君のとなりで

@chotchatcat

全編

 或る日、森の中。








「今度、お父様がボクのために動物園にライオンを連れてきてくれるんだ。アフリカからトクベツビンでチョクユニュウだぞ。名前はボクがつけるんだぞ」


 ……あれはどこか北欧の国の王子だったように思うけれども、どうだったろう?アジアかな?インドだったかもしれない。その子の髪の色も瞳の色も肌の色も忘れた。ただ、その子の自慢話だけはよく覚えている。だってとても驚いたから。


 その子は〈ライオン〉について教えてくれた。


 その子のおかげで彼はふつう〈ライオン〉という動物がどのようなものであるかを知った。


 ふつう〈ライオン〉は金色のたてがみを持たない。


 ふつう〈ライオン〉は鮮やかな碧眼を持たない。


 ふつう〈ライオン〉は森に、ことに冬に雪の積もるような寒い国の森には棲まない。


 ――ふつう〈ライオン〉は人間の言葉を話さない。


(……ええっ、じゃあベンジャミンて……?)


 彼はその子のおかげで唯一己の知るところである〈ライオン〉、ベンジャミンがふつうでないことを知ったのである。










 流浪の民。


「……」


 と、いうか単なる迷子。


「あら、オリビエ様、また迷子になったんですか?」


 厨房の入り口で特に困った様子もなくぼーっと突っ立っている。彼がオリビエ王子その人である。そして確かに迷子にはなって自室に戻れなくなってしまっているのだが。実はこれといって自室に用もないのでたいして困ってもいなかった。晩餐には大広間に出向かなければならないが、どうやら目の前に広がっている空間は厨房らしいから、オードブルを運ぶ給仕の後にくっついていきでもすればいいと思っている。


「ええっ、そんなこと考えてるんですかぁ?またあの方に叱られますよ?」


「うーん、問題はそこなんだよねえ」


「――問題があるのははあなたの帰巣本能です」


 王子の背後で不機嫌な声がした。猛獣のうなり声に混じっているのがなんとも恐ろしい。


「ここでしたか」


「ベンジャミン!」


 表情に乏しい獣ながらに不機嫌のあからさまなライオン、一頭。


 料理番の娘はおもわずスープに木杓子をとりおとしてしまった。怖ろしさのあまり?否、彼女はそこに現れた美しい獣に見とれてしまったのだった。


 金のたてがみ、銀のひげ。堂々としながらもきゅっと引き締まった無駄のない体躯。遠目にもそれとわかるほど青い瞳は不思議な光を深くたたえている。気品のある優雅な物腰の中にも決して人間に飼い慣らされることのない野生の鋭さが見え隠れする。


 金のライオン、ベンジャミン。


「あー、ベンジャミン、ちょうどいいところに」


「ちょうどいいところに、じゃなくてあなたを捜してたんですよ」


 どぎまぎして硬直している料理番の娘に軽く優雅な礼をする。


「お騒がせしましたね」


「い、いえ……」


 料理番の娘の心中。


(……ちょ、ちょっとっ。相手はけものよ、けもの。ときめいちゃったりしたら人としてやばいわっ。……ああ、でもベンジャミン様ってやっぱりステキ……。んもぅ、けものでもけだものでも構わないっ)










「――まったく。何だってたまに思いついたように行方をくらましたりするんです?」


 王子が歩く横をライオンのベンジャミンがつかずはなれず付き従う。


 これが彼らの正しい位置である。


「うーん、何でだろ。何かこう、ふら~っと」


「……」


 やれやれ、とため息をつく。


「一国を担おうかという人がなんとまあ頼りのない」


 王子はあはは、と気にする風もなく楽しげに笑い、


「でもまあ、ベンジャミンがいてくれるから大丈夫だね」


 と軽く言ってのけた。王族としての、それより人としてのプライドはないのか?


「……私がいつまでもあなたの側にいられるとは限りませんよ」


「大丈夫」


 あくまで王子は楽観的で、暢気な笑みを絶やさない。


「今までずっといっしょだったんだもの。これからもずっといっしょだよ」










 月明かりが煌々と天窓から室内を蒼く照らしだしている。


 ベンジャミンは北の塔の屋根裏部屋を自室として与えられていた。


「……」


 傍らで気持ちよさそうな寝息をたてているのは王子。天蓋つきの寝台や南向きに大きくひらけた窓のある立派な寝室が城内にありながら、何を好きこのんでか、夜になると必ず半分物置のようなこの屋根裏部屋に来て眠る。おかけでベンジャミンが城に来てから十数年、王子の寝室は主なきまま使われたことがない。 


「……」


 夜になると、必ず。


 そういえば天性の方向音痴でしょっちゅう城内で迷子になる王子だが、この北の塔にだけはどこにいても、迷った先からでも辿り着くことができた。




「――どうしてその要領で御自分の寝室なり大広間なりになりに帰れないんですか?」


「うーん、何でだろ?」




「……」


 ベンジャミンは今、泣いているのかもしれなかった。たとえ泣いていたとしてもその顔は毛むくじゃらで、涙はすっかりすいこまれてしまうに違いなかった。


「……うーん」


 王子が寝返りをうつ。ベンジャミンの胸に深く顔を埋め、あたかもベンジャミンの中にもぐりこんでしまおうとするかのようだ。


「……」


 そっと起きあがり、はだけてしまった掛布の端をくわえ、かけなおしてやる。


 そういえばこの人は小さい頃から寝相が悪かった。よくこうしてブランケットをかけなおしてやったっけ。


 ベンジャミンがこの城に来たとき、オリビエ王子は三歳になったばかりだった。その王子ももうじき十五歳になる。


「……」


 すっかりベンジャミンに身体をあずけている王子。甘えるようにその指をベンジャミンのたてがみにからめている。


「…ライオンは…肉食獣なんですよ…こんなふうに油断しきって…まったくあなたって人は…」


 月の光がいっそうその輝きを増したようである。


「…オリバー…、私はあなたを……。」


 壁には――ライオンの影が映っているべき壁には、うなだれた人影が映っていた。










「……あれ?」


 寝ぼけ眼。事態が把握できない。ゆえに、困惑。


 困惑の正体は、何故自分が自分のベッドで寝ているのかということだった。南向きの大きな窓から陽光が燦々と降り注ぐ。そよ風が吹き抜け、白いレースのカーテンをいたずらに揺らしていく。見上げた天蓋ではバロック調の天使が笛を吹き鳴らしている。


「……あれあれ?」


 だいたい今自分が寝ているのがかつて自分の寝床だったところだと気づくのにずいぶん時間がかかった。実に十数年ぶりであるから無理もない。


 そう、ここは自分の寝室だ。三歳になるまではここで寝ていた。そう、ベンジャミンが来るまでは。


「――おはようございます、オリビエ様。早急にお仕度なさいませ。皇太后さまがお呼びです」


 女官長がしずしずと礼をする。


「お祖母さまが?――わあっ!」


 慣れない羽毛の敷布に足をとられて不様にベッドから転がり落ちてしまった。どっしーんという音とともにしたたかに尻を打つ。不様も不様、かなり不様だったのだが、さすが女官長、愛想笑いひとつせずに、何事もなかったかのようにすまして立っている。


「――ええっと、ベンジャミンは?」


 とりあえず王子としては気まずいので尻の痛みをこらえつつ話題の転換をはかってみた。


 ところが。


「……皇太后さまがお待ちです」


 王子の質問には答えず、女官長がパチンと指を鳴らすと、控えの間から衣類を携えた女官達がぞろぞろと入ってきた。


「えっ、わあ、ちょっと!」


 そしてうやうやしく、しかしてきぱきと王子を着替えさせ始めた。王子は王族の中では例外的にここ数十年間、正装する宮中行事の日でさえも着替えは自分でやってきた。自分のことは自分で。それが教育係の――ベンジャミンの――方針だったから。ゆえに人に着替えさせられるのには慣れていない。その上女官達と言えばうら若き乙女ばかりなのだからまったく参ってしまう。


 で、そんなこんなの数十分間の奮闘の末。 


「いかがでしょう?」


「うぇ」


 鏡の中には生まれてこのかた着たことも、着ようと思ったこともないこれでもか、というほど豪奢な礼服に身を包み、もはや芸術の域に達したといってもいいほど複雑に結いあげた髪を垂らした知らない青年が映っていた。


「……これ、誰?」


 誰もこたえてくれない。皆、あくまで職務に忠実なのだ。そういえば使用人は道具だと使う方も、使われる方も思えと昔帝王学の講師が言っていたっけ。たしか彼は一週間かそこらでベンジャミンに解雇されたと思ったけど。


「……これ、誰?」


 鏡に映る知らない自分。


 知らない部屋、知らない服、知らない人々。


 北の塔の屋根裏部屋は?いつものシンプルで動きやすい服は?


 ――ベンジャミンは? 










「我ガ慈母皇太后サマニ申シ上ゲマス、本日ハ御機嫌麗シュウ、御前ニ召サレマシタコトヲ深ク感謝イタシマス」


 オリビエ王子はこの皇太后であるところの祖母が苦手だった。格式を重んじ、たった一人の孫を前にしてもにこりともしない。自分は皇太后であるという姿勢を決して崩さない人だった。


「儀礼とわかっていてももう少し心をこめて挨拶なさい。畜生の教育ではどうだか知りませんが、それが王室のしきたりです」


「……なにか御用と聞いて伺ったのですが」


 一刻も早くここ、皇太后の部屋を出たい。なにか香を焚きしめているらしく、頭痛のするような甘ったるい匂いがするし、それでなくとも不愉快だ。何より、ベンジャミンを相変わらず畜生扱いするのには我慢がならなかった。


 北の塔の屋根裏部屋に行こう。木の匂いのするあそこで少し休んでからベンジャミンを捜そう。なんだかひどく、ベンジャミンに会いたい。


「そう急ぐこともないでしょう?その長椅子にお掛けなさい。じきに先方もいらっしゃるでしょうから」


「……センポウ?」


 センポウ?先鋒?剣の試合でも?いや、この場合そのセンポウではないだろう。この場合のセンポウは先方、そしてその意味するところは


「ステュワート公国のマデリーン姫です。お会いしたことはなくともよもや忘れてなどいませんよねえ?何と言ってもあなたの生まれたときからの婚約者ですもの」


 ――結婚相手……!










「……」


 レースのシャツの袖口を犬のようにくんくんと嗅いでみる。


 ベンジャミンは鼻が敏感だとかで香水の匂いが苦手だ。明らかに移り香のひどい上着は脱ぎ捨ててきたが、ベンジャミンに一刻も早く会いたかったので、びらびらと飾りのついたブラウスはそのまま着替えていない。さすがに襟元を閉める窮屈なリボンははずしたけれども。


「……うーん、もうわからん」


 長い間香水の洪水のなかにいたので王子自身の鼻がばかになってしまっていた。もしかしたらベンジャミンに寝床から蹴り出されてしまうかもしれない。王子は大股でぐんぐんと歩き、北の塔の屋根裏部屋にむかっていた。夜は更け、月はすでに天頂から西よりに傾いている。もう、眠りたい。今日はさんざんな一日だった。午前中はえんえんと皇太后の話し相手をさせられるし、午後は午後で初めて会った婚約者のマデリーン姫とやらの接待をしなければならなかった。父王は病気静養中で遠く離れたスイスにいるのだから、今日のことは皇太后がすべて仕組んだことに違いなかった。


(……何で突如思いだしたようにイヤガラセするんだ……?)


