六「雨」

 その日は久しぶりの雨だった。夏なのに珍しく涼しい雨の日。しかし、どんよりとした黒い雲に覆われて町全体が薄暗い。ぽつりぽつりと小さな雨粒が地面に水の跡を作っている。それも次第に強くなってきて、僕が下校するときには本降りになっていた。僕は歩道の水溜まりを避けるように傘をさして歩く。風にあおられて斜めに降る雨の中、傘は余り役に立たず、ズボンの裾が濡れて黒く染まった。

 あれから、友佳との関係もななとの関係も良くも悪くもなることはなかった。友佳の件は気になってはしまうが、どうするべきなのかまだ答えは出ていない。本人にわざわざ聞くことも難しい。ななに相談する気にもなれなかった。多分もう少し時間をかけないとならないのだろう。そして、ななとはあれから頻繁に会っているけれど、意味深なことを言うことはなかった。屋上で一緒に話したり、放課後に飲食店に立ち寄ったりする。なながあんなことに言ってから僕はななとなるべく一緒にいるようにしている。それに、僕自身ななといるのが楽しくて、ななと一緒にいる時間を求めている気がする。ななは面白くて不思議で、好奇心があって……。ななには不思議な魅力があって、僕はななと関われば関わるほどに、もっとななのことを知りたいと思うようになっている。今はななと一緒にいるのが一番楽しいのかもしれない。

 僕はアスファルトの水溜まりを注意深く見ながら歩く。色々と心配事は多いけれど、雨なのに気分はそんなに憂鬱ではない。むしろ明日はななと一緒にどこに行こうかと頭の中で考えて、既に明日が待ちきれなくなっていた。

 そんな僕の視界の片隅に蛙の姿が映った。その蛙は大の字で平らになっていた。多分自動車にでも轢かれてしまったのだろう。アスファルトにこびりつくようにして、どこに目がついているのか分からない。雨に流されてしまったのか、蛙の表皮のほかにはもう何も残っていなかった。普段なら全く気にするようなものではない。それどころか目に留まることさえ稀なものだったけれど、僕は無性にその死んだ蛙の姿が頭から離れなかった。もうない瞳で僕のことを見ているような、そんなおぞましい悪寒が僕を襲った。

「君も僕が醜い存在だと思いますか。」

 突然蛙がそんなことを喋った。いや、蛙が話すことなんてありえない。多分幻聴か僕の趣味の悪い妄想に違いない。しかし、それでも蛙は突如としてぎょろっと目を覗かせて僕のことをじっと見つめた。つぶれたはずのからだが徐々に膨らんできて、ぐるりと半回転。肉をぶちぶちとぶちまけながら蛙は僕の方を向いて、もう一度同じ言葉を繰り返した。そして蛙は目から血を流しながら僕のことを見つめた。

 僕はあまりの気味の悪さに嘔吐感を覚えたが、それをこらえながら僕は首を横に振った。それでも一度嗚咽して目を一度そらしてしまうと、次見たときには蛙は元のぺしゃんこの姿に戻っていた。嘔吐感も次第に消えてきて僕は安心しきっていたが、同時にこれからよくないことが起こるような不吉な予感も感じた。

 僕は目を逸らして再び水溜まりに注意を向けて歩き出した。奇妙な現象がおこったと僕は理解していた。それもあんなにもおぞましいことが起こったのだ。できれば思い出したくはない。また嗚咽してしまいそうだった。

 僕は空を見上げる。灰色の雲が空全体を覆っていて、これからさらに雨が強くなることを予感させた。僕は靴下が少し濡れてきているので早く家に帰りたかった。けれど、それはもう少し先延ばしになった。

 向かい側からななが歩いているのが見えた。ななが雨の中を傘も差さず髪は濡れて艶やかに光って、両手にはビニール袋を持って、ふらふらと歩いている。今にも倒れそうなそんな雰囲気があった。

 何かが変だった。僕はすぐにななの下に駆け寄って傘に入れた。

「なな、どうしたの。傘も差さないで歩いていたら風をひいてしまうよ。」

「…………。」

 ななは何も言わないで歩いていた。僕を横目でちらっとみただけで、また目を俯かせて歩き出す。ななは僕の傘から抜け出て彷徨うように歩いていた。僕はただ事ではないような気がして、とりあえずななが雨で濡れてしまわないようについて行くことにした。

