#02 「獲物」
『キツネ』はこの辺りではちょっと名の売れた男だ。この街の裏事情に詳しい人間なら、名前を知らない人間はいない。
殺しを任せたら、彼に敵うヤツはいないという噂だ。
『キツネ』は金色の髪を長く伸ばし、一つに束ねた男である。一見、細身に見えるその身体は鍛え抜かれた筋肉に覆われている。
「いい話がある」
ある夜、男が『キツネ』に言った。
無精髭を生やした黒髪の男がそう言い出したのは、ウォッカを飲み干した後だった。最初その話を聞いていた『キツネ』はそいつが酔っているのだと思った。
「ここの通りをまっすぐ行ったところに雑居ビルがある。そこの二階に男が住んでるはずだ。そいつを殺して欲しい。100万払う」
『キツネ』は最初その男の言うことを笑って相手にしなかった。酔った勢いで『キツネ』に殺しの話をする人間は少なくない。
しかし、男はしつこくその「いい話」を『キツネ』に話して聞かせた。――『キツネ』は次第にその男が鬱陶しくなってきた。すると、男は口を歪めるとこう言った。
「『猫』の話を聞いたことがあるか?」
「知らないな」
男の話はこういうことだった。
『室内飼い』の『猫』と呼ばれる人間がいる。ヤツは夜毎殺しをする。しかも部屋から一歩も外へ出ずに。
「俺をからかってるのか?」
男は慌てて首を振った。
「知らないのか?この辺りでもう何人も人が消えてる。あれは『猫』に狩られたんだって、皆噂してる」
男の言葉にふと、『キツネ』は『カラス』のことを思い出した。『カラス』は殺しの手口に詳しい男だ。手口だけなら、『キツネ』よりも詳しい。
この間会った時は「いい儲け話がある」と言って、やたら上機嫌だった。そういえば、あれ以来『カラス』を見ていない。
「俺は二週間前、たまたま『猫』が人を殺してるとこを見た。あれは、普通じゃない。人間じゃない」
その時のことを思い出しているのだろうか。グラスを持つ男の手がカタカタと震えていた。
人気の少ない港の倉庫で『猫』はまるでおもちゃにじゃれる子猫のように、男の死体を何度も何度も斬りつけていたという。
「なあ、いくつぐらいだと思う?そいつ――まだ、子供だったぜ。しかも、笑ってた」
『キツネ』は瞬間、その光景を想像してゾっとした。
それを見透かしたかのように男がかすかに笑った。
「――怖いのか?」
ダン、と『キツネ』が手に持っていたグラスをテーブルに置いて、席を立った。
「おい!あんた!」
追いかけてくる男に『キツネ』は言った。
「150万」
「は?」
「前金で150万だ。それなら受けよう」
それは夏の蒸し暑い夜だった。『キツネ』は男が言った通りの雑居ビルの前に居た。通りを生暖かい風が通り抜けていく。
雑居ビルの二階の窓に微かに灯りが灯っているのが下から見えた。恐らくあそこが男の言っていた『猫』の部屋だろう。
「ふん、何が『猫』だ」と『キツネ』は思った。
「一歩も外に出ずに殺しをする?馬鹿馬鹿しい」と。
その部屋の鍵はすでに何者かによって壊されていたので、『キツネ』が鍵を壊す必要はなかった。
サイレンサーを取り付けた銃を構えると、『キツネ』は深く息を吸い込んだ。
勢いよくドアを開け、部屋の中に押し入ると、ベッドの上には細身の少年が座っていた。
このガキが!?
一瞬、『キツネ』はたじろいだが、そのまま引鉄を引いた。少年はそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
『キツネ』は息をひそめたまま、そっとベッドに近寄った。
遠目から見ても分かる、白く細い手足。閉じられた瞳は何色か分からないが、白い顔にはまだ幼さが残っていた。
何が『室内飼い』の『猫』だ。やはりあれは酔っ払いの戯言だったか。
「ふん、ただのガキか」
キツネが呟いたその瞬間、少年が瞳を開いた。よける間もなく、キツネの肩に熱い感触が走る。
「くっ!!」
キツネは思わず飛び退くと、肩を押さえた。斬りつけられた肩からは血液がとめどなく流れている。
飛び退いた瞬間、キツネの持っていた拳銃は、床に放り投げ出された。
足元に投げ出されたそれを少年は笑って手に取った。
「俺さあ、銃って嫌い」
少年はそう言うと『キツネ』の拳銃をベッドの上に放り投げた。
「だって、殺ってる感覚とか全然分かんなくね?」
そう言うと少年はどこからかナイフを取り出した。
「こっちのが、殺ってるって感じすんじゃん?マジ興奮する」
そう言うと少年はにっこりと笑みを浮かべ、そのもう一つのナイフを取り出すとキツネの方に放り投げた。
「それ、あんたの分。俺さあ、抵抗された方が燃えるんだよね」
くすくすと笑いながら言う少年を横目で睨みながら、『キツネ』はナイフを手に取った。
「…後悔するぞ」
少年は黙って、その猫のような眼を細めた。その眼を見て『キツネ』はぞっとした。
それはまるで肉食獣が獲物を品定めをする時のような瞳だった。
(ガキのくせになんて眼をしやがる!)
『キツネ』が一瞬たじろいだことが少年にも伝わったのだろうか。少年はその形のいい口唇をにいっと歪めて笑った。
(!このガキが!!)
