7月31日『遠くまで』
カタン、と金属が擦れる音がして目が覚めた。天窓から見える空はまだ暗く、腕時計を見てもまだ一時にもなっていなかった。
ロフトから下を覗くと、ブランケットを羽織った来夢が紅茶を淹れているのが見えた。やかんをコンロに置く音だったようだ。
「眠れないですか?」
こちらを見上げて、困ったように眉を下げた。
「目が冴えてしまって。愛衣ちゃんもいかがですか?」
「いただきます」
寝袋から這い出してロフトから降りる間に、来夢は二つマグカップを出して用意してくれていた。ホットのカモミールティーを受け取り、来夢が寝ていたロフト下のベッドに並んで腰掛ける。
穏やかなカモミールの香りの金色の紅茶を一口飲めば、胃を中心にじんわりと体が温かくなっていった。
「あったかい……やっぱりこの香りはホッとしますね」
「最近はどうしても暑かったので、アイスティーばかりでしたからね」
夜中でも猛暑と言われるこの頃でも、山の中となるとぐっと気温が下がる。他愛のない話をして、でもまだ眠気は訪れなかった。
バンガローの窓から天文台が見えた。まだ明かりがついていて、もしかしたら星見のキャンパーの人が使っているのかもしれない。窓から空を見てみても、光が反射してよく見えなかった。
「来夢くん。ちょっと、外出てみませんか?」
寝巻きの上に、薄手のキルトの上着とウィンドブレーカーを羽織らせて外に出る。心地よい夜風がさわさわと吹いて、室内よりも涼しかった。
目が暗闇に慣れるように赤色のセロファンを巻いた懐中電灯で足元を照らして、転ばないように手を繋いでゆっくり夜の散歩を始めた。
「急に連れ出してごめんなさい」
「謝ることないですよ」
「精一杯エスコートしますので」
「ふふっ、お願いしますね」
芝生から小道に出て、池の畔のベンチを目指す。
「この道、もしかしたら文夜さんも歩いたかもしれませんね」
子供たちの面倒を見ていたと言っていたから、もともと校庭だった広場を走り回っていたかもと想像できた。幽霊の姿でも生き生きしていたのを思い出す。きっと子どもたちにとっていいお兄ちゃんだったのだろう。
ベンチに並んで腰かけて、懐中電灯の灯りを消す。上を見てと促すと、来夢はわぁっと静かに声を上げた。
暗がりの地上から見上げた夜空は、見たことのないくらいに満天の星が二人の頭上に広がっていた。それはどの星を繋いだら星座になるのか、わからなくなるくらいだった。
ぎゅう、と握る手が強くなった。
宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』の中で天の川のことを「乳の流れたあと」だと言っていた。その通りに星の集まりは白い大きな川を作り上げていた。両手ですくって飲んだら、どんな味がするんだろう。甘くて幸せな味がするのかもしれない。星が弾けて、サイダーみたいにしゅわしゅわと泡立つのかもしれない。
「すごい……」
「えぇ、ほんとうに……言葉が出てきません」
白鳥座のデネブ、鷲座のアルタイル、琴座のベガ。三つの大きな一等星を繋いで、かろうじて夏の大三角形を見つけられたくらいだ。あとはもうどれがどの星だかわからない。
「千燈さんも、文夜さんも、この星空を見てたんですね。来夢くんは、こんな景色見たのは初めてですか?」
「はい。僕にとっては家の周りの森だけですので。実際にこうして山の中に来ることは……あ、流れ星」
「どこですか?」
来夢が指さした方を向いたが、流れた後だったか、どこにも流れ星はなかった。
「もう消えちゃいました、すみません」
肩をすくめて来夢が謝る。
「それにしても、ずいぶんと遠くまで来てしまったものですね……」
「確かに遠かったですけど、一応ここも愛知県なんですよ」
「そうなんですよね。世間って、狭いのか広いのか」
ふぅ、と疲れたように息をついて、来夢は夜空を見上げた。
その眼差しは、本を読んでいるときと同じような優しい眼差しだった。
「来夢くん、こんなところで話すようなことじゃないかもしれないんですけど……聞いてくれますか」
愛衣の顔をそっと見た来夢は口元を引き締めてはい、と頷いた。
「これ、クラスメイトだった子に付けられたんです」
持ち上げるように、両足をぶらぶらさせる。今は見えないけれど、足首には引き攣って色が変わった火傷の痕が残っているのだ。
「昔っから空想に
繋いだ手に、さらに来夢の手が重なった。
「それで、あるとき『嘘つきには罰がなきゃね』って、履いてる靴に火をつけられたの」
切なそうな表情で、来夢は静かに愛衣の声を聞いてくれていた。眼鏡の奥で来夢の青い両目が切なそうに揺れている。
「たまたま幼馴染のお父さんが助けてくれて、きちんと法に
風が吹いたせいか、それともその時のことを思い出したからか、首筋が寒くなってつい大きく身震いした。
