マーメイド・ダンス

香久山 ゆみ

マーメイド・ダンス

「……んえぇ?」

 鏡を見て思わずへんな声が漏れた。

 この齢になると、話題はもっぱら節々が痛いとか目が霞むとか痩せないとか肌がくすむとか。いつも適当に相槌していたものの、仕事に託けてろくに自身を顧みなくなって久しい。朝ばたばたする中で、くすんだ鏡に向かい適当にファンデーションと口紅を塗って、はいおしまいだ。くすみっぱなしの洗面台の鏡を久々に磨いたついでに、現実を直視することにした。いつの間にか五十になった。鏡に映る自分はさぞくたびれているだろう。

 で、鏡に映る自分の姿に奇声を上げた次第。

「ええと、体の調子が悪いって?」

 子供の時分から世話になっているかかりつけ医師が言う。

「いえ。あの。良いんです、調子は。とても」

 しどろもどろになりながら、私は懸命に説明する。大変おかしいのだと。鏡に映った私は、明らかに五十代ではなかった。昔から学生時代の友人に会うと、「変わらないねえ」といわれるタイプではある。それにしても、鏡に映る私はあまりにも変わらない。刻まれているはずのくすみもシミも弛みもなく、白髪の一本もない。何も特別なことはしていないにも関わらず、美容に気をつけているとかいうレベルじゃ説明が付かぬほど昔と変わらず「若い」。そういえば、未だに毎月規則正しく生理は来るし、健診で引っ掛かったこともない。贅沢な悩みとも思われるが、さすがに少し気味悪くなって、病院へ寄った次第だ。

「ちなみに、何歳くらいのつもりなの」

 聴診器を当てながら先生が尋ねる。常より化粧気のない平淡な顔立ちで、我ながら代わり映えしないと思うほどで、よく分からない。

「二十代半ばから三十代くらい、な感じです」

 しどろもどろに答えると、先生は言った。

「何か変なものでも食べた?」

 呆れられたのかと思ったら、先生は続けた。

「人魚の肉とか」

「……ニンギョノニク……?」

 先生は検査結果を捲りながら、「まあ不老不死には違いない」と、処方薬はない旨、怪我や姿勢に気をつける旨言った。「骨が曲がったまま何百年も生きるとか辛いだろうからね」

 死にたくないし、齢はとりたくないと思っていたのに、いざ不老不死となると不安しかなかった。何で私が。ほうれい線を気にする同僚が羨ましくて堪らない。私はやさぐれた。が、根が小心者なので、自分が異分子であることがばれぬよう懸命に「老けづくり」した。

 こうなると幸いというか、独り身で交友関係も狭い方なので、周りに不審がるような知人もおらず、専ら職場での挙動にさえ気をつけていればよかった。

「先週無事に定年退職しました」

 報告すると、かかりつけ医は親身に喜んだ。

「不老でありながら定年退職まで同じ会社で勤め上げた人は初めてだよ」

 私もこれでまた、自分を知る人のいない新天地で、不老不死がばれる心配なく過ごせると思うと、晴れがましい。この体が発覚して十年も経つと、さすがに当初の不安感も失せ、健康にさえ気をつければ何だって挑戦できるのだという万能感に満ちている。現代は何百年かけても尽きない程の本や映画や様々な娯楽に溢れており、大変ありがたい。この数十年だけでも大きく社会は変わった。

「そういえば、先生。私、思い出したんですよ。いつ食べたのか」

 三十二歳の時です。会社を辞めたくて、転職活動をしていたんですけど就職難の時代で全部落ちちゃって。ちょうどその年でした、戦争が始まったのは。大震災や新型感染症流行も経験しましたけど、戦争が一番酷かったですね。身の回りもSNSも反対する人がほとんどなのに、どうして開戦したのか。あれが使用されたことによって二年で終戦しましたが、当時はどこも瓦礫だらけで凄惨でしたね。復興一年でインフラが戻り、三年で元の街並みが復活したのは驚きました。私なんて、普段大きなビルでパソコン打ってたってこんな時には何の役にも立たない。建築関係はじめ、皆さんのこと尊敬します。で、会社が休業再開するまでの間、復興ボランティアに参加したんです。それで海辺の町で作業した後、礼にと酒盛りになって酔って踊り狂っていたらお捻りに謎の肉をいただいて。たぶん、それですね。

「へえ、幼稚園の時から保守的だったあなたにしては意外ですねえ」

 先生がしみじみ言う。

「なんか当時はいろいろ不安で、何か変えたかったんですよね。まさか、こんな風に人生変わるとは思ってもみなかったけれど」

 私が笑うと、先生も笑った。

「ところで先生は、いつ人魚の肉を?」

 話を振ると、「気付いてましたか」にやりと笑った。私が落ち着いていられるのも、身近に同類がいるお蔭だ。

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