第4話 真相

 ユキが睦月にせっかく会うきっかけを作ったというのに、まさかその日、来なかったというのは、ユキにとっては、想定外のことだった。ユキは睦月とやっと連絡が取れて、会うきっかけを作ったのであって、来なかったからといって、森山に聞くことはできなかった。

 しかもその日が、睦月が交通事故に遭った日であるということは、ただの偶然であろうか。もし睦月が交通事故に遭うことがなければ、後二十分後くらいには、二人は出会っていたに違いない。

 偶然を装って会おうとしたユキにとって、必要な情報は、その道を通りかかることだけでよかった。知り合ってしまえば、少しずつ聞いていけばいい。しかし、あまり仲良くなりすぎて森山に知られてしまうのも困ったものだ。いずれは知られる前に自分から話そうと思っていたが、先に見つかってしまうと、すべてが狂ってしまう。それだけに、森山に話を聞くことはできなかった。

 森山の方も、睦月が交通事故に遭ったことをユキに話してはいけないと思っていた。

 記憶がなくなってしまったことで、ユキに合わせるタイミングを失ったと思った。ユキの中に睦月の記憶が移っているように感じたのは、最初、一瞬感じただけだが、次第にユキと一緒にいることで、一瞬感じたその時のことがよみがえってきて、確証もないのに、信じてしまった自分がいて、先に進むよりも、後戻りする方が難しくなってしまったことを感じた時、どちらにしても、

――交通事故に遭って、記憶を半分失った状態の睦月を、ユキに会わせるわけにはいかない――

 と、思うようになった。

 それまでなら、

――二人が会うことは、別に問題ではない――

 と感じていた。

 しかし、交通事故に遭ったからという風に考えると結果論のように聞こえるが、

――ひょっとして、自分の中で二人を会わせることに危険を感じていたのかも知れない――

 と思った。

 森山は、睦月のことを愛していたが、睦月の中にあった失われた方の記憶の中にこそ、睦月の魅力があったように感じていた。ただ、その魅力を感じさせたのは、最初に知り合った頃にだけであったが、印象が深かったことで、ずっと睦月の中にある感覚だと思っていた。

 まさか、それが交通事故に関係があるわけではなく、もっと以前からあったことではないかということを、まだ森山は気付かなかった。

 医者が半分の記憶を失っていると言ったことで、森山は自分が考えている欠落した記憶と、医者が話していた半分の失った記憶が同じものであるということを、誰が証明できるというのだろう。

 森山は、睦月の失った記憶というものを、勘違いしていた。そのことを知っている人は誰もいなかったはずなのに、そのことに気付いた人が一人だけいた。

 それが敦美だったのだ。

 敦美は、森山のことが気になっていたので、密かに調べてみた。そして、森山はなまじ自分とまったく関係ない人間ではなかったことを知るのだった。

――森山という人は、睦月さんが交通事故に遭って、私の病院に入院したことで初めて関わるようになったわけではないんだ――

 と思ったのだ。

 敦美は、ユキの姉だった。

 結婚して苗字が変わってしまっているので、森山には気付くはずもない。

「私には姉がいて、結婚している」

 という程度の話しか、敦美のことをユキから聞いていなかった森山だったが、ユキの中に姉に対して特別な思いが燻っているということは、何となく分かっていた。

――何か恨みのようなものを感じる――

 と、時々ユキを見ていて、怖くなることがあった。

「お姉ちゃんが早く結婚したのは、逃げたかったからなの」

 と、ユキが自分の姉の話になった時、そう言った。

「何から逃げたかったというの?」

「私から……」

 と言って、それ以上言葉を発することはなかった。

 森山も、それ以上この話題を続けることは困難であり、無意味であると悟ったので、他の話題に変えた。それ以降、二人の間で、姉の話題はタブーになった。元々姉の話題を出すことがなかったユキが姉のことを話してくれた、

