第3話 もう一人の自分
ユキは森山が、自分の中に死んでしまった妹を見ていることを分かっていた。
森山の記憶が半分ないことを知った時、森山に話を聞いて、妹のことを初めて教えてもらった。森山本人は、
「妹のことはほとんど知らないし、意識もしていない」
と言っていたが、森山自身がそう感じるのは無理のないことだが、ユキが森山を見る限り、妹のことを忘れられるわけはないと感じた。
――無理にでも忘れようとしているのか、それとも、森山さん自身、意識していないように感じながら、心の奥で意識しているのかも知れない――
と感じた。
ユキが森山のことを、
「お兄ちゃん」
と呼び始めたのはそれからで、もし、森山が嫌がる素振りを見せれば、呼び方を変えるつもりだった。
――舌打ちでもされたら、どうしよう――
という思いはあったが、勇気を出してお兄ちゃんと呼びかければ、森山もまんざらでもないような表情になった。ユキが考えているより、森山は冷静なのかも知れないと思うと、自分の取り越し苦労なのではないかと、ユキは感じていた。
ユキにとって、森山はやはり「お兄ちゃん」であった。男性として見ることもできなくはないが、男性として見てしまうと、
――お兄ちゃんでいてほしい――
という気持ちと共有できないと思っていることから、天秤に掛けると、「お兄ちゃん」の方が重いのだった。
異性としてのイメージと「お兄ちゃん」のイメージが共有できないわけではないとユキは思っていたが、森山に関してだけは、共有できないとしか思えない。ユキにとって、本当のお兄ちゃん以外の何物でもないと思っているからだろう。
ユキは、三人姉妹の次女であった。五つ上のお姉ちゃんはすでに結婚して家庭を作っていた。お姉ちゃんがユキくらいの年齢の時、すでにお姉ちゃんは今の旦那さんと付き合っていて、その頃から結婚をすでに意識していたようだ。お姉ちゃんは、短大を卒業し、一年ほどOLを勤めて、その後、すぐに結婚した。ユキから見ても、「理想の結婚のパターン」に思えたのだった。
ユキは去年二十歳になったが、今年二十歳を迎えるのは、妹の方だった。つまり、妹は睦月と同い年だった。
ユキは睦月のことをほとんど知らない。森山が結婚を考えている相手だということは分かっているが、そんな相手を知るには勇気が必要だった。今のユキにはそこまでの勇気は存在しなかった。その分、自分の妹を見て、睦月を想像してみたりした。
ユキの家の三姉妹は、
「美人三姉妹」
として、近所でも有名だった。
他の二人はどのように思っていたか分からないが、ユキはまんざらでもなかった。もっとも一番の美人として評されていたのは長女で、結婚が決まった時も、
「やっぱり、早かったわね」
と、言われていた。
近所の噂としては、
「あれくらいの美人になると結婚は、早めか、そうでなければ、適齢期を過ぎた後になって忘れた頃になるかのどっちかでしょうね」
と言われていた。
適齢期には、あまり美人な人は、避けられる傾向にあるんじゃないかというのが、近所の奥さんたちの見解で、ユキから言わせれば、
「多分に嫉妬も入っているんでしょうね」
と感じていた。
住宅街の奥さん連中の噂話など、本人たちだけなら、罪もないと思っているかも知れないが、結構な毒を吐いている。自分たちのことしか考えていない証拠なのだろうが、まわりのことに対しては、実に無責任なものである。
三姉妹の中で、一番噂が少なかったのはユキだった。妹は性格的にも甘えん坊で、さらに寂しがり屋。そんな性格は、結構男子には人気があるようで、妹には絶えず彼氏がそばにいた。しかも、気が付いた時にはいつも相手が変わっていて、どちらが悪いのか分からないが、いい意味でも悪い意味でも、いつも噂のネタにされるのが妹だったのだ。
そんな二人に挟まれて、ユキは大人しくしていた。せっかく美人三姉妹と言われている中で、注目されるだけに変な噂を立てられるのが嫌だったのだ。特に年齢の近い妹と、比較されたり、下手をすれば、
「どっちがどっちか分からない」
と、言われかねないと思ったのだ。
実際に、ユキと妹は顔も雰囲気も似ていた。年齢も近く、年の離れた姉を中心に見てしまうと、後の二人は、本当に見分けが付きにくいのかも知れない。
妹の方は、あまり気にしている素振りは見せないが、ユキの方は、妹と比較されるのはあまり嬉しいことではないと思っていた。特にいつも彼氏が違っていることには、嫌悪感を感じており、
――同類と見られるなんて、勘弁してよね――
と思っていたのも事実である。
姉に対しても、年が離れていることで、どうにも近づきにくいところがあった。慕いたい気持ちもあるが、年齢が離れていること、そして、
――姉ほど、三人の中で一人が似合う人もいない――
と思っているほど、近づきにくい雰囲気を持っているのだった。
ユキが三人の中で、表向きには一番変わっていないように見えていたが、本当は一番変わっていたのかも知れない。そのことを、姉だけが知っていたようだ。
姉は、密かにユキのことを心配していた。見た目からは一番フラフラしていて危なさそうに見えるのは一番下の妹のはずなのに、
「私はあなたのことが一番心配なのよ」
と言われたことがあった。
「お姉ちゃんに心配してもらう必要なんかないわよ」
と、意地を張ってそう答えたが、姉が自分のどこを見てそんなに心配をしているのか分からないところが、ユキには気持ち悪かった。
事あるごとに、姉には反発してきたユキだったが、それは、
――偉大な姉に対しての細やかな抵抗――
とでもいうのか、
――姉にはどうしても逆らえない――
という気持ちが強く、ある意味トラウマのようになっていたのかも知れない。
だが、ユキは姉に対して、秘密を握っていた。
ユキが小学生の頃、高校生になっていた姉が、自分の部屋に男を連れ込んだことがあった。それまで彼氏などいないとまわりから思われていたはずなのに、その日、両親はもちろん、ユキも妹もちょうど友達のところに行っていて、帰りが遅くなることが分かっていた時だった。
ユキは、ちょうど友達のところに行っていたが、急に友達が家族と出かける用事ができたとかで、仕方なく家に予定よりもかなり早く帰ってきた。その時にユキは、
――見てはいけないものを見てしまった――
と感じた。
もちろん、小学生のユキに、姉が男を連れ込んで何をしていたのか分からなかった。しかし、家族がいないことをいいことに、彼氏がいないと思われていた姉が、男を連れ込んだのだ。しかも、こっそり覗いてみると、、普段見せたことのないような、甘えた表情をその男性に向けていたのだ。
その男を帰り際にチラッと見たが、どうにも好きになれないタイプの男で、
――どうしてこんな男に――
と思ったユキだった。
そろそろ異性を意識し始めるくらいになっていたユキにとって、姉の行動と、姉のその時の顔、さらには、相手の男の不気味なほどに厭らしい表情。どれを取っても、トラウマになりかねなかった。
姉も男も、まさかユキが見ていたなど知らなかっただろう。その時姉は、男と一緒に家を留守にしたからだ。半時ほどして帰ってきたが、その時はすでにいつもの姉に表情が変わっていた。
そのことも、ユキには不思議だった。
――そんなに簡単に表情を変えられるものなのか?
