Stray Dog
音澄 奏
#01 「野良犬」
『あの子』のことを殺して頂戴。
『私』が消えたら殺して頂戴。
待ち合わせの場所に現れた男を見て、俺は驚いた。
「金さえ積めば、どんな仕事も受ける『野良犬』と呼ばれる男がいる。」
そんな噂を俺が聞いたのは、ついこの間のことで。
もちろん、この場合の『仕事』とはヤバイ類のものだ。聞けば、裏では名の知れた人間だという。どんな屈強な男が姿を現すかと思いきや……。
「……あんたが『野良犬』?」
「……ああ」
俺は目の前の男をしげしげと眺めた。
色褪せた黒髪を肩まで伸ばし、黒いスーツを着た男は中肉中背……というよりはかなりスリムな体型だといえるだろう。筋肉隆々のガタイのいい兄ちゃんを想像していた俺は、正直びっくりした。
年の頃は三十過ぎくらいだろうか?
引き締まった身体より目を引くのが、整ったその顔だ。
薄茶色をしたその瞳は、珍しいことに淡いブルーで縁どられている。どんな感情もこもっていないように見えるその瞳。しかし、それがその瞳に影を落とし、なんとも言えない色気を辺りに漂わせていた。
薄い口唇はそっと引き結ばれていて……
っておいおいおい。
(何、見惚れてんだ俺)
言っておくが、俺にそういうケはない。
そんな俺でもちょっと見惚れてしまうくらい、『野良犬』は整った顔をしていたのだ。
俺はまたちらり、と『野良犬』の方を盗み見る。
さきほど、色褪せた黒髪、と言ったが、よくよくみればそれも綺麗な栗色だ。美しい栗色の髪の下で、どこか陰りのある薄茶色の瞳が光って俺を見た。
「……それで?」
「え?」
『野良犬』の容姿に見惚れていた俺は間抜けな声をあげた。
「……仕事は」
「ああ!」
『野良犬』の言葉をようやく理解した俺は、懐から一枚の写真を取り出した。『野良犬』は黙って、写真を手に取った。
映っているのは、三十を過ぎた一人の男だ。
「こいつを殺して欲しい」
ぴくり、と『野良犬』の眉が動いた。
「いや、殺すのを手伝って欲しい、かな。」
こいつだけは俺の手で殺さないと気がすまない。言いかけたその言葉を俺は無理矢理、飲み込んだ。
「こいつの居場所も、行動パターンも大体俺が把握してる。本当なら一人でもいいんだけど……」
「お前には無理だ」
そう即答されて、さすがに俺もイラっとした。
「分かってるつーの!そんなこと!こんな細い腕じゃ無理だっていうんだろ!」
ぺしぺしと俺は自分の二の腕を叩いた。お世辞にも俺は体格がいいとは言い難い。ターゲットに本気で抵抗されたら、敵う自信がないのだ。だからこそ、こうして高い金を払って、この男、『野良犬』に助太刀してもらおうと考えているのだ。
「そういう意味じゃない」
と言って何故か『野良犬』は目を伏せた。じゃあ、どういう意味だっつーの。
「金さえ払えば、あんたは『殺し』もやるって聞いたんだけど、嘘なの!?」
ぎゃーぎゃーと噛みつく俺に、『野良犬』はしばらく写真と俺の顔を見比べていたが、渋面を作ると頷いた。
「……本当だ……が」
ふいに言葉を詰まらせた『野良犬』に俺は眉を寄せた。
「何?」
「…本当にいいのか?」
そう言った『野良犬』の瞳には、悲しげなものが揺らいでいた。それを見て、俺のこめかみは急にズキズキと痛みだした。
「いいのかって……」
なんでだろう。この男のこんな顔を俺はどこかで見たような気がする。
いや、そんなわけがない。『野良犬』と会うのは今日が初めてなんだから。
ズキズキと痛む頭を押さえながら、俺は顔を上げるとこう言った。
「こいつを殺してくれるなら、俺はどんなことでもする」
そう言った俺は夜叉のような顔をしていたに違いない。『野良犬』は一瞬驚きに目を開いたが、すぐにまた悲しげな瞳になると、黙って頷いた。
