でぃあまむ

香久山 ゆみ

でぃあまむ

「数日前のことです。些細なことで咎められて、それで私もカッとなってしまって思わず……」

 目の前の女性が蒼ざめた顔を両手で覆う。狭い事務室に申し訳程度に設えられた事務机とスツール椅子。刑事時代の取調室が思い起こされる。

 そのまま肩を震わせて動かない彼女を置いて、少し席を外し、トイレから戻ってきてもなお変わらず項垂れている。大丈夫ですか、と水を向けるとようやくわずかに顔を上げる。俺より年上と聞いたが、涙に濡れた不安げな表情は幼く感じる。

「……あんな簡単に死んでしまうなんて思わなかったんです」

 吐き出すように言う。物騒な物言いだ。

 薄いドア一枚隔てて店内には数名の客もいたはずだ。やはり場所を変えて、うちの事務所に来てもらった方が良かったかもしれない。

 穏やかでない発言をしてまた俯いてしまった依頼人は、ここの本屋の女店主からの紹介だ。予約していた本を取りに来た際に、泣き崩れてしまったらしい。話を聞いたところ、俺の専門分野ではないかということで連絡が来たのだ。

「きっと私のことを恨んでます。だから、会いに来てくれないし、夢にも見ないんです」

 多少落ち着いた依頼人が早口に言う。言ったそばから、うっうっとまた啜り泣く。

 そう、これが今回の依頼内容だ。

 幽霊がいて困るという依頼は多く受けるが、「霊がいない」という依頼は初めてである。さて、霊能探偵としてどう対応するべきか。困ったな、ちらと視線を遣ると、丸顔の依頼人の隣で、物静かそうな細面の女性も沈痛の面持ちで項垂れている。こちらからは何も聞けそうにない。

 彼女達の事情は聞いているし、掛ける言葉としてはありきたりの台詞しか思い浮かばない。恐らくは依頼人自身がそれを一番理解しているであろう。普段は会社員として忙しくしているというから、泣く暇もなかったのだろう。今は存分に泣けばいいと思うが、「こんな所ですみません」と、彼女は必死に涙を抑えようとする。

「ごめんなさい、今はまだ頭の整理がつかなくて。彼女と違って、私はほとんど本を読まないから……」

 呼吸を整えながら、続ける。

「たくさんケンカもしたのに、今思い出すのは、彼女がやってくれたことと、私がやってあげられなかったことばっかりで。この先もずっと時間があると思っていたから……。数日前のケンカだって、来週の母の日にプレゼントを渡して仲直りするつもりだったのに。こんな急に死んじゃうなんて思わなかった」

 母も還暦をとうに越えたし、いつかは別れを迎えると頭では分かっているつもりでした。けど、何も分かってなかった。実際に母がいなくなってしまうなんて……。最後の方はまた涙声で消え入ってしまった。

 数日前、彼女の母親は急逝した。

 いつも通りの一日だった。その前日も異変はなく、当日の朝もケンカを引き摺ったまま交わす言葉は少なかったものの、母の用意した朝ごはんを食べて、「いってきます」と無愛想に挨拶して家を出て、最寄駅まで出たところで重要書類を忘れてきたことに気付いて引き返したところ、母親が倒れていたのだという。ソファの上でまるで眠るように。

 心肺停止のまま救急搬送されたが、どうにもならなかった。わずか三十分の空白の間に母はあっけなく逝ってしまった。

 だから彼女は、母に伝えられなかったたくさんの言葉を抱えたままだ。ごめんね。ありがとう。大好きだよ。

「夢でもいい、会えたら色々伝えたいんですけれど。全然出てきてくれなくて。やっぱり恨んでるのかな、親不孝な娘だったし。孫を見せてあげられなかったし、実家暮らしのくせにろくに手伝いもしなかった。優しくないし、面倒掛けてばかりだった」

