魔女の孫娘と銀の矢じり

倉名まさ

魔女の孫娘と銀の矢じり

 暗い、暗い、森の奥深く。

 男の狩人が木々の合間を縫い、道なき道を歩いていた。

 右足を引きずり、ひたいにきつく巻きつけた布には血がにじんでいる。

 手で押さえた左肩は動かず、そこから雷鳴の神のさばきを受けたごとく、衣服がびりびりと裂けていた。


 ――まったく、ついてない。


 胸中のつぶやきは口には出さない。

 狩人は寡黙かもくを重んじる。

 だが今は、自身の乱れた息が森の静寂を乱すのを受け入れざるをえなかった。


 重い、ふらつく足取りながら、迷うことなく、狩人は森の奥深くへと分け入っていく。

 木々の合間からのぞく日の光、植物の生え方を観察すれば、彼が方角を見失うことはなかった。

 羅針盤を備えた帆船が、目指すべき陸地を見失うことなく海原を進むごとく。


 景色が開けた。

 狩人の目の前に、清澄な小川が広がる。

 降り注がれる陽光が水面を銀色に照らし、鱗持つ魚たちがヒレをひるがえすごとく、岩々の隙間を縫って流れる水の音が、耳に心地よかった。

 景色の向こうには滝が見え、近くの水流が生む管弦楽を思わせるささやかな音色と対比をなすように、打楽器のごときおごそかなる轟音ごうおんを奏でる。


 言い伝えにあるとおりの光景だった。

 狩人は痛みをこらえ、小川のほとりにかがみこむと、背から弓矢を外して地面に置く。

 額をしばる布地をほどき、供物くもつを捧げるごとく両手に持ち、小川の水に浸した。

 水面に、赤い血が溶け、広がってゆく。

 そして、祈りの言葉を捧げた。


「森の魔女よ、森の魔女よ、どうか私に力を貸し与えたまえ。

 水面ににじむ、我が血の匂いを嗅いだなら。

 こずえを渡る、我が祈りが聞こえたなら。

 こうべを垂れる、我が姿を目にしたのなら」


 低く、朴訥ぼくとつとした声音だが、謳うような抑揚があった。

 狩人の祈りは森の静寂を乱すことなく、小川の奏でる音色と溶け合う。


「呼んだ?」


 ひざまずく狩人の背後から声が聞こえた。

 獲物の足音を聞き分ける、鍛え抜かれた狩人の耳をもってしても、いつ相手が現れたのか分からなかった。

 だが、狩人は驚くことなく振り返り、相手の姿を見据えた。


「森の魔女を呼んだのはあなた?」


 狩人が想像したより、遥かに年若い姿の少女がそこには立っていた。

 淡い紫のドレスが、絞りたての山羊の乳を思い起こさせる白い肌を包み、稲穂の海のように腰まで流れる金の髪を、旅人を迷わせる蝶の羽根のような髪飾りで留めていた。

 瞳の色はドレスと同じ、淡い紫。


 幻想的だが、暗い森には不釣り合いの姿だった。

 そして、とても魔女のようには見えない。


 だが、狩人は丁重な姿勢を崩さなかった。

 礼節が、不可思議なる者から身を護る、一番の手立てであることを森の住民たる狩人は知っていた。


「失礼ながら、あなたが森の魔女様でいらっしゃる?」


 一礼とともに、問いかける。

 少女は、長いまつげを微かに伏せて、首を横に振った。

 砂糖菓子が口の中で溶けるような、透明な声音で答える。


「わたしはシトローネ。おばあ様は出かけている。ずっと西の方、魔女の山の集会に。だからわたしが代わりに来た」


 魔女に孫がいるとは、狩人も初めて聞く話だった。

 だが、少女の言葉を疑う気はなかった。

 代理であれ、告げる願いに変わりはない。


「シトローネ様。私は狩りの途中、魔物に襲われました。蒼い毛並みを持つ熊のごとき魔物、我ら一族が”獰猛なる暴君”と呼ぶものによってです」


 シトローネは精巧せいこうに造られた人形のように表情を動かすことなく、狩人の言葉に耳を傾けていた。


「傷口から私の身体に”獰猛なる暴君”の毒が流れ込んでおります。体内に回りきるまで、もういくばくのときもありません。私がこの肉体に魂を宿したまま村に帰り着くには、魔女のお力にすがるしかありません。あるいは魔女の孫のお力に」


 自身の命を風前にさらしながら、狩人は落ち着き払った声で願いを告げた。

 シトローネは、小さくうなずく。


「それは、治せる」


 沈着なる狩人も、顔に安堵の色がにじむのをこらえきれなかった。


「ただし、対価がいる。わたしがおまえの身体から”獰猛なる暴君”の残した死の刻印を取り除く代わりに、おまえはわたしの願いを聞き届けなければならない」

「あなた様の願い?」

「それを先に告げるわけにはいかない。対価の支払いは、願いを叶えたあとと、しきたりが定めている。わたしは年若いが魔女の血を引く者。しきたりをないがしろにはできない」