と感じたからだった。
ただ、姉の秘密を知ったと言っても、すぐにユキの中で過去にことになっていた。別に誰にも話すつもりもなかったし、姉に対し優位に立とうなどと思ったわけでもない。しかし、姉から、
「あなたが一番心配」
と言われ、小学生の時に目撃した時の気持ちが少しよみがえってきた。
――ひょっとして、姉に対して、もっと忘れていることがあるのかも知れないわ――
と思った。
その時、一緒に感じたのが、
――自分の中に、自分ではない記憶が同居している――
ということだった。
忘れていたことを思い出すということは、あまり今まで考えていなかった自分の深層心理や潜在意識について考えるということであり、その時に、意識していなかった記憶について、意識してしまったからだろう。
姉の秘密を忘れようとしていたことを、今まで意識もしていなかったが、それは記憶を呼び起こすことをしなかったことに繋がってくるのだ。
――違う人の記憶があるから、姉のことを忘れようと思ったのか、姉のことを忘れようと思ったから、違う人の記憶を意識することがなかったのか分からないが、この二つは、密接に繋がっているのかも知れないわ――
と思うようになっていた。
三姉妹の真ん中というのは、ある意味、いろいろなことを考えるものだ。ただ、年上の人を見上げるというのは、同じ年齢差の年下を見下げるのに比べると、結構遠く感じるものだ。未知の世界である未来と、歩んできた過去を見た時、どちらが遠く感じるかということを考えれば、おのずと見えてくるものだ。そういう意味で姉との年齢が離れすぎていると、雲の上の存在のようで、意識するのは姉よりも妹の方だった。
ただ、妹は自分とは正反対の性格であり、比較するのも難しいと思えてくると、次第にいろいろ考えることがナンセンスに感じられるようになってきた。高校生の頃から自分を孤独だと思い始めたが、それは姉妹に対して、自分の後ろに下がった感覚が芽生えてきたからだ。
――森山さんと一緒にいると、孤独を忘れられる――
という思いがあったが、それよりも余計に姉妹たちと一線を画すことになれたことの方が嬉しかった。
――私はお姉ちゃんとも、妹とも違うんだ――
と感じることが、実は自分から意識しているということに繋がっているのだが、それでも構わないと思うようになっていた。
ユキは、自分のことを二重人格だと思ったことはなかった。どちらかというと、二重人格というのなら、姉の方が二重人格っぽい気がしてきていた。
そう思った理由は、
――お姉ちゃんの表情で、何を考えているか分からないけれど、表情を一つしか感じない――
というところから来ていた。
裏を返せば、自分でも二重人格を自覚しているという気持ちの表れが、人に悟らせないようにするための作為が感じられると言えるのではないだろうか。
姉の表情を見ていて、
――彼女は二重人格だ――
などと思う人は稀ではないだろうか。
もし分かるとすれば、それはいつも姉を見ている人か、あるいは、姉に対して反発心を抱いていて、その意識から見た角度で、違う人が写って見えるのかも知れない。両極端な性格の人でなければ、姉を看破することはできないだろう。
ユキはどちらかというと、後者であろう。反発心よりもさらに強い、敵意とまではいかないほどの感情が、ユキの目には浮かんでいることだろう。
そんな姉を見ているせいか、それとも姉妹というのはそういうものなのか、こともあろうにある日、森山から、
「君は、お姉さんに似たところがあるよね」
と言われたことがあった。
他の人からであれば、軽く受け流すこともできたが、信頼を置いている森山にそう言われると、ショック以外の何物でもない。
本当であれば、そこまで自分のことをよく観察してくれていると喜ぶべきところなのだろうが、反発心しか持っていない姉に似ているなど、否定する以外に、どうすればいいというのだろう。
「そ、そんな似てなんかいないわよ」
と、焦りながら、必死に否定する。
「何をそんなにうろたえているんだい?」
焦りは感じていたが、うろたえているつもりなど微塵もなかったのに、どうしてそんな言われ方をしなければいけないのか、自分が情けなくなった。
しかも、それを言ったのが森山だということで、言葉自体に対してよりも、
――森山さんに言われた――
という方がかなりのショックであった。
森山に対して、
――この人はやっぱり他人でしかないんだわ――
と、感じたのが後にも先にもその時だけだった。
そう感じさせた相手が姉という肉親だということも皮肉なことであった。ユキはそんな森山に対して、
――私はこの人には敵わない――
という別の感情も浮かんできた。彼を他人として意識したことで派生した考えだったのだが、森山への信頼感が薄れたわけではない。
――しょせん、この人の手の平の上で踊らされているだけなのかも知れない――
と感じたのは、すべてを分かっていて、自分が承服できないことも百も承知で言ったのだろうと思ったことだ。まわりから、森山が、
「鈍感な人だ」
と言われているのは知っていた。しかし、それは自分に限ってはありえないことだった。それだけユキは、全幅の信頼を置いていた。ただ、この思いが、自分の本当の性格から来ているものではないということに気付いたのは、森山が睦月と付き合っているということを知ってからのことだった。
最初は睦月のことを何もユキには言わなかった。ユキがショックを受けると思ったからだろうか?
いや、そうではない。時間が経てば経つほど言わなければ、傷が大きくなることは森山にも分かっていた。いう機会を逃してしまったというのも理由の一つだったが、
――ユキに話すと会わなければいけなくなるだろう。だが、それは何か怖い気がして仕方がない――
というのが、森山の本音だった。
森山は、睦月と知り合って初めて、
――ユキの中に誰かいるような気がしていたけど、それが睦月のような気がして仕方がない――
と思うようになった。その時点では、まだ睦月とユキが会うことに対して、それほど怖いとは思っていなかった。本当に怖いと思ったのは、睦月が交通事故に遭って、記憶が半分消えたというのを聞かされた時だった。
ユキは、森山の勧めで、睦月に会うことにした。
森山立ち合いの席で、二人が会うのが本当なのだろうが、ユキはそれがちょっと怖かった。
ユキは睦月の行動パターンを森山の知らない間に調べた。そしてそれ以前に、
「睦月さんは、私のことを知っているの?」
と、森山に聞いた時、
「うん、妹のように可愛がっている女の子がいるって話したことがあるよ」
と、言ったことで、睦月が森山の口から自分の存在を知った。そして、森山を介さずに先に二人だけで会うという計画を画策するに至ったのだ。
――偶然を装って、二人だけで会う――
という計画を考えたのが、何と睦月が交通事故に遭った日のことだった。
普段であれば、通りかかる場所に、いつまで経っても睦月が現れないので、
――今日は、予定ができたのかしら?
と思って、せっかく自分の気持ちを盛り上げてきたのに、肩透かしを食らわせた形になったことに苛立ちを覚えた。約束をしていたわけではなく、まるでストーカーのような行動を取っていた自分への報いだと思うと、それも仕方がないと思ったが、まさか交通事故に遭っていたなど思いもしなかったので、その日、交通事故に睦月が遭遇したという事実を森山から聞かされた時、まずショックを受けた。
さらに追い打ちを掛けたのが、記憶を半分失ったということであり、これは、ユキが自分を責めるに十分な効果があった。
――こんなこと考えなければよかった――
と、普段あまりしない後悔を、その時、嫌というほど味わったのだった。
自分を責め始めると、底がないということにユキは初めて気が付いた。逆にいえば、今までに一度も自分を責めたことがなかった。そんな自分が今では不思議だった。
――私も二重人格?
姉や妹を見ていて、二重人格だと感じていたが、本当は自分もだったなどというオチをユキは感じていた。
――自分も誰かから見れば、お姉ちゃんのように、無表情の中に、一つの感情しか含まれていないように見えるのかしら?