 さっさと寝てしまおう。いつものようにベンジャミンの鼓動を聴きながら。


 ベンジャミンの胸から腹にかけての白く柔らかい毛並みが好きだ。金のたてがみも立派だとは思うけれども、あの意外なほどの柔らかさがベンジャミンそのものだと思うから。


「ベンジャ――」


 北の塔の屋根裏部屋。木戸を開けて、王子は凍りついた。


 ――寝床がなかった。この十数年間、ずっと一緒に寝てきた寝床が。クッションを重ねただけの低い、しかし居心地の良かったあの寝床が。


「……ベンジャミン……?」


 ベンジャミンが、いない。寝床がないのでどこか他へ行ったのだろうか?


「……」


 王子はきびすを返して駆けだした。表情がこわばっている。


 どこだ、ベンジャミン?


 王宮――はあり得ない。あの皇太后との約束でベンジャミンは王宮に立ち入らないことになっているから。使用人の宿舎館だろうか。いや、あのただでさえ狭いところにベンジャミンのわりこむはずもない。厩舎も馬が怯えるので近づかない。


 ……イヤな予感がする。 










「ベンジャミン?」


 中庭を抜けて、いくつかある庭園を彷徨い歩く。自分の方向音痴を恨めしいと思ったのは生まれて初めてだった。同じところをぐるぐる廻っているだけのような気がする。出口のない迷宮。


「ベンジャミン?」


 声は夜の闇に吸い込まれるばかりで応えがない。


「……」


 夜露と汗に濡れた衣服が身体にまとわりついて気持ちが悪い。綺麗に結いあげた髪もざんばらにほつれ、乱れてしまった。風が吹くたび体温が奪われて、どうしようもなく寒い。


「……」


 それでも。


 それでも王子は歩き続けた。終わらない悪夢を見続けているような気がした。そんなふうに思考が麻痺したままふらふらと歩き続ける。


 と、


「ここは……」


 急に視界がひらけた。蔦でがんじがらめに封じられた風景。


「……礼拝堂?」


 今はもう使われていない礼拝堂。廃墟。そう大きなものではないが凝った造りで、夜の闇と重ねた年月のためわかりにくいが、諸処に見られる見事な細工は王宮内にあり現在使われている大聖堂に勝るとも劣らないものであった。いや、どちらかというと


(この礼拝堂の方が手がこんでる……?)


 建築や芸術のことはよくわからない。ただ、なんとなくこちらの礼拝堂のほうが好ましいと感じる。


「こんなものが庭園の奥にあったなんて……あっ!」


 壁ごと崩れて半分に欠けてしまっている礼拝堂の扉の奥ににあかあかと燃える光を見つけ、はっと我に返る。


「ベンジャミン!」


 に違いない。


 王子は蔦の絡まった門を無我夢中で乗り越えた。










「……ベンジャミン!」


 ライオンのベンジャミンは祭壇の前に佇んでいた。明かりの正体は幾千はあろうかという燭台の蝋燭だった。


 王子はようやく今日初めて表情を和らげてベンジャミンに歩み寄った。


「いやぁ、捜しちゃったよ、ベンジャミン。朝からずっとここにいたの?」


「――はい」


 祭壇の上の十字架を仰ぎ見たまま振り向かない。


「何してたの?」


 王子は歩調を早めた。何故か少しもベンジャミンに近づいていない気がした。一歩一歩、距離は確実に縮まっているのに。


「――祈っていました」


「朝から?今まで?ずっと?何を?」


 ベンジャミンがくるりとこちらに向き直った。燭台からは逆光で、その表情はよくわからない。


「私がいなくなっても――」


 何か言いかける王子。何故かベンジャミンの言おうとしている言葉を聞きたくなかった。聞いてよ、ベンジャミン、今日はさんざんな一日だったよ。お祖母さまに呼び出されるし、婚約者のマデリーン姫とかいうのはおしかけてくるし。そういえば誰が北の塔の屋根裏部屋をいじったんだろう?何で今朝……言いたいこと、訊きたいことは山ほどあったのに、ベンジャミンは王子が発言することを許さなかった。王子の言葉を流すように自身の言葉を続けた。


「私がいなくなっても、王子がほうれん草をちゃんと食べますように、とか歴史の時間に居眠りしませんように、とか」


 冗談めいているようでそのくせしみるような口調。


「――立派な王となって国を治められますように、とか」


 まるで別れの言葉のような……。


「ベンジャミン……?」


 金色のライオンはどこか遠くを見ていた。その瞳には王子が映っていたけれども、見ていたのはもっとどこか遠くだった。


「時がきたのです、王子」


「何言ってるんだよ、ベンジャミン?さあ、もう部屋に戻ろう。ここは寒いよ。今晩は仕方がないから王宮のもともとの僕の寝室で休もう」


「許されません」


「お祖母さまなんか!」


「……皇太后さまではなく、時がそれを許さないのです」


「ベンジャミン!」


 臓腑をえぐるような感情。王子は泣き叫んでいた。


「ベンジャミン!行くな!」


 ベンジャミンはふと――たしかにふと――微笑んだ。この来るべき別れの時を王子もまた予感していたと知ったからかもしれなかった。


「さようなら、王子」


 突風が燭台の火全てを一瞬のうちに吹き消した。


「――ベンジャミン!」


 後には闇と静寂が残った。


 ベンジャミンの姿はもうどこにもなかった。


















「……皇太后さま」


「マデリーン姫。まあまあ、よくいらしゃったわね。お入りなさいな」


 皇太后らしからぬ愛想の振りまきよう。それもそのはず、マデリーン姫の実家であるステュワート公国は大国で、ちっぽけなこの国などちょっとした気まぐれで滅ぼされてしまうに違いなかった。マデリーン姫は末の姫で、ステュワート公も目に入れても痛くない可愛がりようであるという。姫が泣いて帰るようなことがあっては国の一大事である。   


「どうかなさったの?お顔の色が優れないようですけれども」


「皇太后さま、私、怖いのです」


「!」


 心当たりに思わず苦いものがこみあげ、唇がゆがむ。


「……何か?」


 年の功でとぼけてはみるが白々しくなってしまった。


「何かって、オリビエ様です!私はあの方が怖いのです!」


 わぁっと泣き伏す。


「オリビエがどうかしましたか?落ち着いて、ワタクシに話してみてくださいな」


 マデリーン姫の肩を抱き、なだめながらもその実、いまいましく思う。こんな小娘の御機嫌をとらなければならないなんて!


「――初めてお会いした日はとてもお優しくていらっしゃったのに……。次の日から私のことなどまったく無視、何かにとり憑かれたように何かを捜していらっしゃって……。ずいぶん遠くまで使者をやったと聞き及びます。オリビエ様は戦争を始めるおつもりなのだという者もあります」


「……そんなことはありえませんよ。あの子には執政権はおろか統帥権もないのです」


「……それにしてもぶつぶつとつぶやきながら城内や庭園を徘徊なさって……。私、恐ろしくてとてもあの方の妻にはなれません。もう国に帰ります」


「まあまあ、落ち着いて。きっと照れているのですよ。もうじきあのこも十五歳、誕生日をむかえて成人すればおちつくでしょう」


 ……マデリーン姫に気休めはいうものの、オリビエ王子の人が変わってしまったことをより痛感しているのは皇太后のほうであった。以前は頼りなくもおとなしいいい子だったのに、あの日からすっかり変わってしまった。始終イライラして、ちょっとしたことで凶暴な獣のように吼える。無精髭をぼうぼうにはやし、髪もぐしゃぐしゃ、服も癇癪をおこして自分で引き裂いたビリビリのものをいつまでも着ている。


 あの日から、王子は狂ってしまった。


 あの日。


 あの獣――ベンジャミンのいなくなった日から。










「……。」


 今の自分をベンジャミンが見たらなんて言うだろう?


 お忘れですか?獣は王宮内立入禁止です。昼食にありつきたかったら今すぐ顔と手を洗い身なりを整えていらっしゃい。その口は何のためについてるんです?いますぐ数々の非礼を詫びていらっしゃい。まったく、あなたは私がいないと


「――そうだ。君がいないとだめなんだ、ベンジャミン……!」


 祭壇に突っ伏し、嗚咽する。祈るように両手に握りしめられたのは、少し焦げた掛布。






「……何を燃やしているんだ?」


「オリビエ様。また迷子ですか?お部屋に戻られるならここの小道を庭園沿いにまっすぐ」


「何を燃やしているんだ?」


 後に、庭番は語った。オリビエ様を恐ろしいだなんて思ったのはあの時が初めてだった。目はぎらぎらとして血走っているし、反対に血の気の失せた真っ白な顔には何本も青筋がたっていた。悪魔が乗り移ったとしか思えなかった。あんなのはオリビエ様じゃない。


「えっ……と、使わなくなった家具と、あ、あと寝具ですかね。もういらないからって昨日ベンジャミン様が――」


「!」


「オ、オリビエ様っ!?」


 庭師が止める間もなくオリビエ王子は炎の中に腕を突っ込んだ。


「……くっ」


「おやめください!」


 羽交い締めにされて引き戻される。


「――お、おい、だれか!医者だ、医者!オリビエ様がお怪我を――!」


 尋常ならぬ庭師のうわずった叫びに人が集まり、一帯はにわかに騒がしくなった。


「……」


 王子は放心して燃えさかる炎をまばたきもせず見つめていた。見開いた目から涙が止めどもなく流れ落ちた。


 燃える。


 燃えてしまう。


 ベンジャミンがいたという証が。ベンジャミンと自分との絆が。


「…ベンジャミンが…燃えてしまう…」


 傷ついた腕に残されたのは少し焦げた掛布一枚、それだけだった。 






 幸いに火傷はたいしたことなく、傷跡も甚だしく残るようなことにはならなかった。


 しかし。


「……」


 心の傷は癒えることなく、王子は変わり果ててしまった。あてどもなくふらふらとその辺を歩いているのは以前と同じであるはずなのだが、何というか狂気を孕み、


「……近寄りがたい」


 のであった。


 また、以前と決定的に違うのは


「オリビエ様、全然お休みになってないみたいですよ」


「ああ、遅番の衛兵が寝室にお連れしようとしたらものすごい力で突き飛ばされたらしい」


「日に日にやつれて……」


「そりゃあそうだろう。人間、そんなに眠らないでいられるもんじゃあない」


「このままだとお命にかかわるかもしれんな」


 王子は昼夜を問わずただひたすらに彷徨っているのだった。以前は夕餉をすませ、夜半ともなればさっさと器用に、本当にこればかりは器用に迷いもせず、北の塔の屋根裏部屋に辿り着き、ライオンのベンジャミンの寝床にもぐり込んでいた。


 それが今では。


「……」


 王子とて眠らないでいるつもりなどなかった。ただ、眠れないのだ。


 ベンジャミンがいなくなったあの日から、どうしても眠ることができない。


「……」


 周辺諸国を始め、国交のなかった国やその存在さえ知らなかったような遠くの小さな国にまで使者をつかわし、ベンジャミンの行方を捜させた。一ヶ月ほどは謁見の間でそれらの使者の報告を昼となく夜となく心待ちに待っていたのだが、やがてそれらの探索のはかばかしくなく、空しいことがわかってくると調査の結果を聞くのがつらくなってきてしまった。最近ではもっぱら礼拝堂でぼんやりと一人になっていることが多くなった。


 礼拝堂。


 あの日ベンジャミンが消えた礼拝堂である。


「……」


 荒れ果てた堂内でただひたすらに祈る。


「……ベンジャミン」 


 愛しいその名を呼び続ける。応えはない。崩れかけた屋根やひび割れたステンドグラスから昼は太陽の、夜は月星の穏やかな光が慰めるようにこぼれるばかりであった。










「――」


 最近、眉間のしわがすっかり刻み込まれてしまった。


 不機嫌。いや、そんななまやさしいものでなく苦悩、焦燥、絶望。そういった救いようのない心況だ。


「――」


 憎い。何も知らず呑気にスイスで静養している息子である王も、皇位継承者をたった一人しか産み落とさずに若くして死んだ義娘の王妃も、強大な後ろ盾を持つばかりに御機嫌をとってやらなきゃならない小娘も、みんな憎い。


