第一話:イデオロギーの敗北

 月雄が屍人の声を聞けるようになったのは、去年の冬からだ。

 十二月下旬。

 丁度、月雄の両親が他界した時である。

 その日はなんら特別性を持たない、流動する日常の一コマであった。木枯らしが肌に刺すような土曜日で、学友達といつも通りの午前授業を受けて、四限目の終わりにすぐに下校しようとした時だ。

 どこか遠慮がちというか、普段の高圧的な態度を潜めた担任の教師が、月雄の心を事前にあやすかのような高めのトーンで、月雄を教室から呼び出した。

 まるで自分がその担任教師よりも偉い立場にいるのではと少しだけ優越感に浸る事ができたのもつかの間。

 担任教師から、両親の死を告げられた。

 しばらくの間、月雄は固まっていた。


 親が死んだ。担任教師にそういわれた。僕の親が死んだのか。嘘という可能性はないか。ないな。ないのだろうか。いや、ないか。交通事故だろうか?本当に死んだのだろうか?死んだのだろう。これからどうするのだろう。両親が死ぬなんて本当にあり得たのか。どうやって死んだんだ?火事か?家が燃えたのか?それは嫌だ。本もゲーム機も、貯金も賞状も、帰る場所もなくなるのはいやだ。この人はどう思っているのだろう。僕が泣くと思っているのだろうか?泣いたほうがいいのだろうか?どんな感情を今自分は持っているのだ。両親が死んだ。僕は今どんな顔をしているのだろう。何を言えばいいのだろう。悲しむべきだ。でも感情がきっと追い付いていない。情報に追い付いていない。でもどんどん頭は熱を帯びていく。


 結局、呆然としたまま担任教師の車に流れるように乗せられ、警察署に連れていかれた。まるで自分が悪いことでもしたみたいで、よくわからない罪悪感に苛まれた。

 特に待たされることもなく、無機質な廊下を抜けて署内の応接室に通された。そして、こちらに配慮した静かな声調で、警察の人から両親の死について詳しく説明された。

 曰く、他殺とのことだ。刃物か何かで、首のあたりを一振りで傷つけられているとのことだ。

 火事でも、交通事故でも、その他色々な環境的死因を全て無視しての、他殺。

 両親は、知らない誰かの手で、その手に持った刃物とその心に宿った殺意に、殺されたのだ。

 いや、知らない誰か、というのは、少し語弊がある。

 よりにもよって加害者は、今を生きる人々であれば誰もが知っている人物であった。

 『紲』。

 ここ数か月の間に、二十人以上もの一般市民を惨殺死体に変えてきた、稀代の凶悪殺人鬼の通称である。

  既に警察の間では、捜査第一課を筆頭として刑事部が全面的に捜査を開始しているが、未だにその素性は不明のままである。現場には鑑識課や科捜研のDNA鑑定に回せるようなものは何ひとつとして残っておらず、本名や性別、体格はおろか、凶器でさえも、死体に残った傷跡から状況証拠的に刃物と暫定的に判断されているだけで、結局、何もわかっていないのだ。

 紲、という通称も、彼(便宜上、彼としておく)が最初の犯行の際に唯一残した手がかりである一切れの藁半紙に、墨で『紲』と、乱雑に書かれていたために付けられた通称であり、当然その藁半紙から指紋などが取れる筈もなかった。

 霞のような殺人鬼。

 応接室で警察の話を聞きながら、漠然と月雄はそう思っていた。

 親が人に殺されたというのに、随分と悠長で冷静だと思われたかもしれないが、それは少し違うと付け加えておきたい。

 単純に、受け入れられていないのだ。まだ、両親の死体も確認できていない。死体は司法解剖に回されるであろうから、遺体の受け入れは数日後になるだろう。その間に、小規模でいいから葬儀の準備をしておかなければならない。

 そうして色々と準備をして、初めてきっと、月雄は両親の死を目の当たりにするのだと思った。

 受け入れるのは、そのさらに先だ。

 時間をかけてゆっくりと自覚するものなのだ。

 こんな唐突に、実感もないままに両親はもういないといわれても、心は動揺するばかりで感情を吐き出す余裕もなかったのだ。


 両方の祖父母を既に癌と老衰で亡くしていた月雄は、母の唯一の妹であり、月雄の唯一の叔母である縫子一家、即ち四季堂一家に引き取られた。そしてその二週間後に、葬儀は行われた。

 葬儀は、とても小規模のものであった。

 黒光りする大きな棺桶には不釣り合いな狭い畳部屋で、ひっそりと行われた。ひっそりとしているのも当然で、縫子さん含む四季堂一家と、月雄だけしかいないのだ。     

 探せば遠い親戚もいるのだろうけど、なにせ死因は他殺だ。臭いものに蓋、とまでは言い過ぎかもしれないが、触らぬ神に祟りなし、要するに態々、面倒ごとに関わりにくる輩はいない。

