったそばからその辺に放り投げる彼女を、私は為す術もなくずっと見ていた。リっちゃんが欲しがったモノは大体とってあげた。そうしないと、自分もモノみたいに道端に捨て置かれるような気がした。

 あの日も。

 不法駐輪なのか投棄なのかわからないくらいに雑然とした乗り物達の中には結構な確率で無施錠のものがあって、何喰わぬ顔で私はその一つを歩道まで引き出した。

「やったあ」

 リっちゃんの、うさ耳のカチューシャが揺れている。目元にあしらったハートのラインストーンが、やたら目にチカチカした。

 夜って言っても繁華街に近い駅は普通に賑わっていて、地味な格好の私の方が異質なようで、足元がぞわぞわした。

 今思うとそんなの自意識過剰で、私達の存在は虫よりも薄くて軽い。誰も気にしない。見ていない。

 黒くて古い自転車はタイヤもぺたんこで、試しにリっちゃんを後ろに乗せて漕いでみたけど一分もたたずに「こりゃダメだー」なんて言って彼女は飛び降りた。

 顔を見合わせて笑い合った。その時だけは、心の底からおかしかった。リっちゃんの首筋に、汗が光っていた。でもフワリと甘い香りがした。

 笑いながら、リっちゃんと出会った時のことを考えてた。


 元々孤立しがちで、私は中学に上がってから完全に浮いた。入学式の一ヶ月後には校区外の大きな図書館に入り浸るようになった。ママには内緒。お姉ちゃんにだけは、教えておいた。

「それ、読みたい」

 机で適当にラノベを捲っていた私の上に、ふと影が差した。

 思えば、リっちゃんを見上げたのはそれが最初で最後だった気がする。

 控えめなのは声量だけで、本を譲ってもらうことに対しては揺るがない事実みたいに話す彼女に面食らった。でも、何故か差し出してしまった。

「ありがと」

 笑うと、ギュッと目が細く線みたいになった。ボブヘアーの重く切り揃えた前髪から覗く眉毛は、意外と細かった。

 通っている学校も、住んでいる場所も、名前も、お互いそれなりに明かしたけれどリっちゃんがどこまで本当のことを言っているかは頗る怪しかった。

 だって、スマホは持ってないなんて言った次の日にはメッセージアプリのアドレス交換を迫ってきた。母親と二人暮らし、って言ってたはずなのに妹の反抗期を愚痴ってた。

 それでも。何が本当で嘘なのかわからないけど、私に話してくれること自体が嬉しかった。

 すぐに図書館以外の場所で会うようになった。

 お姉ちゃんにだけ、初めてできた親友のことを打ち明けた。お姉ちゃんは「そんな娘と……」なんて顔を顰めてたけど、ママには内緒にしてくれた。

 五つ離れたお姉ちゃんは私にとって唯一信頼できるオトナで、なんてことをリっちゃんに話した。

 そんな話をしなくても、お姉ちゃんの彼氏がリっちゃんの先輩だってことは、遅かれ早かれ私達は知ることになったと思う。

 そして、リっちゃんが私に先輩を「とってきて」って言うのも、きっと避けられなかった。


 ブレーキ音に文句を言いながら、私達は川沿いを歩いた。駅から十分も離れたら、随分と暗くて静かだった。川はゴミだらけで汚くて、風があんまりなくて有り難かった。それでもヘドロみたいな臭いが漂ってきていた。

 私にばかり自転車を任せて、リっちゃんはさっさと前に行ってしまう。

 黒いショートパンツに黒いニーハイは彼女のすらりとした足を一番キレイに飾ってると思う。

「ノド乾いちゃったね、何か飲もうよ」

 橋の上に差し掛かった頃、リっちゃんが歩きながら振り返った。髪が幾筋か頬に貼り付いている。

 ドブ川に反射してる街灯の光も、リっちゃんの瞳の中では星だ。

「うん、そだね」


 私は頷きながら、自転車を振り上げて川の中に投げ込んだ。


「は?!」

 どこかネジの外れたみたいなリっちゃんでも、こんなに驚いた顔することあるんだ。って思った。

 でもすぐに橋の下を覗き込むあたり、やっぱりどっかおかしいっていうか、肝が座ってるっていうか。

 いや、鈍感なだけかもしれない。

 そういうところが、好きだったよ。


 リっちゃんの背中は、柔らかくてとても暖かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サイコバニーと、あの日 惟風 @ifuw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