遮那王の従者
駒井 ウヤマ
走馬灯
「お、親分・・・戻りましょうよ」
「ああ?何言ってんだ、お前?」
橋を渡り切れば洛中、という段である。いきなり縋り付くように言いだした下男に、男は怪訝な目を向けた。
「な、何でも、出るそうじゃあないですか」
「妖か?そんなんに怖気づくなんて、手前は孺子か」
「ち、違いますよ、親分。刀狩りです」
その言葉に男は「・・・ああ」と思い出したかのように呟いた。
「ああ、あの・・・」
「へえ。何でも、それはそれは天を衝くような大男で・・・巌のような角ばった顔に・・・青い目が」
「馬鹿野郎!」
興が乗ったか、怪談話のような語り口になる下男に拳骨を振り下ろす。
「人様の金品を奪おうってえ男が、童歌みてえな四方山話を信じるんじゃねえ!」
そう、男と下男は共に夜盗。洛外から忍び込んで下京に住まう庶民の家に押し入ろうとする、正にその直前であるのだ。
「だいたいだ。そんなのは大方、検非違使やら刑部、
「へ、へえ。忘れてまして・・・ですがこの、川から感じる冷気で、その、思い出しまして」
「下は川だ。冷てえのは当たり前だ、馬鹿」
しかし、穴あきだらけの橋板の隙間から立ち昇る冷気と打ち捨てられた遺骸から漂うプンとした臭気は、確かにそんな怪談話にはうってつけかもしれない。見れば、橋の向こうに僧形の男の姿が見える気さえする。
「・・・ん?」
いや、気のせいでは無い。確かにいる、男が。同時に気付いたらしい下男が「ひえ!」と情けない悲鳴を漏らすのを男はバシンと叩き、窘める。
「良いじゃねえか、いても」
「し、し、しかし」
「良いから。ありゃ見たところ、寺法師だろうが・・・見ろ、手ぶらだ」
確かに、その僧は頭巾を被っていることから寺法師、所謂僧兵の類に違いは無かろう。だが、その僧兵は当然持っている筈の薙刀の類は、手には勿論立てかけてもいない。
「それに比べ、こっちにゃこれだ」
そう言って、男は腰の刀を鞘走らせる。するりと覗いた刀身には、手入れが悪いのか赤黒い汚れが染みついていた。自分たちだけが武具を持つ、その優越感に男は表情を歪に笑う。
「いざとなっちゃ、これ、これだぞよってな。へへへ・・・」
「糞・・・逃げたか」
僧兵がそう言って見遣る先には、脱兎の如く走り去る背中が遠くなって行く。恐らくはこの夜盗らしき男の下男だろうが、危機を前に逃げ去る判断力は、主よりどうやら上回っていたらしい。
「弁慶の兄貴、これ」
「何だ海尊?これは・・・ふん、どこぞの馬鹿の横流しか」
彼、弁慶が素手で仕留めた男を弄っていた山法師、海尊が手渡したものを見るなり、弁慶は顔を顰めた。それは何某かの公家の家人である証の木札であり、間違ってもこんな男が持っていて良い代物では無い。
「末法の世、か」
「まっ、兄貴がこんな検非違使の尻拭いやってる時点で、世も末でさあ」
「賢しらな口を叩くな」
よいしょするような物言いの海尊を窘めて、弁慶はその頭巾をさあと外す。
すると、どうだろうか。そこにあったのは黒光りする禿頭・・・では無い。禿どころかそこには癖の無い髪が生えこびっており、しかも、その色も口顎を飾る髭も皆、稲穂より明瞭とした金色だ。
さらに、その髪の下で爛々と輝く両眼は青く輝いており、全体的に角々とした輪郭と言いどう見てもそれはゲルマンのそれだ。
「おまけにだ・・・海尊、貴様の差し金だろうが拙僧を悪鬼羅刹のようにした風聞が流れておると聞く。いい加減にせよ」
「しかし兄貴。言わせてもらえりゃ、兄貴は鬼同然で、あ痛!」