「本当にいいのか?」
『野良犬』がまたそう言い出したのは、当日になってからだった。
「なんだよ?今頃怖気づいたの?」
その頃になると度胸が座っていた俺は呆れた声を出した。
決行は夜、と決めた。
夜、ターゲットは俺の部屋を訪ねてくる。『野良犬』に部屋に潜んでいてもらい、油断した時を狙って、二人で襲うことに決めた。
「そうじゃない」
「じゃあ、何だよ?」
そう問い返すと『野良犬』は黙ってしまった。薄茶色の瞳がこころなしか、ゆらりと揺らいだように見えた。
その瞳を見て、何故かまた俺のこめかみがズキズキと痛みだした。
だから、なんだってーんだ……この痛みは……。
「ここまで来といて、やめるとか言い出すなよ!俺だってそれなりのリスクしょってんだから!」
ずきんずきん、と痛む頭を押さえながら俺がそう叫ぶと、『野良犬』はまるで見当外れのことを言った。
「……『お前』は、男のような口を聞くんだな」
「はぁ?」
今さら何を言い出すんだ、このオッサンは。
俺は『野良犬』の方を睨みつけたが、『野良犬』はあの薄茶色の瞳で俺のことを見てくるだけで何も言おうとはしない。
……奇妙なことに何の感情もこもっていないその眼は、綺麗に澄みきっていて、それがことさら、俺を恐ろしい気持ちにさせた。相変わらず、こめかみはズキンズキンと脈打っている。
『野良犬』のその眼に、全て見透かされているようで、俺はなんだかわけも分からず、突然、全てを告白してしまいたい衝動に駆られた。
「……俺、あいつに無理矢理ヤられてんの」
俺のいう『あいつ』というのが、ターゲットの男であることを『野良犬』もすぐに理解できただろう。
俺はちらり、と『野良犬』の方を伺ってみたが、その薄茶色の瞳には、軽蔑も同情も、相変わらず何の表情も浮かんでいなかった。俺は何故かそれに少し安心して、先を続けた。
「別に犬に噛まれたって思えばどーってこともないけどさ。だけど……」
夜毎、俺の部屋に来るあの男が呼ぶのは、知らない女の名前で。
その名前で呼ばれる度、俺は胸の底からどうしようもない怒りと悲しみがこみあげてくるのを感じた。
じゃあ、『俺』は誰なんだ?
一体どうしてここにいる?
なんで他の女の名前を呼ぶ?
男が去った後のベッドはひどく広く寒くて。
俺は一人、ベッドの上で声を殺して泣いた。
その気持ちが怒りだったのか、悲しみだったのか、俺にはもう分からない。
ただただ、俺は男が憎かった。
「……俺は『 』なんかじゃない。それをあいつに分からせてやりたい」
俺はそう言って、こぶしをきつく握りしめた。
『野良犬』は黙って俺の方を見ていたが、ふいに目をそらすと「分かった」と呟いた。『野良犬』の瞳がその時どんな感情を宿していたのか。俺にはもう知る術はない。
その時、廊下から足音が聞こえてきて、俺は身を強張らせた。『野良犬』の方を見ると、黙って瞳だけで頷いた。『野良犬』は男に気付かれないよう、クローゼットへと身を隠す。
俺はいつものようにベッドの上に座り、後ろに隠した右手に『野良犬』から借りた拳銃を忍ばせた。
ギイィィとドアが不吉な音をさせて開き、男が姿を現した。
男はベッドの上に俺の姿を見つけると、口の端を歪ませた。黒い瞳が俺を舐めるように見る。いつものようにネクタイを緩ませながら、男はゆっくりと近づいてきた。
じったりと冷や汗が俺の背中を伝う。
大丈夫だ、まだ気付かれていない。
男が腰をかけると、ベッドがぎしりと軋んだ。男が手を俺の頬に手を伸ばし、壊れ物でも触るかのようにゆっくりと頬を撫でる。
ざわざわと肌が粟立つのを感じながら、俺は黙ってその感触に耐えていた。
俺の態度を奇妙に思ったのだろう。そっと男が俺の耳に口を寄せ、呟いた。