 でもなにより、


「……王子」


 が、憎い。


「ここしばらく半年ほどのあなたの行動は目に余ります。年が明ければあなたも十五歳、成人するのとともに静養中の父王との約束で戴冠式がとりおこなわれ、あなたはこの国の王となるのですよ?」


「……」


 それと、と早口に続ける。このごろの王子は一触即発の狂気を孕んでいるという。近衛兵がいるにしても、恐ろしい。


「それと、マデリーン姫をなぐさめておあげなさい。たったひとりで異国にこられてたいそう寂しがっておいでです。あなたの妻となる人なのですから大事になさい」


 言い終えて息をつく。以前なら「はい」という従順な返事をうながしたところだが今はただ厄介払いがしたい。


「……か?」


 王子は始終うつむいていた。一応儀礼にのっとって膝をついていたが折り曲げた箒のようにぎこちない姿勢だった。その王子がなにかつぶやいた。


「は?」


 よせばいいのに、皇太后は聞きなおしてしまった。


 途端、


「――あなたがベンジャミンを追い出したんですか?」


 王子が吼えた。


 皇太后のみならず護衛の近衛兵までもが震え上がるような咆吼であった。


「あなたはベンジャミンを嫌っていた。ずいぶんひどいことを言っていましたね?獣が大きな顔をして城内に居座ってるなんて王室の品位を疑われるとか、所詮獣であるからいつ人を襲うかわからないとか、王子が、私が妻をめとり子をなすなら母子の安全のためにも獣を城内を置いておくわけにはいかない、とか」


 皇太后はブルブルと怯えて震え、玉座にすがりついていた。病弱な王にかわって国の存亡をかけたようないくつもの修羅場をくぐってきた烈女である皇太后だったが、今この時はただ無力な老女だった。


「私が成人するから?王位を継ぐから?妻をめとるから?だから?だからベンジャミンを追い出したんですか?ベンジャミンはどこへ行ったんです?」


「ワ、ワタクシは知らないッ。あの獣がいなくなったのは好都合だったけれどもワタクシは何もしてないのよっ」


「しらを切るつもりか!」


 皇太后にとびかかる。


「ほ、本当に知らないのよっ……ひいいっ」


 皇太后の細い悲鳴。何十人という近衛兵がいっせいに王子に掴みかかる。


 多勢に無勢、王子はとりおさえられた。


「……」


 近衛兵数人に床に押さえつけられた姿勢で玉座の皇太后をねめつける。


 皇太后は戦慄した。王子は確かに狂ってしまったに違いなかった。


「――王子を独居房に入れなさい。ただ今の乱行、国家を預かる者への反逆行為とみなします。皇位継承権は剥奪、罪科は追って沙汰する」










 独居房。


「……ここでのきまりでして……申し訳ねえ。」


 牢番は気の毒そうに王子を後ろ手にして縛り上げた。


「……しかしオリビエ様……あなた様は本当に変わられちまった……。前はちーっと足らなさそうだけんども、気の優しいええお人だったに」 


 なまりがひどくて半分も意味は解せなかったが、かつての自分を惜しんでくれているのだとわかった。


「……ほんに……申し訳ねえ」


 ゴツゴツとした不揃いな石畳の上に、怪我をしないようにそっと横たえてくれる。


「……したら、牢の見回りがあるんでぇ、これで」


 ぺこっと頭を下げてでてゆく。王子はこんなふうになってしまった自分にも敬意を払ってくれる者があることに驚いた。


「……」


 ずいぶんひどい八つ当たりをしてきたなと自己嫌悪に陥る。ベンジャミンがみつからないのは使者のせいではないし、ましてや城内の庭師や料理番といった誰のせいでもなかった。つきつめれば、たしかに皇太后はベンジャミンを嫌っていたけれども、ベンジャミンがいなくなったのは彼女とは関係ないと自分でもわかりきっていたような気がする。


 ただ。


「……」


 八つ当たりしないではいられなかった。ベンジャミンのいないことが耐えられなかった。行き場のない思いを抱えているのがつらかった。


 今、暗く狭い独居房で石畳に転がって夜露に濡れるままになっているのは当然の報いだ。


「…自業自得…」


 独居房には申し訳程度の小さな明かりとり窓があるばかりである。薄闇の中、目を閉じる。石畳の冷たさを頬に感じる。寒さに大きく身震いし、身をすくませる。秋も終わりに近い。明朝の皇太后の宣旨を待つまでもなく、今夜ここで凍死するのかもしれなかった。


自業自得。


 そうは思うけれども、かなうことならもう一度、もう一度だけベンジャミンに会いたかった。一目でいいから、あの愛すべき金のライオンに。


「…ベンジャミン…」


 涙に視界が滲む。もう瞼を開けているだけの力さえ尽きようとしている。人は死に際して己が人生を見るという。王子が見たのはただひとつの幻だった。


 金色の獣。


 愛しい愛しい、金のライオン、ベンジャミン。


「ああベンジャ」


「――そう連呼しなくとも聞こえています」


 ……幻が喋った……?


「…ベンジャミン…!?」


 死にかけていたことも何のその、がばっと身を起こし素っ頓狂な声で幻の名を呼ぶ。幻は王子を後ろ手にしばっていた縄を噛みちぎってくれた。


「私の記憶が確かなら、あなたは今夜二回と半分私を呼びました。そう何回も呼ばなくとも目の前にいるんですから聞こえます」


 王子は恐る恐る幻に自由になったばかりの手を伸ばし、そして


「……何をなさっているんですか?」


 何度も何度も金のたてがみに触れ、堂々とした輪郭を撫でてたどり、


「――ベンジャミン!」


 と幻……いや、幻でないことを確かめたベンジャミンにおもいっきり抱きついた。


「……三回と半分」


「違う」


「?」


「三回と半分どころじゃない。君がいなくなってから何度も君の名を呼んだ。何度も、何度も!」


「……しつこい男は女性に嫌われますよ」


「女なんか!君さえいてくれればそれでいいんだ、ベンジャミン!」


「……問題発言ですね」


 ベンジャミンは軽く息をついた。王子は首根っこにかじりついたまま離れる様子もない。どうしようもない甘ったれだ。


「王子、抱擁は十二分にありがたく頂戴いたしましたからそろそろ解放していただけませんか?この体勢では話もできかねるのですが」


「やだ。もう離さないって決めたんだ」


「ずいぶん一方的な決意ですね。とりあえず私にも私の都合というものがありますので離してください」


「やだ」


 両腕にいっそうの力を込めてくる。絞め殺さんばかりの勢いである。どうやら感情の昂ぶりに我を忘れているらしい。


 しからば、


「……痛ぅ」


 鉄拳制裁。


「……ベンジャミン、今本気で殴っただろう?爪出てたよ、爪」


「人の話を聞けとお小さい頃から何度も申し上げているでしょう」


 さすがに王子もしゅんとなって姿勢を正す。もともと聞き分けのいい方ではあるのだ。ベンジャミンはまだ不安そうな王子の手に手を重ねてやった。王子はようやくほっとした表情をみせた。


「――じき夜が明けます。あまり時間がない。手短に用件をすませてしまいましょう」


「時間がないって、ベンジャミン?またどこかへいってしまうの?」


 憤懣やるかたなくふふんと鼻を鳴らす。


「時間がないのは私ではなくあなたです、オリバー」


「僕?」


「いい子にしてお留守番していなかったでしょう?おまけに皇太后さまを怒らせた。明朝には反逆罪で死刑ですね。まったくあの人は昔から頭に血が上ると見境なくなるんだから」


「ベンジャミン、お祖母さまのこと」


「存じ上げておりますよ、あの人がまだ小娘の時代からね」


「お祖母さまが小娘の時代から?ベンジャミンて実はものすごい年寄りなの?」


 年寄りといわれて気を悪くしたようである。


「生まれたのはずいぶん昔のことになりますがね、まだ若いんですよ、これでも。――さあ、質問はもう終わりにして。いずれにしろすべては今宵解き明かされるでしょう、いくつかの魔法とともに」


「魔法?」


「もう質問はナシです」


 王子はあわててくいさがった。


「待って!これだけ訊かせて!――もう、どこにもいかないよね?」


 沈黙。


 なぜ肯定してくれないんだ?簡単なことじゃないか。ただ一言「はい」とでも言えばいい。


「……王子」


 薄闇の中でもベンジャミンの深い青い瞳は深く澄んでいた。


 ベンジャミンはその瞳で何でも、遥か先の未来までも見通しているに違いなかった。


「――あなたはどんな答えをお望みですか?」










「大変不本意なことですが」


 ベンジャミンは早口にまくし立てた。


「あなたはこの私が精魂込めてお育て申し上げましたが、残念ながら文武どちらをとっても平凡。このままいくと平凡に王位を継ぎ、当分死にそうもない皇太后の下、平凡な結婚をしてこの平凡な国の平凡な城で平凡な一生を終えるでしょう。まあそうなる前に明朝処刑されてしまう可能性もありますがあなた以外皇位継承者がいないことを考えればいくら皇太后が感情的であるとはいえまさか処刑まではいかないでしょう。やはり平凡な国の平凡な城で平凡な一生がせいぜいあなたの手に入れるものですね」


「う、うん……」


「そこでです!」


 ぴしいっと尾っぽを地面に叩きつける。これはベンジャミンが興奮しているときの癖だ。


「あなたにチャンスをさしあげます」


 ずい、と迫る。


「非凡な国、非凡な城、非凡な妻、非凡な人生!それらを手にするチャンスなのです」


 ベンジャミンにしてはめずらしく熱っぽく語る。


「オリバー、挑戦しますよね?」 


「……うん、いいけど……。それにしても何だってベンジャミン、そんなに一生懸命なのさ?」


 それまでとうって変わって素っ気ない口調。


「――私にも私の都合がある、ということです」


「何そだよれ」


 自分にも何でも見通す瞳があればいい、と思う。いや、ベンジャミンのことだけ見通せればそれでいい。ベンジャミンがこれからどうするつもりなのか、また一緒にいてくれるのか。それと――。


「……僕は何をすればいい?」


 すべては今宵解き明かされる、ベンジャミンはそう言った。


(――すべて?君の気持ちも?ベンジャミン……)










「お伽話で主人公で王子という人種がたどる末路は二つに一つ。笑い者になるか笑う者になるかです」


 そこで、ともったいぶって軽く咳払い。


「笑い者と笑う者とを分けた決定的な要因は何でしょう?」


 はい答えて、と王子をうながす。


「……ええっと、腕力?」


「違います」


「……教養?」


「ノン」


「あ、知恵……かな?」


「不是」


「……ええっと、ええっと」


 考えつく限りのものはあらゆる言語で否定されてしまった。


「……ベンジャミンって何カ国語話せるの?」


「そんなことはどうでもよろしい。いいですか、笑い者と笑う者という明暗を分けるのは運と裏工作です」


「裏工作?」


 王子は唖然とした。品行方正そのもののようなベンジャミンのお言葉とも思えない。


「驚くことはありません。古今東西、英雄に裏工作はつきもの。もっとも英雄自身が裏工作をすることはほとんどありませんね。だいたいが良き理解者の協力によるものです。この良き理解者に巡り逢えるかどうかが運にかかってくるわけですが」