――最初で最後の時――

 だったのだ。

 姉の名前は聞かなかった。それから、姉のことをしばらく忘れていた。思い出さないように無理にしていたのかも知れない。しかし、ある日、急に思い出すことがあった。それは、森山が死んだ妹の夢を見た時のことだった。

 久しく妹の夢を見ることはなかった。少なくとも、ユキと知り合ってから見たことはなかったはずである。夢というのは、いつ頃に見たものなのか、時間が経ってしまっては、意識していたとしても、後から考えると思い出すことはできない。

 何よりも比較対象がないからだ。

 中学生の頃なのか、小学生の頃なのか、考え方はまるで違ったはずなのに、その時に見た夢が鮮明であればあるほど、時期の錯誤に陥ってしまう。

 妹は、ユキに似ていた。最初、夢を見ているという感覚がなかったので、ユキだと思っていた。だが、その女の子は何も喋ろうとしない。目の前にいて、森山に微笑みかけているのに、目線が合っているわけではなかった。

「ユキ?」

 と、声を掛けるが、その目は違うところを見ていて、笑顔は今までに見たことのないほど輝いていた。

――こんな顔、初めて見るぞ――

 と感じ、自分の知らないユキがいることを感じると、急に嫉妬心が湧き上がってくるのを感じた。

――やっぱり、ユキではないのか?

 と感じると、それが夢の世界であることが分かった。

――夢なんだ――

 そう思うと、もう目の前にいる女性に声を掛けることはできなくなった。

 沈黙の時間が少し続いた。それがどれほどの時間だったのか、夢の中なので、想像もつかない。

 すると、今度は後ろから鋭い視線を感じた。

 振り返ろうとするが、首を回すことはできない。次第にその視線が怖くなったくる。だが、その視線に恐怖を感じているのは、本当は自分ではなかった。目の前にいる女性だったのだ。

 森山が恐怖を感じたのは、目の前の女性に表情がないと思っていたからで、確かに表情は微動だにしていないが、明らかに怯えている。

――そんな素振りも表情の変化もないのに、どうして分かるのか、それが恐ろしかった――

 と、感じた。

 本当に恐ろしいのは、誰かに見つめられていて、金縛りに遭っているのに、その人が恐怖心を表に出さないからだ。恐怖心というのは、その恐ろしさから解放されたと感じるからか、表に出すことがすべてだと思っていた。

 いや、思っていたわけではなく、本当はその時初めて感じたことだった。

 表に出すことをしないのか、それとも何かの力が働いて表に出すことができないのか、やはり、夢の中なので、夢を支配している自分が考えたことだけが真実で、

――それ以外は架空に作られた傀儡状態である――

 と言えなくもない。

 夢を覚えているということはほとんどない。しかも、覚えているとすれば怖い夢だけであった。しかし、この時の夢は不気味ではあったが、怖い夢ではなかった。では、何か記憶に残るようなことがあったのだろうか?

 そこまで考えてくると、思い出したことがあった。その夢の中に、実はもう一人いたのだ。

 夢を見ている自分。目の前にいる妹、そして、後ろから見ている視線。

 実は、もう一人の人の存在に気付いた時、なぜ、目の前の彼女が無表情に恐怖を感じていたのかが分かった気がした。

 それは、後ろから鋭い視線を浴びせていた人の視線の先は、自分の背中ではなく、自分の背中越しに見ている妹だったのだ。

 そして、自分が夢を忘れていないのは、やはり夢の中で恐怖を感じたから。

――夢の中に、確かにもう一人誰かいる――

 その人の視線を浴びていたのは、他ならぬ自分だったのだ。

 目の前の妹のように無表情だが、感情的には前に進むことも後ろに下がることもできない状態。金縛りの状態だった。

 その視線を辿ることができるのも、それが夢の世界である証拠だった。だが、この時の夢の世界は、決して自分に対して優位に動いているわけではない夢であった。

――夢というのは、潜在意識が見せるもの――

 という考えであるが、潜在意識が決して自分に優位に働くわけではないと思い知らされた時、その夢が怖い夢だと感じるのだろう。

 だから、森山の考える怖い夢の一番というのは、

――もう一人の自分が出てくる夢だ――

 と言えるのではないだろうか。

 しかも、同じ自分が出てくる夢といっても、度合いに違いがある。

 もう一人の自分が、夢を見ている自分を意識しているかしていないかで、恐怖の度合いは違ってくる。こちらを意識しているのであれば、さほど怖いとは感じない。しかし、意識していないと思うと、

――いつこちらに気付くのだろう?