と、感じたのだった。
病院で入院していた最初の頃、睦月の付き添い看護婦だった人がいる。
彼女は、睦月が記憶を失っているということを医者から聞かされて、不思議に思っていた。
「先生、あの河原睦月という患者さんなんですが、本当に記憶を失っているんですか?」
と医者に聞いてみると、
「どうして、疑問に思うんだい? 様子も普通ではないし、私が今まで診てきた記憶喪失の患者さんとパターンを比較しても、かなりの確率で記憶を失っていると思われる。それも半分くらいのね」
「すみません。私にはよく分からないんですが、どのあたりがそうなんですか?」
と聞くと、
「交通事故に遭って気を失っている彼女が目を覚ました時というのは、普通なら夢から覚めた時のような感覚があって、自分が見ていた夢を何とか思い出そうとするものなんだよ。本当なら、まだ夢の世界を彷徨っているような気になるはずなのに、彼女の目はしっかりしていた。つまり、彼女は気を失っている間に過去のことが走馬灯のように巡ったはずなんだ。それを意識していないということは、その部分が起きた瞬間に記憶から失われたんじゃないかって思ったんだ」
主治医の先生は、臨床心理学の学者としても、かなりの権威であることは知っていたので、
――先生のいうことなら、間違いはない――
と思えた。
それなりに話の内容に説得力もあり、納得するには十分なのだが、睦月の顔を見ていると、納得できない部分がどこかにあるような気がして仕方がない。
「私は、どうしてもあの河原睦月さんという患者さんを見ていると、先生の話をすべて理解できる気がしないんですよ。あの人が特別なのか、私が特別なのか、自分でもよく分からないんですよ」
というと、先生は笑いながら、
「じゃあ、君たち二人とも、特別なんじゃないかい?」
とアッサリ言われてしまうと、
「先生、酷いですよ。私は真剣に考えているんですから」
「いや、ごめんごめん。でも、君がそう思うということは、君自身も、自分が特別なんじゃないかって自覚しているからなんじゃないかって思ってね。そうじゃないと、そんな疑問は浮かんでこない気がするんだよ」
「そうですね。私も自分を特別だって見る必要があるのかも知れません」
「でも、それは君は絶えず考えている必要はないんだ。普段は普通だと思っていていいと思う。ただ、彼女の前に出た時だけ、彼女を特別だと思うのなら、自分を特別だという目を持って見てみるのも必要だという意味だよ」
「分かりました。そう言ってもらうと先生の話も理解できます」
「私も、少し君たち二人の様子を見てみるようにしよう」
「ありがとうございます。でも、先生はどうして、睦月さんにハッキリと記憶を半分失くしているって言ったんですか?」
「そこは確かに難しい問題だと思う。結論から言うと、言う言わないは、主治医の判断だと思うんだ。『こんな時は言ってはいけない』なんてマニュアルがあるわけではないからね。僕は、彼女には言うべきだと思った。それだけのことさ」
最後のセリフを簡単に言いきったが、その言葉に重みがあることを彼女は分かったつもりだった。
彼女は、睦月に対して、なるべく特別な態度を取ろうとはしなかったが、睦月の方から結構話しかけてくることが多かった。睦月のところに時々やってくる森山という男性も、睦月の記憶が失われているという話を聞いて、信じているようだ。
――ここで疑問を抱いているのは、私だけなのかも知れないわね。でもどうして私はそんなに疑問を抱くのかしら?
確かに、記憶を半分失っているということが事実であるという方が不自然な気はするが、これだけまわりの人が信じていると、そっちの方が真実のように思えてくるから不思議だった。
看護婦は今年二十五歳になる人で、結婚しているという話を聞いた。
名前は、吉谷敦美という。名札に書いてある名前を見ればすぐに分かった。
――敦美さんは、どうやら、私の記憶が半分失われているということを信じていないようだわ――
と、睦月は感じていた。
本当は、敦美は信じていないわけではなく、
――記憶を失っているということに疑問を抱いている――
というのが正解だった。
「どこが違う?」
と言われるかも知れないが、まったく違っている。
疑いを持っているというのは、一旦は信じてみようと思ったが、どうしても納得できないところがあり、そこに疑念が残ったということであり、信じていないというのは、文字通り、最初から信じていないということである。一度は信じてみようと思ったわけなので、少しは信じているのだろうが、その思いが却って、自分を追い込むことに得てしてなるもので、最初から信じていないのなら巻き込まれることもないことに、なまじ一度信じてしまったために、巻き込まれてしまうことにもなりかねない。ここでの睦月の思いと敦美の思いの違いがどのように作用していくか、興味深いところであった。
睦月は、森山のことを慕っている気持ちは変わっていないつもりだったが、自分の記憶が失われたということが、今後どのように影響してくるか、少し不安だった。その思いを本当は看護婦にいろいろ聞いてみたいと思っていたが、彼女を見ていると、どうやら、自分が信じようと思っていることを信じていないように見える。
それは、さらに睦月を不安にさせた。なるべく話をしないようにした方がいいのかと思いながら、自然と敦美のことを避けている自分を感じたのだ。
睦月のそんな思いを知ってか知らずか、敦美の方も睦月に必要以上に話しかけてこない。そのうちに、睦月は自分の失った記憶を思い出すことはできるのかどうか、気になっていった。
思い切って、先生に相談してみた。
「私の記憶が戻るということってあるんですか?」
「そうですね、十分にあると思います。ただ、一つ言えることは、私があなたの失った記憶がどのようなものなのかを知らないということですね」
「とおっしゃるのは?」
「私はあなたが記憶を失っていると思ったのは、あなたの脳波を検査した結果からと、臨床心理の検知から、あなたの身に起こった現象と、それに伴うパターンから考えて、『限りなく記憶を失っているに近い』と判断したからです。つまりは確証となったのは、あなたを客観的に見てのことですね」
と言われると、睦月は黙りこんでしまった。
「どうして、それを私に最初に話したんですか?」
「私の考えが当たっているかどうか、あなたの反応で判断させていただきました。あなたはその時、信じられないという表情を表に出しませんでした。それを見て、あなたの記憶は本当に失われているということが確信となったんです」
「でも、私はあの時、疑問を抱いていましたよ?」
「そうでしょうね。でも、それをあなたは表に出さなかった。表に出す余裕がなかったんでしょうね。つまりは、自分でも記憶を失っているという意識が潜在意識としてあるわけですよ。でも、それを認めたくない自分がいる。自分の中で葛藤を繰り返しているのに、それを表に出す余裕なんて、ないのは当たり前ですよね」
医者の話を聞いていると、引きこまれそうになっている自分を感じた。
まさしくその通りだった。確かにあの時、潜在意識のようなものを感じたのは事実だし、後から思えば、葛藤を繰り返していた。だからこそ、記憶を失っているということを聞かされても、信じてしまったのも頷ける。
しかし、睦月の中では、記憶を思い出したい気持ちと、思い出してはいけないという気持ちが半々だった。
思い出したいという気持ちがある時に、まわりで信じていない人がいれば、せっかく盛り上がった気持ちに水を差すことになる。だから、看護婦の敦美が、
――睦月の記憶喪失を信じていない――
という思いは、邪魔なもの以外の何物でもなかったのだ。
しかし、思い出したくないという思いも半分あった。その思いを、医者と話をした時に、医者の口から聞かされた時、目からうろこが落ちたような気がしたのだ。
「あなたが記憶を失ったことに対して、いくつかのことが考えられます。もちろん、交通事故の後遺症というのも一つでしょうが、私はそれだけではないのではないかと思うんですよ。正直あなたのケガの度合いから、記憶を失うほどの大けがをしていたとは思えない。では、どうしてあなたが記憶を失ったのか? そう思うと出てきた結論は、『あなたは思い出したくない記憶を持っていて、交通事故に遭ったこの期に、忘れてしまいたい』という思いをあなたが抱いたことですね」
「私の中の何がそんな思いを抱かせたのでしょう?」
