遮那王の従者

駒井 ウヤマ

走馬灯

 時は、草木も眠る丑三つ時。闇夜にぼんやりと浮かぶ五条大橋の上を、ひた、ひたと闇夜を男が二人、連れ立って歩いてた。

 一人は鯱張って肩を活からせてのしのしと、もう一人はその後ろから所在なさげに目をキョドキョドと左右させながらひょこひょこと。その見た目と振舞いから、どうやら後ろの男は先頭を歩く男の下男か何からしい。

 もっとも、下男は勿論先頭の男も着ているものは粗い目の生地に鉤裂きや解れだらけの装束に尻切れ草履、烏帽子すら被らぬ頭は茫々の蓬髪で、その落廃ぶりを存分に主張している。

 こんな夜更けに灯りも無しに出歩いていることからも、凡そ真っ当な身の上で無いことは容易に想像がつくだろう。

「お、親分・・・戻りましょうよ」

「ああ?何言ってんだ、お前?」

 橋を渡り切れば洛中、という段である。いきなり縋り付くように言いだした下男に、男は怪訝な目を向けた。

「な、何でも、この橋に・・・出るそうじゃあないですか」

「ああん、妖か?そんなんに怖気づくなんて、手前は孺子か」

「ち、違いますよ、親分。刀狩りです」

 その言葉に男は「・・・ああ」と思い出したかのように呟いた。

「あの噂になってるやつか。確か・・・」

「へえ。何でも、それはそれは天を衝くような大男で・・・巌のような角ばった顔に・・・ぼうっと浮かぶ青い目が」

「馬鹿野郎!」

 興が乗ったか、ひゅうどろろと怪談話のような語り口になる下男に、親分は拳骨を振り下ろす。

「人様の金品を奪おうってえ男が、童歌みてえな四方山話を信じるんじゃねえ!」

 そう、男と下男は共に夜盗を生業にする男たちであった。彼らがこんな夜更けに出歩いているのも、洛外から忍び込んで下京に住まう庶民の家に押し入ろうとする、正にその直前であるからなのだ。

「だいたいだ。そんなのは大方、検非違使やら刑部、禿かむろの馬鹿共が俺らみたいなんを驚かそうって流した噂に過ぎん。第一よお・・・それならもっと早く言え。もう橋も半ばだろうが!」

「へ、へえ。忘れてまして・・・ですがこの、川から感じる冷気で、その、思い出しまして」

「下は川だ。冷てえのは当たり前だ、馬鹿」

 しかし、穴あきだらけの橋板の隙間から立ち昇る冷気と打ち捨てられた遺骸から漂うプンとした臭気は、確かにそんな怪談話にはうってつけかもしれない。

 平安の末世は末法の世。世を纏めるべき朝廷に力なく財なく、反対に財ある公家に世を纏める気概なく、荒れ果てているのは京の都とて例外ではない。巷では平相国なる成り上がり者の血筋が権勢を牛耳っているそうだが、現状がこれではただ公家に成り代わっただけのようだ。

「・・・けっ」

 憎々し気に、男は唾を吐き出す。せめて、彼が郎党を務めていた源氏大将が成り上がってくれていれば、こんなことに身をやつさなくても済んだのに。

「ど、どうしやした?」

「何でもねえよ。それより、もう余計な口を利くんじゃねえぞ」

 それを受けて、下男はぶんぶんと大仰に首を上下に振った。こんな阿呆の言葉をまともに聞こうとした自分に腹が立つ。気のせいだろうが、橋の向こうに僧形の男の姿が見える気さえするではないか。

「・・・ん?」

 いや、気のせいでは無い。確かにいる、男が。

「ひえ!」

 同時に気付いたらしい下男が情けない悲鳴を漏らすのを、男はバシンと叩いて窘める。

「黙らねえか、この阿呆が!」

「し、し、しかし」

「なあに、良いじゃねえか、いても。ありゃ見たところ、寺法師だろうが・・・見ろ、手ぶらだ」

 確かに、その僧は頭巾を被っていることから寺法師、所謂僧兵の類に違いは無かろう。だが、そいつは僧兵なら当然持っている筈の薙刀の類を手には勿論、欄干に立てかけてもいない。