「……どうした?今日は大人しいんだな」
次の瞬間、男が愛おしそうに囁いたのは、
「『 』。」
俺の知らない女の名前。
やめろ。
触るな。
俺は
かち、と右手の拳銃を男の胸に当てると、男がわずかに眉を歪めた。
「……『 』じゃない!!」
そう叫ぶのと同時に俺は引き鉄を引いた。
「『 』じゃない!『 』じゃない!」
俺はそう叫びながら、何度も何度も引き鉄を引いた。
「俺は俺は俺は俺は……!」
キスの合間に、愛撫の途中に、囁かれる名前はいつもいつもいつも。
「俺は『 』じゃないッ!」
いつの間にか泣き叫んでいた俺は、後ろから誰かに抑えつけられていた。
「離せえぇぇッ!!俺は……!俺は……!!」
「落ち着け」
後ろから響いてきた低い声に俺は、ゆっくりと振り返った。それはクローゼットに隠れていたはずの『野良犬』だった。錯乱状態に陥った俺はいつか『野良犬』に抑えつけられていたらしい。『野良犬』は顎でベッドの方をしゃくると、静かな声で言った。
「もう死んでる」
ゆっくりとベッドの方に視線をやると、そこには胸を撃ち抜かれた男の亡骸が転がっていた。
俺は全身から力が抜けるのを感じた。『野良犬』に手を離されると俺はずるり、と床に座り込んだ。
「は……ははは……こんな簡単に……ははは」
俺は男の亡骸を見ながら、こみあげてくる笑いを止めることができなかった。
こんな簡単に殺すことができるのか。
俺を苦しめてきたこの男を。
いつしか俺は声を上げて笑っていた。何故か瞳からは涙が流れていた。
俺はゆっくりと『野良犬』に向かって、振り向いた。
「ありがとう……」
そう俺は『野良犬』に向かって微笑んだ。
これで、俺は自由になれるのだ。
この男から。
夜毎囁かれる知らない名前から。
そう思った瞬間、胸に何か固い物があてられて、俺は驚きに目を見開いた。
『野良犬』の冷たい瞳が俺を見下ろしていた。
「『野良犬』……?」
がちん、と引き鉄を引く重い音がした。
「『 』」
名前を呼ばれて目を覚ますと、私は誰かの広い胸に抱かれていた。
薄茶色の二つの瞳が私を見下ろしている。
その悲しげな瞳と、身体に走る鋭い痛みに私は全てを思い出した。
胸から溢れ出る大量の血液と、私を見下ろす悲しげな瞳を見て、私はついに『その時』が来たのだと知る。
「これで良かったのか……?」
そう苦しげに呟く『野良犬』に私は微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
と言いながら、私は血で濡れた自分の胸に手を当てた。
「『あの子』を殺してくれて」
そういうと、『野良犬』の顔がますます悲しげに歪んだ。その顔を見て、私はくすりと笑う。
「そんな顔しないで。……貴方には感謝しているの。私にはどうすることもできなかったから」
黙って俯いてしまった『野良犬』の頬に私は手を伸ばした。そっとその頬を撫でる。
「……私にはどうすることもできなかった。『あの人』に犯されながら、心が二つに壊れてしまうのを。『あの人』のことを愛している『私』と『あの人』を憎んでいる『あの子』に、心が分かれてしまうのを」
そう、『あの子』は『私』の存在を知らなかったけど、『私』は『あの子』がいることを知っていた。けれど、『私』には何もできなかった。
「……『あの子』が『あの人』を殺したいほど憎んでいるのを知っていても、私にはそれを止めることはできなかった。いつか、『あの子』が『あの人』を殺してしまうことも。そして『私』が消えてしまうのも」
頬を撫でていた私の手を取ると、『野良犬』はそっとその手を掴んだ。
「……お前は言ったな。いつか『私』が消えて、『あの子』が『あの人』を殺したら、殺して欲しいと。……本当に」
これで良かったのか?