「……はあ」


 言われてみればそんなものかもしれない。ギリシャ神話の英雄も古事記の勇者もたしか、自分に惚れた女性に入れ知恵されて難題を見事やり遂げた。彼女達は出題者側の人間であったのだから、試験で言えば立派なカンニングである。


「笑う者になりましょう、オリバー」


 ベンジャミンは不適に笑っていた。よからぬことを企む笑みに牢獄内というシチュエーション。似合いすぎている。


「幸運にもあなたには運と裏工作という二つのカードが揃っています」


「ひょっとして、この半年間」


「そうです。裏工作をしてきました。あなたが非凡な国、非凡な城、非凡な妻、非凡な人生を手に入れるための」


「……」










「課題は三つ。天空の城の門扉を開くこと、地中の塔に幽閉されている王女を救い出すこと、氷に閉ざされた国を再生させること。」


「……結果的にその三つがもらえるってこと?」


「まあ、そうですね。」


 ぷいっとそっぽを向く。


「――いらない。空飛ぶ城も生き埋めの王女も冷凍保存の国もいらない。僕が欲しいのは」


 最後まで言う前に


「……痛っ」


 鉄拳制裁。


「贅沢を言わない!千年王国を一〇〇パーセント保証します。国民は従順、妻は貞淑、国土は肥沃。どんなに無能な王でも千年平和が続きますよ!」


「千年も生きないよ」


「へりくつをこねない」


 ぴしゃりと叱りつけると王子の襟元をくわえ、


「え、え、ベンジャミン?」


 そのまま牢内の壁に突進する。


「ぶ、ぶつかる――!」










「……」


「……」


 沈黙。


「いつまでぶすくれているんですか?」


 牢内の壁に激突したか。


 否、していない。


 牢内の壁を突き破ったか。


 否、破っていない。


 しかし王子とベンジャミンは牢ではないところにいた。


「ちょっとしたコツのようなものがあるんです」


 ベンジャミンはすまして言ったものだがコツだけでそうそう牢破りはかなわないだろう。おまけにここは


「……暑い」


 青い青い空、それより青い海、白い砂浜、うちよせる穏やかな波、うちあげられる桜色の貝殻、揺れる椰子の木、落ちる椰子の実。


「まあ、暑いでしょうね。常夏の島ですから」


 一年の半分以上が冬の国からどことも知れぬ常夏の島に一瞬にして移動するコツ。そのコツをつかってベンジャミンは半年前、王子の前から姿を消したのだ。


「……」


「いつまでぶすくれているんですか?」


「……」


 ベンジャミンには王子の不機嫌な理由がわからない。だだっ子につきあってる暇はない、とばかりにさくさくと海岸沿いに歩きだす。


「行きますよ」


 おいていかれるつもりはないので、王子も渋い表情のまま後をついていく。










「天空の城の門扉を開くには」


 まず第一の試練というわけだ。


「北の氷河地帯にたった一輪咲き続けるひなげしの根本に埋められた鍵を探しだし、西の最果てに棲む怪鳥の羽を集め、それを黒い森に棲む大蜜蜂の蜜蝋でかためて天翔る翼を造り、南方の常夏の島にある万年雪に覆われた火山の噴火口から飛び立たなければなりません。はい、復唱してみて」


「……?」


 はなから答えは期待していないらしい。


「ま、無理でしょうね。あなたにやっていただきたいことはたったひとつ、この翼を背負って」


 いつ用意したのかベンジャミンの足下に一対の大きなつくりものの翼が横たえられている。


 王子はせっつかれるまま翼を背負った。思ったより軽く、柔らかい。


「これが鍵です。落とさないでくださいね」


「え、ああ、うん」


 大きな鍵。王子の二の腕の長さほどもあるだろうか。紐で首から下げる。 こちらはさすがにずしりと重かった。


「はい、あとは根性。私はここで待ってますから」


「えっ」


 地面がスッとなくなった。否、ベンジャミン曰くのコツとやらでまたも瞬間移動したのだ、


「わああああああああっ」


 ――火山の噴火口の真上に。


 絶叫とともにもがく王子。遥か眼下にはぎらぎらと煮え立つマグマが見える。噴煙が目に滲みる。喉が焼けるように熱い。


「!」


 死ぬか、死ぬのか、と涙した瞬間、


「!」


 轟音とともに噴火口から大量のガスが吹き出た。


「!」


 上昇気流に乗って天高く舞い上がる。


「……!」


 王子はぐんぐんぐんぐんと上昇し続けた。










「……うう」


 疲れ果ててへたりこむ。目の前には太陽の光を受けて燦然と輝く乳白色の大な門扉がそびえたつ。これが天空の城の門扉とやらだろう。天空の城自体はすっぽりと厚い雲に覆われて見えない。


「……はあ、もうやめたい。本当に国も城も妻もいらないんだ」


かし投げ出すとベンジャミンが怒りだすので仕方なく門扉を開けにかかる。だいたい、この上空からどうやってベンジャミンの待っている地上まで帰るんだ?


とりあえずは鍵穴に、首から下げていた鍵をさしこむ。


 途端、


「……?」


 一瞬の静寂の後、


「!」


 急降下!王子の立っている天空の大地ごと垂直落下する。心臓のひっくり返るような重力負担の後、


「……!」


 王子も姿を現した城もゴム鞠のように跳ねてしまうような衝撃とともに天空の大地は常夏の島に着地。島全体がしばらく余波でぐらぐらと揺れるほどの衝撃であった。


「――」


 王子は何も言えず、うずくまっていた。


「おかえりなさい。舌、かみちぎりませんでした?」


 ライオンのベンジャミンは言葉どおり、もとの場所に座っていた。天空の大地がどこに落ちてくるか知っていたかのようである。天空の城の門扉の前にいた王子が着地した地点はまさにベンジャミンの鼻先であった。


「お怪我はありませんか?」


「……うん」


「それはよかった」


「でも」


「でも?」


「……腰……抜けた……。」










「王女の幽閉されている地中の塔は」


 第二の試練、か。


「右から二番目の星をまっすぐ行った北方の岩山にある観測所で満月の光を一番よくを浴びた睡蓮のある場所を尋ねる。その睡蓮を茎のところから手折った後、北北西の孤島に棲む大トカゲの謎解きに答え、この世で一番純粋な泉の水をわけてもらう。――ちなみにこれがその睡蓮と泉の水です」


 件の睡蓮は薄桃色の花弁も翡翠色の茎もまこと優美であったが、なにしろ


「……でかい」


 手折る、というより引っこ抜く、とか切り倒す、といった所作が必要だったろう。


「……ベンジャミン、これ本当に睡蓮?なんか僕コレと似たの植物図鑑で見たことあるけどラフレシアとかいう名前だったよ?」


「別物です。ラフレシアは腐肉の臭気を発し蝿類をおびきよせる熱帯の植物でしょう?これは正真正銘睡蓮です。千年以上枯れることなく生息していたのでかように大きいのです」


「……どこで手に入れたの?」


「熱帯雨林」


「……」


「――何ですかその疑いの眼差しは!本当に睡蓮なんですったら!」


 泉の水のほうは信憑性があった。小さな瑠璃の瓶に入っているのだが、空気と見まごうほどに透明度が高い。


「この世で一番純粋な水かあ。……ところで大トカゲの謎解きってだんなのだったの?」


「……『この世で一番透明なものとは何か』。……何だと思います?」


「えっ」


 謎解きは苦手だ。と、いうかアタマを使うことは大抵苦手だ。


「……この謎解きぐらい解いてみせてください。他の面倒臭いことは全部免除されてるんですから」


 いきなり意地悪なベンジャミン。


「え、えーっと、……この水……かな?」


 精一杯考えての答えだったのだが、


「――不正解。これが本番だったらこの時点で大トカゲに喰われて人生終わってますよ。ま、その大トカゲの棲む北北西の孤島にたどりつく前に周辺海域のワニに手足の二,三本喰われてますかね」


「…ひょっとして…」


 ごくっと息を呑む。ひょっとしてこの半年間ベンジャミンのやってきたことは裏工作なんかじゃなく冒険そのものなのでは?本来なら城も王女も国も冒険の報酬としてベンジャミンが手にするべきものである。それを王子が最後のオイシイところだけをイイトコドリしているのである。


「何ですって?」


 王子が思った旨を伝えると、ベンジャミンは馬鹿馬鹿しい、というようにふふん、と鼻を鳴らした。


「私が城や王女や国を手にするべきですって?まったく、あなたの目はあいかわらず悲しいくらいに節穴ですね」


 あきれ顔で深々とため息をつく。 


「お忘れかもしれませんがね、私はライオンなんですよ?城も国もライオンが君臨することは望まないでしょうし、ましてや王女がライオンの夫を望むとも思えませんね」


「……。」


 そんなものか。


「さ、移動しますよ。地下の塔は東の大地です」


「え、あ、うん。」


 天空の――かつて天空の城だったものに王子はくるりと背を向けた。と、


「待った。せっかく手に入れた城をおいていくつもりですか?」


「そんなこと言ったって……しょうがないだろう?一応鍵はかけたよ?」


 首からかけた門扉の鍵を揺らしてみせる。


「留守の間に誰かにとられてしまうかもしれませんよ。門や城壁など壊してしまえばいいんですから」


「そんな……」


 ベンジャミンは困る王子の反応を見て楽しんでいるようだ。


「ベンジャミン、意地悪しないで教えてよ」


 が王子が焦れると、はいはい、とすんなり答えを出した。


「……私もとことんあなたには甘いですねえ。いいですか先程の睡蓮を使うんです」


 しおれかけた巨大睡蓮の茎を天空の城の門前に差し込む。


 途端、


「!」


 シュウシュウという凄まじい音とともにみるみる天空の城がひからびていった。察するに、睡蓮が水分という水分を吸い取っているらしい。


「!」


 天空の城は最終的には手のひらに乗るほどに小さくなってしまった。転がすとカラカラと乾いた音がする。決して小さくはなかった、むしろ稀にみる壮大な城であったはずが、今やベンジャミンの爪のひとつぶんほどしかない。


「これで持ち運べるでしょう。門と城壁を忘れないように」


「う、うん」


「――王子」


「うん?」


「あなたは余計なことを考えず、城と王女と国とを手にしてください」


「……うん」


 ベンジャミンの瞳には思い詰めたような切実さが見え隠れしていた。王子はそれに気づいていたから、ただうなづくしかなかった。










 羊、馬、大草原。


「……モンゴル?」


「似たようなところです」


 立ち尽くす。広大な緑地。風が吹き抜けるたび、背の高い草がさざ波のように流れる。


「風が強いね」


「障害物がありませんからね。風がまっすぐに吹くんです。本来、風というのはこういうものなんですよ」


 風に背中を押されるようにして歩く。


「……どこ行くの?」


 このどこまでも同じ風景の続く草原の中から目的地を捜すのは至難の業だろう。


「それは風が決めることです」


「……?」










「!」


 ぽんっ、と草原から弾きだされる。いや、正確には草原内で唯一草の生えていない場所に出たのだが。


 それまで後押ししていた風はぴたりと止んでいた。


 王子とベンジャミンが立っている場所は円形に土が露出していた。雑草のひとつも生えていないから、どうやらもともと植物が生えないようになっているらしい。


「これってミステリーサークル?あの宇宙人が来て作ってくやつ。ナスカの地上絵とかと同じような。」


「違います」


「あ、じゃあ、草原の円形脱毛症?」


「草原が聞いたら怒りますよ。」


 すっと視線を逸らす。


「……ベンジャミン、今笑ったでしょ。」


「笑ってません」


「笑ったよ」


「笑ってませんたら。私はライオンなんですよ?ライオンが笑うわけないでしょう」


「笑うよ!僕にはわかっちゃうんだよ!」


 ベンジャミンの首根っこにかじりついてじゃれる。


「ほら、笑ったって白状しろ!」


「……わかりました、わかりました!たしかにおっしゃるとおり笑いましたよ、ちょっとだけね!」


 声がもう笑ってしまっている。


「まったくあなたはどうしようもないことを考えつく天才ですね!」


「褒めてる?」


「褒めてません!」










 気を取り直して。


「泉の水を唇に塗ってください。しめらせる程度で結構です」


「うん。」


 瓶を傾け、手に少量とり、唇を濡らす。泉の水はしびれるほど冷たかった。                       「この円から出て」


 言われるままに一歩退く。草原の中に戻る形となった。


「さあ、口づけてください」


「え……」


「わからないんですか?接吻してください。キスですよ、キス」


「ええええっ」


 赤面。大胆というか、ムードのかけらもないというか、そんな朴訥にキスをねだられても心の準備というものが……それとも第二の試練のために必要なことだからベンジャミンは何とも思っていないんだろうか?それにしてもベンジャミンとキスするという事実は事実なのだ。……ええい、ここは一発男なら覚悟を決めて据え膳、