「それはあなたの中に、もう一人の自分がいるからなのではないでしょうか? 二重人格とまでは言いませんが、あなたには思い出したくない思いがあり、それを忘れてしまうきっかけを探していた」
「そんな自分がいるなんて」
「潜在意識と、あなたが思っている部分と、本当の潜在意識が違うのかも知れませんね。あなたは、自分の潜在意識を常に感じているでしょう?」
「ハッキリとした意識があったわけではないですが、確かにそうかも知れませんね」
「やはり、そうですね。普通、自分の潜在意識を絶えず持っている人というのは、そうはいませんよ」
医者の話を聞いていて、何となく分かったことがあった。
――私は、他の人とは違うところが結構あるんだ――
という思いであった。
言われてみれば、睦月は今までに他の人から偏見のような目で見られることが多かったような気がする。なるべく意識しないようにしてきたのと、そんな視線に慣れてしまったことで、今ではあまり意識することもなくなったが、睦月にとって、医者の話は、今までの自分が顧みなかったこと、そして、なるべく意識しないようにしてきたことを今さらのように思い知らされることになっていたのだ。
しかし、医者との面談は自分が希望したものだった。当然、自分にとって青天の霹靂となるような話をされるのも覚悟の上であったが、さすがに想像していたよりもズバリ指摘されると、臆してしまうのも当然と言えるかも知れない。
「潜在意識に対しては確かにいろいろ感じることは多いですね。でも、たまに疑問を感じることもありました。『本当に自分の意識なのかな?』ってですね」
すると、医者は少し興奮したかのように、
「そうでしょう? 私があなたの記憶が本当に失われたと頭の中で確定させたのが、あなたが潜在意識を意識する人だと思ったからなんです。でも、もしあなたが、潜在意識に対してまったく疑いを持っていないとは思っていませんでした。もし、普段から潜在意識に疑問を持つことがないのであれば、きっと今回の交通事故で、あなたは本当の記憶喪失になっていたと思うんですよ」
「それは、潜在意識のせい?」
「そうですね。あなたの感じている潜在意識が本当のあなたの潜在意識かどうか、疑問を感じるというのも、私には無理のないことだと思っています」
「結局、私は思い出したくないものを、失ってしまったということなんでしょうか?」
「それが、あなたの意志なのかどうか、そこが問題ですね。あなたの思っている潜在意識の悪戯なのか、それとも、あなたの意識していない本当の潜在意識によるものなのか、どちらかによって、変わってきます」
「もし、私の知っている潜在意識であれば?」
「その時は、あなたは記憶を呼び戻すことはできないと思います。でも、あなたにとってそれを感じることができる場所はあると思います。私もここはどう表現していいのか分からないけど、きっとあなたにもそのうちに分かってくることだと思います」
「じゃあ、もう一つの私が知らない本当の潜在意識であれば?」
「あなたの中に、記憶は残っていると思います。これは普通の記憶喪失と同じで、何かのきっかけで思い出すことになるでしょうね。もし、そちらであるなら、私にも十分にあなたを助けてあげることができる。それがいわゆる私たちの仕事の範疇ですからね」
「その判断は、難しいですね」
「今は、早急に判断するのは無理ですし、危険だと思います。やはりゆっくりと判断していかないと、間違った方向に進んでしまうと、永久に思い出せなくなってしまうかも知れないですし……」
そこで、医者の言葉が少し詰まった。
「えっ?」
睦月は少し不安に感じ、喉が詰まってしまう感覚に陥った。
少しして、医者が続けた。
「あなたの中にある、思い出したくないと思っている記憶を、嫌でも思い知らされることになる……」
それは、まるで死の宣告を受けたかのように感じた。
――そもそもそんなものが自分の中にあるのだろうか?
とも思ったが、考えてみれば、誰にだって、思い出したくもないことの一つや二つ存在しているというものだろう。しかし、
――記憶喪失になってまで忘れてしまいたいと思うようなことが、自分の中に果たしてあるのだろうか?
という思いを睦月は抱いた。
それは、医者と二人きりでの面談を望む前に覚悟していた一番辛い思いをするのではないかと思っていた一つであった。
だが、ハッキリと言われてしまうと、却って開き直れるものである。
――言ってくれた方が、スッキリするということもあるというものだわ――
医者もそんな睦月に気付いたのか、
「とにかく、まずは記憶を失った部分があるということを意識した上で、焦らずに前を向いていくという気持ちになることですね」
この言葉は、一般的に医者が患者にいう、「マニュアル的」な言い方であった。しかし、この時睦月が感じたのは、
――この先生の言葉なら信じてもいいかも知れないわ――
ということだった。
それまでに睦月は自分の考えていることを人から看破されたことはあまりなかった。しかも相手が医者というのも特別な思いだった。
あまり医者を信じられないと思っていたからだ。病気になって病院に行っても、自分が思っているような的確な治療をしてくれるわけでもなく、やたら投薬が多く、
――患者を何かの品物のようにしか思っていない態度には腹が立つ――
としか思っていなかった。
だが、交通事故で入院した病院で診てくれている医者には、今までの医者とは違うものを感じていた。
それなのに、自分についてくれた看護婦の敦美は、自分が記憶を失っているということを信じていないように見えるのは、遺憾だった。
――彼女は医者の診断を信じていないのかしら?
もっとも、睦月も医者と面談して話を聞くまでは、まったく信じていなかった。しかし、ここまで理論的に、しかも、睦月が聞きたいことを的確に指摘してくれたという、まるで、
――痒い所に手が届く――
というような親切丁寧な話し方に感服するとともに、信じないわけにはいかなくなっていたのだ。
そんな話を聞いていない敦美が信じられないと思うのも無理のないことだが、せっかく患者の自分が信じているのだから、病院側の看護婦である敦美が信じてくれていないというのは、困ったものだと思っていた。
敦美は、睦月に対して医者がここまで話をしているということを知らない。確かにここの先生は、看護婦にも言わずに、直接患者に話をすることが多いようだが、看護婦とすれば、何も知らずにいるのは、きついことだ。
「患者に直接対しているのは私たちなのよ」
と言いたいのも当然のことだった。
しかし、敦美はそのことも分かっている。そして、
――きっと先生のことだから、今回も私に何も言わずに、患者とお話をしたに違いない――
と感じていた。
その思いは間違いのないことだったが、今回はその思いが当たっていないことを本当に望んでいたのだった。
敦美は、それでも睦月と向き合わなけばならない。睦月が自分に対して疑念を抱いていることも分かっていた。
――対応しにくい患者さんだわ――
という思いだけではなく、
――何とか、誤解を解きたいわ――
と感じていたのも事実である。
――どうせ少しすれば退院していくのだから、別に誤解されたままであっても構わない――
と、今までなら感じていた。
だが、睦月に対してだけは違っていた。
――なぜなのかしら? 彼女に対しては誤解を抱かれたまま退院されたくない――
と思うようになっていた。
しかし、彼女との間に存在する壁は、自分で考えているよりも、少し厚いような気がする。いかにして突破すればいいのか考えていたが、それは、自分だけの考えではどうにもならないことだった。ただ、どうして自分が睦月に対してここまで特別な思いを抱くのか、自分でも分からないことに、少し苛立ちを覚えた敦美だった。
ただ、敦美が興味を持ったのは、睦月が失った記憶にではなく、今の睦月の記憶や意識に対してだった。
いくら自覚がないとはいえ、自分の中の記憶が失われたということであれば、もう少しうろたえてもよさそうなのだが、睦月を見ていて、うろたえている様子を伺うことはできない。
――睦月という女性は敦美が思っているよりも、しっかりしたところがあるのかも知れない――
そう思ったが、睦月は敦美に対して、何か疑念を感じていることを、知っていた。しかし、それが記憶を失っているということへの疑念であることまでは知らなかった。睦月は敦美に対して感じている疑念はそれだけだったので、今まで入院などしたことのない睦月は、精神的に不安に感じていたのだ。