 と感じることで、まるで針の筵に座らされているような恐ろしさを感じるのだった。

 夢から覚めた時感じたのは、その夢が中途半端だったことだ。

――夢が何かを訴えようとしているのなら、どこか中途半端な状態で目が覚めてしまったんだ――

 と感じた。

 しかし、ちょうどいいところで目が覚めたという、

――楽しい夢を見ていた――

 という状態ではなく、

――これ以上見てしまうと、後悔することになる――

 という思いを含んだ状態で、目を覚ましたということだった。

 その時に感じたのは、

――もう一人の自分を見なくてよかった――

 と感じたことだが、冷静になって考えると、もう一人の自分はどうやら、夢を見ていた自分を意識していたわけでも、自分の目の前にいた妹を意識していたわけでもない。こちらに痛いほどの視線を向けていた女性を意識していたのである。

 すぐに夢から目覚めたいと普通なら感じるような怖い夢だったはずなのに、すぐにそのことを思いつかなかったのは、自分の後ろからこちらに視線を向けていた人が誰なのか、すぐには想像もできなかったからだ。

 目が覚めてしまえば、どうでもいいこと思えるが、その時はゆっくりでもいいから、それが誰なのか、知りたいと思った。

 逆に言えば、

――ゆっくり考えさえすれば、それが誰なのか分かってくる――

 という自信の表れのようなものだ。

――目の前の女の子がユキだとすれば、後ろから見つめているのは、彼女の姉ではないだろうか?

 話の中に、少しだけ出てきた姉だったが、ユキが姉のことをその時一度きり話してくれただけで、それ以降まったく口にしなくなったのだが、普通であれば、別におかしなことではない。

――ユキの中に、姉へのわだかまりのようなものが存在する――

 という意識を持ったのは、ユキが何も言おうとしないのに、森山が自分の夢の中で見てしまったことからであった。

「お姉さんは、私から逃げるために早く結婚したの」

 ユキが言っていた。唐突にそんなことを言い出した。まるで独り言を言っているようだった。そばに森山がいるのにである。

 ユキはきっと自分が口走ったという意識はないのかも知れない。その時の印象が残っているから、夢の中のユキを、怖いと感じることができるようになったのかも知れない。

 その時、ユキのお姉さんを想像してみた。

 冷静沈着で、物動じしない。ただ、まわりのことに気を遣うことはない。それが家族であっても同じこと……。

 そこまで考えた時、フッと感じたのが、

――家族だからこそ、気を遣わないのかも知れない――

 遠慮しないというよりも、家族であろうと、他人と差別することなく、絶えず自分が中心だという考え方だ。

 どうして、分かるかといえば、

――それは、自分も同じだ――

 と思ったからだ。

 森山も、家族だからと言って、他人と差別することはない。絶えず自分中心だからだ。

 ユキの話を聞いていて、ユキの姉に、自分と同じものを感じていた。

 森山は、自分中心の考えを悪いことだとは思っていない。

――自分を犠牲にしてまで、人に尽くす――

 というのが美学のように言われているが、それがすべてではない。

 森山は、一つのことに対して得た結論が、他のことにまですべて影響してくるという考えは嫌いだった。それは人間同士の繋がりにも言えることで、

「一人の人に通用することが、他の人にも通用するとは限らない」

 と言っている人でも、ついつい、自分の型に嵌めようとしてしまうところがある。

 特に家族間では言えることではないだろうか。

 兄弟がいれば、

「上の子に通用することは、下の子にも通用する」

 と親は思っているだろう。

 確かに兄弟なら、似た性格であるかも知れないが、実際には正反対であったり、まったく違ったりする場合も少なくない。頭では分かっているのに、一度の成功に味をしめてしまうと、誤った道を選んでしまうことが往々にしてある。

 そもそも、最初の子供に対しても、成功したと断言できるのだろうか?