確かに、当朝に異人が来訪するのは蘭人シーボルトで600年、西人フランシスコで300年、絹道を通り唐土に伊人マルコが辿り着くのすら100年以上先の話。彼の両親、若しくは片割れがどのようにして日ノ本へ辿り着いたかは定かでは無い。
・・・が、斯様な風体に加え鍛えられた体躯の弁慶がそう扱われるのも、無理は無い話である。
しかし、それについて弁慶は寧ろ恥じているくらいであるから、悪意では無いにせよ海尊の吹聴は陰ながらに彼の心を蝕んでいた。無論、それを悟らせる弁慶では無いが。
「しかし兄貴。今日はもうこれくらいで?」
「うむ。流石に草木も眠る丑三つ時、もう入り込む輩も出る輩もおるまい」
「へい。では、置いてある薙刀を・・・」
取って来ます。海尊がそう言おうとした、その瞬間である。
「待て!」
急に、弁慶が待ったをかけた。
「へえ?何です・・・へっ、何ですこれ!?」
不意に、洛中の方から鄙びな笛の音が流れてきたのだ。それも、その音は段々と近づいて来るときたものだから、弁慶に付き従って海山僉山の海尊ですら肝を冷やしたのも当然だった。
「誰かは知らぬが、とんだ酔狂よ。いっそ妖であれば面白いがな」
だが、やはりこの男は普通で無かった。寧ろこの不可思議に思うまま闘志を漲らせる。
「あ、兄貴・・・若しかしてこれ、俺が変な噂を流したから・・・祟りが」
「祟りか・・・若しそうならば、それも良い」
申し訳なさそうな海尊に対し、荒っぽい言い方で慰めつつ弁慶は音の方へと視線を向ける。その音は間違いなく、通りを真っ直ぐにこの橋まで向かって来ているようだ。
「海尊、今まで奪ってきた刀は何本だったか?」
「刀?ええと・・・今の男で九十九本で」
「なら、あ奴が持っておれば百本目。丁度良いわ、海尊、控えておれ!」
ニヤリと口角を歪める弁慶に、海尊は「止めても無駄だ」と早々に諦めへ舵を切る。嘗て54本目の無頼漢の時も78本目の近江武者の時も、相手が異様であればある程、強そうであればある程負けん気を燃やすのがこの、弁慶と言う男なのだ。
「では、俺はいつもの所に。薙刀が必要ならいつでも合図を」
「承知。しかれど・・・」
爛々と闘志で青い目を燃やす弁慶は、嘯く。
「果たして、今度は拙僧に薙刀を使わせてくれるであろうか、な?」
「誰も褒めちゃあくれませんよ?」
それは、こんなことを初めていつ頃だったか、海尊が漏らした言葉だ。
「分かっている、そんなこと」
確か、そう返した筈だ。
そうとも。洛中へ刀を持ち入る者、刀を持ち出る者を屠り奪う。そんな検非違使の真似事を幾ら続けようが、彼の行いも正業で無い以上、それが評価される謂れも、勿論無い。
ただ、匙を投げられたとは言え彼も仏の教えを受けた者だ。少しでも今世に和を齎す行為を、少しでも安寧を齎す行為を。
無論、それが只の誤魔化しであることも分かっている。己を求める主も無く、己が仕える主も無く、己から主を求めることも無く。この身は無聊に過ぎていくのだろうと、彼は諦めていた。
そんな弁慶に今宵、天命が降りる。
「待てい。何奴」
弁慶がそう誰何すると、そこまで来ていた笛の音はパタリと途絶える。どうやら、人間には違いないようだ。
ただ、現れたその者の容姿は聊か彼の予想から外れていた。
「・・・孺子か?」
「失敬な。私は今年で17だ」
そう言うものの、その声は甲高く、月光に晒した若草色の装束に包まれた姿もか細い。履く一本歯の下駄を加味しても背は低く、どう欲張っても齢14程度の少年にしか見えない。ただその身なりは綺麗でまとめられた髪も艶々と輝いており、先の笛の腕も併せて余程の身分の御曹司だろうと見受けられた。