睦月とすれば、不本意でありながらも、入院中は、敦美を頼るしかないと思っていた。敦美が睦月に対してしっかりしたところがあるという感覚を抱いているなど想像もしていなかった。二人は、互いのカギを掛け間違えているようで、逆に一度カギが合ってしまえば、話が通じ合える仲ではないかと感じたのは、時々見舞いに来ていた森山だったのだ。
森山は、二人の感覚の決定的な違いについて感覚的にだが分かっていた。
記憶喪失について疑いを持っている敦美と、それを信じていないというのを敦美が感じていると思っている睦月、その違いを分かっているのは、森山だけである。
どうして森山がそのことに気付いたのかというと、客観的な目で見ることに、他の人にはない鋭さを森山が持っているということと、初めて見るはずの敦美という看護婦に、
――実は以前から知っていたのではないか――
という思いを感じたからだ。
森山は、今まで女性とほとんど付き合ったことはない。睦月だけだというわけではないのだが、初めての彼女ができた時も、実は睦月とは知り合っていた。なぜかその頃、森山も睦月もお互いに恋人として意識していなかったわけなのだが、原因があるとすれば、森山の方なのかも知れない。
森山は、睦月と付き合いながらも、妹という意識を持って、ユキと接している。睦月にもユキの存在を話しているが、それは、
――睦月にユキのことを話しても、絶対に分かってくれる――
という意識があるからだ。
なぜなら、
――自分が他の女性と付き合った時も、睦月は分かってくれた――
という意識があるからだ。
その時は、
――それこそ、自分の役得だ――
という自惚れを抱いていた。
もちろん、睦月からは全幅の信頼を得ているという意識があるからで、睦月という女性はしっかりしているように見えて、頼れる誰かがそばにいないといけないことを自分で意識しているというのを感じているのが森山だけだということを自分で意識しているからだった。
森山にとって、睦月は自分を評価する指標でもあった。睦月の精神状態が穏やかな時は、自分も好調な時で、逆に穏やかでない時は、森山にとっても自分に自信を持つことのできない時期でもあったのだ。
「それがあなたのバロメータなのね」
と睦月に言われたことがあった。
睦月には、自分の考えていることを包み隠さず話す森山だったので、睦月も森山に対して話の中で遠慮することはない。
ただ、今回の入院ではそれ以上の戸惑いを感じているので、森山に対して、どこまで話をしていいのか迷っているところがあった。
森山はそのことも分かっている。分かっていて、
――睦月が話そうとしないのであれば、こっちから余計なことは言わない方がいい――
と感じて、睦月に対して何も言わなかった。
――睦月のことだから、言いたくなれば言うはずだ――
という思いがある。実はその思いは睦月の側にもあって、たまに会話が噛み合わない時がある。そんな時というのは、お互いに相手を怖いと思っていた。それまで一番話しやすかった相手が、一番話しにくい相手に変わるのだ。それを「遠慮」というのだろうが、もっとも二人にとって、この「遠慮」という言葉は一番遠い存在だと思っていた言葉だった。
――お互いに遠慮がないことが、うまく付き合って行くコツのようなものだ――
と感じていたからである。
本当は、
―何でも言い合えるというのが、二人の一番のいいところ――
だったはずなのだ。それが急に会話ができなくなるなど、お互いに感じていなかった。相手を見る目に疑問を感じ、それを相手も分かるのだ。しかもその疑問というのが、今まで見せたこともない感情だったり表情なので、一番柔軟だった相手が、急に知らない人になってしまったというのだから、恐怖以外の何があるというのだろう?
森山は病院に見舞いに行くことが正直怖かった。睦月も、いつ森山がくるのか、考えただけで怖い気がした。
その時、森山が見つけた結論として、
――客観的に見ればいいんだ――
という、考えるまでもないことに気が付いた。
その時に気になったのが、看護婦である敦美だった。
睦月を客観的に見ていると、二人の関係がどこかぎこちなく感じられた。敦美は森山のことを彼氏以外の何物でもないと思っているはずなので、森山のことをそれほど意識していなかった。
――真正面から見ることもなく、いつも横顔ばかりを見ている――
そんな存在だった。
しかも、それは、見下げるわけではなく、見上げているような感覚である。
――そういえば、自分が知っていると思っているその女性も、ずっと横顔ばかりしか見たことがなかったな――
と感じていた。
その人は、森山が知っている「女性」という感覚を持ってみることのできないタイプの人であった。
森山が感じている女性というのは、
――我慢できないことがあれば、相手に悟られないように我慢を続けて、我慢ができずに爆発させてしまう――
というのがイメージだった。
だから、睦月との関係のように、お互いに言いたいことを言い合っているうちは、うまく付き合って行けると思っていたのだ。
敦美には、あまり感情が見られない。よく言えば、冷静なのだが、悪く言えば、何を考えているか分からないところがある。ある意味、森山にとって、
――一番接しにくい相手――
だと言えるだろう。
だが、その横顔を見ている限り、接しにくい相手ではなかった。むしろ、睦月が敵対している相手という目で見ていると、敦美の方が今なら接しやすい相手であり、睦月と二人きりにならないで済むと思っていた。
それは睦月も同じようで、敦美が病室にいても、委細構わずで、なるべく二人きりの会話にならないようにしていたのも、その思いがあるからだった。
敦美も、二人が結婚を約束した相手だということを知っている。それでいて二人の関係がぎこちなく見えるのは、やはり、睦月の記憶が半分失われているからなのではないかと思えなくもなかった。そういう意味では記憶喪失に疑いを持っている自分に対して矛盾を感じる敦美だった。
――やっぱり、私は二重人格なのかしら?
敦美は、自分が二重人格であることを、最近になって自覚するようになった。人から言われたからではなく、人からの視線が本当に同じ人を見ているのかという疑問を感じたことで、自分に二重人格性があるのではないかと感じるようになった。
自分の考えに矛盾を感じていたことで、いきなり自分が二重人格なのではないかなどと考えるのは、それだけ自信過剰なところがあるのではないだろうか。そのことを他の誰も知らないはずである。知っているとすれば、自分の妹たちくらいだが、最近は妹たちとも会っていない。
――では、旦那はどうなんだろう?
結婚してから三年が経っていたが、旦那は結婚した時とあまり変わっていない。もっとも、この人が変わるはずはないという思いを持って結婚したのも事実だった。
――一番無難なところで、ちょうどいい人と結婚した――
と、本人は思っている。
もし、他の人に話せば、
「それにしては、結婚が早いわよね、もう少し様子を見てもいいんじゃない?」
と言われるだろう。しかし、敦美としてみれば、
「年齢が問題なんじゃないと思うのよ。結婚適齢期をすぎてしまうと、同じ人でも変わっている可能性があるでしょう? でも、今この人は変わらないと思った人と、いつ結婚するのがいいと聞かれた時、今しかないと答える自分がいるのよ。本当にタイミングって大切よね」
と答えるだろう。
その考えは間違っていなかったと思う。結婚して後悔しているわけではないが、ただ気になっているのは、彼の一言一言に最近敏感になってきたことだった。
それまでは、彼のいうことは間違っていないとばかりに、
――彼の意見こそが、自分の意見そのものだわ――
と信じて疑わなかった。
「そんなの新婚の時だけの幻影のようなものよ」
と、人に話すと言われるかも知れない。しかし、大切なのは自分の気持ちで、彼の意見がそのまま自分の考えとして相違ないことを自分で納得できていればそれでいいと思っていた。
つまりは、
――二人が納得さえすれば、それでいい――
という考えだ。
今までなら閉鎖的な考えだということが分かるに違いなかった。しかし、結婚生活は敦美にとって、今までの自分を変えるための準備のように思っていたことで、
――二人きりの世界から、次第に幅を広げていけばいいんだ――
と考えていた。
だが、その考えが少し違っていたと思うようになったのは、結婚三年目が過ぎてからのことだった。
――今までと同じことを言っているはずなのに、説得力もあるはずなのに、一言一言が気になってしまうのはなぜなのかしら?