「……分かりました。この身をお救いくださるなら、必ずやあなたの願いも聞き届けましょう」


 狩人は自らの胸に腕を押し当て、いにしえより一族に伝わる誓いの姿勢を取った。

 手札を相手に握られたままの不利な取引きでもあろうとも、シトローネの言葉を飲み込むしかなかった。

 魔物の毒にその身を冒されたときより、森の女神は狩人からほかの選択肢を奪っていた。


「おまえの誓いはたしかに聞き届けた」


 シトローネは、施しを受ける物乞いのように手を丸め、両腕を前へ突き出した。

 その手の中に、金色のさかずきが現れた。

 狩人から視線をはずし、杯でもって小川の水をひとすくいした。


 シトローネは狩人に、清澄なる水の満ちた杯を手渡す。

 そして、言葉を話す以前の赤子がそうするように、親指を自らの口にくわえ、指の腹を噛みちぎった。

 指から零れる血を、狩人が捧げ持つ杯に注ぐ。

 赤い血が波紋をひろげ、水の中に溶ける。


 さらに、口中に唾をため、杯の中へと放った。

 狩人には聞き取れない言葉で、呪文を唱える。

 シトローネの血と唾を己の内に抱いた水が、淡い光を放った。


「飲むがいい」


 魔女の孫娘にうながされ、狩人は一息に杯を飲み干した。

 饗宴きょうえんの席で、王族に忠誠を誓う戦士のごとく。


 狩人の口中に爽快な甘味が広がった。

 幼い頃、町からやってきた商人にもらった、蜂蜜を溶かした檸檬水そっくりの味がした。

 懐かしい記憶が胸に満ちるのと同時、身体が軽くなる。

 毒が抜けたのが分かった。


「心より感謝いたします、魔女の孫娘よ。あなた様の起こした奇跡により、魔物の毒はこの身を去りました」

「まだ、ここを離れぬがいい。魔物はおまえの血の匂いをたどる。それにわたしの願いを聞いてもらわくてはならない」

「……あなた様の願いとは?」


 シトローネはうなずき、再びてのひらを前に突き出した。

 今度はそこに、鋭く光る、小さな銀の刃が現れた。

 狩人には、なじみある形だった。


「……これは、矢じりでしょうか?」

「そう。おまえはその弓でもって、おばあ様の胸に、この銀の矢を打ちこまなければならない。それがわたしの願い」

「……なんと」


 狩人は言葉を失った。

 夜空に浮かぶ星辰のごとく、欠けたところの一切ないシトローネの美しい顔からは、いかなる感情も読み取ることはできなかった。


「あなた様は、祖母である魔女の死を願うのですか?」


 シトローネが狩人に与えるしるしは、ただ小さく首を縦に振ることだけだった。


「魔女の血を引くものが、魔女から自由を勝ち取るためには、心臓に銀の矢を打ちこむ以外に手段はない」

「シトローネ様は……自由を願われている?」


 シトローネはもう一度うなずいた。

 それが、与えうる最大限の慈悲であるかのごとく。


 狩人は、その身に魔物の毒を受けたとき以上の恐怖を抱いた。

 魔女に立てた誓約を破ったなら、手ひどい破滅がその身に待ち受けていることは数々の言い伝えが証していた。

 だが、魔女の孫娘の誓いを破ることと、魔女そのものに弓引くこと、果たしてどちらのほうが恐ろしい事態を引き起こす行為であるか、誰に言い当てることができよう。


 彼には滅多にないことだが、狩人は唇を震わせ逡巡した。

 だが、最後にはその身を救った者の願いを聞き届けることを選んだ。


「かしこまりました。あなた様が知恵をお授けくださるなら、必ずやこの矢じり、魔女の胸に打ち込んでみせましょう。それが、かの者の滅びをもたらす道であっても」

「感謝する」


 シトローネは初めて、あるかなきかのごとき笑みを浮かべた。

 狩人はその美しさにひれ伏すように、深々と頭を垂れた。


「ですが、叶うならば、一つだけ。なぜあなた様が自由を得るため、魔女の死を願うしかないのか。シトローネ様と森の魔女の物語を私にお聞かせ願えないか」


 シトローネの瞳がほんの一瞬間だけ揺らいだ。

 狩人にはそれが、微かに酷薄な光を宿したように見えた。


「良いだろう。森の魔女が山の集会から戻るまで、まだ時がある。語って聞かせよう。わたしとおばあ様の物語を」


 ゆっくりとシトローネは地面に座り込んだ。

 狩人もそれにならい、対面にあぐらをかく。


 絶え間なく流れる小川の音と、遠くから鳴り響く滝の音を背景に、シトローネは物語を始めた。

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魔女の孫娘と銀の矢じり 倉名まさ @masa_kurana

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