「それに比べ、こっちにゃこれだ」

 そう言って、男は腰の刀を鞘走らせる。するりと覗いた刀身には、手入れが悪いのか赤黒い汚れが染みついていた。自分たちだけが武具を持つ、その優越感に男は表情を歪に笑う。幾ら腕自慢の僧兵であろうと、徒手空拳ならそこいらの連中、これから彼らが押し入ろうとした家の奴らと変わりない。

「いざとなっちゃ、これ、これだぞよってな。へへへ・・・」


「糞・・・逃げたか」

 僧兵がそう言って見遣る先には、脱兎の如く走り去る背中がどんどんと遠くなっていった。恐らくはこの夜盗らしき男の下男だろうが、危機を前に逃げ去る判断力については、主よりどうやら上回っていたらしい。

「弁慶の兄貴、これ」

「何だ、海尊?これは・・・ふん、どこぞの馬鹿の横流しか」

 彼、弁慶が素手で仕留めた男を弄っていた同じく山法師、海尊が手渡したものを見るなり、弁慶は鹿爪らしい顔を更に顰めた。それは何某かの公家の家人である証の木札であり、間違ってもこんな男が持っていて良い代物では無い。

「末法の世、か」

 銭か、脅迫か、はたまた主家の不幸を願ってか。どれだとしても、凡そ碌な動機での横流しではあるまい。

「まったく、まったく。大体、兄貴がこんな検非違使の尻拭いやってる時点で、世も末も末でさあね」

「賢しらな口を叩くな」

 よいしょするような物言いの海尊を窘めて、弁慶はその頭巾をさあと外す。

 すると、どうだろうか。そこにあったのは黒光りする禿頭・・・では無かった。禿どころかそこには癖の無い短髪が生えこびっており、しかも、その色も口顎を飾る髭も皆、稲穂より明瞭とした金色なのだ。当然、この時代に髪の色を変える手立てがある訳も無く、正真正銘、弁慶がこの世に生まれ落ちた時から付き合いのある髪色である。

 さらに、異形なのはそれだけではない。その金色の髪の下で爛々と輝く両眼は、まるで翡翠の如き新緑色に輝いており、全体的に角々とした輪郭と言い、彼を形作っているのはどう見てもゲルマン血筋のそれであった。

「おまけにだ・・・海尊、貴様の差し金だろうが、拙僧を悪鬼羅刹のようにした風聞が流れておると聞く。口三味線もいい加減にせぬか」

「しかし、しかし兄貴。言わせてもらえりゃその面魂。そんな兄貴は鬼同然で・・・あ、痛!」

 拳骨一撃。ごすん、と鈍い音が河原に響いた。

 確かに、当朝に異人が来訪するのは蘭人シーボルトで600年、西人フランシスコで300年、絹道を通り唐土に伊人マルコが辿り着くのすら100年以上先の話なのだ。彼、弁慶の両親、若しくは片割れがどのようにして日ノ本へ辿り着いたかのは、定かでは無い。

 ・・・が、斯様な風体に加えて鍛えられた堂々たる体躯を持つ弁慶が、世情にてそう扱われるのも無理は無い話であることぐらいは彼も理解はしていた。

 しかし、それについて弁慶は寧ろ恥じているくらいであるから、悪意では無いにせよ海尊の吹聴は陰ながらに彼の心を蝕んでいた。無論、それを海尊程度に悟らせてしまうような弁慶では無いが。

「しかし、しかし兄貴。今日はもうこれくらいで?」

 どうやらこの海尊という山法師、初めの言葉を二度繰り返すのが口癖らしい。

「うむ。流石に草木も眠る丑三つ時、もう入り込む輩も出る輩もおるまい」

「へい、へい。では、置いてある薙刀を・・・」

 取って来ます。海尊がそう言おうとした、その瞬間である。

「待て!」

 急に、弁慶が待ったをかけた。

「へえ?何です・・・へっ、何ですこれ!?」

 不意に、洛中の方から鄙びな笛の音が流れてきたのだ。それも、その音は段々と近づいて来るときたものだから、弁慶に付き従ってはや幾年、海山僉山を潜ってきた海尊ですら肝を冷やしたのも当然だった。