と、考えるようになったからだ。
今までなら、何も疑いを持つこともなく、ただ信じればいいと思っていた言葉に対して、不満があるわけではないのに、気が付けば自問自答を繰り返している自分に気が付く。
――どうしちゃったんだろう?
と敦美は考えたが、本来ならそれが普通の言葉だった。相手にいくら全幅の信頼を置いているとはいえ、一度は自分で納得がいくように考える必要があることを忘れていたのか、分かっているのに、意識しないようにしていたのか、結果的に何も考えずに、彼の言葉に従うようになっていた。
睦月が運ばれてきた時、敦美はちょうどそんな気持ちになっている時だった。だから、敦美には、睦月が何も言わなくとも、接しているだけで、今の自分を見ているような気がして仕方がなかった。
森山という男性が、睦月をどのような目で見ているかということが、おぼろげながら分かっていた。
――うちの旦那と同じような目をしているわ――
本当に森山が睦月のことを愛しているのかどうかは分からないが、何か疑いを持っていることは分かっていた。
――記憶を失っているということに疑問を感じているのかしら?
確かに婚約者からすれば、自分の奥さんになる人の記憶が半分失われているということはショック以外の何物でもないはずだ。
結婚前だから、相手のことを何でも知っておかなければいけないと思っている人もいるだろうが、たいていの場合は、ある程度のところで結婚を決意する。相手のことをすべて分かるまでに時間が掛かるというよりも、「長すぎた春」を嫌っているのだろう。
「長すぎた春」というのは、敦美もまわりから言われていたことだった。
付き合い始めて結婚まで五年近くが掛かった敦美だったので、そう思ったとしても仕方のないことであったが、自覚はしていたつもりでも、それが悪いことだという意識はなかった。それよりも、彼の方が考えているようで、女性の自分の方から急かすようなことをしてはいけないという思いが働き、何も言えなかったのだ。
その思いが結婚生活にまで影響していた。
――私は彼の意見に従っていくのみ――
という思いが強かったが、ただ、それも自分の考えが彼の意見とさほど違わないという前提の元であったのだ。
――元になるものが狂えば、すべてが違ってくる――
というのが前提としての考え方であって、生活に慣れてくると、次第に前提を忘れてしまって、
――彼の意見に従うこと――
それがすべてになってしまっていたのだ。
もし、結婚生活にヒビが入ることになったとすれば、その原因は、
――「前提」を忘れてしまったこと――
がすべてだということになるだろう。
敦美は、まだそこまで感じていない。どこか結婚生活に疑問は感じていたが、失敗だったとは思っていない。
もし、敦美が前提を思い出せば、離婚の危機を悟ることだろう。
そこで危機を回避できるか、それとも離婚に向けてまっしぐらになってしまうかの二つに一つだと思った。敦美の中で中途半端はありえない。特に自分に関係のあることを中途半端に終わらせることは決してできないのだ。
だが、敦美は今前提を思い出すことができない。だから疑問のまま燻っているわけだが、それは敦美の中にある予感めいたものが、扉を開けることの恐怖を予見しているからなのかも知れない。
危機を予見する力は敦美の中に備わっているようで、結婚しようとしている二人を見ていて、ひょっとするとそのことに気付かされたのかも知れない。
最初は睦月のことばかり気になっていた敦美だったが、次第に森山のことも気になり始めた。
それは森山が、自分の中に知らず知らずに入りこんできていることを感じたからだ。もちろん、森山にその意識があるわけではない。敦美が勝手に、彼が入り込んできているように感じているだけだ。それはまるで彼の中にいるもう一人の彼が、敦美の中に入りこんできているように感じられたのだ。
敦美の中にいる森山は、自分の方が年下なのに、まるで年上のような存在に感じられた。貫禄があるわけでもないし、森山のことの何を知っているというわけではない。ただ、
――初めて会ったわけではない――
という思いがあるだけで、どうして森山のことがそんなに気になるのか、自分でも分からなかった。
もう一人の森山が自分の中にいてくれるだけで嬉しい思いになっている敦美は、本当の森山が何かで悩んでいることに気が付いた。
最初はそれを睦月との結婚について悩んでいるのかと感じていたが、どうもそうではないようだ。自分の中にいる森山は、睦月のことを考えているわけではないように感じたからだ。
「あなたは誰のことを考えているの?」
と問いかけてみると、
「俺には妹のように思っている女の子がいるんだけど、その娘が心配なんだ」
と、答えてくれた。
「何が心配なの?」
「ハッキリとしたことは俺にもよくは分からないだけど、その娘が自分の前からいなくなるような気がするんだ」
「それは、その娘があなたのことを見限るということ?」
「そうじゃない。もしそれならそれでいいと思うんだ。時間が経てば忘れてしまうこともできるであろうし、自分で納得できる答えを見つけることができるかも知れない」
「え? でもそれ以上の心配というのはどういうことなの?」
「それは、きっと敦美さんになら分かってくれているんじゃないかって思うんです。もちろん、今のあなただからですね。『分かってくれている』ではなく、『分かっている』という思いですね」
敦美は少し考えていた。森山が何を言いたいのか頭の中で整理しようと思ったからだ。
――森山は、完全に今の私ならすでに分かっているという言い方をしている。そのことがとても重要なことのように話しているけど、今の私だから分かるという理屈が少し難しかしいわ――
最近敦美が考えていることは、どうしても、旦那のことになってしまう。他のことを考えていても、行きつくところは旦那のことだ。つまりは、森山も同じことであって、何かを考えていたとしても、きっと最終的にその女の子のことに行きつくということなのだろう。
気になっているということが、
――自分の前からいなくなる――
ということであった。敦美はそのことを考えてみると、
――確かに、ハッキリしていることで、これほど恐ろしく感じることはないのかも知れないわ――
と感じた。
全幅の信頼を置いている結婚相手と、別れることになったとしても、そこにお互いに納得できることがあるとすれば、結果として、一時の苦しみで済むかも知れない。しかし、自分の前からいなくなるということが分かっていて、結局何もできなかったということになれば、一生悔いを残すことになるかも知れないと思うと、それは容易なことではないだろう。
敦美は森山が睦月のことに対して二の次の考えを持っていることを知ると、急に睦月が可哀そうになってきた。
半分記憶を失っているにも関わらず、全幅の信頼を置いている相手が違う女性のことを考えている。睦月が知らないのをいいことに、このような状況を見てしまった敦美は、自分の運命を呪ったりはしないが、恐ろしく感じるのだった。
ただ、森山は、半分記憶を失っている睦月を見た時、彼女のことが今まで分かっていたであろうことも、分からなくなってしまったことを自覚していた。しかし、今の睦月を見る限り、半分失ってしまったという記憶の中に、森山との記憶は含まれていないようだ。森山と接している時の睦月はいつもの睦月であり、ただ、記憶を失っているという意識があるだけで、後はいつもの睦月だった。
だが、森山にはまるで別人のように感じられた。それは睦月が森山に遠慮しているからで、結婚しようとまで感じた相手に今さら遠慮するなどおかしなことだった。
敦美は、なぜ森山の気持ちも睦月の気持ちも分かるのか、考えてみればそんなことは不思議なことだということに気付かなかった。当たり前のこととして頭を巡らせていたが、急に、目の前にいる二人が、見えている二人と、自分に考えを巡らせるために立ちはだかっている二人と違っているように思えた。
それは、自分の中にある潜在意識と、表に出ている気持ちの違いにも似ている。敦美は二人の潜在意識を見ているのではないかと思った。もちろん、本来なら目の前に見えている表面上の二人しか見えないはずなのに、潜在意識を垣間見てしまうと、
――見てはいけないものを見てしまった――
という意識に駆られたとしても無理のないことであろう。
ただ、そんなことができる相手というのは、限られた人間なのではないかと思う。
考える方の人間も限られていて、考えの中に浮かんでいる人間も限られている。それぞれに限られた中に存在しているからこそ、潜在意識を覗けるのだろう。
――睦月が記憶を半分失ったというのは、そのための代償なのかも知れない――
敦美はそこまで考えるようになっていた。
――同じ時間に存在しているようで、実は少しずつ時間がずれた存在を見ているのかも知れない――
考えていけば、留まるところを知らない。
敦美は小説を読むのが好きで、しかもSFチックな小説が好きだった。
その中に、自分から絶えず五分先に行動している自分の存在を描いたものがあった。その話は、自分がこれからしようとしていることを先回りしている自分がいて、しかも、自分に関わりを持った人すべてが、
「なんだ、また戻ってきたのかい?」
と言って、主人公が二人いることを信じない。
それは当然のことだろう。主人公が反対の立場なら、そんなことを信じられるわけもないからだ。
自分がその五分前を進んでいる人間の立場になって本を読んでみた。主人公は五分後の人間であり、自分がするはずのことを、五分先の自分に先起されているのだから、これほどたまらないものはない。だからこそ、主人公は、五分後の自分になるのだが、敦美は別の考えを持っていた。
――五分前の女性は確かに先に自分がするのだから、後の自分よりもショックは少ないだろう。しかし考えてみれば、主人公を後の自分に持って行かれて、先に行動した自分とは違う人が評価されることになる。つまりは、まったく影の存在であり、逆に知られてはいけない存在だとも言えるのではないだろうか?