 寂しいとは思わなかった。寧ろ、少し心地良くすらあった。知らぬ遠い親戚らに挨拶をする余裕は、月雄には無かったからだ。

 家の宗派など形骸化していたが、体裁上は地元の浄土真宗の檀家であった為、僧侶によって棺桶の前で読経が行われている中、月雄はゆっくりと目を閉じ、外界の情報を遮断した。

 その代わり、秩序を失いつつある内側に、統制を施す。

 本当に、父さんも、母さんも、死んだのだ。

 もう二度と、僕に声をかけてはくれないのだ。そして、僕はもう二度と、声をかけられないのだ。鼓膜にも脳裏にも焼き付いたあの父さんの声も、母さんの声も、もう携帯端末の動画の中にしか存在しない。そしてそれもまた、機械によって再現された精巧なコピーであり、本質的な声ではなく、音でしかないのだ。

 声が聞きたい。でも、もう聞けない。

 ここにきて脳裏を駆けめぐるのは、家族旅行や運動会といった特別な思い出ではなく、何気ない日常の中の、当たり前であった。普段の生活が、今ではただ色濃く、強く、鮮明に、思い出される。

 そして、月雄は涙を流した。

 もう、自分でも感情の整理はついていた。あとはこの悲しみを反芻し、少しずつ慣らして、いつしか飲み込むしかないのだ。この涙は、その最初の咀嚼であった。


 気が付くと、戦時中のラジオのように延々と知らない単語を吐き出していた読経は終わっていた。

 僧侶は、読経のときの無機質な声調から一転して優しいトーンで、通夜式での振る舞いを軽く説明してくれた。無事に心と決着をつけて、月雄は葬儀を終えた。

 遺体は、今日の夜過ぎにも火葬場へ運ばれるそうだ。きっと骨壺を詰める時、月雄はまた心を激しく動揺させるだろう。でもいつかはきっと、両親がいない日常が当たり前になる。両親がいたという過去を、本来あるべき姿としてではなく、ただ純粋な過去として見られる日が、きっと来る。

 読経を終えた後に告別式があり、月雄はもう一度、両親の遺体を見る機会があった。

 僧侶によって棺桶を二つとも開けられると、鮮烈な白を視界に捉えた。それは、白装束に身を包み、不自然なまでに真っ白な肌に整えられて納棺された、両親の遺体であった。

 左は、父さん。右は母さんである。

 二人とも、首周りには包帯のような、しかし少し分厚い白い布のようなものを巻かれていた。首の傷を隠すためであり、同時に固定するためのものだろう。

 この時、なぜだか月雄の感情はフラットであった。何故かと聞かれるとなんとも形容しがたいものだが、敢えて言うなら、二人の様相は、穏やかなものであったからだ。無論、納棺されるときに整えられたのだと主張する者がいるかもしれないが、実はそうではないのだ。

 警察の話によると、両親の遺体を自宅で発見した時、どちらも苦痛や不安、悲痛や絶望を少しでも想起させるような表情で死んではいなかったそうだ。

 これは何も、月雄の両親だけに言えたことではない。

 紲の被害者は例外なく、抵抗した後がなかったのだ。被害者はみな穏やかな表情で目を閉じており、生き残ろう、何かを残そうという強い意志を感じさせないものだったという。

 紲とは何者なのか。

 なぜ、月雄の両親を殺したのか。

 そしてなぜ、月雄の両親は紲の殺意に抵抗しなかったのか。

 わからない。

 二人に、心の中で問う。

 僕は、これからどうするべきなのだろうか、と。


  葬儀を終えた後、月雄も含めた四季堂一家で、最初の家族会議が行われた。とはいっても、会議というよりはそれぞれの行動報告やこれから何をするか、みたいなもので、鳩首協議というほどのものでもない。互いに、短いセンテンスでやり取りをしただけのことであった。

 四季堂家夫婦である四季堂縫子と四季堂壮也は、月雄の両親の件でまだ警察の聴取があるらしく、葬儀が終わり、家族会議をした後にすぐに車で出かけて行った。

 四季堂家の一人娘であり、今年で医療大学の二年になる従姉、四季堂遥は一言だけ「寛いでいいからね、もう月雄も家族なんだから」と、不安を見せない、しかし必死に取り繕った陽気な声で言うと、そのまま二階に姿を消した。きっと、気を聞かせて二階の自室に戻ったのだろう。

 広間の畳部屋には、二つの棺桶と、月雄だけが残った。

 畳の薄緑色の落ち着いた色合いに対して、真っ黒に塗りつぶされた二つの棺桶は、どうにも不吉というか、歪で気味の悪いコントラストを体現していた。

 奇妙なものである。つい先程までは、棺桶の中に眠る父さんと母さんを見て涙を流すほどに悲しんでいたのに、今は、この棺桶がどうにも不気味でしょうがない。異物感すら覚えてしまっている。

