たらこぎらい

ヤチヨリコ

たらこぎらい

「私、嫌いなんだよね。……たらこ」

 薄皮の中、パンパンに詰まった小さな粒の集合を睨みつけ、呟く。私が集合体恐怖症だったら卒倒していた。いや、そうでなくても嫌いなものを毎日半強制的に食べさせられていたら、見るのも嫌になる。今の私みたいに。

「しょうがないだろ。うち一番のたらこ好きが入院しちゃってるんだから」

 中也さんはたらこを薄皮を剝いてボウルに突っ込み、ブスブスとフォークでほぐす。それから、思い切りチューブの腹を押して、マヨネーズをボウルの中にひり出すと、計りもせずめんつゆをドバドバ入れた。それをまたフォークでかき混ぜる。

 この家では、母と私と姉夫婦が暮らしている。中也さんは私の姉の夫、つまり私の義兄にあたる人だ。

 中也さんの言う「たらこ好き」は私の姉のことである。姉のたらこ好きは筋金入りだ。たらこか明太子の使われたメニューが姉のため毎日食卓に並ぶし、冷蔵庫には必ずたらこか明太子が入っている。姉はたらこ中毒と言っても過言ではない。高校時代、食べすぎて痛風になりかけたというのに、懲りずに毎日食べている。下手すると、明太子をおかずにたらこを食べる暴挙もやりかねないだろう。

 そんな姉が四日前から入院している。中也さんに連れられて病院に行ったかと思えば、そのまま入院してしまった。病名は聞いていない。中也さんは知っているだろうし、姉が入院して以降母の様子がいつもと少し違うので、おそらく母も知っているだろう。ただ、私だけが知らない。言われるまで訊くつもりもない。言わないということは言いたくないということだろうから。

 だけど、ふと不安になって「大丈夫?」と口走っていた。中也さんは「大丈夫だよ」と笑った。決して大丈夫なわけじゃないんだとわかるような、作り笑顔。その佇まいには姉が入院する前にはなかった、暗い影が差しているように見えた。今、私にできることは少ない。とりあえず私にできることは姉が入院する前に買いだめしておいたたらこと明太子を古くなる前に食べてしまうことくらいだ。食べすぎて正直見るのも嫌なくらいだが、これくらいしかできることはない。そう、自分に言い聞かせる。

「そろそろパスタ茹で終わるんじゃないの」

 中也さんがそう言った、ちょうどそのとき、ピピピとタイマーが私を呼びつけた。

「中也さんって人間タイマー?」

「んなわけないだろ」

 軽口を言い合いながらも、手は止めない。

 パスタをザルにあけてお湯を切る。

 中也さんはそれをそのままボウルに入れて、たらこソースとパスタをフォークで混ぜ合わせる。

 その間に私はパスタの上に載せるのりをキッチンバサミで切っておく。

 このレシピは姉が中也さんに教えたものだが、姉の作るたらこパスタよりも中也さんの作るたらこパスタのほうが美味しい気がするのは、やはり料理人の腕だろう。

「あとは俺がやっとくから、お義母さん呼んできてよ」

「あ、うん。いいよ」

 「お義母さん」とは私の母のことだ。中也さんから見れば姑にあたる。

 我が家は店舗兼住宅なので、店に行けば仕事中の母がいる。今日の昼はたらこパスタだと告げたら文句を言われそうだが、まあ、しょうがない。ため息をついて、家と店を繋ぐドアを開けると、シャンプーやらリンスやら、それに整髪剤とタバコのにおいの混ざり合った強烈なにおいが鼻を突く。これはお客か母がタバコを吸ったな。もし母が吸っていたら入院中の姉の代わりに叱り飛ばしてやろうと思って、スタッフスペースと店内を区切るカーテンをくぐった。

「お母さん、昼の支度ができたって」

「どうせ、たらこでしょ」

 間髪入れずに母は言い切る。お客は帰ったらしく、母は床に散らばった髪を箒で掃いていた。私はそれをちりとりで集め、ゴミ箱に捨てた。

 うちは街の床屋だ。先祖代々というほど長くやっているわけではないが、祖父母の代からのお客が店を存続させてくれている。祖父母が亡くなった今では、母がこの店の女主人として店を切り盛りしている。ちなみに、姉と中也さんもこの店で働いている。