「だから、文夜さんがすごいなって。もう何年も前のことだけど、今でもたまに人を信じられないときがあったりするのに。世界はそんなに意地悪じゃないって、その世界を愛せるようにって、簡単に言えることじゃないです」
文夜の性格か人柄か、あんなふうに考えられることは、実は滅多にできないことだと思う。
「私も、文夜さんのような話が書けるかなって」
お行儀が悪いと分かっているけど、ベンチの上で膝を抱える。考える時の癖だった。膝の上で組んだ腕に顎を乗せて、はるか頭上で輝いている星々を眺めていると、やさしく頭を撫でる手があった。
「僕の作家さんは、難しいことを考えがちなんですね」
「え」
来夢は穏やかに目を細めた笑みを浮かべて、そんなこと考えなくてもいいですよ、と言うみたいに愛衣の頭を撫で続けた。
「そんな愛衣ちゃんに、これを」
いつ持ってきたのだろう、来夢は紺色の小さな紙袋を差し出した。受け取ると、大きさの割に重たい。何が入っているのだろう。
「……? 開けても?」
「どうぞ」
真四角の黒い箱が入っていて、金色のリボンが掛けられている。ラベルも何もなく、ますます中身がわからない。リボンを解き、そっと蓋を外した。
「来夢くん、これ……」
ハイヒールを模したガラスの小瓶に、花が詰め込まれている。淡い空色のブルースター、愛らしい
そっと両手で捧げ持つように、慎重に箱からそれを取り出す。
「きれい……」
星の僅かな光の中でも、ガラスの靴の小瓶はキラキラと光った。
ずいぶん前に作ったはいいが、いつ渡そうか迷っていたという。花言葉にも気を遣って、それで愛衣に合うような色合いを選んで。瓶までオーダーメイドしたのだとか。
いったいいくら使ったんだろう。お金のことが気になったけれど、触れないでおこう。
「文夜さんに言われたんですよ。想いは伝えたい時に伝えといた方がいいって」
「文夜さんに?」
「余計なお世話だって言ったんですけどね」
文夜の幽霊を呼び出した時、なにやら二人で話していたのを思い出す。といっても文夜が一方的に頼み事をしていたようにしか見えなかった。
この花言葉どんなだったっけ、と首を傾げていると、来夢に静かに名前を呼ばれた。フラワリウムを持った両手を包み込むように、来夢の両手が重ねられる。
「ガラスの靴は用意します。なので自由に、あなたの思うままに書けばいいですよ」
静かな夜に溶け込むような優しい声で、口元を穏やかに緩ませた。こつん、と額をくっつけて、キスをするみたいな距離で来夢はゆっくりと語りかける。
「僕はあなたの読者であり、魔法使いでもあります。望みのままに、その足で歩いてください。もし立ち止まることがあるのなら、僕の魔法で癒しましょう」
胸が震えるほどに優しくて、まるで本物の魔法使いのようだ。
「本当は、十二本の薔薇の花束にしようかとも思ったんですけど、荷物になりますもんね」
危うく聞き逃すところだった。薔薇の花を十二本、と愛衣は巡視して、その意味を理解した途端に心臓が急に音を立て始めて、フラワリウムを落としそうになった。
「来夢くん、その意味わかって言ってます?!」
「……わかってなければ言いませんよ」
手の甲で口元を隠した来夢の頬は、暗がりでもわかるくらいにはっきりと赤くなっていた。
「んとに……ほんっとうに、来夢くんはずるいんだから……」
「すみません」
今度は頬を両手で包まれる。顔を近づけて「どうしたら許してくれます?」と甘えるように問いかけてくる。
「……来年……」
聞き取ろうと来夢が口元に耳を寄せる。
「来年……一緒に蛍を見に、またここに来たいです……こっそり滝にも行きたいし、花束も用意して……」
最後の方は声が萎んでちゃんと言葉にできなかった。
それでも来夢はちゃんと聞き取ってくれた。「もちろん」と、うんと優しい笑みを浮かべて、目元を優しく撫でなでてくれる。
「来年の七月、千燈さんと文夜さんに会いにきましょう」
その言葉が甘い紅茶を飲んだ時のように胸に広がって、温かくなっていく。同時にカモミールティーの香りがする手に包まれた頬も、ほんのりと熱を持って、視界が潤んでいく。
「私、私の物語を書きます。文夜さんみたいな話にならないかもしれないけれど……この出来事を、私は忘れたくない……」
「書き上げたら、一番に読ませてくださいね」
頷いて、空を見上げる。
この世に物語は星の数ほどある。まだ見たことない物語もあれば、似たような雰囲気の話があってもおかしくはない。
だから、私は私の思う話を書こう。
そして彼に読んでもらおう。
今はそれでいい。
もし、気が向いたら、文夜が書こうとしていた話を引き継いで書いてもいいかもしれない。
祝福の花束とともに、いつか渡せる日が来ることを、今日の星空に願った。
過去の彼らに。未来の誰かに。今を生きる私たちに。
最高のハッピーエンドを。
文披月と祝福のブーケ 青居月祈 @BlueMoonlapislazri
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