 結局は、自分の目から見た裁量でしか、物事を測れないのだ。

 ユキは、自分の姉とどのように接してきたのか分からないが、姉に対して、あまりいいイメージを持っていないことを知ってから、あんな夢を見てしまったのかも知れない。

 ユキの中にある記憶を垣間見た時、

――普段のユキではない意識が存在している――

 と最初に感じたのは、姉に対しての意識だったが、次第に、姉に対しての意識とは違う意識を感じるようになっていった。

 それが、睦月の中にあった記憶なのではないかと思ったのは、睦月が二十歳にこだわったからだった。

「私、二十歳になるまで結婚は考えていないの」

 と、言った時だった。

 だから、交通事故から目を覚ました睦月が、記憶を失っていることをいいことに、

「年が明けたら結婚の約束をしていた」

 と言ってみたのだ。

 二十歳にこだわっていたはずの睦月は、どこかに行ってしまっていた。

 ちょうど睦月が、交通事故に遭う少し前頃になってから、ユキがやたらと、

――大人のオンナ――

 に対して意識するようになっていた。

 それは、睦月が二十歳を意識している時に話をしていたのと同じ感覚で、ユキと話をしているのに、まるで目の前にいるのが、睦月のような錯覚に陥っていたのだ。

――あの時夢に見た、後ろから覗いていた女性を、ユキの姉だと思っていたけど、本当は睦月だったのかも知れない――

 夢で会った人が誰だったのか、夢を忘れてしまっていても、そのことだけは覚えていることが多かったにも関わらず、顔を見たのかどうかすら、覚えていない。後ろを振り向いたという意識はないのだから、顔を見たということはありえないのだろうが、

――本当は見ていたのに、見ていないと思いこんでいるだけなのかも知れない――

 と感じるのだった。

 森山はユキが、

「私は、まだまだ子供でいたい」

 と言っていたにも関わらず、途中から急に、大人のオンナを意識し始めた理由が分からなかった。ただ、

「お姉さんは、私から逃げるために結婚したくせに、結局、自分の運命からは逃れることはできないのよ」

 と、言っていたことが気になっていた。

 誰かを好きになるから結婚するというのなら分かるが、誰かから逃げるために結婚するというのは、森山には分からなかった。だが、森山は今睦月との結婚を考えている自分が、結婚の意義について確固たる理由を持っているようには思えない。

――ひょっとすると、私も何かから逃げるために結婚を思い立ったのかも知れない――

 森山はそう考えると、

――まさか、ユキから逃れようと思っているのではないか?

 少なくとも、ユキはそう思うかも知れない。

 ユキは森山が睦月との結婚を決意したという話を聞いた時、抗う様子は一切なかった。

「そうなんだ。お兄ちゃんも結婚しちゃうんだ」

 と、少し寂しそうではあったが、それも森山の想定内のことだったので、別に驚くことではなかった。

 ただ、気になるのは、

「お兄ちゃんは」

 と言ったわけではなく、

「お兄ちゃんも」

 という言葉を発したところだった。

――他に誰か、自分に関係のある人が結婚したということなのか?

 と、その時にそう思うべきだったが、その時は普通に聞き逃してしまった。それが、ユキの姉だということに気が付いたのは、ユキの口から、姉が結婚した理由について聞いた時だった。

 森山はユキのことを、妹以上でも妹以下でもないと思っている。

「女性として見たことがないのか?」

 と聞かれたとすれば、

「ない」

 と答えるだろう。

 理由は、

「妹以上でも妹以下でもないからだ」

 と、答えるに違いない。

 しかし、妹という言葉は、実に都合のいい言葉である。もし、相手を女性として見ていたとしても、そのことをまだ悟られたくないと思う時に使える。それは、言い訳ではなく、正当な理由に聞こえると森山は解釈していたが、それが、