頭に血が上った『キツネ』は少年の間合いに飛び込むと、少年の首元をナイフで斬りつけた。
殺した、と思った瞬間、『キツネ』の耳元で笑い声が聞こえた。
「ざーんねん!ハ・ズ・レ」
「なっ!」
バシュ、と肉の斬れる音がして、『キツネ』の首元から勢いよく血が噴き出た。
「ぐあああああああ!」
『キツネ』は傷を押さえると、膝をついた。はあはあ、と荒い息をつきながら見上げると、少年はくすくすと笑っていた。
「オニイサン、遅すぎー。そんなんじゃ、全然ヨクなれないよー?」
「ガキがぁ!!」
『キツネ』は一気に少年の懐に飛び込むとナイフで斬りつけた、と思った瞬間『キツネ』は少年に右腕を掴まれていた。少年のナイフが右腕の関節に滑り込む。骨が砕けるような嫌な音がした。
「あああああああ!!」
『キツネ』の手からナイフが滑り落ちた。だらり、と右腕が力なく垂れ下がる。それを見て、少年が無邪気な子供のように笑い声を上げた。
「あははは!!ははは!」
楽しげに笑う少年を見て、『キツネ』の全身はがたがたと震え出した。
一度目の攻撃も今の攻撃も。少年は一息に『キツネ』を殺すことができた筈だ。恐らくそうしなかったのは。
(こいつなんてガキだッ!!『殺し』を楽しんでやがるっ!)
まるで猫が獲物を一息に殺さず、じゃれて遊ぶように、少年は『キツネ』をじわじわといたぶって、楽しんでいるのだ。
「あれ?オニイサン、ひょっとしてもうイキそう?」
顔面も蒼白にがたがたと震え出した『キツネ』を見て、少年が興ざめしたように言った。
「くそっ!」
少年の声に我に返った『キツネ』は慣れない左手でナイフを拾うと、かまえなおした。
それを見て少年が嬉しそうな声を上げる。
「いいよ、オニイサン。もっと遊ぼう?」
と、少年のナイフをかまえなおしたその時、
「そこまでだな」
ドアの方で男の声がした。
そこには、酒場で会ったあの黒髪の男が立っていた。
「あんた!!良かった!助太刀を頼む!!」
『キツネ』はナイフをかまえたまま男に近寄った。少年はそれを一瞥すると、ちっと舌打ちをした。
「またかよ、兄貴」
「な!?」
男は『キツネ』の方を一瞥すると、冷淡に言った。
「こいつはこっちで処分する。あとは任せろ」
んだよ、と少年は毒気づいた。
「毎回毎回、いいとこになるとでてきてさあ、最後まで殺らせろってーの!」
「なっ…お前ら、グルだったのか!?」
狼狽える『キツネ』を見て、少年はけらけらと笑った。
「オニイサン、今頃気付いたの?」
ニブイねーと笑うと、少年はドアの男の方を見て甘えるような声で言った。
「なあなあ兄貴今夜だけ!殺ってもいいだろ?」
「…仕方が無いな」
ため息をつきながら言った男の言葉に少年は満面の笑みを浮かべた。
絶望にゆらり、と視界が歪むのを『キツネ』は感じた。
「『猫』の話を聞いたことはあるか?」
ある日、銀髪の男が『野良犬』に言った。
「…噂だけなら」
頷いた『野良犬』に銀髪の男は満足そうに笑った。
『野良犬』の向かいに座るその男の紅い瞳は面白いものでも見るように細められている。
「なら、話は早いな。『猫』を始末して欲しいんだとさ」
それを聞いた『野良犬』の瞳に珍しく戸惑いのようなものが浮かんだ。
「…『猫』を?」
「ああ」
そう言うと男は懐から煙草を取り出し、火をつけた。
「『猫』を恨んでるヤツがいる。そいつからの依頼だ」
男の言葉に『野良犬』はますます警戒を強くした。
「『猫』はまだ『室内飼い』だと聞いている。殺しはまだ…」
「『猫』はもう相当殺してるぜ」
男はそう言うと紫煙を吐きだした。煙に顔をしかめた『野良犬』に謝ることもせず、男は面白そうに笑う。
「聞いたか?まだ十五だってよ。兄貴がそれはそれは『猫』のことを溺愛してて、外に一歩も出さないらしい。まぁ、こっちとしては有り難い話だけどな」
あんなのにうろつかれたら、おちおち外出もできやしない、と男は笑った。
「それが『猫』は不満らしい。そりゃそーだ。遊びたい盛りだもんな。だから、兄貴が時々『ねずみ狩り』をして、それで遊ばせてるらしい」
「『ねずみ狩り』?」
「夜になると、兄貴が獲物を探しにでかける。適当な獲物を見つけたら、そいつに言うんだとさ。『殺して欲しい奴がいる』。そう言って、生きたまま『猫』のところに獲物を送りこむのさ。あとは『猫』の思うまま。いいおもちゃってわけだ。」
『野良犬』はかすかに眉をひそめた。彼の顔に嫌悪の色が浮かぶことは珍しい。男はそれに気づかぬふりをして、愉快そうに口の端を歪めたまま、先を続けた。
「で、それがどうも『ねずみ』の耳に入ったらしい。」
『ねずみ』という言葉に『野良犬』がぴくりと眉を動かした。
「…『ねずみ』の依頼か?」
『野良犬』の言葉に男は紫煙を吐き出すと笑った。
「誰の依頼でも構わないんだろ?『生きるためなら、どんなこともする』…違ったか?」
「…そうだな」
『野良犬』のその呟きを返事と受け取ったのだろう。男はアタッシュケースをテーブルの上に置くと「前金だ」と言った。
「残りは仕事が終わった後に渡す」
『野良犬』はさして驚くこともなく、アタッシュケースを受け取ると、その場を後にした。
Stray Dog 音澄 奏 @otozumi
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