「うん、たらこパスタ」

 私がそう言うと、母は思い切り顔をしかめて、「中也はあたしのこと殺そうとしてるんじゃないかしら」と吐き捨てた。

「ヒロじゃないけど、痛風になりそう。それか高血圧」

「自分でも気をつけてよ。特に喫煙量とか」

 母は痛いところを突かれたと苦笑いする。灰皿にはタバコの吸い殻があった。

 ヒロとは姉のことだ。名前が大美で、大きく美しいと書いてヒロミと読む。だからヒロ。私は小さい姫と書いてサキだから、中也さんと合わせてちょうど大中小揃う。

「中也さんも母さんが憎くてたらこづくしにしてるわけじゃないでしょ」

「そりゃそうだけどさあ……」

 母は言いよどむ。

「うちにはたらこと明太子ばっかりあるんだからしょうがないでしょ」

 これじゃあどっちが母親かわからないと、私は呆れて首をふった。

「ああ、やだやだ。うちはいつからそんなに貧乏になったんだろ。不景気のせいかしら」

 下手な泣き真似だ。「泣いてないでしょ」とツッコむと、母は「バレた?」と笑って舌を出した。ふざけているが、疲れた顔をしている。

「ほら、さっさとしないと冷めるし伸びるよ」

 そう急かすと、母は頬を膨らませて、「はあい」と不機嫌そうに言った。若作りをしていても、今年で五十の母の顔にはほうれい線が目立つ。

 店の入り口にかかった看板を営業中から準備中に変えると、二人でダイニングに向かった。母はずっとぶつぶつ文句を言っていたが、中也さんの顔を見るなり「また、たらこか」と苦々しい顔をした。

 テーブルの上には皿に盛り付けられたたらこパスタが配膳されている。母がいつも座る席にはフォークが、私と中也さんの席には箸が置いてあった。いつもは私と母が並んで座り、中也さんと姉がその反対側に座る。だが、姉の席は空席だ。やはり、いないとどこか落ち着かない。

「毎日毎日たらこばかりですみません」

 中也さんが申し訳なさそうに頭を下げる。パスタを箸で器用に掴んで、音も立てずに食べている。食べながら喋るのはマナー違反だから、それさえなければ上品に見える。パスタを箸で食べることがマナー違反でなければ、だけれど。

「ま、しょうがないか。ヒロが入院してるんだもの。あの子もあたしに似てタバコ吸うからねえ。だからかもしれないけど」

 母はフォークでパスタをくるくる巻き取りながら言った。

「子宮外妊娠なんてするの。子どもが欲しいって言ってるのに、タバコをやめないあの子も悪いでしょ」

 ――子宮外妊娠。母が何気なく言ったその言葉が胸に重くのしかかった。子宮外妊娠。妊娠という単語が含まれているわけだから、妊娠なのは妊娠なのだろう。それで、子宮外。つまり、子宮の外で妊娠したということ。よくわからないけれど、たぶんそういうことなのだろう。

 すすったパスタが飲み込めない。何を言えばいいのかわからない。そもそも何かを言っていいのかすらわからない。姉夫婦が子どもを欲しがっていたのは知っている。そういえば、しばらく前、妊娠検査薬を手にして、妊娠したと姉と中也さんが喜んでいた。けれど、子宮の外で妊娠していた、ということなのだろう。

 中也さんが箸を置いて、母に言う。

「いや、俺が悪いんすよ。赤ちゃん、俺に似て方向音痴だったのかな。だから、迷子になっちゃったのかも」

 軽い口調だけれども、中也さんの表情はどこかぼんやりしていて、その目には暗い光を宿している。

「俺が悪いんです。ヒロミは悪くない」

 まるで自分に言い聞かせているようだった。その様が痛々しくて、見ているこちらのほうが胸がいっぱいになる。

「そう? でも、よかったじゃない。病気が早く見つかって。手術しちゃえば、また妊娠できるようになるんでしょ?」

 母はそう言いながら、のりとたらこソースをパスタに絡める。

 病気。病気って言ったって、妊娠だ。妊娠がわかって、姉と中也さんがどれほど喜んだか見ていないはずがない。見ていてそう言うのであれば、人間としてどこかおかしいと思う。姉夫婦の気持ちがわからないのか。親子といえど同じ人間ではないから同じように感じろとは言わない。けど、察することはできるはずだ。どれほど子どもを待ち望んでいたか。子どもができず、どれほど悩んだか。ようやく授かった子どもが子宮外妊娠だったと言われたときの気持ちを、母はわからないのだろうか。私だってわからないけれど、様子を見ていてその気持ちを感じることはできる。我が母ながら、無神経にも程がある。中年女性特有の図々しさ、というのだろうか。自分にも同じ血が流れていることが嫌になるくらいだ。