そう思うと、悲哀に満ちているのは、五分前の女ではないだろうか。
表に出てきた心理を描くなら確かに五分後の自分の姿だが、本当の深層心理を描くのであれば、五分前の自分の姿である。しかし、深層心理ほど描くのが難しいことはない。そう思うと、やはり描きやすい五分後の自分が主人公になるのは当然のことだ。
しかも、五分後の自分が主人公になったとすれば。五分前の自分というのは、まるでピエロのような存在である。主人公を引き立てるための道具に使われるだけで、考えていることを表現してはいけないだろう。
――そのことと、睦月が失った半分の記憶というのは、何か結びつきがあるのではないか?
と、敦美は考えるようになった。
睦月の失った記憶というのは、五分前の自分なのか、五分後の自分なのか、睦月はそのことに気付いたために、記憶を失う羽目になったのかも知れない。
だからこそ、本人にはまったく意識がない。まわりから見ている人にも分からない。先生だけが分かったようだが、それも本当にただの偶然として片づけてしまってもいいものなのだろうか? 先生が睦月に記憶を失っていることを告げたことが、ここに来てさらなる疑問を生むことになったのだ。
「先生は、彼女の失った記憶に対してまったく心当たりはないんですか?」
と聞いた時、
「彼女のプライバシーに関することは分からない。でも、その記憶が持つ意味は分かるような気がする。失ったという意識がないということは、彼女の意識の中にはない記憶だということだからね」
と答えていた。
「本人が意識していない記憶?」
「そうだよ。元々、記憶というのは、意識から派生したものなので、必ず、記憶するには意識が働いているはずなんだ。でも、彼女の場合には失われた記憶に、意識が働いていないような気がする」
「そんなことってあるんですか?」
「普通では考えられないよね。でも、それは平面を見ているからそう思うのであって、立体的に見ると、その考えに凝り固まる必要はなくなってくる」
「どういうことなんですか?」
「つまり、縦と横だけしか見ていないところに、高さを加えるということだよ。それが時間になると四次元ということになるんだろうけどね」
「それって、その人の存在が無数にいるということですか?」
「考え方を変えればという意味で、可能性というところまでの話をしているつもりもないんだ。もっとも、医者の立場で、こんな非科学的な話をしてはいけないんだろうけどね」
「でも、それは心理学という意味では、ありなんじゃないですか?」
「そうかも知れないね。彼女が記憶を半分失っているのは事実であって、今はそのことについていろいろ推測しても始まらないのかも知れないけど、僕は彼女の記憶は無理に取り戻す必要もないと思っている」
敦美は少し疑問を感じた。
「えっ? それじゃあ、彼女に記憶を半分失っているということを告げる必要はないんじゃないですか? なまじ彼女が記憶を失っているということを知ってしまうと変な意識をしてしまうかも知れませんよ」
「そうじゃないんだ。無理に思い出すことはないんだけど、彼女は自分の記憶を半分失っているということを意識しなければいけない」
「どうしてですか?」
「それは、彼女が意識した上で、自分の中で記憶を思い出す必要がないという結論を見出す必要があるんだ。それは記憶を失った彼女のいわゆる試練のようなものだね」
「どうして彼女が試練を味わう必要があるんですか?」
「それは、記憶を失うということが、彼女の意志であるからさ。人が記憶を失うには、必ず自分の中でどんなに一瞬であっても、意志が存在しなければ成り立たないことなんだ」
敦美は、またしても考えてしまった。
「それは、信憑性のあることなんですか?」
と口にして、敦美はハッと感じた。この質問は、ずっと話をしていたことに水を差すと思ったからだ。今までの話はすべてが想像の域を脱しているわけではない。それなのに、今さら信憑性の話など、ナンセンスもいいところだからだ。
敦美が、以前に読んだSF小説の中で、五分前を進む女の話を思い出したのは、この時の先生との話があったからだ。
先生の話は、確かに医者の話としては、してはいけないものなのかも知れない。心理学に精通しているとはいえ、しょせんすべてが想像の域を出ないからだ。
だが、敦美は自分の発想の中に先生の話が大いに参考になったことを感じていた。
――それにしても、森山が婚約者を二の次にして、心配している女の子というのはどんな人なのだろう?