「まあ良い。夜歩きは不用心、早く帰れ」
興が削がれた。弁慶はまるで犬猫のようにシッシと追い払う。
「それは無理だ。何せ、私は師匠の元を抜け出して来たのだからな」
「師匠?」
良く分からん答えに弁慶が首を傾げると、その少年は「ああ!」と満面の笑みを見せつける。
「師匠とは名ばかり。私に何も教えてくれぬので、盗み読んだ。今頃は大層立腹して私を探しておることだろう」
「待て、待て。お主・・・何処から抜け出てきた?」
「鞍馬だが?」
鞍馬と言うのは鞍馬寺か。となれば預けられたどこかの次男坊以下が逃げ出したのか、そう弁慶は合点した。
「なら、お主が悪い。早く帰れ」
「それは駄目だ。私は兄上のお役に立つのだから」
そう言って少年がパンと叩いた腰元を見ると、その少年には不釣り合いな太刀がぶら下がっている。
「おい。それは孺子の持つ物ではない」
「これか?うむ!これも、兄上の為に持ち出して来た。良いものだろう!」
どうも話が噛み合わない。頭痛に蟀谷を抑える弁慶だったが、
「まあ良い。興は削がれたが・・・刀には違いあるまい」
取り敢えず、太刀を奪い寺へと返そう。それに、この少年に問題は無くともこの少年が何処かの悪党に奪われては同じ事。そう結論付けた弁慶は両腕を振るい少年へ躍りかかる。
「獲った!」
そう、その巨躯からは想像もつかぬほどの機敏さで距離を詰めた彼の手は、その細い腰へと伸ばされて―。
「・・・あ?」
―そのまま、するりと宙を掴む。サアと目の前を通った残像と頭巾にポンと触った感触から、直感的に振り向くと、そこで見えたのは少年はクルクルと回転しながらスタリと着地する光景。どうやら少年は彼を踏み台にして跳び越えたらしい。
「・・・は?」
と、普通なら納得も出来ようが、生憎と弁慶は普通の男ではない。体躯は牛車に並ぶほどだし、眼も良い。そんな彼を跳び越えるということは、並外れた跳躍力と瞬発力が無ければ不可能な筈。
「あり得ぬ!」
しかし、憤怒の表情で再び伸ばした手は同じように空を切る。そして、少年は音も無く五条橋の擬宝珠に降り立った。そこに居る以上、彼が信じたくなくとも事実は事実と認めるしかなかった。
「あり得ぬ・・・・・・」
今度は呆然と、そう呟いた弁慶だったが、そうしていたのも一瞬だ。アレが何だとしても、刀を持ったままうまうまと逃げられては沽券に関わる。
「ま、待てい!」
「・・・本当に待つとはな」
数秒後、駆け付けた弁慶の前には先程と同じ擬宝珠の上に立つ少年が居た。少年の脚力ならば、彼が付く前に逃げ出せただろうに。そう思うと、ギリギリと奥歯が擦れる程に怒りが燃え立つ。
「待てと言われたからな」
「言ったがな、確かに。だが、兄上の元へと行くのではないのか?」
「行くさ。しかし、人の言を見捨てては兄上に嫌われるかもしれぬ。だから、待った」
それは言外に「いつでも逃げられる」と言っているようなものだ。
「で・・・今度は捕まえられるか、この私を」
「捕まえるさ。但し・・・海尊!」
彼が叫ぶと同時に、ブンと風切り音を響かせて飛び来る薙刀が1振り。それを難なく掴んだ弁慶はブルンブルンと振るって見せる。その速さと衝撃に、ガタのきた橋はギシギシと大きく軋んだ。
「今度はこれ込みよ。骨の二、三本は覚悟してもらう」
「良いだろう。これも、お山の修行の続きだ」
「抜かせ!」
明らかに殺す勢いで見舞った一撃。しかし、少年は先と同じうようにピョンと跳び違う擬宝珠の上に降り立つ。
「そらそら、こっちこっち」
その揶揄うような仕草と言動は兄上とやらに嫌われないのか。そんなことを考えつつ弁慶は2度3度と薙刀を振るうが、結果は同じだった。
