ナマエハナシ

香久山 ゆみ

ナマエハナシ

 ハナちゃんの前歯が折れた。

 体育の授業中、グラウンドの隅でチカちゃん達とお喋りしていたハナちゃん。「あぶない!」という声に振り返った拍子に、飛んできたサッカーボールを顔面でキャッチした。そのまま仰向きに倒れ、駆け寄ってきた皆に囲まれてよろよろ起き上がったハナちゃんは血を流していて、「鼻血だ鼻血だ」と騒然となった。

「ハナちゃん、歯がないよ!」

 チカちゃんが先に気付いた。「えっ」と小さな声を上げて、舌で事態を確認したハナちゃんは、そこでわあわあ泣き出した。先生に付き添われて保健室へ姿を消した。サッカーボールを蹴ったのは、吉田くんだった。

 その日は早退して、次の日からマスクをして登校してきたハナちゃんは元気がなかった。

「あのサッカーボールは吉田くんが蹴ったんだって」

 ひそひそ声の報告は学年を一周して回った。

「折れた歯を牛乳に浸けておいて、すぐに歯医者に持っていったら、元通りにくっつけてもらえたかもしれないんだって」

 チカちゃんが、わざわざ調べた情報をハナちゃんに報告した。それを聞いて、ハナちゃんはまたしくしく泣いた。新しい歯がくっつくまで一週間、ハナちゃんはマスクをして授業を受けた。

「あー! ハナちゃん、新しい歯できたんだ! 白い! きれいきれい、全然違和感ないよ!」

 チカちゃんは絶賛した。新しい歯がついてからも、ハナちゃんは笑う時には口元を隠すようになった。前歯が自分の本物の歯じゃないことをずいぶん気にしているようで、「歯が折れたことを誰も知らない学校へ転校したい」がハナちゃんの口癖になった。それが聞こえる度に、吉田くんは視線を逸らせていた。

 けれど、そのうち、吉田くんの方でも「歯がないとかありえないわあ」などいじわるを言うようになった。

 私はかなしい。

 ハナちゃんは吉田くんのことが好きで、吉田くんもクラスで一番かわいいハナちゃんのことを好きだったはずなのだ。

 クラスは、男子対女子みたいな嫌な空気になっていた。だから、そんならいっそ本当に転校すればいいのにと思ったりもした。が、新学期に実際に転校していったのは吉田くんの方だった。先生は「お父さんの仕事の関係で」と説明した。けど、野村さんの情報によると、「歯のことでハナちゃんのママが何度も吉田くんの家を訪れて、気の弱い吉田くんのママにしつこく文句を言っていたらしいよ」ということだ。

 私も歯のことは許せない。あの件以来、吉田くんは変ってしまった。確かに永久歯が折れてしまったことは可哀想。けど、もともとハナちゃんはよくにこにこ笑いながら、私の手の甲を抓って血豆を作ったり、シャーペンの芯を刺したりしてきた。そのくせ自分が傷つけられた時にはわあわあ泣くのは意味が分からない。そのうえお母さん譲りか、ねちねちしつこい。

 しばらく矛先が吉田くんに向いていたうちに、どうやら私のことは忘れてくれたらしい。新学期からは南さんにちょっかいを掛けているらしい。南さんは気が弱いけれど、せめてもの反抗で、その間ハナちゃんの口元をじっと見ているらしい。

 私はというと、結局、あの日グラウンドで拾った歯を返せずにいる。


   *


 同窓会。いつもはパスするどころか呼ばれさえしないのだが、卒業後四半世紀の記念ということで、当時の校長・教頭含め関係各位に招待状が配られた。それで、私の方でも魔が差して「出席」に丸をつけたのだ。参加したってハッピーな想像など一ミリも浮かばないのに。

 今も連絡をとっている同級生などいないので、たった一人で会場に乗り込んだ。一応、先日実家に寄った時に小学校の卒業アルバムで復習してみたけれど、ほとんど顔と名前が一致しない。というか、ろくに名前も覚えていない。皆、私に対しても同じだろう。昔から特徴のない人間なので、誰にも気付かれず声も掛けられない。

 仕方がないので、会場の隅で皿に盛ったビュッフェをもぐもぐしてる。休み時間に狸寝入りしていた頃と変わんないな、早くももう帰りたい。

 あ。なぜか彼女のことは一目でそれと分かった。――ハナちゃん。くるくる髪を巻いて、きれいなワンピースを着ている。いいとこの奥様といった風情。とはいえ、こちらから話し掛けるほどの仲でもないので、遠巻きにぼんやり眺めていると、彼女の方からこちらへやってきた。

