往古来今

香久山 ゆみ

往古来今

「この大判のハンカチを、これ、このように、畳んで、ひらくと、鳩が!」

 出ません! 鳩は、出ません! 私はもうパニック状態。目の前に座る着物姿の先生は、マジシャンみたいに帛紗ふくささばいていく。その動作を真似るだけでいいのに、それさえままならない。先週の稽古から引続きかれこれ二週間も帛紗を畳み続けているのにいっこう習得できる気がしない。仕事もそつなくこなす社会人十年目、久々に脳がパンクしてる。

 最近茶道を習い始めた。きっかけは、祖母の死。

 亡くなった祖母は、やさしい人だった。大好きだった。なのに、社会人になってからはろくに顔さえ見せなかった。遺品整理を手伝っている時に茶道道具を見つけた。祖母が茶をてる姿はついぞ見ることはなかったけれど、茶道の経験があるのは知っていた。

「おばあちゃん。高校に茶道部があるんだって。私入ろうかな」

「あら、私も昔茶道を習っていたのよ」

 分からないことがあったら教えてあげるわね。祖母は嬉しそうに笑った。

 けれど、高校生になった私は茶道部には入らなかった。ちょうど茶道漫画が流行っていて、イケてる子達が入部して、彼女達が苦手だった私は逃げたのだった。茶道部に入らなかった私に、祖母は何も言わなかった。けれど、ずっと胸の奥で引っ掛かっていた。

 それで、思い切って仕事終りに茶道教室に通うことにしたのだ。

 週に一度のお稽古は立ち居振舞いから始まり(歩く時どちらの足から踏み出すかさえ決まっている!)、ふすまの開け閉め、そして先週からは帛紗という布を延々折り続けている。道具を清める時、腰に挟む時、ふところに差す時。全部折り方が決まっている。三十代の固い頭はなかなか苦戦している。茶道というと、てっきり皆で集まってゆるゆるお茶を飲むだけだと思っていたのに、とんだ誤算だ。正直、自分が今何のために何の稽古をしているのかさえよく分かっていない。とりあえず帛紗を捌けと言われて、半べそかきながら必死に見よう見真似食らいついている次第。

 一挙手一投足を「ちがいますよ」と指導される。なんで仕事終りにこんなことやってんだろう。早くもやめたい気持ちが溢れるが、祖母の笑顔がちらつく。茶道部のイケてる彼女達を思い出す。文化祭できらきらした着物姿でお茶を振舞っていた。彼女達は皆これを習得したんだ。そう思うと、せめて体験コースの残り二回だけは最後まで通おうと思う。

 祖母のただ一人の孫の私は、きっとこの先も子供を持たない人生だ。両親や祖父母や先祖に対して、大変申し訳なく思うが、しょうがない。そんな私が、祖母のためにできることとして、思い浮かんだのが茶道だった。

 祖母の家から持ってきた本で復習して稽古に臨む。何かしっくりしない部分があったところ、「お作法も時代とともに変わっている部分もあります」と先生は言った。それでも一番大事なものは変わらないのだと。

 一時間の稽古を終えると正座の足は痺れきって動くことさえままならない。「じき他の生徒も来るから、見学していったらどうかしら」先生は言うが、私は逃げるように教室を後にする。なんだかすべてがちぐはぐでばらばら。

 体験コースの最終回は、「盆略ぼんりゃく点前」で茶を点てる。――あ。これまでの割り稽古がすべて繋がる感覚。今まで曖昧模糊としていたものたちが、すっと線で繋がり、見通しがつく。襖を開け、立ち上がり、点前座てまえざへ進む。帛紗を捌き、お道具を清める。抹茶をすくい、茶を点てる。しゃかしゃかしゃか、茶筅ちゃせんを動かす。茶碗の中に薄緑の泡沫からなる世界が広がる。そっと手に取り、ごくんと自服する。

 ああ、どうして祖母が元気なうちに習わなかったのか。私の点てたお茶、きっと美味しそうに飲んでくれただろう。一緒にお茶会だって行ったかもしれない。しゅんしゅんと、狭い空間に松風が鳴る。床には春の花と軸が掛かっている。時節に合わせて飾ってあるのだと初めて気付く。先生が静かに微笑む。私は体験コース最後の一杯を飲み干した。

「あの、蓋置ふたおきって竹のでいいんでしたっけ」

「今日のお稽古では棚を使うから、竹じゃなくて陶器の蓋置だよ」

 ありがとうございます、と新しい生徒さんが頭を下げる。まだまだ分からないことばかりだけれど、人に説明することも出来るようになったんだなと、我ながら感慨深い。

 結局、体験コースを終えた後も、お稽古を継続している。祖母に教わることはなかったけれど、祖母がいなければ始めることもなかったはずの茶道を。自分の稽古後も残って、他人の稽古を見学する。お茶をいただく。同じお抹茶を使っているはずなのに、点てた人によって味が違うのが面白い。

 年が明ければ、祖母の一周忌。親戚一同にお茶でも振舞おうかと、目下計画中である。

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