「ま、次があるっていいわね」

 母はぱくりと一口でパスタを頬張る。

 母の発言を聞いて一気に血の気が引いた。次なんて、ないだろう。次に妊娠したとしても、今回授かった子どもではない。別の子どもだ。

「サキちゃん、どうした? あんまり食べてないみたいだけど。そういや、たらこ嫌いだって言ってたよな。流石に毎日たらこは嫌になるか」

 中也さんが納得したようにうなずく。そうではない、と言いたくても、言えない。

 本当に、母がなんでこんなに無神経なことを言えるのか、わからない。情けなくって、涙が出そうだ。目から、ぽつり、ぽつりと涙がこぼれ落ちる。

「サキ、泣いてないで食べちゃいなよ。片付かないと、あたしら仕事できないじゃん」

 本当に、こう、なんで母は。

 姉がいない分、母と中也さんが仕事をしてお金を稼がなくっちゃならないのはわかっている。四人分の生活費に、姉の入院費だってかかる。私の学費だって馬鹿にならない。それもわかっている。

 だけど、情けなくって情けなくってたまらない。

「うるせえ、ババア!」

 一言そう怒鳴ってから、自室に引きこもった。はじめて母に反抗した。その実感が湧いて、「ああっ」と口からうめき声が漏れる。バタンと閉めたドアにもたれかかって、崩れ落ちるようにうずくまる。

 シングルマザーとして私たちを育ててくれた母には反抗してはいけないと思っていた。姉とは喧嘩することがあっても、母にだけは反抗してはいけないと。だって、女手一つで育ててくれた恩を仇で返すようなことだから。そう言い聞かせて、母の前でだけは良い子でいた。

 だから、姉がなんで母に反抗をするのかわからなかった。

 幼い頃の記憶の中では、歳の離れた姉の姿は、母の発言にいちいち噛み付いて、いつもイライラしていた記憶が強い。記憶にある限り、母と姉は仲が悪いイメージしかない。母が何か言うと姉はすぐに怒鳴り返した。その後、姉は私にだけ謝りに来る。母も私を味方につけようとしていたのか、姉が謝りに来たあとに来て、お菓子やら食玩やら買ってくれるものだから、私はいつも母の味方をした。なんで、姉はこんなに優しい母を怒鳴るのだろうと思っていた。姉が母に怒鳴っていた理由を、今、理解した。

 ああ、私の母親はこういう人だったのだな、と。

 しばらく泣いて、泣き疲れていつの間にか寝ていた。起きたら日が暮れかけていて、ああ、こんな時間まで寝てしまったと後悔した。ため息をついて、ぼんやり宙を見た。そんなとき、ドアがノックされて、「サキちゃん、夕飯」と中也さんの声がした。

「って言っても、お昼の残りだけど。お義母さんが『もったいないから、あいつのは残飯でいいよ』って言ってさ。でも、どうしてもダメだったら俺が食べるから言って」

 無駄に母の物真似が似ている。思わず吹き出してしまう。それにしても、「残飯」とは。母もひどい言い方をするものだ。私は犬猫か。いや、最近の犬猫はもっと良いものを食べている。つまり、私は畜生以下ということか。

「いや、いいよ。私が食べるから」

 ドアを開けて、泣き腫らした目を隠すように、部屋着のパーカーのフードを被った。

「そっか。でも、残していいからな。無理しなくていいから」

 中也さんは心配そうに私を見ていた。母が「中也!」と呼びつけると、中也さんは「はーい」と慌ててダイニングへ走っていく。これじゃお嫁さんをもらったのと変わらない。姑にこき使われて、中也さんは文句の一つも言わない。昔だったら良い嫁の条件に当てはまると思って、その考えを鼻で笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しく、それからあまりにも人を馬鹿にしたものだったからだ。