「――ちょ、ちょっと、オリバー!」


 ところが。いざ、口づけようとするとベンジャミンは渾身の力を込めて拒絶した。


「やめなさい!」


「何でー?」


 不満げな王子。


「キスしろって言ったのはベンジャミンじゃないか」


 なおもベンジャミンに口づけようと迫る。勢いづいて、王子とは思えないほどの力で押し倒しに(!)かかっている。


「何……言ってるん……ですか」


 ベンジャミンも負けじと王子をひきはがしにかかる。


 すったもんだの末、結局はベンジャミンが勝利を決めた。王子をぶん投げて一言、


「――口づけるのは私にでなく地面にです!」










「……」


 しぶしぶ地面に口づける。


「下がって!」


 襟元をくわえて引き戻される。


「……」


「……」


 ベンジャミンとともに草の上で身動きひとつせず、固唾を呑んで見守る。


 と、ぼこっ、ぼこっ、と土が隆起し次の瞬間、


「!」


 どーん、と目にも留まらぬ早さで煉瓦造りの塔が地中から生えた。塔の上に被さっていたらしい土がぱらぱらと降ってくる。


「――いつまでも土にキスした余韻なんか味わってたら塔にアッパーくらってましたね」


「……下手すると首とんでたんじゃ……」


 いい加減慣れたつもりでも事態の展開は常に予想を上回る壮絶さであった。


「――さ、王女を救出いたしましょう。」


 王子はふと、ベンジャミンがあまり気乗りしない様子なのに気づいた。


「ベンジャミン、ひょっとして王女助けるのイヤなの?」


「……ええ……まあ……できることなら避けたかったですね」


「じゃ、やめようよ」


「そういうわけにもいきません。非凡な城、非凡な妻、非凡な国はワンセットなんです」


「僕、別にどれもいらないよ」


 言ったでしょう、と深々とため息をつく。 


「私にも私の都合があるんです」










「……あんたベンジャミンでしょ」


 王女は開口一番、目ざとくライオンの姿をみつけて指さした。


 自分を忌まわしい地中の呪縛から救ってくれたところの人である王子には見向きもしない。


「忘れもしないわよー、そのふてぶてしい面構え」


 地を這うようなおどろおどろしい声で罵る。


「あたしも落ちたもんねー、まさかあんたに救われるとわぁぁ」


 ベンジャミンは王女を努めて無視している。王子はそっとささやいた。


「……ベンジャミン。非凡ってこういうこと?貞淑がどうのとか言ってなかった?そもそも彼女知り合いなの?」


「……」


 ノーコメント。


「ベンジャ」


「――おい、少年」


 王女に呼ばれて身を竦ませる。そんな王子を見て王女はがっはっはとオヤジのように豪快に笑った。


「そんなに怯えることないわよー。とって喰いやしないから。だいたいあたしはあんたの貞淑な妻にならなきゃなんない宿命なのよね。ってことでヨロシク。あたし、ユフラテ。ユフィでいいよ」


「……あー、僕はオリビエ。フルネームはちょっと長いんだけど、えーっと」


「王子様っしょ?オリビエ王子様。それでいいよ。だって、」


 薄いネグリジェ一枚のまま艶っぽくからみついてくる。


「あたしたち、夫婦になって千年王国つくるんだもんね。姓になる国名は自分たちでつけましょ?」


 唖然、絶句。このユフィことユフラテという女、本当に王女なのだろうか?濃すぎる。強すぎる。押しすぎる。


「……ベンジャミーン」


「……」


 完全に無視を決め込んでそっぽをむいている。


「さあ、第三の問題、行ってみよっかー!」


 ……行きたくない。










「氷に閉ざされた国を再生させるには」


 第三の試練がいかなるものであれ、最大の試練はこの


「ちょっと聞いてる、ダーリン?」


ユフィに違いなかった。


「……そのダーリンっていうのやめてよ」


「じゃあ何て呼ぶのよ。あんたがオリバーって呼ぶの嫌がったんじゃない。」


「……」


 オリバー。自分のことをそう呼ぶのはベンジャミンだけだ。いままでも、これからも。心に決める王子をよそに、ユフィはマシンガンのような凶器の口でさっさと話を進めている。


「オリさま?オーちゃん?……あ、ハニーなんてのどう?」


「……それはふつう夫が妻にいうんじゃないの?」


「だってあんたってなんかハニーなんだもん。――決めたわ、あんた今からハニー」


「……」


 もうどうにでもしてくれ、でもお手柔らかにお願いしますといった心境。この暴風雨のような台風娘ユフィを前に、ベンジャミンはどうしているかというと、


「ベンジャミーン、この人どうにかしてよ」


「……」


 まるで普通のライオンのように振る舞っている。部屋の隅にひっそりと座って、沈黙を守っている。


「さあ、ハニー、れっつらごー!」










「氷に閉ざされた国を再生するには」


 第三の、そして最後の試練。


「天空の城と地中の塔に幽閉されていた王女が必要。つまりあんたのポケットの中の天空の城の乾物とこのワタクシがあればいいってこと」


「僕は何をすればいい、ベンジャミン?」


 わざわざベンジャミンに聞いたのに、答えたのはやはりユフィだった。


「これからのことはそのライオンちゃんは何にも知らないのよ、ハニー。ここからはあたしがあなたのパートナー」


「そんな……嘘でしょ、ベンジャミン?」


 すがるような目。そこでようやくベンジャミンは重い口を開いた。


「……彼女の言うとおりです、オリバー。私の役目はここまでです」


「!」


 愕然とする王子の腕をとってユフィは踊るような仕草をした。


「ね、言ったでしょ。ここでライオンちゃんはお役御免、てわけ。さ、あたしたちは氷に閉ざされた国を再生しに行きましょ。大丈夫、難しいことなんてないわ。ハニー、あなたは何もしなくていいのよ」


「ベンジャミン!」


「……あと一息ですよ。頑張ってください」


「君がいないと」


 王子の言葉をかき消してユフィは高らかに唄いあげる。


「あたしだって瞬間移動くらいできるわよ。あ、でも急ぐことないんだからハネムーン兼ねて船旅なんてのもいいわね。」


「そうじゃなくて、ベンジャミン、君がいないと」


 ベンジャミンに触れようと手を伸ばすがユフィの一方的なダンスの振りつけで引き戻される。


「ハニー、あなたダンスは嫌い?」


 ユフィの早口は幻術だ。言いたいことが言えない。流されてしまう。 


「ユフィ、ちょっと」


「さあ、踊りましょ、ハニー」


「僕はベンジャミンに」


 ぐるぐる、ぐるぐる。


 ユフィの円舞は速さを増していく。


 ぐるぐる、ぐるぐる。


 周囲の情景が線のように見えてくる。ユフィの寝ていた寝台も、埃をかぶった家具も、ごつごつした煉瓦造りの塔の内壁も、――ベンジャミンも。


 風景が滲んでいく。頭の芯がじいんとしびれたようになる。


「酔ったの、ハニー?ふらふらしてるわね」


 ユフィの楽しげな笑い声。


「かまわないわ、このまま氷に閉ざされた国に行きましょう!」


「!」


 ハッと覚醒する。今、ベンジャミンのつぶやく声が聞こえた。


 さようなら、と。


「――いやだ!」


 ちぎるようにユフィの手をふりほどく。


「!」


「!」


 遠心力で王子は塔の内壁に叩きつけられた。ぐう、と潰れた蛙のようなうめき声を発してぐったりとしてしまう。


「オリバー!」


「ハニー!」


 ベンジャミンもユフィも慌てて駆け寄り、抱き起こす。


「あなたって人は!」


「本当にバカね!」


 めずらしくも意見の一致。が、ベンジャミンは不機嫌にユフィをじろりと横目で睨んだ。


「――気安くバカ呼ばわりしないでいただけますか?」


「な……!」


 言い捨てるだけ言い捨ててあとはぷいと再び無視を決め込んでいる。ユフィとしては憤怒のやり場がない。


「……ベンジャミン」


 王子はしっかりとベンジャミンの前足を掴んだ。


「決めたんだ、――もう離さないって」


 ユフィが呆れた、と目を丸く見開いて叫ぶ。


「あんたこのライオンちゃんにそれだけを言うためにあんな無茶したわけ?」


「……だってあのままだとベンジャミンとは二度と逢えなくなってただろ?」


「う……まあね」


 引き離すつもりだったことを認めざるをえない。


「それにしても無茶ですよ、時空移動の最中にとびだすなんて……内臓破裂で即死してたかもしれませんよ」


「バカだから予測もつかなかった?」


 ベンジャミンにまた睨まれてユフィはぺろっと舌を出した。


「……わかんない。とにかくここでベンジャミンと別れちゃいけないと思ったんだ」


 よろよろと半身を自力で起こす。


「オリバー!」


「無理しないで。内臓破裂とまでいかなくても傷ついてるかもしれないし。もともと悪いにしたって頭も打ってるから心配だわ」


「大丈夫」


 きっぱりと言いきる。


「ちゃんと言いたいから。ベンジャミンに、ちゃんと聞いて欲しいから」


 これがあの頼りない王子だろうか。意志の光を瞳に宿し、一人前の大人の顔をしている。


「――ベンジャミン、ずっと一緒にいてほしい。非凡な城も非凡な妻も非凡な国も非凡な人生もいらないんだ。君がいてくれればそれでいい」


「オリバー……」










「――ちょーっと待ったぁ!」


 怒髪天。


「手に手を取り合って相思相愛の御確認も結構ですがねっ。このア・タ・シはどうなるの?天空の城は?地中の塔は?氷に閉ざされた国は?」


 機関銃炸裂。早口にまくしたてるユフィ。べらべらという擬音はこういうときに使うんだぞ、という見本のようだ。腰に両手をあてて大地を踏みしめて立つその姿は王女様というよりも女王様という呼称がふさわしい。


「……僕は何もしなくてもいいんでしょ?ユフィ、そう言ったよね?ってことは僕がいなくても氷に閉ざされた国の再生は僕がいなくてもできるってことだろう?」


「そうね。そうなるかもしれないわ」


 なら、と元来の暢気な笑顔で提案する。


「なら、ユフィが氷に閉ざされた国を救ってあげればいい。この天空の城も天空の城の門の鍵もあげる。必要ならつくりものの翼も睡蓮も泉の水もあげる。非凡な城、非凡な国、非凡な人生は非凡な妻たる君が手にすればいい」