「はあ・・・はあ・・・猪口才奴」
「どうした、終わりか?」
「終わ・・・るかあ!」
轟、と山風の如き暴風が少年を襲う。危うく弾き飛ばされそうな圧に、初めて少年の顔に焦りの色が浮かぶ。なんとか、「ととと」と別の擬宝珠に着地した少年は、そこで信じられぬものを見た。
否、正確には『無かった』。さっきまで立っていた擬宝珠が、橋の欄干ごと。
「お、お前」
「ふう。なあに、気付いただけよ。跳び回られるのが気に障るなら、無くしてしまえば良い、とな」
そんな簡単な話ではない。いくらガタがきているとは言っても欄干の基礎を成す木材だ。それをまるで巻き藁のようにぶった切るなぞ、鬼の如き腕力、膂力、脚力が無ければ。
「はは、力づくか。らしいなあ」
そんなことを嘯きながらも、少年の首筋には冷たいものがツウと流れた。
「その態度・・・どこまで続くか見てやろう!」
そう言うが早いか、弁慶は再び薙刀を振るい始める。そして、その度に橋からは擬宝珠と欄干が消えていき、ボシャンボシャンと水を打つ音が引っ切り無しに夜の京へ響く。
そして、数分後には。
「ふう・・・ふう・・・。さて、どうする?」
橋の上は、綺麗さっぱりまっ平。
「そうだな。取り敢えず・・・私も抜くとしよう」
しかし、少年は表面上は平静のまま、その腰から初めて白刃を抜く。
「ふん。拙僧相手に手加減なぞしておるからだ」
それを手加減されていた、と感じた弁慶は苛立たし気にそう吐き捨てた。
「手加減なんてしてないさ。ただ・・・これが無いと止まってくれそうにないからな」
「笑止・・・」
相手は一人。跳び回る足場は無し。後ろに退いても意味は無し。後は最初の時のように跳び越えるくらいだが、同じ手が通用する程弁慶も甘くない。宙空で身動きできぬところをずんばらりがオチだ。
「千万!」
万力で振るわれた薙刀の切っ先、音の速さを越えたそれが少年の胴を捉えようとした、正にその時。
「よっと」
タッと、地面を蹴った。
カッと、下駄の歯が刃を打った。
「な!?」
そして、それにより沈み込んだ軌跡は、そのまま橋板へと噛みついたのだ。これには流石の弁慶も驚きの声を漏らすことしか出来ない。ただの棒でも、目の前を一瞬で通り過ぎるそれへ足を載せることなぞ出来はすまい。ましてや薙刀、命を刈り取らんとする玉散る刃だ。
しかし、されたのだからどうしようもない。怪力が仇となってか、その刃は深々と突き立てられ、そして。
「・・・うう」
呻き声を上げる弁慶の喉元へは、違う種類の白刃が突き付けられた。無論、少年の持つそれだ。
「さて、どうする。続けるか、それとも・・・」
その言葉の後を続けるように、刃は月光を反射し眩しいばかりに存在を主張する。あと一歩、指一本分でも刀身が前進すればそれは容易く弁慶の喉を貫くだろう。
「死ぬか?」
ギクリと、弁慶の背筋が強張る。それはその脅し文句に、では無い。彼とて山法師の端くれだった男だ、「殺すぞ」と言われたことは片手では数えられぬ。
(だが・・・違う)
目の前の少年がそう問うた時の、その瞳。血気も殺意も乗らぬ、ただ淡々と明日の天気でも話すかのような、何の興味も無いかのような空虚な瞳。
だが、だからと言って只の脅し文句では無い確信もある。若し弁慶が少しでも下手な動きをすれば、忽ちこの少年は白刃を突き立てるだろう。
何の感慨も無く。
「はあ・・・降参だ」
だから、弁慶は諦めた、抵抗を。只の戦狂いや武芸者ならば対抗する、出来る。しかし、この少年にはそれは出来ない、対抗できない、ただ単純に『勝てない』