――都合のいい言葉――

 という認識がないからだった。

――実際に妹として意識しているのだから、間違いではない――

 森山は、相手がユキだから、都合のいい言葉だという認識がないということに気付かなかった。もし、ユキ以外の女性、たとえば睦月から、

「お兄ちゃん」

 と言って慕われたとして、本当に妹のように思うことができただろうか。きっとできなかったような気がする。

 森山は妹としての定義を自分の中で考えていた。

――わがままを許せてこそ、妹として意識できる――

 この考えは、自分を十分に納得させられるものだった。睦月は時々わがままをいうが、

「分かった」

 と言って、睦月の言うことを聞いてあげることもあるが、きっぱりと否定することもある。

 だが、ユキはなぜか森山に対して、わがままを言ったことはなかった。もし、わがままを言われたならば、

「しょうがないな」

 と、言いながら頭を撫でて、聞いてあげるつもりだった。それこそが、

――ユキが自分の妹だというゆえんだ――

 と思っていたが、一度もユキが自分の望む「妹」としての反応をしてくれないことが大きな不満だった。

――ひょっとすると、睦月との結婚を考えたのは、ユキに本当の妹になってもらいたい――

 という意識があったからだろうか?

 もし、自分が結婚するとなると、ユキは今まで自分にしていた遠慮という壁を自分でぶち壊してくれると思ったのかも知れない。そういう意味で行くと、

――お兄ちゃんが結婚するのも、私から逃げるため――

 とユキが感じるかも知れないとも思った。

 もちろん、逃げるなどという感覚はない。自分の妹になってほしいだけなのだが、妹という意味をユキが違う意識で持っていたとすれば、ユキから見た森山の結婚というのは、

――自分から逃げることだ――

 という意識に結びついたとしても、それは無理もないことだろう。

 病室で入院していた睦月を見た時、

――睦月は記憶を失っているのではないか?

 と、医者に言われる前に気が付いた。

 だから、

「年が明けたら結婚しよう」

 と言ったと、睦月に告げた。

 本当は、

「二十歳になったら」

 だったはずなのに、咄嗟のウソは、睦月の記憶喪失を確かめる思いもあったのだ。

 森山はその時の睦月の態度を見て、戸惑ってしまった。

 もし、本当に記憶を失っているのであれば、いきなり知らない人から結婚の話をされて、ビックリするはずである。逆に記憶を失っていないのであれば、森山の言葉に疑念を感じ、それ以降の森山に対して、ずっと疑惑の目を向けるはずである。本当に結婚を考えている人が相手だけに中途半端な意識を持つことなどできないはずだからである。

 それなのに、睦月は森山の言葉を信じているようだった。少なくとも、森山に対して疑念を持っている様子はない。疑念を持つということは、それだけ相手を認識しているということでもあるだけに、森山の戸惑いは、無理のないことだった。

――どういうことなんだ?

 中途半端な気持ちでカマを掛けたわけではなかったが、この展開は想定外だった。それだけに、どう対処していいか分からない。その時の森山は、睦月に対して、相当大きな疑念を抱いたはずだ。しかし、そのことに対して、正面から向き合っているはずの睦月は分かっていないのか、森山を訝しいとは思っていないようだ。

 記憶を中途半端にだが、失っているとしても、森山に対しての意識は残っているはずだ。話をしていて、森山との思い出は、失ったであろう記憶の中にはなかった。話をしても通じている。ただ、思い出を語り合っていると言っても、そこに感動はない。時系列を通じて思い出されていくだけだった。

 睦月の中では、その時、自分のことだけで精一杯だったということに、森山は気付かなかった。そのことを気付いてあげられない時点で、本当に結婚を考えていたのかということに、疑念が生じるはずである。