「誰かは知らぬが、とんだ酔狂よ。・・・ふふ、いっそ妖であれば、面白いがな」

 だが、この弁慶という男、やはり普通で無かった。この不可思議な事象に怯えるどころか、寧ろ思うままに闘志を漲らせる。

「あ、兄貴・・・若しか、若しかしてこれ、俺が変な噂を流したから・・・祟りが」

「祟りか・・・若しそうならば、それも良い」

「へえ?」

「老師が仰っておられた。貴様のような鬼子なら、妖くらいが仕えるに相応しい、とな!」

 申し訳なさそうな海尊を荒っぽい言い方で慰めた弁慶は、そのまま音の方へと視線を向ける。その音は間違いなく、洛中から通りを真っ直ぐに進み、この橋まで向かって来ているようだった。

「海尊、今まで奪ってきた刀は何本だったか?」

「か、刀ですか?ええと、ええと・・・確か、今の夜盗崩れの男の腰物で九十九本で」

「なら、あ奴が持っておれば百本目と。ふふ、丁度良いわ、海尊、控えておれ!」

 ニヤリと口角を歪める弁慶に、海尊は「止めても無駄だ」と早々に諦めへ舵を切る。嘗て五十四本目の無頼漢の時も、七十八本目の近江武者の時も、相手が異様であればある程、強そうであればある程に負けん気を燃やすのがこの、弁慶と言う男なのだ。

「では、では俺はいつもの所に。薙刀が必要なら、いつでも合図を」

「承知。しかれど・・・」

 爛々と闘志で緑の目を燃やす弁慶は、嘯く。

「果たして、今度は拙僧に薙刀を使わせてくれるであろうか、な?」


「誰も褒めちゃあくれませんよ?」

 それは、こんなことを初めていつ頃だったか、海尊が漏らした言葉だ。

「分かっている、そんなこと」

 確か、そう返した筈だ。

 そうとも。洛中へ刀を持ち入る者、刀を持ち出る者を屠り奪う。そんな検非違使の真似事を幾ら続けようが、彼の行いも正業で無い以上、それが評価される謂れも、勿論無い。

 ただ、匙を投げられたとは言え彼も仏の教えを受けた者だ。少しでも今世に和を齎す行為を、少しでも安寧を齎す行為を。

 無論、それが只の誤魔化しであることも分かっている。己を求める主も無く、己が仕える主も無く、己から主を求めることも無く。この身は無聊に過ぎていくのだろうと、彼は諦めていた。


 そんな弁慶に今宵、天命が降りる。


「待てい。何奴」

 弁慶がそう誰何すると、そこまで来ていた笛の音はパタリと途絶える。人語を介することからどうやら、人間には違いないようだ。

 ただ、現れたその者の容姿は聊か彼の予想から外れていた。

「・・・孺子か?」

「失敬な。私は今年で17だ」

 そう言うものの、その声は甲高く、月光に晒した若草色の装束に包まれた姿も、弁慶は例外として海尊と比べても尚か細い。目線の高さこそ弁慶より頭二つ下くらいだが、足に履く一本歯の下駄を加味すれば、その背丈は低い。どう欲張っても、目の前のこの者は齢14程度の少年にしか見えなかった。

 ただその身なりは綺麗で、まとめられた髪も月明かりの元艶々と輝いており、先の笛の腕も併せて余程の身分の御曹司だろうとは見受けられた。だが、それは弁慶の闘志を燃やす存在ではなく、湧き上がりかけた彼の心も忽ちに萎み出す。