 震える声で言う。隣の細面の女性が何か言いたそうにしているが、判然としない。

「最後にケンカしてしまって、お母さまの方こそあなたに恨まれたまま終わってしまったと思っているかもしれませんね」

 俺はただ視えるだけだから。そこから汲み取るしかできない。

「そんな! 私がどれだけ母に感謝しているか!」

 依頼人が悲壮な声を上げたタイミングで、事務室の扉が開く。大声が店内に洩れてしまったのかと思ったが、ちょうど客が引けたらしい。店主の詩織が、温かいお茶を淹れ直してきてくれた。事務机に湯飲茶碗を二つ並べて退室しようとする彼女を、呼び止める。

「先程店主に伺いましたが、お母さまが生前に予約されていた本を、引取りにこられたそうですね」

「ええ」

 依頼人が答える。店主の詩織も静かに頷く。

「お母さまはどんな方でしたか?」

「ええと、母は読書家で。私はほとんど読まないんですけれど、影響で書く方が得意でした。作文でもなんでも書いたものは読んで誉めてくれたので。私の話はたくさん聞いてくれたけれど、母自身の話はほとんどしなかったから、母が読んでいた本を辿ることで、少しでも母に近付けるかなって」

「お母さまはよくここの本屋をご利用になられていたんですね」

「はい。頻繁にお越しいただいていました」

 これには書店主の詩織が答えた。そうして、俺が向けた視線に気付きはっとした表情になる。

「いつも薄紫のカーディガンを羽織っていらして、小柄で細面のかわいらしい方でした」

 そう付け足した詩織に、頷き返す。

「面立ちは母娘あまり似ていなかったんですね」

 尋ねると、依頼人が少し悲しそうに答える。

「ええ。よく母からは、あんたは父方のおばあちゃん似だって言われました。けど、お姑さんに似てるって微妙ですよね。だから母は私がかわいくなかったのかな、とか。会いに来てくれないのもそういうことなのかもしれません」

「いますよ」

「え?」

「お母さまは、ずっとあなたの隣におられます」

 顔立ちから母娘の確信が持てず、伝えるのが遅くなったことを詫びる。万一母親でなかった場合を考えると、迂闊に本人に確認するのは憚られたのだ。依頼人は目を丸くして、隣を向く。けれど、彼女には見えやしないだろう。

「薄紫のカーディガンに、小さな花のついたヘアピンを留めてらっしゃいます」

「……それ、私がプレゼントしたものです」

 そう言いながら、ぼろぼろと涙を溢す。が、濡れた瞳はまっすぐに隣を見据えている。

「昔から声はよく似ていると言われたんですけれど」

 わずかに疑念をはらんだ涙声で言う。残念ながら、俺は霊の声を聞くことはできない。

「見た目はあまり似ていらっしゃらないが、雰囲気はそっくりですよ。あなたが悲しんでいると、隣で同様に気落ちされていらっしゃいました」

 今は、慈しむような視線を娘に向けている。

「我が子が心配じゃない親なんていませんよ」

 昨年父親を亡くした店主の詩織がしんみりと言う。彼女の父もまた娘を心配して書店に姿を現したのだった。

 お母さん今までありがとう、と依頼人はひとしきり泣いたあと、「どうしよう、思いの丈は簡単には伝えきれない」とはにかんだ。

「なら書けばいいんですよ」

 詩織がこともなげに言う。

「うちの子は物を書くのが得意なんだって、誇らしげに仰ってましたよ。小さい頃には書いた文章をよくママ、ママと言って見せにきてくれたって。作文コンクールにも入賞したんですよね」

「うちの母、そんな話までしていたんですか」

 泣き笑いの顔になる。

「でも、そうですね。書いてみようかな」

 依頼人の瞳に前向きな光が灯る。

 俺はただ視えるだけだから。どれだけつらくったって、自分の力で前に進んでいくしかないのだ。

 依頼人の隣で、母親は穏やかな微笑を浮かべた。

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