「では?」
「ああ。これで良いか?」
弁慶は、パッと薙刀の柄から手を放す。梃子の原理で刃先は橋板を離れ、そのままガランと落着した。
「まあ、武具を以てしても勝てぬのであれば・・・・・・どうした?」
彼としては薙刀を離したことで降参が口だけで無い証の心算だった。
が、どうしたのだろう。少年はハッとしたかと思うとキョロキョロと慌てたように辺りを見回しだす。
「おい、どうし・・・うぉ!?」
少年の返答が来るより早く、ガランガランと橋は揺れ、ミシミシ、ミシミシと至る所から軋み音が雨季の蛙のように囀る。
「う、おおおおおぉ!?」
そして、弁慶は空へと浮いた。天地が裂ける程の轟音に包まれながら。
「うう・・・・・・痛たたた」
当然、人が空を飛べる道理は無い。浮いたと思った次の瞬間には、弁慶は橋だったものと一緒に地球へ帰らされた。つまりは、落ちた。
幸いにも橋の破片が緩衝材となったお陰で川底の石にぶつかることは無く、硬い水面に叩き付けられることも無く、無傷だ。無論衝撃はあったから意識は失ったが、起こった事象から考えれば奇跡の生還に等しい。
「うう、クラクラする。・・・そうだ、あ奴は」
「よくもやってくれたな」
弁慶がその存在を思い出したのとほぼ同時に、頭の上から声がかけられる。ハッとその方を見れば、辛うじて倒壊を免れた橋脚の天辺にその少年が座り込んでいた。
「いやいや、大したものだ。まさか橋自体を壊して逃れるなんて」
「いや!違・・・」
「それに!」
こちらの抗弁にまるで耳を貸す様子も無く、少年は跳び下りると弁慶の前へスタリと着地する。
「お前、面白い奴だな」
まるで猫のようにジロジロとこちらを睥睨する少年の視線に、訝しむように眉を顰めた弁慶だったが、
「青き瞳に、有髪は兎も角金色とは」
その言葉に、初めてそこで彼は頭巾が外れていたことに気が付いた。しかし、そんなことには気も留めずに少年はペタペタと弁慶の顔を触りまくる。
「うむ・・・うむ・・・良い面魂だ!良し、気に入った!」
「な、何が?」
「お前だ、山法師。お前私の配下に成れ!」
「何だと!?」
思わず、ガタリと上身を起こす。俺を!配下!コイツの!?
「私はこれより東へ下る。無論、私独りでも兄上のお役に立てるが、お前のような面白いのが居れば鬼に金棒だ」
鬼。その単語に思わず弁慶の口から言葉が漏れる。
「・・・鬼かもしれぬぞ、拙僧」
それは、今まで彼が心の奥に秘めていた引け目の一片。自分は人間で無し、あの師父も見放した鬼子という、疎外感。
しかし、
「そうか。それなら増々面白い」
そんなことは関係ない。弁慶を見つめる視線はそう語っていた。じわり、とこちらへ向かって手を差し伸べる少年の姿が滲んで見える。
「それに・・・おい、どうした?」
「何が・・・ん、涙か」
何故か、両眼から滂沱の如く・・・とは聊か大仰な表現だが、兎に角熱い液体が零れる。
否、『何故だか』は知っている筈だ、彼は。
「良いだろう」
だから、彼はその手を取ることなく立ち上がる。自分自身の力で。
「うん?」
そう、自分より年若く、未だ名前すら知らぬ存在だ。だが、そんなことはどうだって良い。
「良いだろう、と言った。付き従ってやろうではないか、お前に」
その答えに、初めはポカンとしていた少年だったが忽ち太陽のような笑顔で「そうか!」と弁慶の手を掴む。
「なら・・・おっと、人が集まり出したな」
少年の見る方へ弁慶も視線を移すと、流石の丑三つ時とは言え橋の倒壊した音は隠しきれないと見える。三々五々、野次馬が集まっており、検非違使や禿が来るのも時間の問題だろう。