「・・・まあ良い、孺子は孺子であろう。夜歩きは不用心、早く帰れ」

 興が削がれた弁慶は、まるで犬猫のようにシッシと追い払う。

「それは無理だ。何せ、私は師匠の元を抜け出して来たのだからな」

「師匠?」

 良く分からん答えに弁慶が首を傾げると、その少年は「ああ!」と満面の笑みを見せつける。

「師匠とは名ばかり。私に何も教えてくれぬので、教えを盗み読んで学んだ。今頃は、大層立腹して私を探しておることだろう」

「待て、待て。お主・・・何処から抜け出てきた?」

「鞍馬だが?」

 鞍馬と言うのは鞍馬寺か。となれば、この少年は寺に預けられたどこかの次男坊以下であり、不始末をしでかしてが逃げ出したという事らしい。

 そう、弁慶は合点した。

「なら、お主が悪い。早く帰れ」

「それは駄目だ。私は、兄上のお役に立つのだから」

 そう言って少年がパンと叩いた腰元を見ると、その少年には不釣り合いな太刀がぶら下がっている。

「おい。それは孺子の持つ物ではないだろう。どこで盗んだ」

「これか?うむ!これも、兄上の為に持ち出して来た。良いものだろう!」

 どうも話が噛み合わない。頭痛に蟀谷を抑える弁慶だったが、

「まあ良い。興は削がれたが・・・刀には違いあるまい」

 取り敢えず、太刀を奪って寺へと返そう。それに、この少年に問題は無くとも、この少年が何処かの悪党に刀を奪われては同じ事だ。そう結論付けた弁慶は、丸太のような両腕を振るい少年へ躍りかかった。

「獲った!」

 そう、その巨躯からは想像もつかぬほどの機敏さで距離を詰めた彼の手は、その細い腰へと伸ばされて―。

「・・・あ?」

 ―そのまま、するりと宙を掴む。

 サアと目の前を通った残像と頭巾にポンと触った感触から直感的に振り向くと、そこで弁慶が目にしたのは少年がクルクルと回転しながら彼の真後ろにスタリと着地する光景だった。どうやら少年は彼を踏み台にして跳び越えたらしい。

「・・・は?」

 と、普通なら納得も出来ようが、生憎と弁慶は普通の男ではない。上背は牛車に並ぶほどだし、眼も良い。そんな彼を跳び越えるということは、並外れた跳躍力と瞬発力が無ければ不可能な筈だ。

「あり得ぬ!」

 しかし、憤怒の表情で再び伸ばした手は、同じように空を切る。そして同じように跳んだ少年は、次に音も無く五条橋の擬宝珠に降り立った。そこに少年が屈託の無い笑顔で居る以上、弁慶が信じたくなくとも、事実は事実と認めるしかない。

「あり得ぬ・・・・・・」

 今度は呆然と、そう呟いた弁慶だったが、そうしていたのも一瞬だ。アレが何だとしても、刀を持ったままうまうまと逃げられては沽券に関わる。

 橋の擬宝珠を順にピョンピョンと跳び渡る少年の背に向かって、弁慶は怒鳴る。

「ま、待てい!」

 もっとも、そう言われて待つ奴などおるまいが。


「・・・本当に待つとはな」

 前言撤回、いた。

 数秒後、駆け付けた弁慶の前には、先程と同じように擬宝珠の上に立つ少年が居たのだ。少年の脚力ならば、彼が付く前に逃げ出せただろうに。

 そう思うと、ギリギリと奥歯が擦れる程に怒りが燃え立つ。

「待て、と言われたからな」

「言ったがな、確かに。だが、兄上の元へと行くのではないのか?」

「勿論、行く。しかし、人の言を軽々に見捨てては、兄上に嫌われるかもしれぬ。だから、待ったのだ」

 それは言外に「いつでも逃げられる」と言っているようなものだ。

「で・・・今度は捕まえられるか、この私を」

「捕まえるさ。但し・・・海尊!」

 彼が叫ぶと同時に、ブンと風切り音を響かせて薙刀が一振り、暗夜から弁慶の元へと飛んで来た。

 それを難なく掴んだ弁慶は、少年へ見せつけるようにブルンブルンと振るって見せた。その速さと衝撃に、ガタのきた橋はギシギシと大きく軋む。

「今度はこれ込みよ。骨の二、三本は覚悟してもらうぞ」

「良いだろう。これも、お山の修行の続きだ」

「抜かせ!」

 そう吠え立ちながら、弁慶は明らかに殺す勢いで一撃を見舞った。しかし、少年はその旋風のような一撃を難なく躱し、ピョンと跳び違う擬宝珠の上に降り立った。

「そらそら、こっちだこっち」

 その揶揄うような仕草と言動は、果たして兄上とやらに嫌われないのか。そんな益体も無いことを考えつつ、弁慶は二度三度と薙刀を振るうが、結果は同じだった。

「はあ・・・はあ・・・猪口才奴」

「どうした、終わりか?」

「終わ・・・るかあ!」

 轟、と山風の如き暴風が少年を襲う。危うく弾き飛ばされそうな圧に、初めて少年の顔に焦りの色が浮かぶ。なんとか、「ととと」と別の擬宝珠に着地した少年は、そこで信じられぬものを見た。