 どこに向かうのだろうか。全くいい予感がしない。こんなななは初めて見た気がする。ななの周りでは度々変なことがあったけど、その時とも何か違う。今日のななは全てを閉じてしまったような顔をしている。暗い、この重苦しい雨のように陰鬱としたオーラをななは纏っている。全く不安でしょうがない。初めて会った時に屋上から飛び降りるのか飛び降りないのかと言っていた。そう、あの時からだ。ななのことが心配で、気にかけるようになったのは。だから、僕は彼女の手助けができるのなら力になりたいと思っている。彼女が前僕にそう言ってくれたように、僕も彼女が助けを必要としているならその手を取りたいのだ。そして今、ななの傍には僕だけが居て、ななが危うそうであるなら、僕がどうにかしなければならないのだ。

 ななはひたすらに歩いてゆく。立ち止ることはなく、まるでどこかに向かっているかのように早歩きで進んでゆく。水溜まりも、雨でぬれてしまうことも気にしない。正直僕はななについて行くだけで手一杯だった。不思議なほどに自分の足が遅くなっているように感じる。足が重くなってきて、立ち止りたくなってくる。ただ、僕は今手放すべきでないことがあって、それが些細なことかもしれないが、それでも立ち止りたくはなかった。僕は一歩一歩を踏みしめながら、ななの傍で傘をさしていた。

「ねえ、飛び降りた方がよかった?それとも飛び降りない方がよかった?」

 突然ななが声を発して、僕はすぐにななを見た。けれど、ななは僕を見てはいなくて、もう一度同じことを繰り返した。

「…………。」

 僕は沈黙して歩いた。返答のタイムリミットはそう長くはなくて、僕はすぐにでも返事をするべきだった。けれど、僕はどんな表情をしているのかも分からないななの横顔を眺めることしかできなかった。力になりたいと言った自分が不甲斐なくなるくらいに、僕はこんな状態になったななを前にして何と言ったらいいのか分からなかった。

「そう。」

 しばらくの沈黙の後で、ななはそれだけ言って僕たちは再び静けさに包まれた。ななの持っているビニール袋が少し激しく揺れた。

 そして、ななは建設中の建物で足を止めた。雨で工事が行われてないのか不気味なくらい静かだった。雨で金属がカンカンと音を響かせ、風でぎしぎしと鉄骨が揺れていた。入口がなぜか開放されていて、ななは何の躊躇いもなく入って行く。

「ちょっと、なな。」

 呼び止めてもななは応じず、どんどん先へと進んでゆく。僕は遠ざかって行くななを見ていたが頭を振って追いかけた。

「なな、危ないから戻ろう。」

 僕は何度も呼び掛けるけれど、ななは立ち止ろうともしない。解体中の建物もあって、とても安全だと言える場所ではない。けれども、ななはその解体中の建物の非常階段を上って行く。

「なな!」

 僕はななの行動に大声で呼び止めるけれども、ななの姿は非常階段の上へと消えて行ってしまった。追いかけるのか僕は一瞬迷ったが、ななのために今できる最善をしなければならない。僕も非常階段を上りはじめた。非常階段は錆びついていて所々に穴も開いていた。上りながら僕は階段が崩壊する想像もしたが、いまさらななを放って戻るわけにもいかない。僕は下を見るのをやめて、前だけ見てのぼった。一度、足を踏み外して傘が落ちてしまったけれど、それでも戻りはしなかった。

 やっとの思いで屋上に出ると、ななは屋上の塀に立っていた。

「なな、危ないから戻ろう。」

 僕はそう言った。

 ななは何も答えなかった。

 黒い空から大粒の雨が降り下ろしてきて、僕たちの沈黙をかき消すように雨音が鳴り響く。汗と雨の両方で体は濡れそぼっていたが、僕はななが返事をしてくれるまで待った。すると、ななはビニール袋から何かを取り出す。ビニール袋はその侭風で飛んで行き、ななは取り出したものを僕に見せた。