「久しぶり。シンプルなワンピースね。でも黒は地味じゃないかしら、せっかくだから華やかな色にすればよかったのに」

 ハナちゃんが言って、取巻き達もうんうん同意する。私はスーパーのフォーマルコーナーで買った黒のワンピース。ハナちゃんは鮮やかなデザインで生地も私のとは違うブランド物のワンピース。だと思うけど、正直ブランドには興味ないのでどうでもいい。ただ、ハナちゃんの期待に添った反応ができなくて申し訳なく思う。という訳にもいかないので、「ハナちゃんは華やかな女社長って感じだよね」とかなんとか適当なことを言うと、「専業主婦なのよ」と白い歯で優雅に笑った。さすがにもう歯が本物か偽物かなど気にならない。「甲斐性ある旦那さんで羨ましい」「うちは共働きじゃないと生活できない」とか皆キャッキャ盛り上がる。

 会場に吉田くんはいない。呼ばれていないから当然なんだけど、誰も話題にも出さない。六年の途中まで一緒だったのに、世知辛いものだ。

 私が吉田くんを好きだから、ハナちゃんは吉田くんを好きになった。当時の彼女は自分が世界の中心でないと我慢できなかった。

 今もハナちゃんの歯は持ったままだ。もはや歯なのかどうかもよく分からない、少し黄ばんだ小さな白い塊。ゴミに出すのも気が引けて、ずっと捨てられずにあった。だから、今日同窓会で返そうと思ったのだ。もちろん直接手渡すわけにいかないので、そっとハナちゃんのハンドバックに放り込んでしまおうと思っていた。あとで見つけてもきっとただのゴミだと思うだろう。

 ハナちゃんたちは、洋服や化粧品や子どもの中学受験の話なんかで盛り上がっている。有象無象の中でハナちゃんは一際輝いている。小学生の時と同じように。今日のために美容室にもネイルサロンにも行ったのだろう。エステにだって行ったかもしれない。うちの給料ではあれだけ手を掛けるのも大変だろうに。

 ハナちゃんの旦那さんは、私の会社の同僚だ。ハナちゃんは知りもしないけれど。アットホームな我が社で、旦那さんは同僚に嫁さんの愚痴をポロポロ溢してる。嫁さんは、大手に勤めていたけれど、メンタル不調によって退職して、それを機に結婚したらしい。小学生の頃は散々女王然として皆を虐げていたくせに、いざ自分が責められるやすぐにへばるなんて、いい気なもんだ。どんな面下げて皆の前に顔を出すのかと、冷やかしに来たのだ。それが、現れたのはあの頃と変らぬハナちゃん。飲み会の席で皆に惚気た旦那さんが見せたスマホ画面には所帯じみた陰気くさい女が映っていたというのに。この日のためにここまで仕上げてきたのかと思うと、いっそ天晴れだ。

 あの教室でとてもそんなことは言えなかったけれど、彼女が嫌いだった。人のものを何でも奪って行く彼女。彼女が転校してくるまでは、絵画コンクールの金賞も、学年テストの一番も、いつも私だったのに。

 彼女は努力の人だったのだ。

 私は名前まで奪われた。「宮鼻です。前の学校ではハナって呼ばれてました」美しい転校生が自己紹介するまでは、ハナは学校で私だけだった。結婚して彼女は「宮鼻」でなくなったから、ようやく名前を取り戻せる。と思っていたのに、こっちから「ハナちゃん」なんて呼び掛けてるのだから仕様がない。

 早々に飽きて、そっと会場をあとにする。別にそっと抜け出さなくったって誰にも気付かれなかっただろうけど。

「ハナ!」

 路肩に停まった車の運転席から長い腕が伸びる。小学校時代の級友で私をハナと呼ぶのはこの人だけだ。やっぱりもう帰るとメールしたら、まだ近くにいるからと迎えに来てくれた。

「吉田くんは顔出さなくてよかったの?」

 一応訊くと、うるせえと私の二の腕をつねる。笑顔は昔のままだ。一昨年たまたま街で再会した。擦れ違った男性に見覚えがあって、思わず「吉田くん?!」と声を掛けると、振り返って「ハナ?」と笑った。再び恋に落ちるにはそれで十分だった。

「それより、はやめい」

 来月、私も吉田になるのだ。吉田くんは私の二の腕を撫でていた手をお腹に移す。この子の名前も考えなきゃいけない。昔話なんか花咲かせてる場合じゃないの。

「あ、待って」

 発車しかけた車を止めて、窓を開ける。キンギョソウの咲く花壇に、古い思い出の欠片を投げ捨てる。大きく窓を開けたまま、夜風を受けて車は新居に向かって走っていく。

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