「ここで捕まっては話にならぬ。行くぞ!」
その言葉が弁慶の耳に入るより早く、少年は動き出していた。川に浮かぶ破材を、先の擬宝珠の様にピョンピョンと対岸まで移り跳んで行く。
「おい!?・・・糞」
少しは此方の事も考えろと悪態を吐きつつ、弁慶はニョキリと首を出していた薙刀を乱暴に引っ掴む。横目で対岸を見ると慌てた顔の海尊が目に入ったので、仕草で「着いて来い」と命じると、後は一目散に出来たばかりの主君の後を追った。
「おい、待て!」
だが、今度は待ってくれないようだ。仕方なし、と弁慶は冷たい川へと身を転じ、その後を着ける。少年のような身軽さは彼には無いから、ざぶざぶと膝嵩まである流水を押し退けて、進む。
しかし、今の彼には水の冷たさも、川底の石の痛さも、押し留めようとする水の圧も、物の数では無い。
「だから、待てと!」
ただただ、追う。闇夜に浮かぶ若草色の背中を、彼を導くような光を、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと・・・・・・。
「・・・・・・あ」
夢を、見ていた。
「・・・・・・ああ、走馬灯、か」
どうやら、一瞬意識を失っていたらしい。軽く被りを振って前を見れば、そこには一面の赤、朱、アカばかり。しかし、それを齎す濁々と額から流れる己が流血を拭うことすら、今の弁慶には億劫だった。
「うおおおおおお、殺せー!」
何故なら、彼の目の前からは殺意を漲らせた雑兵の群れが、雲霞の如く押し寄せて来ていたからだ。
「むうん!」
だから、彼は血を拭うより、その大薙刀を振るう。その剛力に無思慮に近づいていた雑兵5.6人の首は忽ち胴と泣き別れ、更にもう1度2度と振るうと同じ光景が同じ数、続く。
「な、何だ此奴は!?どこが死にかけだ!?」
恐れをなした雑兵達は腰を引かせてバラバラと逃げ帰る。これで、今暫くの時間は稼げるだろう。
「主殿は・・・どうか」
今頃、彼の背後の館では主、九郎判官義経が自裁しているところだろう。
「嫌だ嫌だ」と、「戦場で死にたい」と駄々をこねた主を宥めすかして自裁するように説得したのは、弁慶である。いや、あれも今思えば弁慶たちの駄々でしかなかったか。
(それでも、主に西楚の覇王が如き最期は迎えて欲しくは無かったからな)
そう、あの麗しき主君が、手柄目当ての雑兵の手で無残にバラバラとされるような、そんな最期は。
「検非違使の真似事をしていた拙僧が、検非違使となった主に仕え、検非違使を守って死ぬ羽目になるとは・・・ごふ!?」
不敵に笑おうとして、喉の奥からこみ上げた一塊の血が口からあふれ出す。
体中の刀傷、巨躯へ縦横に刺さる矢傷、そして口腔より溢れる血反吐と、弁慶の体からは血の出ていない所の方が少ない程だ。
「む・・・むむむむ、む」
だが、倒れてはならぬ。普通ならばとうの昔に死に絶えていた筈の体、されど、その一念が弁慶を今世に押し留めていた。だが、それも限界は来る。
「む・・・む・・・」
爛々と光っていた眼光が、失せていく。足先から、どんどんと冷たく成っていく。だが、
(・・・まだだ!)
まだ、倒れてはならぬ。例え感覚が無くなろうが、例え、命が無くなろうが。
「いやはやまったく、最後まで面白い奴だ、お前は」
そして、視界がアカからクロへと変わる直前、彼の頭上からそんな声が響いた。
「恐悦・・・至極にて」
気がした。
遮那王の従者 駒井 ウヤマ @mitunari40
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