この思いが強かった。
もしかすると、森山のことが気になっているのは、その女の子のことを自分が知っているからなのかも知れないと感じてきた敦美のことを、敦美の中に入りこんでいるもう一人の森山は、次第に気付いてきたようだった。
森山がもう一人の自分として、敦美の感情の中に入りこんできたのは、森山が敦美を見た時、
――初めて会ったような気がしない――
と感じたからだ。
それを感じたタイミングも、少しずれていれば、もう一人の自分の存在を作り出してまで、敦美の中に入りこもうなどと考えなかったに違いない。それができるのは、やはりタイミングの問題で、違うタイミングの相手が、敦美の中に入りこんだのかも知れない。
もう一人の自分とは、
――タイミングの違いが作り出した疑似の自分――
なのかも知れないと、敦美は考えるようになった。
敦美が、どんな女性なのかということ以外に、敦美にはどんな過去があるのかということを一緒に感じようと思っていた。しかし、敦美の過去を感じるにはなかなか難しいものがる。
――敦美だから難しい――
というわけではなく、他の人でも同じことだった。
人の過去を知るには、まず今のその人を理解する必要がある。それは、
――今のその人があって、過去がある――
という考えがあるからだ。
今のその人を分からずに、先にその人の過去を見ようと思えば見えなくもない。しかし、それが本当に今のその人から遡った過去なのかが分からないからである。つまりは、今のその人から遡らない限り、無数に広がった未来へと続くパラレルワールドの中の最初に見つけたその人を、本当の過去だとして認識してしまうからだった。
誰かの過去を見るのに、近道はありえない、必ず通らなければいけない道に従って遡らなければ、まったく違う世界を創造してしまい、とんでもないことになってしまう。
――とんでもないことになるくらいなら、その人の過去など考えてはいけないのだ――
それが、森山の考え方だった。
だが、森山には、もう一人の自分を作り出すことで、敦美の中に入りこむことができたような気がしていた。これは森山の特殊能力であるが、使えるのは敦美に対してだけだった。
この能力を特殊能力と位置付けてはいるが、実はこの能力は森山にだけあるものではない。他の人誰にでも存在するものであって、森山同様、使える相手はこの世に一人だけである。
その人に対して感じることはまず、
――以前から知っていたような気がする――
という思いを抱かないと成立しないことだった。
森山がどうして自分の特殊能力に気付いたのか分からない。以前から知っていた人だという認識があったとしても、その人にもう一人の自分を照らすことができるという発想まで行きつくには、かなりの困難な道のりを必要とするはずだった。
いろいろな条件を必要としていて、相手に対しての感情と自分の中にいるもう一人の自分をどこまで自覚できるかなどの問題を、いかにタイミングよく自分の中に持つかということが必要になる。
さらに相手が自分を受け入れるような気持ちに余裕を持っていなければいけない。つまり相手も、自分に対して、
――以前から知っている相手――
という意識がないと成立しない。
特殊能力を持っていたとしても、それを使える相手、そして使うまでの過程を考えると、実に稀なケースでしかないことが分かる。
しかも、使っている本人は、それが稀なケースであるという意識はなく、
――俺は他の人が持っていない特殊能力を持っているんだ――
という思いに駆られているに違いない。
森山もそうだった。
しかし、他の人に使おうとしても使えるわけではなく、他の人の気持ちの硬さを、今まで以上に知るだけだった。元々森山は、あまり人を信用する方ではない。自分に関わりのない人に対しては、少しでも自分に対して嫌な目を感じてしまうと、その人に対しての敵対意識は確定してしまう。
そのあと、どんなに仲良くなろうとも、一度身についた敵対意識が解消されることはない。
――俺はやっぱり二重人格なんだな――
森山が自分に感じる二重人格性はそこにあった。
特定の人に対しては分かりすぎるくらいに分かるが、それ以外の人のことは分かりたくもない。しかも、他の人に対しては、わざと怒らせるように仕向けて、その本性を探ってみようとまで思うようになっていた。
それを森山は悪いことだとは思っていない。逆にそんな発想にならない人たちの方が疑問に思うくらいだ。
――皆、偽善者なんだ――
と、極端であるが、そこまで考えるようになっていた。
下手をすれば、
――自分にとって特定な相手にまで、敵対する気持ちになることがあるのかも知れない――
とまで考えるようになっていた。
敦美が自分にとって、どのような位置づけになる女性なのかということを、なかなか分からないでいたが、敦美の過去の中で、気になっていることを見つけることができたような気がした。
敦美には妹がいる。その妹が、誰かの記憶を自分の意識の中に持っているのではないかということを、敦美は最近になって気付くようになった。
敦美は結婚してから、妹とほとんど会っていなかったが、先日久しぶりに会うことができたようだった。
その妹が、少し違う意識を持っていることに気が付いたのは、話を始めてすぐのことだった。久しぶりということで話はどうしても、子供の頃の話になったりしていたが、敦美の知っているはずの妹の記憶ではなかった。
――どこからそんな記憶が引き出されるのだろう?
と思いながら話をしていると、不思議なことに、敦美は次第に、自分の知らない妹の記憶を、
――本当は知っていたのではないか?
と思うようになった。
しかも、その記憶を裏付けるものを、そのうちに知ることになる予感すらあったのだ。根拠のない自信めいたものではあったが、信憑性のないものではない。
何しろその時の敦美は、
――今なら、どんなことがあっても驚かない――
と思っていたからだ。
これも本人のオカルトであったが、
――生きているうちに何度か、どんなことがあっても驚かないと思えるような時期があるのではないか?
と感じる時期があることを信じている。
実際に、今までに二度ほど、そんなことがあったような気がした。
一度は、自分が交通事故を目撃した時のことだった。
あれは、まだ高校時代の頃で、それまで、事件や事故など、目撃したことはなかった。
ただ、その数日前から、何となくであるが、予感めいたものがあったのも事実で、目を瞑ると、瞼の裏に黒い世界が広がっているはずなのに、真っ赤な世界が広がっていることがあった。
真っ赤な世界は、今までにも何度も意識していた。それは、光が当たっている中で目を閉じた時に、瞼の裏に写っているのが、真っ赤な世界だったからだ。
しかし、決定的な違いがあった。
今までの瞼の裏に写っている世界というのは、真っ赤な中に、まるで毛細血管のような線が無数に見えていた。それは微妙に蠢いているようで、実に気持ち悪いものだった。
だから、なるべく見ないようにしていたのだが、それでも、ついつい見てしまうことがあったので、真っ赤な世界が広がっている状態を、リアルに覚えていたりするのだった。
それまでに見ていた光景が頭の中にあって、その残像が毛細血管を浮き上がらせるように見えることで生まれる世界なので、理屈が分かっているだけに、気持ち悪いものと一概に言えるものではない。
だが、事故を目撃する前に見た、瞼の裏に写った真っ赤な世界は、毛細血管のような残像がまったく残っていなかった。
蠢いている毛細血管に目を奪われることで、真っ赤な色を意識することはなかったはずなのだが、その時にあるのは、真っ赤な世界が広がっているだけだった。
意識を削ぐものがあるわけではないということは、目の前に広がっている世界は無限に続いている可能性を秘めているように思えた。だが、もう一度目を瞑ってさらに目を開けると、今度はさっきまであれだけあった真っ赤な色が、今度は普段の真っ黒な世界を彩っていたのだった。
――一体、どうして?
と感じていたが、それがまさか交通事故を目撃するための「前兆」のようなものであるということを感じたのは、以前にも同じようなことがあったからだ。
それは交通事故のようなリアルなものではなかったが、ちょうど高校受験の時、自分が家から出てきた時、前の日に、紙で指を切ってしまった。少しだけ血が出てきたが、それをティッシュで拭うと、ティッシュの上に、血が滲んでいくのを漠然と見ていた。
みるみるうちに広がっていく真っ赤な血だったが、少しでも赤い色が薄くなっていくのではないかと思っていたにも関わらず、それどころか、黒ずんでくるほどに真っ赤な血は滲み出ていた。
実際には血は止まっていたにも関わらず、滲んだ血は、ティッシュを真っ赤に染めるまで止まないような気がして気持ち悪くなった。気が付けば気絶していて、指に巻いたティッシュからは、ほとんど血の色は消えていた。
この時、
――今なら、どんなことがあっても驚かない――
と、感じたのだった。
ただ、意識が戻った時に、
――気のせいだった――
と感じたのも事実で、本当に気のせいだったのかどうか、今でも疑問に感じるほどだったのだ。
さすがに、そこまで森山は分かっていなかったが、敦美の中では、
――妹の意識も、これに似たものだったのではない――
と思うようになった。
だが、妹と敦美との違いは、
――誰かに影響を受けているか受けていないかの違い――
であって、妹が誰の影響を受けたのかということを知るきっかけを握っているのが、実は森山だったのだ。
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