 ユフィは、王子が差し出した諸々のものを蹴散らして怒り狂った。


「何言ってるのよ!妻ってあたしひとりじゃなれないのよ!信じられない!解きかけた魔法を途中でほっぽりだすつもりなの!迷惑よ!天空の城にも、地中の塔にも、氷に閉ざされた国の民にも、このあたしにも――そこのライオンのベンジャミンにだって!」


「ユフラテ!」


 ベンジャミンの叱責にユフィははっと言ってしまった言葉を呑みこむように口元を覆った。しかしとりかえしのつくはずもない。


「ベンジャミンに迷惑?三つの魔法を解かないことが?どういうこと、ユフィ?どういうこと、ベンジャミン?」


「……」


「……」


 いまさらだがせめてもの黙秘。


「ねえ、どういうこと……?」










 吹雪。


 四方を氷山に囲まれている窪地。


「――寒い」


 ガチガチガチ。


「歯が鳴るー。ベンジャミン、あんたいいわねえ、毛皮着てて」


「……ライオンって南方の動物なんですよ」


 結局。


 ベンジャミンの、私にも私の都合があるってことです、といういつもの台詞で納得させられてしまった。


「私に迷惑をかけたくないというのなら三つの魔法を解いてしまえばいいんです」


 そう言われて氷にざされた国までやってきたのだが。


「――寒い」


「ハニー、あんた北国の人でしょ。雪や氷は慣れっこでしょうに」


 怒鳴ると少々でも寒さがやわらぐのか。いや、どちらかというと単なる八つ当たりだろう。とにかくユフィは絶え間なく喋った。


「……うう、これ以上ここにいると死ぬわ。死ななくてもあたしが殺す」


「……ユフィー、目が据わってるよぉ。何言ってんのかわかんないよ」


「極限状態というやつですね。」


 血走った半開きの目でぶつぶつととめどなくつぶやいている。


「さっさと済ませるわよ。魔法さえ解けりゃあこっちのもんなんんなから」


「ユフィ、舌まわってない……」


「やっかましい!ほら、さっさと乾物だして」


「あ、うん」


 ポケットから天空の城をとりだす。小石のようなそれはかじかんだ手にさえひんやりと冷たかった。


「ふんっ」


「あっ」


 ユフィは王子から天空の城を受け取るや否や雪原の彼方へ放り投げてしまった。


「なんてことするんだよ!」


「……うるさいなあ、いい子だから黙ってて」


 無愛想に言い捨てる。そして王子が口をつぐんだ途端、


「!」


 何と、王子にかみつくようなキスをした!


 濃厚なディープキス。


「……」


 声にならない声。呆然と立ち尽くす王子を放ってすたすたと歩き出す。


 吹雪の中、氷の壁をぺたぺたと手探りし、何かを捜している。


「――あった」


 それは腰の高さほどの位置にあった。


 鍵穴。


 小さな小さな、そう、ちょうど女性の唇ほどの小さな鍵穴。


「ユフィ、手が真っ赤だよ……」


 王子の言うとおり、ユフィの両手は吹雪の中氷をひたすら探っていたため、凍傷をおこして真っ赤になってむくんでいた。おまけにユフィの着ているものは高原の遊牧民の民族衣装だったのですっかり凍えてしまっていた。


「これを……」


 お人好しというのか。考えなしというのか。王子は自らの身も省みず、自分の上着をユフィの肩にはおらせた。


 ユフィは振り返って目を瞠り、それから


「……ハニー、やさしいね。」


 とはじめてうちとけた笑顔を見せた。たしかにそれははじめてみせた笑顔に違いなかった。どんなに馴れ馴れしくしても、遠慮なく物を言っても、ユフィが自身の気持ちを見せたのはこれがはじめてだった。


「あんただって寒いでしょうに。あんたって本当にバカね」


 しょうもない、というように笑う。そして再び氷の壁にむきなおり、


「…本当、とびっきりのおバカさんだわ…」


 と消え入るようにつぶやいた。肩が震えているのは寒さのせいだけだったろうか。


 ベンジャミンは無言で王子を座らせ、それをくるむように自分も座った。


「少しはマシでしょう」


 王子はかつてそうしていたように、ベンジャミンの胸元の柔らかい毛に頬をうずめた。


「あったかいよ、ベンジャミン」


 ユフィは見なくともわかるその睦まじい様子を背にして、明るく言った。


「さあ、最後の魔法よ」


 腰をかがめ、鍵穴に口づける。


「!」


 ――鍵穴から閃光が放たれた。同時に、吹雪がその激しさを増し、息をすることもできなくなる。吹雪は地上のあらゆるものを天に昇らせるかのように渦を巻いた。


「!」


「!」


 王子はベンジャミンにすがりつき、ベンジャミンも王子をしっかと抱いた。


 目を開けてられない。


 息ができない。


 気が、遠くなる。


 ――でも、この手は離さない。








「…ん…」


 頬にふれる柔らかなものに気づかされる。


「何だ……?」 


 つまみあげると薄桃色の花びらであった。しばらくぼんやりとつまみあげたそれを見ていたがハッと現実を思い出しとび起きる。


「ベンジャミン!ユフィ!」


 捜すまでもなくベンジャミンは側にいた。王子がもたれかかって寝ていたのはベンジャミンの腹であった。まだ気を失っているらしく、命に別状ないことには、耳をあててみると確かに規則正しい呼吸をくりかえしていた。


 とりあえず安堵し、今度はユフィを捜すが見あたらない。そのかわり、みずみずしい土壁に削った書き置きのようなものがあった。ユフィのものだとは思うのだが、知らない文字で書いてあるので読めない。


「『ハニーへ。先に行っています。ユフィ』。……あの人、あいかわらず字下手ですねえ」


 いつのまにか目覚めたベンジャミンが読みあげる。


「ベンジャミン!」


 ちょっと身体をゆすって毛並みを整える。そよ風が吹き抜けてたてがみを揺らすと、金色の光が散った。


「――お気づきですか、オリバー?」


 ベンジャミンの声はやさしくあたたかった。この陽気のせいだろうか。


 陽気?


 そういえば、吹雪は?氷の壁は?


 ここは春だ。王子の生まれた国にさえない、本当の春。草木は緑に萌え、蕾はいっせいに花開く。せせらぎは大地を潤し、小鳥達は恋に喜びさえずる。


「――お気づきですか、オリバー?ここがあなたの国です。千年栄えるあなたの国です」










 非凡な城、非凡な妻、非凡な国。


 物語は終局をむかえる。


「そして王子様と王女様は末永く暮らしました、めでたし、めでたしってことになるのよ。それが定石」


 地中の塔はもともとは天空の城の一部であり、その天空の城はもともとは氷に閉ざされた国の一部だったという。


「国民には会った?国土は見た?いいところでしょう?」


 自慢げなユフィ。


「うん、いいところだね」


「でしょ?でしょ?国民は従順、妻は貞淑、国土は肥沃、どんなバカでも千年王国間違いなしよう。ハニー、あんた幸せ者よう」


「あ、そのことなんだけど」


 暢気な笑顔。らしくない冒険ももう終わったらしいので気楽だ。いつものようにのほほんとできる。


「――僕、いらないから」


 凍りつく空気。再び氷に閉ざされたのか?


 そんな中、王子はいつもの春の陽気の笑顔であっけらかんと言い放った。


「僕、いらないから。この国も、この城も。ユフィはいい人だと思うけど、僕は誰とも結婚するつもりないんだ。僕は」


「オリバー!」


 ベンジャミンの制止も効かず、らしからぬ強い意志表示。冒険の端くれの賜物か?


「――僕は、僕にはベンジャミンがいればいい。僕は自分の国に帰るよ、ベンジャミンと一緒に」


 かっくーん、とユフィの顎のはずれる音がした。と、錯覚するほどユフィは驚愕し、呆然と放心した。


「し」


 目を剥き


「し」


 肩を震わせ


「し」


 拳を握り


「――信じらんっないっ!」


 そうして力をためたぶんだけの大音量が耳をつんざき鼓膜をびんびん震わせた。


「ハニー、あんたバカだバカだと思ってたけどほんとーにバカだったのねっ?非凡な城、非凡な妻、非凡な国。万民が望んでも望みきれないものをあっさり捨てて一頭のこれっぽっちもかわいげのない獣を選ぶわけ?あんたバカよバカっ。絶対おかしいわよっ」


 しかし王子はユフィの機関銃のような言葉にも詰め寄る迫力にも屈せず果敢にも反論した。


「ちっともおかしくなんかないよ、ユフィ。ライオンでも何でも僕はベンジャミンを愛してる。うまく言えなかったけど、ずっとちゃんとその気持ちだけはあったんだ」


 度肝を抜かしているベンジャミンにきっ、と向き直る。


「ベンジャミン、君がいないとだめなんだ。いつでも一緒にいたいし、いつまでも一緒にいたい。僕は子供でそういう気持ちが何なのかわからなかった。僕たちは一緒にいるのが当たり前なんだと思ってた。でも、君がいなくなって、わかったんだ。ベンジャミン、僕は君を愛してる」


 両手でベンジャミンの頬に触れ


「!」


「!」


 ――ついばむようなキスをする。王子は深淵のようなベンジャミンの青い瞳をうっとりとのぞきこんだ。


「……ずっと君にキスしたかった」










 ――半年後。


「オリビエ様はどこだ?式の打ち合わせを再度しておかなければ」


「それをいうなら礼服をそろそろ着ていただかないと」


「ああ、急がなくては。御髪も結い上げてさしあげなければ」


「なんといっても今日は」


 慌てふためく侍従達。右往左往して王子を捜している。さて、当の王子はといえば。


「――いよいよですね」


 礼拝堂。


 庭園の奥深く、眠るようにひっそりと佇んでいる廃墟。かつてここで涙にくれたこともあった。金のライオン、ベンジャミンの名を呼びながら。あの激しい日々が嘘のように穏やかだ。ベンジャミンがいなくなったあのときは無数の蝋燭に照らされていた堂内だが、今は欠けた屋根やくずれた壁のあちらこちらからさしこむ陽光で満たされている。


「こんなところにいていいんですか?式の準備があるでしょう?皆さがしてますよ、きっと。……もしかして迷って自室に戻れないんですか?」


「ううん、ベンジャミン。君を捜してたんだ」


 手をさしのべる。


「君を捜してたんだよ、ベンジャミン。戴冠式は君にこそ見ていてもらいたいと思って」


 ベンジャミンはふ、とはかなく笑った。自分は四本足で歩く動物だから王子のさしのべた手をとることは決してないだろう。しかしそれでも王子はやはり手をさしのべ続けてくれるのだろう。


「行きましょう、オリバー。戴冠式用にあつらえた、王家の紋章つきの上着に着替えなくては」


「うーん、あの上着あんまし好きくないんだよなあ。なんかごてごてしてて」


「皇太后様からのせっかくの贈り物ですよ。……あの人らしからぬ寛大な心で処刑の中止はおろかあいかわらずの皇太子の地位、そして今日この日の戴冠式まで許していただいたんですから上着くらい着ておあげなさい」


 先に立って歩きだす。王子もついて歩きだす。


「せめてあの髪の毛を結い上げるのくらいどうにかならないかなあ。あれ、なんか顔の皮がつっぱるんだよねえ…」


「まだ言ってる」


 じゃれあうようによりそいながら礼拝堂を後にする。やがて足音も遠くなり、再び一帯に穏やかな静けさが訪れた。










 先程ベンジャミンの言葉にもあったように、王子は結局非凡な諸々のものをあとにし、自分の国に帰ると、どうにかこうにか皇太后の許しを得られて約半年後の今日この日、成人する暁に戴冠式とあいなった。