 もし、睦月が交通事故に遭って、記憶の半分を失うという事態に陥らなくとも、この結婚は、

――結婚前に別れることになるだろう――

 ということを、分かっていたような気がした。

 だからと言って、ユキの元に戻ってきたわけではない。ユキが持っている姉へのわだかまり、それが森山を睦月との結婚を思い止まらせたのだとすれば、ユキは森山にとって、どんな存在だというのだろう。


 睦月の看護をしている看護婦の敦美、彼女はユキの姉であった。

 睦月の看護をするようになったのが本当に偶然なのかどうか、ハッキリ分からない。だが、偶然がこの世に点在しているのだとすれば、可能性の低いところでの偶然が、働いたのかも知れない。

 敦美は、睦月の中にユキを見た。

 ユキが自分を恨んでいるということをその時知った。

 敦美は、高校生の時、付き合っていた彼氏がいたのだが、相手は敦美の初めての相手だった。

 彼は敦美に対しては優しかったが、他の人に対して、異常なほど敵対心を抱いていた。つまり、自分が信じられる人以外は、まわりすべてが敵だったのだ。

 彼は、当時大学生、中学時代に担任の女教師から、溺愛されていた。担任の女教師が美少年趣味という異常性欲を持っていたことで、そのターゲットに選ばれたのが、彼だったのだ。

 だが、担任女教師は飽きっぽい性格で、散々彼を食い尽くした後に、アッサリと他の生徒に乗り換えた。彼女の被害者は、結構いたようで、そういう意味では、彼は可愛そうであった。

 色白の優男っぽい彼は、いかにも肉食女子には、格好のターゲットだった。それでも大学生になる頃には、たくましさが生まれていて、結構女の子からモテていた。

 しかし、彼は過去の経験から、

――女性に好かれるよりも、自分が蹂躙してみたい――

 と思うようになっていた。それだけ女教師から捨てられたことがトラウマとなっていたに違いない。

 そんな彼の本性を知る由もない敦美だったが、彼は敦美が従順なのをいいことに、好き放題していた。

 敦美と愛し合っているところを、わざと妹のユキに見せつけてみたり、敦美を使って、性欲のはけ口を思いのままにしていた時期があった。敦美は、まさか二人が愛し合っているところを妹に見られたなど知るはずもない。その光景を見せつけられたユキは、姉を信じられなくなり、相手がまだ小学生の自分に手を出すことに恐怖を抱きながら、抗うことができなかった自分に対しても、嫌悪を感じていた。ただの悪戯であっても、重大な犯罪であった。

 しかし、この嫌悪にしても、元々は姉が蒔いた種である。そのことを分かっているだけに、それでも相手を信じて付き添っている姉をバカだと思いながら、

――どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか――

 という理不尽さに黙って耐えていた。

 しかし、男は姉に飽きがきたようだ。しょせん、異常性欲だけの男なので、気持ちの話などできるはずもない。

 男としての本能だけで生きている男に、女の感情が伝わるわけもない。もし、話をしたとしても、

「お前だって、承知の上でのことだろう」

 と、言われるに決まっている。

 言われてしまえば、我に返って、こんな男に愛想を尽かすのだろうが、姉はそこまで勇気があるわけではない。

 結局姉はこの男との交際に、

――寂しい――

 という感情を解消したいがためだけに付き合っていたのだ。そういう意味では、お互いにどっちもどっちと言えるだろう。

 ただ、そんな関係に巻き込まれた方は溜まったものではない。姉に対してのトラウマから、憎しみが生まれても、それは当然のことではないだろうか。

 男はしばらくしてから、本当の性犯罪に手を染めることになり、警察に逮捕された。その時になって、やっと敦美も目を覚ましたのか。目が覚めてしまうと、元々勘の鋭い娘だっただけに、まわりが自分を見る目の恐ろしさを、初めて実感させられた。そして、その視線の一番強いのが自分の妹であることに気付くと、愕然となったのだ。

「どうしたの? ユキ」

 ユキは答えない。答えない代わりに浴びせる視線の鋭さは、さらに増していき、ついには、二人の間の溝は修復できないまでになっていった。

 敦美はそれから、ユキに対して何も言えなくなってしまった。ユキも敦美だけではなく、しばらくは、まわりの人と何も喋れなくなった。しかし、時間が経てば少しは和らいでくるもので、そんな頃に出会ったのが、森山だった。