 少し遅れてダイニングに行くと、母の姿はなかった。

「お母さんは?」

「ああ、予約の時間だからって先に食べていった」

 シンクの中を覗くと、たしかに食器が置いてあった。昔から、私たちは母の仕事が終わるのを待って夕食を食べていたのに、母は私たちを待たずに食事を済ませてしまう。

「私が食べるのは昼の残りのたらこパスタってのは聞いたけど、お母さんと中也さんは何食べたの?」

「お義母さんはたらこには飽きたって卵かけご飯だけ食べてった。俺はまだ食べてない」

 部屋中にタバコのにおいが濃く漂っている。灰皿を見るとやっぱり吸い殻がある。喫煙量に気をつけろといくら言ったって母は変わらない。

「相変わらずだね。あの人。私だって、タバコ吸うなとは言わないじゃん。量を減らせって言ってるだけなのに、なんで言うこと聞かないかな」

 呆れて物が言えない。言えているけれど。本人に言ったって聞かないから、愚痴ばかり言ってしまう。

 「あ、タバコ? それは俺。俺が吸ったの」と中也さんは言う。

 冷蔵庫から食べかけのたらこパスタを取り出し、電子レンジに入れて、「あたため」を押す。

 「そっか」と素っ気なく答える。

「禁煙中じゃなかったの」

 責めるような言い方になってしまった。そういうつもりはないのに。

「ま、色々あってね。サキちゃんの前では吸わないから、許して」

 中也さんはそう言って誤魔化すように笑った。

「ヒロの前でも吸っちゃダメだよ」

 私がぴしゃりと切り捨てると、中也さんは気まずそうに顔をそらす。そして、「吸わないよ」と呟いて黙り込んでしまった。

「別に怒ってるわけじゃないんだ。けど、そう……色々あって、さ」

 私が弁解しようとすると、中也さんは疲れた顔で「いいよ」とだけ言った。「色々あって」ってなんだよ。中也さんより「色々ある」なんてことはないだろう。馬鹿か、私は。そうだ、私は馬鹿だ。情けないくらい、母に似ている。

 電子レンジが鳴る。その甲高い電子音は耳障りに聞こえた。

「ごめん。……ごめんなさい」

 電子レンジがヒステリックに私を呼び立てる。いくら弁解しようとしても、中也さんは聞き入れてくれないかもしれない。

「レンジ、鳴ってる」

 中也さんがそう言ったので、私は電子レンジの扉を開け、温まったたらこパスタを取り出す。箸を食器棚から取り出し、いつもの席にたらこパスタといっしょに置く。

 すると、中也さんが口を開いた。

「卵管っていうんだっけか、そこで着床してたんだと。それでさ、そのままま大きくなっちまったら、卵管が破裂して母胎も危ないって言われて。それから即入院だよ。妊娠した場所を手術して切るんだとさ。だから、俺たちの子どもはいなくなっちまった、ってわけ」

 中也さんはうつむいて、独白する。肩は震え、顔はひどく強張っている。

「……俺が悪いんだよ。タバコ、やめさせなかったから。タバコは体に悪いって知ってたのに、俺だけやめてヒロミにはやめさせなかった。俺って自分勝手なヤツだなって、自分でも思うよ」

 中也さんは自嘲した。今にも泣き出しそうなほど、声が震えている。

「だから、だから……」

 「だから」のあと、続きを言わないまま、中也さんは口をつぐんだ。そうじゃないのに。姉がタバコをやめなかったのも、いい大人なんだから自己責任だ。自己責任という言い方は悪いけれど、タバコをやめられなかったのは姉だ。中也さんでは、決してない。

「でもさ、タバコは関係ないわけじゃん。あと、やめなかったのはヒロだし……」

 中也さんを傷つけないように、慎重に言葉を選ぶ。このときばかりは自分の語彙の少なさが恨めしい。

「そこは中也さん悪くないって、私は思うんだ。あくまで私は、ね」

 中也さんが顔を上げて、私のほうを見る。

「それに、ただ、たまたま赤ちゃんが子宮の外にいたってだけでしょ。これって、ヒロも中也さんも悪くない。赤ちゃんだって悪くない。本当にすべてが偶然だった。そうでしょ?」

 とりあえず、冷める前にパスタを食べてしまおう。皿にかけられていたラップを剥がすと、むわりと湯気が立ち上る。少し温めすぎたかと反省する。パスタにたらこソースを絡めて、思い切りすする。やはり、温めすぎたみたいだ。熱い。

「このたらこってさ、魚の卵なわけじゃん。卵ってそもそも孵るかわからないわけでしょ」

 口の中で卵がぷちぷちと潰れて弾ける。命の消える瞬間を舌でもって感じる。ああ、この食感が嫌いだ。眉間にしわが寄るのがわかる。

「ほら、こういうふうに食べられちゃったりさ。孵ってもちゃんと大人になれるかわからない。誰にもね」

 自身の言葉ながら説教臭く感じて、恥ずかしくなる。

「だから、誰のせいでもないでしょ」

 中也さんは呆然とした様子で話を聞いていた。私がそう言い切ると、中也さんの目からぽろぽろと涙がこぼれた。それから、中也さんは声を上げて泣いた。大人なのに、赤ん坊のように。生まれてこれなかった子どもの分まで泣いているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

たらこぎらい ヤチヨリコ @ricoyachiyo0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説