 否、正確には『無かった』のだ。さっきまで少年が立っていた擬宝珠が、橋の欄干ごと消え去っていたのだ。

「お、お前」

「ふう。なあに、気付いただけよ。跳び回られるのが気に障るなら、無くしてしまえば良い、とな」

 そんな簡単な話ではない。いくらガタがきているとは言っても、欄干の基礎を成す木材だ。それをまるで巻き藁のようにぶった切るなぞ、鬼の如き腕力、膂力、脚力が無ければ、とてもとても覚束ないに違いない。

「はは、力づくか。らしいなあ」

「その態度・・・どこまで続くか見てやろう!」

 そう言うが早いか、弁慶は再び薙刀を振るい始めた。


「ふう・・・ふう。さて、どうする?」

 幾許かの時間の後、橋の上からは欄干という欄干が消え去り、綺麗さっぱりまっ平となった。

「そうだな。取り敢えず・・・私も抜くとしよう」

 しかし、少年は首筋に冷たいものを流しつつ、表面上は平静のままにその腰から初めて白刃を抜いた。

「ふん。拙僧相手に手加減なぞしておるからだ」

 弁慶は、苛立たし気にそう吐き捨てる。

「手加減なんて、してはいない。ただ・・・これを使わないと、どうやら止まってくれそうにないからな」

「・・・笑止」

 相手は一人。跳び回る足場は無し。後ろに退いても意味は無し。後は最初の時のように彼を跳び越えるくらいだが、同じ手が通用する程に弁慶も甘くない。そんなことをしようものなら、宙空で身動きできぬところをずんばらりとされるのがオチだ。

「千万!」

 万力で振るわれた薙刀の切っ先、音の速さを越えたそれが、少年の胴を真っ二つに捉えようとした、正にその時。

「よっと」

 タッと、地面を蹴った。

 カッと、下駄の歯が刃を打った。

「な!?」

 そして、それにより沈み込んだ軌跡は、そのまま橋板へと噛みつかされた。

 これには、流石の弁慶も驚きの声を漏らすことしか出来ない。ただの棒でも、目の前を一瞬で通り過ぎるそれへ足を載せることなぞ出来はすまい。ましてや薙刀、命を刈り取らんとする玉散る刃だ。

 しかし、されたのだからどうしようもない。怪力が仇となってか、その刃は深々と突き立てられ、そして。

「・・・うう」

 呻き声を上げる弁慶の喉元へは、薙刀とは違う種類の白刃が突き付けられた。無論、少年の持つそれである。

「さて、どうする。続けるか、それとも・・・」

 その言葉の後を続けるように、刃は月光を反射し眩しいばかりに存在を主張する。あと一歩、指一本分でも刀身が前進すればそれは容易く弁慶の喉を貫くだろう。

「死ぬか?」

 ギクリと、弁慶の背筋が強張る。それはその脅し文句に、では無い。彼とて山法師の端くれだった男だ、「殺すぞ」と言われたことは片手では数えられぬ。

(だが・・・違う)