 その頃のユキの気持ちを和らげるのは、兄のような存在だった。男に対して、免疫ができていなかったはずなので、森山に対しても最初は抵抗があった。しかし、今まで何度も見てきた夢に出てきたのは、

――いつも優しい兄――

 だったのだ。

 森山のように、妹を意識はしているが、実際に妹を想像でしか感じたことのない男性を、兄として慕いたいと思っていた。ユキは森山が想像していた妹そのものだったのだろう。森山も妹の夢を何度も見ていた。お互いに惹かれるものがあったに違いない。

「夢の中で会っていたのかも知れないね」

 という会話もあったのかも知れない。そう思うと、森山にとってもユキにとっても、お互いに抱いているトラウマを癒してくれるのは、ユキであり、森山だったのだ。

 ユキが今までにどんな酷い目に遭ってきたのか、森山は知らなかった。

――どこかにトラウマがある――

 と思ってみても、まさか、男が関わっているなどとは想像もできなかった。

 ただ、森山に対して兄と慕うその思いの強さに、どこか無理が入っているような感覚を覚えたのも事実だった。

――大丈夫なんだろうか?

 と自問自答をしてみたが、何が大丈夫だというのだろう?

 ユキに対して、大丈夫なのかと言いたいのか、それとも、ユキを相手にする自分が、大丈夫だというのか、考え方ひとつで、変わってくる。

 睦月と知り合うまでは、いつもユキと一緒にいる時、

――大丈夫だろうか?

 と考えていたが。睦月と一緒にいると、不思議と、何が大丈夫なのかなどどうでもよくなり、気にする必要などないように思えてくるから不思議だった。

 睦月と知り合って、今さらながらユキのことが、

――俺にとっての妹なんだ――

 と感じるようになった。

 ユキを妹として感じ続けることは、ユキをトラウマから救ってあげることが永遠にできないことを意味していた。そのことを森山が知ったのは、睦月が交通事故に遭ってから、記憶を半分失っていると知った時だった。

 森山は最初から分かっていた。

 睦月が交通事故に遭った時、ユキが睦月に会おうと画策していたことも、知っていた。知っていて知らないふりをしていたのは、睦月の記憶が半分なくなっているのを知ってからだった。

 睦月の記憶がなくなっていることも、医者から聞く前に分かっていた。森山は、睦月が交通事故に遭ったその時から、それまで鈍感だと言われていた部分がどうなってしまったのか、予知できるようにまでなっていた。

 睦月の交通事故に遭ったという事態は、睦月だけでなく、そのまわりの人にも影響を与えた。それぞれの意識や記憶がスクランブルを起こすことによって、感情がリセットされたのかも知れない。

 睦月は、森山との結婚を思い止まった。森山が結婚を白紙に戻したいと言ってきたからだ。森山の意識の中にユキがいた。自分が好きになった部分の睦月の意識をその中に発見した。

――元々はユキの中にあった記憶があるきっかけで睦月に移り、今回の交通事故で、またユキの中に戻ってきたのかも知れない――

 とまで感じた。

 途中から、発想が一人歩きしている気がしてきたが、それだけユキにも、消し去ってしまいたいほどの記憶が心の中にあったのだろう。

 本当に消し去りたい記憶を他の人に移すことはできない。しかし、記憶の一部を他の人に移すことで、辛い記憶を意識しないで済むところに格納することができる。ただ、その記憶を移す相手がどうして睦月だったのか、そのキーワードはどこにあったのか、分からない。

 睦月とユキを結びつけるキーを持っているのは、森山だけのはずだ。

 ということは、森山が睦月と出会ったというのは、偶然ではないということであろうか?