そう問いかける『野良犬』には私は答えず、そっと笑った。
「……ねぇ、最後のお願いがあるの。『あの人』の隣に連れて行って。」
『野良犬』の瞳が一瞬驚きに見開かれたのが分かった。けれど、その瞳はすぐに悲しげに歪んだ。力強い『野良犬』の腕がそっと私を抱き上げると、ベッドの上の『あの人』の傍へ下した。
今はもう閉じられた『あの人』の瞼に、私はキスを落としてそっと呟いた。『あの人』が生きている時は、決して呼ぶことは許されることのなかったその名前を。
「お父様。」
『野良犬』はそっと並んだ二つの亡骸を見た。
重なり合うように横たわる男と少女の亡骸は、まるで幸福な恋人同士のようで。
男に頬を寄せた少女の亡骸は口元に微笑みすらたたえていた。
その時、どこからか口笛の音が聞こえて、『野良犬』は振り返った。
「うわ~この子だろ?父親にヤられてたっていうの。相変わらずエグい仕事受けるな~」
そう言いながら、現れた男は珍しい銀髪に紅い瞳をしていた。
「……仕事は選ばない」
そう言った『野良犬』に、銀髪の男は嫌悪の色を隠さず、あからさまに口の端を歪めると言った。
「さっすが『野良犬』!『生きるためなら、ゴミでも漁る』か!」
挑発するような男の言葉にも『野良犬』は動じる様子はなく、男の方を一瞥すると呟いた。
「……俺は『生きる』ためなら、どんなこともする」
「はいはい、そうですか。そんな『野良犬』さんにオシゴトですよー」
その言葉を聞いて、しばらく『野良犬』はぼんやりと目の前の二つの亡骸を眺めていた。その瞳には、もうどんな感情も宿ってはいなかった。
「……話を聞こう」
海辺に近いその街に詳しい人間なら、『野良犬』の噂を聞いたことがあるだろう。
『野良犬』は色褪せた黒髪をそのままに伸ばし、真っ黒なスーツを着た男だ。
もし『野良犬』の目をじっくりと見るようなことがあったなら、その薄茶の瞳の縁がうっすらと青みがかっていることに気付くだろう。もっとも、普通の人間なら耐えきれなくなって、『野良犬』から目を反らしてしまうに違いない。その瞳にはおおよそどんな感情もこもっていないからだ。
しかし、少し我慢強い人間ならば、『野良犬』が類い稀な美貌を持っていることに気付くだろう。色褪せた、と見える黒髪もよく見れば美しい栗色である。形のいい口唇が自分の名を呼ぶことを想像すれば、胸が熱くなるだろう。実際、『野良犬』を『買った』人間も少なくはない。だが彼らは、すぐにそれは虚しい空想であったことに気付いた。その閉ざされた口唇は、もう何者の名も呼ぶことはない。
もちろん、大抵の人間はそんなことすら気付かないだろう。ただ、彼に「仕事」の話をするだけだ。それはどんなものでもいい。どんなものでも彼は黙ってこなすだろう。ベビーシッターから殺しまで。彼にとって、それはどちらでも変わりがない。ただ煩わしいことに違いはない。生きるのと同じように。
海辺に近いその街に詳しい人間なら、『野良犬』の噂を聞いたことがあるだろう。
ただ、誰も彼の名前を知らない。
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