「――お時間です」


 侍従の声にすっと立ち上がる。成長期ゆえか、こうして見てみると顔立ちも一年前に比べ多少の精悍さをもちあわせ、確実に子供の殻をやぶりつつあるのがわかる。


「――」


 すっ、と音もなく歩きだす。堂々とした王たる風格。八人もの侍従が王だけに許される長い緋色のマントをうやうやしく持って付き従う。


 大聖堂に続く廊下では城中の人間が両側に立ち花びらの吹雪を王子の頭上にふりまいては祝福する。庭番や牢番、料理番の娘の顔も見えた。皇太后つきのあの無愛想な侍女達でさえ満面の笑みで祝福してくれていた。


「おめでとうございます!」


「我らが王!」


「我らが王!」


「万歳!」


「オリビエ様万歳!」


 と、人垣の中に、ユフラテの姿があった。思わず立ち止まる。


「ユフィ!」


「おひさしぶりね、ハニー……ううん、オリビエ」


「ずっと気になってたんだ。半年前、僕のわがままで非凡な城も国もユフィにおしつけるようにして別れちゃったから。魔法はだいじょうぶ?ぶりかえしたりとかしてない?」


 風邪やなんかじゃないのよ、と苦笑する。


「……あいかわらずやさしいのね、ハニー。だいじょうぶ、筋書きとはだいぶ違っちゃったけど、三つの魔法は解けたし、もともとあそこは私の国だから。うまくやってるわ」


 うまくやっている、というわりにはうかないユフィの顔色が気になる。


「ユフィ、何か悩み事があるんじゃないの?」


 ユフィはいつになく歯切れの悪い言葉をためらいながら選んでいた。


「……ベンジャミンは?」


「先に大聖堂に行ってるんだ」


「……そう。元気?」


「うん、元気だよ」


 ユフィは何か言いかけて止め、しかし息を大きく吸って――結局呑み込んだ。やっと口にしたのは


「……何があってもあなたが悪いんじゃないわ」


 という消え入るようなつぶやきだった。


「え?何が?どういうこと?」


「――オリビエ様、お式の時間が」


 侍従が割ってはいる。


「わかってる。でも、ちょっと待って」


 懇願。慌ただしく再びユフィに向き直る。


「ユフィ、それってどういう……?」


 すでにユフィは人垣の中に紛れ込んでしまっていた。


「ユフィ?」


 人混みをかきわける。


「オリビエ様、お時間が!」


「御髪が乱れます!」


「ユフィ、ユフィ?」


 呼べど叫べどユフィは二度と姿を現さなかった。










 門扉が大きく開かれ、ファンファーレが鳴り響いた。一瞬の静寂の後、続いて荘厳なパイプオルガンの音色が流れ出す。


「……。」


 オリビエ王子は一歩踏み出しては足を揃え、また一歩踏み出しては足を揃えながらゆっくりと祭壇にむかって歩みだした。毛足の長い緋色の毛氈に沈む一歩一歩を踏みしめる。末席には国立聖歌隊がそろいの白いガウンを着て並んでいる。続いて各国の首脳、他国の王族が見えた。


(!)


 きょろきょろするわけにもいかないので顔は正面に固定していたのだが、それでも思わずギョッと目を奪われたものがあった。


(…マデリーン姫…)


 である。皇太后の押しつけ婚約者、スチュワート公国のマデリーン姫。彼女は他国の王族の列ではなく、オリビエ王子の一族の席に座っていた。しかもその位置は皇太后、父王ときてその隣。本来ならオリビエ王子の亡母、王妃の座るべき位置である。


(まさか……)


 嫌な予感がする。不安に表情が僅かだが、隠しようもなく曇る。動揺に足許がもつれそうになる。


 と、


 ――ベンジャミンと目があった。


 ベンジャミンは祭壇の脇の、特別にあつらえた席に座っていた。そこはどんな階級も称号も関係なく、ただ神の隣というまったくベンジャミンにふさわしい位置だった。


 王子は静かに息を整えた。大丈夫、何があっても。自分の気持ちはたったひとつ、決まっているから。


 王子は余裕の笑みさえたたえて歩みをすすめた。


 大丈夫、大丈夫。










 皇太后が父王に緋色のクッションにのせた王冠をうやうやしくさしだした。 父王は王冠を両手でそっとはさむようにしてそっと持ち上げ、片膝をたてて跪いているオリビエ王子に向き直った。


「……オリバー」


 儀式は厳粛なものである。沈黙のうちにとりおこなわれるべきであるが、父王の感慨を思えば誰も咎めだてなどしなかった。


「あの小さかった子が……こんなに大きく立派になって……。おまえの母上にも見せてやりたかった……」


 こけた頬に幾粒も幾粒も涙がぽろぽろとこぼれおちた。


「……おまえは母上を覚えていないだろうね。可哀想に、寂しかっただろう」


「……僕……私にはベンジャミンがいましたから、大丈夫です」


 本当に、寂しいと思ったことはなかった。父王も亡くなった母后もたとえ側にいなくとも心がつながっているのだからとベンジャミンに諭され、その言葉を信じていたから。そして何よりベンジャミンがいつも側にいてくれたから。


「……おお、ベンジャミンか」


 父王は祭壇の脇にそっと控えていたベンジャミンを手招いた。


「さあ、そなたもここにきていっしょに祝っておくれ。この子が、オリビエが今ここにこうしてあるのは全てそなたのおかげなのだから。ありがとう、ベンジャミン。オリビエに、私と后の大事なオリビエによく仕えてくれて本当にありがとう」


「――もったいないお言葉です」


 皇太后がイライラと父王をつついた。が、父王は意に介さず、大聖堂中の聴衆にむかって朗らかに言い放った。


「皆様、式の途中での無礼をお許し願いたい。しかしここに明らかにしておきたいのはこの」


 この、とベンジャミンを壇上に立たせる。


「このライオンのベンジャミンのおかげでいまこの時があるということです。彼のおかげで我が子オリビエは幸福の王子となり得た」


 ベンジャミンは照れくさいのか、直情型なのは遺伝ですかねなどとぼそぼそとぼやいた。


「私の譲位前の最後の勅命として今この時からベンジャミンを我が王族の一員とする。これは絶対命令である」


 わあ、と歓声があがった。主に大聖堂の外からであった。城の内外でベンジャミンを慕っている者は少なくなかったのだ。ベンジャミンは照れもあらわに吐き捨てた。


「……狂ってる。ライオンが王族?とんだ茶番ですよ、全く!」


「みんな君が好きなんだよ、ベンジャミン」


 王子はこの上もなく満足げである。自分だけでなく他の誰もがベンジャミンのすばらしさを認めてくれたから。


 と、


「ここにもう一人、皆様に御紹介させていただく王室の新しい一員がおりますのよ」


 耐えかねたように皇太后がずいっとしゃしゃりでた。


「!」


 しゃしゃりでた皇太后の陰にひっそりと従って祭壇にのぼってきたのは


「……マデリーン姫!」


 であった。スチュワート公国のマデリーン姫。


「ああ、王族の正式なペットの紹介と並べては失礼だったわね、マデリーン。年寄りの間の悪さだと思って許してね」


「いいえ、お祖母さま。私、ちっとも気にしておりませんわ」


 手に手をとったりなんかしている。マデリーン?お祖母さま?


 皇太后は老女とは思えない張りのあるとおる声で大聖堂をびりびりと震わせた。


「皆様、我らが王、オリビエは本日この戴冠式で神の前に久遠の平安とともにこのマデリーン姫との婚姻を誓います」










 政略結婚。


 謀略結婚。


 ともあれ、大聖堂内はにわかに騒がしくなった。戴冠式のみならず婚姻、しかもその相手が大国、スチュワート公国の皇女とともなれば祝いの品々もそれ相応に整え直さなければならない。


 大聖堂中の動揺に皇太后はほほほと高笑いした。


「皆様を急のことで驚かせてしまったようね」


 父王が力なくつぶやく。


「オリバー。父親の私にこんなめでたいことを隠しておくなんて水くさいんじゃ……オリバー?」


 オリビエ王子はうつむき拳を固め肩を震わせ、


「ッ」


「オリバー、いけない!」


 ベンジャミンの制止も虚しく、


「――ッいい加減にしてくださいッッ!」


 キレた。


 何事が起こったのか把握できず呆然とする人々を前に早口に、しかし一語一語強くはっきりとまくしたてる。


「もう皇太后のおしつけにはうんざりです!何度も何度も何度もッ。繰り返し申し上げておりますが私は結婚する気は全くありません。マデリーン姫はもちろん、他の誰ともっ」


 青ざめるマデリーン姫。怒りに赤くなったり事態の醜態に白くなったりする皇太后。


「お、お、王子っ。このワタクシにそんな口をきくなんてっ。あなたはまだ即位していないのよっ。戴冠式はまだ終わってないんだからっ」


「わかってます。どうでもいいんです戴冠式も即位も。王位も妻もいらない」


「オリバー」


 ベンジャミンがたしなめるが、強い意志で言いきってしまう。


「――僕にはベンジャミンがいればそれでいい」


 一同、沈黙。










 事態の思わぬドラマティックな展開に大聖堂中の出席者はもちろん、テレビやラジオの中継で戴冠式をなんとなく程度に見ていた人々までもがぽっかり口を開けて唖然する他なかった。


「……獣姦ってやつか?」


「ばか、滅多なこと言うな」


 沈黙の嵐。


 皆、王子の台詞をどう受けとめればいいのか、うけとめあぐねていた。


 いや。


「……のね」


 ここに一人、正確につきつけられた事実を認識した者があった。


「マデリーン姫?何か?」


 スチュワート公国のマデリーン姫、その人である。


 いつも弱々しい笑顔を浮かべてひっそりと控えていたマデリーン姫であったが、今は背筋をを張って唇を噛みしめ正面を、壇上の王子とベンジャミンとを見据えていた。


「……オリビエ様。オリビエ様は私よりそのライオンを選ぶんですのね」


「えっ、えーっと」


 選ぶ、だなんて思ってみたこともなかった。取捨選択の余地などなかった。ベンジャミンがいればそれでよかったのだから。あとは言ってしまえばどうでもよかった。


「えーっと、貴女を捨てるとかそういうつもりはないんですけれども、結果的にはそうなる……かな?」


「……そうですか」


 マデリーン姫は祝福用に祭壇に捧げてあった香油の瓶と、それを照らしていた燭台とをゆっくりとした動作で手にとった。


「マデリー……?」


「あなたね」


 生気のない声でベンジャミンに微笑みかける。


「あなたがベンジャミンね」


 土気色にまで青ざめた頬。おぼつかない足許のせいでゆらゆらと陽炎のようにゆれる。


「――あなたが全て狂わせてしまったのよ、オリビエ様も、私の人生も!」


 香油の瓶が投げつけられ、


「ベンジャミン!」


 さらに燭台が投げつけられた。香油に引火し、ベンジャミンとその一帯は一瞬のうちに炎に包まれた。


「ベンジャミン!」


 駆け寄ろうとする王子を衛兵が二、三人がかりで羽交い締めにして止めた。


「オリビエ様!」


「危ない!」


「消防の者におまかせください!」


「誰か!」


「水だ!水!」


 オリビエ王子は燃えさかる炎に紅く照らされながら絶叫した。


「ベンジャミン!何でよけなかったんだ!」


 確かに、マデリーン姫の動作は緩慢で、よけようと思えば楽によけられたに違いなかった。しかしベンジャミンは全く動かなかった。動けなかったのではない、動かなかったのだ。