 森山が睦月と出会ったのは、ユキに怖さを感じた時だった。それまで自分を慕ってくれていたユキが、森山のことを初めて、男として意識した時だったことを、森山は理解していた。

 男として意識するのは、森山にとって嬉しいことであったが、ユキの見つめる視線が自分を通り越して、さらに向こうを見ていた。男を意識したために、森山の向こうにある何かを見てしまったのだ。その時に敦美に対しての恨みと、男に対しての嫌悪が一緒になり、癒しを求めていたはずの森山を敵対する視線を送ってしまった。

 その時、森山が出会ったのが、睦月だった。

 睦月は、心の中に余裕を持っていた。何も考えない部分を持っていたと言ってもいい。森山が睦月に惹かれていくのをユキは感じていた。このままでは自分の居場所が森山の中から消えてしまうことを危惧したユキは、自分の記憶の消し去りたい部分の一部を、睦月に移すことで、自分の存在を森山から離さないようにしたのだ。

 ユキが意識的にしたわけではなく、ユキの中にある潜在意識が他の人よりも優れていることで、睦月の気持ちに入り込むことはできないまでも、自分の意志を、

――預けておく――

 ということができたのだ。

 敦美がユキから逃れようとして結婚を考えたのも、ユキの考えに基ずくものだった。

 まわりはユキを中心に回っていた。言葉を変えると、ユキを中心に回っている世界に森山はいたのである。

 それまでは、自分中心に回っている世界にいたはずだった。一瞬にして、中心が変わってしまう世界に入りこんでしまうのは、自分の中で、

――まわりから自分を見つめよう――

 という意志が働いたからだ。

 森山のように自分中心の中で生きてきた人間には、理解できないものだ。そのために、世界が変わったことを意識させることがないようにする必要がある。それが、ユキの意識を睦月の中に入れてしまうということだった。

 だが、睦月の中にある元々のユキの記憶を元に戻してしまうと、今度は睦月の中で、

――森山のことは覚えているが、それまで森山に感じていた恋愛感情は失せてしまいそうだ――

 という感覚は、

「あなたは記憶を半分失ってしまった」

 と言われたことで、納得できるものになる。

 後は、森山自身が、ユキに対しての気持ちを元に戻すことができれば、いいだけだった。ユキは森山相手であれば、男としての免疫を持つことができる。そして、

――自分が愛するのは森山しかいない――

 と感じるに至る。

 ユキは睦月の中から自分の記憶を取り戻す時、一緒に看護してくれた敦美の記憶まで一緒に取りこんでしまった。

 それが姉のものだと最初は思わなかったが、姉の記憶の中に、本人も意識していなかった、

――妹への懺悔の気持ち――

 が伝わってくるのを感じ、それが姉の敦美であることを知る。

――私は何にわだかまりを持っていたのかしら?

 と感じるようになった。

 それは、すでにユキの中で無意識であっても、姉を許すという気持ちを持ちあわせていないとできないことだ。

 ユキは、森山と結婚することを決意し、二人の愛の物語はここから始まることになった。

 しかし、森山とユキは睦月に対して共通の十字架を背負うことになった。それは睦月から戻された記憶の中に存在する。

――これって、姉が私に対して感じていた気持ちと同じようなものなのかしら?

 ユキは、

「因果は巡ってくるものなんだわ」

 と感じ、その時森山自身も、自分の中の懺悔を思い出していた。

 それはユキと知り合った時、ユキを最初から妹として見ていたわけではない。ユキに対して少女を見たことで、いかがわしい気持ちになってしまっていた。

――死んだ妹が、ユキに会わせてくれたんだ――

 と思うことで、何とか思いとどまったというのが真相であるが、もちろん、こんな気持ちは誰にも言わず、墓場まで持っていくべきものである。

 だが、今の森山の中にその意識はない。一体、どこの誰の中に、森山のいかがわしい意識を、記憶として格納させたのであろうか?

 その記憶がまた因果として巡ってきた時、森山は自分の結婚が、

――何かから逃げているのではないか?

 と感じることになるであろうことをユキだけが知っていたのだった……。


                 (  完  )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶の十字架 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