 目の前の少年がそう問うた時の、その瞳。血気も殺意も乗らぬ、ただ淡々と明日の天気でも話すかのような、何の興味も無いかのような空虚な瞳。

 だが、だからと言って只の脅し文句では無い確信もある。若し弁慶が少しでも下手な動きをすれば、忽ちこの少年は白刃を突き立てるだろう。

 何の感慨も無く。

「はあ・・・降参だ」

 だから、弁慶は諦めた、抵抗を。只の戦狂いや武芸者ならば対抗する、出来る。しかし、この少年にはそれは出来ない、対抗できない、ただ単純に『勝てない』のだ。

「では?」

「ああ。これで良いか?」

 弁慶は、パッと薙刀の柄から手を放す。梃子の原理で刃先は橋板を離れ、そのままガランと落着した。

「まあ、武具を以てしても勝てぬのであれば・・・・・・どうした?」

 彼としては薙刀を離したことで、降参が口だけで無い証の心算だった。

 が、どうしたのだろう。少年はハッとしたかと思うとキョロキョロと慌てたように辺りを見回しだす。

「おい、どうし・・・うぉ!?」

 少年の返答が来るより早く、ガランガランと橋は揺れ、ミシミシ、ミシミシと至る所から軋み音が雨季の蛙のように囀る。

「う、おおおおおぉ!?」

 そして、弁慶は空へと浮いた。天地が裂ける程の轟音に包まれながら。


「うう・・・・・・痛たたた」

 当然、人が空を飛べる道理は無い。浮いたと思った次の瞬間には、弁慶は橋だったものと一緒に地球へ帰らされた。

 つまりは、落ちた。

「・・・う、うう」

 幸いにも、崩れて一緒に落着した橋の破片が緩衝材となったお陰で川底の石にぶつかることは無く、硬い水面に叩き付けられることも無く、弁慶のみは全くの無傷だ。

 無論、衝撃はあったから意識は失ったが、起こった事象から考えれば奇跡の生還に等しい。

「うう、頭が・・・そうだ、あ奴は」

「ようもやってくれたな」

 弁慶がその存在を思い出したのとほぼ同時に、頭の上から声がかけられる。ハッとその方を見れば、辛うじて倒壊を免れた橋脚の天辺に、その少年が座り込んでいた。

「いやいや、大したものだ。まさか、橋自体を壊して逃れるなどとはな」

「いや!違・・・」

「それに!」

 こちらの抗弁にまるで耳を貸す様子も無く、少年は跳び下りると弁慶の前へスタリと着地する。

「お前、面白い奴だな」

 まるで猫のようにジロジロとこちらを睥睨する少年の視線に、訝しむように眉を顰めた弁慶だったが、

「緑の瞳に、有髪は兎も角金色とは」

 その言葉に、初めてそこで彼は頭巾が外れていたことに気が付いた。しかし、そんなことには気も留めず、少年はペタペタと弁慶の顔を触りまくる。

「うむ・・・うむ・・・良い面魂だ!良し、気に入った!」

「な、何が?」

「お前だ、山法師。お前私の配下になれ!」

「何だと!?」

 思わず、ガタリと上身を起こす。俺を!配下!コイツの!?

「私はこれより東へ下る。無論、私独りでも兄上のお役に立てるが、お前のような面白いのが居れば鬼に金棒だ」

 鬼。その単語に思わず弁慶の口から言葉が漏れる。

「・・・鬼かもしれぬぞ、拙僧」

 それは、今まで彼が心の奥に秘めていた引け目の一片。自分は人間で無し、あの老師も見放した鬼子という、言いようのない疎外感。

 しかし、

「そうか。それなら増々面白い」

 そんなことは関係ない。弁慶を見つめる視線はそう語っていた。じわり、とこちらへ向かって手を差し伸べる少年の姿が滲んで見える。

「それに・・・おい、どうした?」

「何が・・・ん、涙か」

 何故か、両眼から滂沱の如く・・・とは聊か大仰な表現だが、兎に角熱い液体が零れる。

 否、『何故だか』は知っている筈だ、彼は。

「良いだろう」

 だから、彼はその手を取ることなく立ち上がる。自分自身の力で。

「うん?」

 そう、自分より年若く、未だ名前すら知らぬ存在だ。だが、そんなことはどうだって良い。

「良いだろう、と言った。郎党とでも何とでも呼べ。付き従ってやろうではないか、お前に」

 その答えに、初めはポカンとしていた少年だったが、忽ち太陽のような笑顔で「そうか!」と弁慶の手を掴む。

「なら・・・おっと、人が集まり出したな」

 少年の眼の遣る方へ弁慶も視線を移すと、流石の丑三つ時とはいえ、橋の倒壊した音は隠しきれないと見える。三々五々、野次馬が集まっており、検非違使や禿が来るのも時間の問題だろう。