「――消防到着しました!」


「堂内の皆様は消防隊員の指示に従って速やかに避難してください!」


「おさないで!」


「かけないで!」


「静かに!静かに指示を聞いてください!」


 王子はぐい、と祭壇から引きずりおろされた。


「ベンジャ」


「さがって!オリビエ様、さがってください!放水します!」


「!」


 八方から引っ張られてきたホースから一斉に激しい勢いの水が噴き出した。


 水の壁が炎を封じ込める。


「鎮火したか?」


「延焼は?」


「ありません!」


「よし、いったん放水止め!くすぶっているようであれば火種を集中消火のこと。」


 号令とともに徐々に水勢が弱められた。


 が。


「!」


「何!」


 炎はまだ燃えさかっていた。くすぶるどころではなく何事もなかったかのように燃えていた。ますます火勢を強めたようにさえ見えた。


「どういうことだ!」


「ほ、放水再度、」


(……です)


 かすれた声が炎の中から漏れた。


「……?」


(無駄……です。この炎は消えない。)


「ベンジャミン!」


 ライオンのベンジャミンは炎に包まれながらも静かに佇んでいた。苦しむでも悶えるでもなく当然のように身を焼かれていた。炎に半分呑み込まれたその姿はまるで神話にある炎でできたライオンのようであった。


「ベンジャミン!」


(……消防隊の方々、御迷惑をかけます。この炎は私を焼き尽くすまで決して消えません。しかし私を焼き尽くせばただちに消え去るでしょう) 


「ベンジャミン!そんな!どういうこと!」


(……オリバー、寄らないで)


「でも、」


「――そうよ、ハニー」


 誰もいなくなったと思われた大聖堂に残っていた者があった。


 言わずと知れた


「ユフィ!」


 である。


「ユフィ!これも魔法なの?どうやったらこの魔法はとけるんだ?ユフィなら知ってるだろ?教えてよ!早く!」


 掴みかかる。いや、すがりついたのか。ユフィは厳かに決められた台詞を読みあげた。


「――これで全ての魔法は成就した」


「……?」


「ハニー、魔法は初めからひとつだけだったのよ。城も、国も、私も、――ベンジャミンも。みんな同じひとつの魔法にかかっていたの。城は天空を彷徨うことから、私は地中の塔で眠り続けることから、国は氷に閉ざされることから、それぞれ解き放たれたの。それと同じようにベンジャミンも炎にやきつくされることで――」


 予期せぬこたえ。ベンジャミンを助けられるかられないかではなく、全ては初めから決まっていたことだった?ベンジャミンが炎に焼かれることまでも?


「ベンジャミンは?」


「え?」


「ベンジャミンは何から解放されるんだ?ベンジャミンはどんな魔法にかけられていたんだ?」


「それは、」


(――それは私から話しましょう)


「ベンジャミン!」


 ユフィが悲鳴をあげる。


「無茶よ!平気そうな顔してるけど、地獄の炎に焼かれてて苦しくないわけないじゃない!気を確かになんかもたないでさっさと楽になっちゃいなさいよ!」


(……地獄の炎ですからね、そういうわけにもいかないんです。知らないんですか?地獄の炎は理性と感覚だけを最後に残しながら焼き尽くす習性があるんですよ)


「じゃあ、あたしがあなたを殺してあげるわ!」


「あ、ちょっと!」


 側にいた消防隊員から延焼を防ぐため用いられる鉄の斧をもぎとる。


(……ユフラテ)


 ベンジャミンは笑った。炎の中でさえ笑ったのだった。


(……ユフラテ。私に最初で最後の懺悔をさせてください)










 未だ神仙の天駆ける頃。


 花咲く実り豊かな祝福された国、そこに一人の若き王が在った。


 若き王は才色に長け、叶わぬ願いはなく、思い通りにならないことはなかった。そしてその思い上がり故に神の怒りをかい、ついには彼も、彼の国も城も、永い罰を課せられることとなった。


「おまえはおまえにふさわしい姿になるがよい。そして永久に地上を彷徨うがよい」


 そして若き王は一頭の獣となった。孤独な一頭の獣――ライオンに。


「罪は罰によって償われ、罰は炎によってその終わりを知るだろう」










「魔法はかけるときにその解き方までを相手に教えてはじめて成就するの。どんなお伽話にもちゃんと書いてあるでしょ」


 だからベンジャミンもユフラテも知っていた。


 魔法が完全に解かれるにはベンジャミンが地獄の炎に焼き尽くされることが絶対であると。


「そ…んな…」


 王子はやり場のない怒りに震えていた。


「何でそんなにしてまで、ベンジャミンが苦しんでまで魔法を解かなきゃなんなかったんだよっ。どうだっていいじゃないか、天空を彷徨う城も、地中に眠るユフラテも、氷に閉ざされた国も。ライオンのままだっていいじゃないか。魔法にかけられたまま、ライオンのベンジャミンのままただ僕の側にいて欲しかった――!」


 ベンジャミンの側に行きたいが、消防隊員に押さえつけられたままなのでわずかにもがく程度しかできない。たかぶる感情を抱えきれずに、ついにはその場に泣き崩れた。


(……そして?)


 そんな王子にベンジャミンは静かに問うた。


(そして、あなたが死んだ後もまた独りで生きてゆけと?永遠に?)


 先にベンジャミンの言葉の意味に気づいたのはユフラテの方だった。


「…ベンジャミン…あなた…」


 ベンジャミンは彼なりの不器用さで思いの丈を吐露していた。


(……そんなの耐えられません。王子、あなたのいない地上に生きていけなどしない……。王子、私はあなたに会えたからこそ、かけられた魔法を解く気になった。いや、解かなければならない自分の罪に気づいた)


 愛を知らなかった愚かな自分。それゆえに傷つけたたくさんの人々。ユフラテとて例外ではない。永きの眠りを余儀なくされた。彼女を知る者も彼女の知る者も、もう誰一人この地上にない。皆、死んでしまった――彼女が眠っている間に。炎が一層色濃くなった。ベンジャミンが眉根をひそめる。


(……く……っ)


「ベンジャミン!」


 大丈夫、と安心させるかのように王子に微笑みかける。激しい炎の中でさえもベンジャミンの瞳はどこまでも青く澄んでいた。


(……永かった……。でもこれでやっと静かに眠ることができる)


「……」


 ベンジャミンの過去?ベンジャミンの罪?そのどちらも王子には知る由もないことだった。


 ただ。


 ただ、自分はベンジャミンを知っている。自分の目の前にいる、自分と一緒に生きてきたベンジャミンを知っている。自分の気持ちを知っている。


 ならば。


 ならば、悩むことは何もない。


「……」


 王子はスッと立ち上がった。あまりに自然な動作だったので誰も気にとめなかった。


 次の瞬間、


(!)


 ――ほんの僅かな間の出来事であったのにそれはまるでコマ送りの映像のように鮮やかに一同の瞼に焼き付いた。


 王子は祭壇に歩み寄り、両腕を広げると、


「……ベンジャミン。僕をおいて逝くな」


 と頬ずるがごとく愛おしげに燃えさかる炎ごとベンジャミンを抱きしめた。


 途端、王子までもが一瞬のうちに炎に包まれた。


「うわぁっ」


「オリビエ様!ほ、放水だ、放水!再度放水!」


「そんな……地獄の炎がベンジャミン以外を……?」


 慌てふためく消防隊員。侍従達もユフィも呆然と立ち尽くす。


 炎は天に昇るかのように伸び、大聖堂の天井画に触れ、そして――閃光を放った。


 そのまばゆい光に一同はしばし視界と行動の自由を失った。


「!」


「!」


「!」










 そして大聖堂には何も残らなかった。


 いや、何も失われたものはなかったのだ。


 祭壇にも緋色の絨毯にも焦げ後ひとつ残らなかった。ただ消防隊のおびただしい量の放水でそこらじゅう水浸しだった。そんな中もともと火のついていなかったかのような蝋燭の全く新しい燭台が場違いに転がっていた。


 ただ。


 彼らだけは。


 彼らの姿だけは大聖堂からすっかり消え失せてしまっていた。


 もとからいなかったかのように。


 ライオンのベンジャミンとオリビエ王子の姿はどこにもなかった。


「……ハニー?ベンジャミン?」


「あ、あれ?火は?」


「オ、オリビエ様はどこだっ」


「そうだ!オリビエ様!」


「オリビエ様――?」


「おい、女、おまえ何がどうなったのか知っているんだろう?」


 ユフィは力なく首を振った。


「わからないわ。私にもわからないの。ただ、物語は誰も知らない終局をむかえたんだわ」










 突然。


 ライオンをアフリカからトクベツビンでチョクユニュウしたどこかの国の王子のことを思いだした。


 せっかく彼のお父様が彼のためにアフリカからトクベツビンでチョクユニュウしたライオンは彼が名前を付ける前に死んでしまったのだと聞いた。


「どうして?ライオンって強いんでしょう?」


 ベンジャミンは困ったように笑った。


 実際ベンジャミンはもともとはライオンではなかったのだからよくわからなかったのかもしれない。


「そのライオンは寂しかったのかもしれませんね」


「ライオンが、寂しがるの?」


「ライオンはもともと群で行動する種族ですし、」


 ベンジャミンはどこか遠くを懐かしむような瞳をした。


「――誰だって独りでは生きてゆけないでしょう。」










「……ベンジャミンには僕がいるからね」


「何ですか、急に。気色の悪い。どこか頭でも打ったんですか?」


「へへへ」


 礼拝堂。


 庭園の奥、今はもう使われていない廃墟。


 そのあちこち腐触して斜めになった木の祭壇にベンジャミンと王子は腰掛けていた。


 ベンジャミンと王子。


 ライオンではないベンジャミンと王子。


 金の巻き毛は年月の分伸びたのだろうか、腰にまでもとどき緩やかにカールしてつやつやとした光を宿している。少しきつい印象をあたえるしかし端正な顔立ち。大理石の彫刻ように均整のとれた四肢、磁器のように白くなめらかな肌。ただ瞳だけはライオンの時と変わらずどこまでも深く青く澄んでいた。


「ベンジャミンって何歳くらい?」


「実際年令は千歳を軽く越えますがね。どうやら手足の皺のよってないところをみると魔法をかけられた十八歳の頃から年をとっていないようですね。」


「ふうん、ぼくより三才年上か」


「……あまりじろじろと見ないでください。さっさとみんなの所に戻って無事を宣伝しないと戴冠式がそのままお葬式に変更されてしまいますよ」


「うん。ベンジャミンも一緒に行こう」


 かああ、と耳たぶまでも桜色に染めるベンジャミン。


「私はこんな恰好なんですよ?人前にでられるわけないでしょう!」


 こんな恰好。


 全裸の上に王子からはぎ取ったマントを軽く羽織っているだけのあられもない恰好。


「ライオンの時は何も着てなかったじゃない」


 意地悪く笑ってみる。


「王子!」


「あはは、ごめん、ごめん。――王宮にそっと忍び込んでから戻ろうよ。僕の服で合うかなあ」


「それより御自分の部屋までの道順は覚えていらっしゃるんでしょうね?」


「え、えー、あー、……たぶん大丈夫。だと思う」


 以前と変わらぬ様子でじゃれながら、はしゃぎながら礼拝堂を後にする。 やがて二人の足音も遠ざかり、小鳥のさえずりが洩れきこえるだけの静けさが廃墟に再び訪れた。


 廃墟の奥、ひび割れた天井から射し込むうららかな光にさやかに照らされているものがあった。


 ぼろぼろに焼けこげた毛皮。もう要らない、咎の枷。


 毛皮はしばらく感慨深げにそこにうずくまっていたが、やがて廃墟に迷いこんだ一陣の風に灰となって散ってしまった。




                      【終】







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