 それは、一匹の子猫だった。

「今日、拾ったの。」

 ななはそう言った。雨音がうるさいが、かろうじて聞こえてきた。

「どこで拾ったの?」

 僕は落ち着いてななに聞いた。

「道路で拾ったの。怪我をしていたから。」

 ななの腕におさまった子猫はか細い声で鳴く。

「だったら、早く病院に連れて行かないと。雨で濡れたらなおさら弱ってしまうよ。」

 僕はそう言って、ゆっくりとななに歩み寄る。

「でも、そんなお金持っていないから、病院に連れていっても診てもらえないよ。」

「それなら僕が治療費出すからさ。」

「それに診てもらったとしても、どうやって生きていくの?怪我をしたこの子がどうやって生き抜いていくの?」

「大丈夫だよ。僕、以前猫を飼っていたことがあるから、僕の家で面倒を見ることもできる。……だから、行こう。なな。」

 僕はそう言ってななとの距離を一歩一歩縮めてゆくが、ななは首を横に振った。

「ううん。大丈夫じゃない。もうこの子は生きていけない。」

 その瞬間嫌な予感がした。

「もうこんなにも弱っているのだから、もし診てもらったとしてもつらい思いをさせるだけだよ。」

 まさか……。

「つらいの。傷ついた全てにとって、生きることは。」

 やめてくれ。

「楽しいことは一瞬で、あとは全部つらい時間が続くんだよ。」

 そんなことを言わないでくれ。

「私もこの子も同じだよ。」

 僕は気がついたらななの方へ走っていた。

「生きることは、傷つくことの連続だよ……。」

 僕はななに向かって手を伸ばした。けれど、その瞬間起こったことは僕の考えていたこととは異なっていて、僕はしばらく何が起こったのか分からなかった。ただ、ななが僕に向かって言うのだった。

「ねえ、飛び降りると思った?」

 ななは笑顔でそう言うのだった。目が真っ暗に淀んで口がひきつったように笑って、そんな顔でななは僕を見ていた。

 僕は何も答えられなかった。ただ、とぼとぼと非常階段を下って行く。雨で滑り転げながら、一段一段階段を下って行く。一番下まで降りて少し歩くと、僕はそれを見つけた。そして、膝から崩れ落ちた。

「あ、ああ……そんな……。」

 声を出さずにはいられなかった。僕とそれを雨が打ち付ける。

 そこには子猫が横たわっていた。僕はあの時ななが落ちてしまうのだと思っていた。けれどそうではなくて、ななは子猫を屋上から落としてしまったのだ。そして僕は一番下のアスファルトでその子猫を見つけた。もう助けられそうになかった。片足がひん曲がっていて、目が開いたままで口から少しだけ舌が出ている。もう鳴くことはなくて、時折足がびくびくと少しだけ動く。アスファルトに赤い子猫の血の水溜まりが広がるが、すぐに雨が洗い流してしまう。僕はどうすることもできないまま、ただ子猫を前に手を握ったり開いたりしていた。そうしていると、ななも降りてきて僕に話しかけてきた。

「ねえ、飛び降りた方がよかった?それとも飛び降りない方がよかった?」

 少なくとも、この子猫は飛び降りるべきではなかった。僕はそう思ったが、ついに口には出さなかった。僕は口を噤んだ。僕は子猫を見つめ続けた。

「そう。」

 しばらくして、ななは去っていった。

 僕は考えていた。こうならない方法があったのではないかと。僕がもっと早く行動を起こしていればこの子猫を助けることができたのではないかと。もしかしたら、こうなる前にななともっと何か話すことができていれば、こう言う事態すら起こらなかったのではないかと。今さら考えてもしょうがないのかもしれない。でも、こんなのはあんまりだった。それとも、ななの言う通りなのだろうか。生きることは傷つくこと、つらいことなのだろうか。……僕には分からない。けれど、もしななの言うことが本当なのだとしたら、今が僕のつらい時だ。子猫のことと、ななのこと。そのどちらもが僕をつらくするのだ。自分が不甲斐なく、そしてどうしようもなく悲しい。……ななの言う通りなのだろうか。……分からない。今は何も考えたくはない。

 僕は子猫の目を閉じて近くで埋めてあげた。これが今できる精一杯だった。そうして、僕は雨に打たれながら家に帰ることにした。

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