「ここで捕まっては、それこそ話にならぬ。行くぞ!」

 その言葉が弁慶の耳に入るより早く、少年は動き出していた。川に浮かぶ破材を、先の擬宝珠の様にピョンピョンと対岸まで移り跳んで行く。

「おい!?・・・糞」

 少しは此方の事も考えろと悪態を吐きつつ、弁慶はニョキリと首を出していた薙刀を乱暴に引っ掴む。横目で対岸を見ると慌てた顔の海尊が目に入ったので、仕草で「着いて来い」と命じると、後は一目散に出来たばかりの主君の後を追った。

「おい、待て!」

 だが、今度は待ってくれないようだ。

 仕方なし、と弁慶は冷たい川へと身を転じ、その後を追った。少年のような身軽さは彼には無いから、ざぶざぶと膝嵩まである流水を押し退けて、前へと進む。

 しかし、今の彼には水の冷たさも、川底の石の痛さも、押し留めようとする水の圧も、物の数では無い。

「だから、待てと!」

 ただただ、追う。闇夜に浮かぶ若草色の背中を、彼を導くような光を、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと・・・・・・。


「・・・・・・あ」

 夢を、見ていた。

「・・・・・・ああ、走馬灯、か」

 どうやら、一瞬意識を失っていたらしい。軽く被りを振って前を見れば、そこには一面の赤、朱、アカばかり。しかし、それを齎す濁々と額から流れる己が流血を拭うことすら、今の弁慶には億劫だった。

「うおおおおおお、殺せー!」

 何故なら、彼の目の前からは殺意を漲らせた雑兵の群れが、雲霞の如く押し寄せて来ていたからだ。

「むうん!」

 だから、彼は血を拭うより、その大薙刀を振るう。その剛力に無思慮に近づいていた雑兵五、六人の首は忽ち胴と泣き別れとなり、更にもう一度二度と振るう度に、同じ光景が同じ数、続いた。

「さあ、来い!」

 真っ赤な相貌の中に翡翠色の瞳を爛々と輝かせ、弁慶が吼える。

「な、何だ此奴は!?どこが死にかけだ!?」

「嫌だ、死にたくない!」

「こ、これはいかん。ひ、退け、退けぇ!」

 恐れをなした雑兵達は、その命令を金科玉条に腰を引かせてバラバラと逃げ帰った。これで、今暫くの時間は稼げるだろう。

「主殿は・・・どうか」

 今頃、彼の背後の館では主、源九郎判官義経が自裁しているところだろう。

 「嫌だ嫌だ」と、「戦場で死にたい」と駄々をこねた主を宥めすかして自裁するように説得したのは、弁慶である。いや、あれも今思えば弁慶たちの駄々でしかなかったか。

(それでも、主に西楚の覇王が如き最期は・・・迎えて欲しくは無かったからな)

 そう、あの麗しき主君が、手柄目当ての雑兵の手で無残にバラバラとされるような、そんな最期は。

「検非違使の真似事をしていた拙僧が、検非違使となった主に仕え、検非違使を守って死ぬ羽目になるとは・・・ごふ!?」

 不敵に笑おうとして、喉の奥からこみ上げた一塊の血が口からあふれ出す。

 体中の刀傷、巨躯へ縦横に刺さる矢傷、そして口腔より溢れる血反吐と、弁慶の体からは血の出ていない所の方が少ない程だ。

「む・・・むむむむ、む」

 だが、倒れてはならぬ。

 普通ならば、とうの昔に死に絶えていた筈の体である。されど、その一念が弁慶を今世に押し留めていた。

 だが、それも限界は来る。

「む・・・む・・・」

 爛々と光っていた眼光が、失せていく。足先から感覚が失せ、どんどんと冷たくなっていく。だが、

(・・・まだだ!)

 まだ、倒れてはならぬ。例え感覚が無くなろうが、例え、命が無くなろうが。

「いやはやまったく、最後まで面白い奴だ、お前は」

 そして、視界がアカからクロへと変わる直前、彼の頭上からそんな声が響いた。

「恐悦・・・至極にて」



 気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遮那王の従者 駒井 ウヤマ @mitunari40

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画