7月30日『握手』
朝の八時なのに陽はもう背の高い針葉樹の上に顔を出していて、蝉がうるさく騒ぎ立てている。星空図書館前には愛衣と来夢の他に、結衣と留宇、それから悠馬が集まっていた。
「とりあえず兄さんには伝えておいた。時刻表を見て迎えに来てくれるらしいから」
「了解。ありがとう悠馬」
従兄のお兄さんの連絡先を登録していると、キィッ、と門扉の前で自転車の止まる甲高い音がした。
一斉にそっちに視線が集まる。
自転車から降りてきたのは愛衣たちと同い年くらいの少年で、朱色のキャスケット帽を被っていた。昨日瞳さんが言っていた郵便屋さんだろうか。軽快に自転車から降りて、手を振りながらこっちに走ってくる。
「やぁやぁ、みんなおはよう。朝なのにあっついね〜」
「
「配達だよ。えーっと、イチノセさんはどちら?」
結衣も一之瀬だが、すぐさま「この人です!」と愛衣の背中を前へ押しやった。
「はい、お花屋さんからお届け物です」
淡い桃色と白の薄紙に包まれた色とりどりの花束を、元気よく差し出された。
「あ、できたんですね」
「花が長持ちする栄養剤を使ったから、今日明日はもつって言っていたよ。それに、瞳さんが作った花束は長持ちするって噂だから、大丈夫だと思うけどね」
「ありがとうございます。瞳ちゃんにも、お礼を伝えておいてください」
「あいわかった!」
元気よく返事をすると、お代はまた今度でいいって言っとったよ〜、と言いながら、また自転車にまたがって去っていった。
「元気な方ですね」
「
それから思い出したように、すぐさま「来夢の機嫌次第やけどな」と付け加えた。
名古屋駅から名鉄電車を乗り継ぐこと約三時間。そこから車で約三十分。スターレインフォレストキャンプ場に着いたのは、午後十二時を回ったところだった。
チェックインを終えて、指定されたバンガローに荷物を運び終えると、来夢は荷物にしなだれかかった。
「や、やっと着いた……腰が痛い……」
「来夢くんお疲れ様です」
持ってきた紅茶を淹れて来夢に渡し、自分も一息ついた。
「荷解きしたら滝に向かってみましょうか」
「来夢くん、疲れてるんじゃ……」
「大丈夫です。花束、早く持って行きたいんじゃないですか」
来夢が視線を向けた先に、瞳が作ってくれた花束が鞄の上に置かれていた。使われている花は、全部北斗が持ってきたものと同じ種類だ。北斗が持ってきた花は、少しずつ枯れてしまっていた。
「そうだね、ありがとうございます」
簡単に荷物を整理して寝床のロフトを片付けてから、二人はキャンプ場の端に向かった。所々に立て札が立てられており、この奥にある滝での事故についてかかれていた。
ちょうどキャンプ場から見えない木陰で、来夢が魔導書を開いた。
「『アラジン』より、【魔法の
背筋を伸ばして、凛とした声で来夢が唱える。彼の声に反応するようにページに書かれていた金色の文字が光り出し、青く煌めく魔法陣を作り上げる。そこからアラベスク模様の豪奢な絨毯が現れ、乗りやすいように段差を作ってくれた。
先に来夢が乗り、どうぞ、と差し出された手を、握手をするように掴んで愛衣も乗り込んだ。お願いします、と絨毯に語りかけると、初速から一気にスピードを上げて、宙を飛び出した。
「は、速いっ!」
「すみません、見つかってはアレなのでちょっと飛ばしますね」
来夢が使う魔法は三分しか時間がもたない。景色を楽しんでいる余裕は正直なく、木々の隙間を縫うように飛んでいった。
長いような短いような三分を終え、時間切れになって川のの側に降り立った。
幅五メートルほどの川辺は、岩がごろごろ転がっているけれど、歩けなくもない。耳をすませば、木の葉が風で揺れる音や小鳥の鳴き声に紛れて、水の流れ落ちる音が聞こえてくる。
「ここから先は歩いていきましょう。文夜さんたちが来れたと言うことなら、行けなくもないはずですから」
今度は愛衣が来夢の手を引いて、休み休み歩くこと約十五分。水が流れ落ちる音が大きくなり、やがて二人は開けた場所に出た。
「わ……!」
「ここが……」
川底が見えるくらいに透明度の高い川は、森の木々の緑を水面で反射して綺麗な
「綺麗……」
「本当に『幻想的な翠色』ですね」
水際に降りていくと、涼しい風が頬を撫でた。靴を脱いで水面に足先をつけると、氷に足をつけたみたいに冷たさが足を駆け上がり、ふくらはぎに鳥肌が立った。ぱしゃぱしゃと音を立ててくるぶしまで浸かった。
「ん〜、冷たーい! 来夢くんも入ってみてくださいよ、気持ちいいですよ」
「あぶなくないですか?」
「川底が小石で滑るので、足元に気をつけていれば大丈夫ですよ」
ほら、と手を差し伸べると、来夢も裾を捲り靴を脱いで水の中に入った。
「わっ! つめたっ」
来夢の頬が興奮に赤く染まった。川に足をつけることも彼にとっては初めてなんだろう。愛衣も嬉しくなって「でしょう」と声が弾んだ。
水面を蹴ったり、魚を追ったり、水を掛け合ったりしていると、滝に近いところに周りとは違う緑色があることに来夢が気づいた。
「滝壺ってあの辺りですかね」
来夢が指さした場所を見て、背筋がゾッと冷たくなった。
波打つ水面の
「なんだか……
「あぁ、それ僕も思いました」
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、天の川の中に石炭袋と言われる空の穴が空いている。それと同じ光景を目の前にすると、はしゃいでいた心がだんだんと落ち着きを取り戻していった。
「あそこに、沈んだんでしょうか」
「たぶん……」
愛衣は水音を立てて岸に戻り、持ってきていた花束を掴んで、来夢のもとに戻った。そして、持っていた花束を、滝壺の方へ向けて思いっきり投げた。大きく弧を描いた花束は水面にぷかぷか浮いていたけれど、次第に滝壺の方へと流れていき、爆流に呑み込まれてやがて見えなくなった。
淡い桃色の色紙が消える寸前、思わず来夢の手を握っていた。
「文夜さんに届いたらいいですね」
来夢の手が優しく握り返してくれる。
光の梯子が降る中で、水に足を浸したまま、しばらくの間立ち尽くしていた。
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