 だから最初、密室であったこの部屋に、服越しに貫くような冷たい風を感じた時、月雄はこの感覚をただの悪寒だと思ってしまっていた。

 しかし、冷気は密室であるはずの畳部屋に漂い続け、うねる様に畳部屋の空間一体を蠢いていた。明らかに、おかしい。先程までは悲しみに心を少なからず支配されていた月雄だが、この時は、僅かに不安が押し勝った。そして曖昧であった不安は、実態のある恐怖に変貌を遂げる。

 ガタガタと、音が月雄の鼓膜に届いた。

 まるで箱の中に生き物がいるときのような、箱が揺れて内側のものとぶつかるような音。

 その音を、月雄は聞いてしまった。

 発生源は、畳部屋中央北寄り――即ち、二つ並んだ黒い棺桶であった。

 一瞬で、体が凍り付くのを月雄は感じた。

 体温が失われていく、いや、奪われていくような感覚が月雄を襲った。冷気のうねりが、体の熱を奪うように絡みつく。鳥肌が止まらない。そして、ある予感が脳裏を掠めた。

 「いや、そんな馬鹿な……」

 思わず、独り言を口にする。恐怖が、そうさせる。

 そんな馬鹿な事があるだろうか。月雄は仮にも幽霊などという存在を認めていない。今までに一度たりともそんな存在をはっきりと知覚したことはないし、何よりも、科学によって幽霊という存在は殺されつつある。幽霊に限った話ではない。ありとあらゆるオカルトは、科学によって淘汰されてきた。立場こそあいまいだが、オカルトの権力は圧倒的に零落しているのだ、この現代に於いては。

 気が付けば月雄は、震えて力の入らない両手を、左右の棺桶の端にそれぞれ置いていた。

 恐怖がそうさせる。棺桶には何も問題などないと、声高に主張したい怯えた心が、そうさせる。

 普通に考えてみれば、棺桶が勝手にガタガタと揺れて音をあげるなど、ありえない。重ねていうなら、棺桶は二つもあるのだ。その両方が動き出すなど、想像だにしない。

 しかし。

 ――ガタッ。

 動いた。

 動いたのだ、棺桶が。

 「うわあっ」

 思わず、月雄は両手を勢いよく飛び上がらせていた。

 しかし、確かに、両手に伝わってきた。ごまかしようもない、明確な振動が、棺桶から伝わってきた。月雄の淡い願望と期待を嘲るように、二つの棺桶は、その振動を両手越しに伝えたのだ。

 この時月雄は、心臓が収縮しすぎて潰れてしまうのではないかと思うほどに、胸に強い痛みを感じていた。呼吸も荒い。不規則な鼓動が鼓膜を内側から揺らし、無造作に血液を体中に送り込んでいるのを、じかに感じていた。手汗も酷い。何より、体を内側から震わせるような悪寒が止まらない。

 身体の内側で、警鐘が鳴り止まない。

 これは、紛れもなく恐怖が生んだ症状であった。

 頭の中で意味のない無数の考察が流れるが、濁流の様な思考に手を突っ込める訳もなく、複雑な考えは流れていき、後に残ったのは砂利のように小さく単純な考えであった。

 あり得る筈のない恐怖が、月雄の思考を酷く出来の悪いものにしてしまっていた。 

 不幸にも月雄はそれを、精神的に限界の近いこの状況で採用せざるを得ない。

 最悪のコンディションの中で、月雄はそれでも、左の棺桶に手を置いていた。棺桶の冷たい感触が、触っているという事実をより強調する。

 現実であると、執拗に感覚が教えてくれる。そして月雄は、手に力を入れた。

 思えばこの時、妙に空回りした自尊心に身を委ねず、素直に理性に従ってその場から離れていればよかったのだ。そうしておけば、少なくともあのような苦労をせずに済んだのだ。

 あのような、地獄を見ずに済んだのだ。

 この先に起きる出来事は、その地獄へと繋がる最初の関門であった。

 或いはそれは、科学を妄信し、オカルトを軽視してきた、月雄の過ちの具現であった。

 果たして、月雄は棺桶の端を、力の入った手で掴んだ。

 冷たい感触は想像の通りであったが、思ったよりも蓋が軽い事には驚いた。

 あっけなく、棺桶は開けられた。


 そこには、嘗て父であったものが寝かされていた。

 整えられてこそいるが、隠しきれない、血の抜けた真っ白で不健康な肌。傷跡の隠された首。そして、白装束。

 しかしそれ以外は、やはり父であった。

 嘗て父であったものだなんて、割り切れる訳がない。死んだ後の肉体も、やはり父さんなのだ。ただ寝ている時と死んでいる時で見分けがつかない時、どっちかが肉塊でどっちかが父さんだなどと言える筈もない。死んでいても、父さんは父さんだ。死は、残った肉体に付随していた情報までは死なせない。死は状態なのだから。

 父さんは、何の変哲もなく死んでいた。

 そこに、少しだけ安堵する自分がいた。不思議なものだ。あれだけ生きていて欲しかった人の筈なのに、それが摂理に反する生であれば、否定してしまう自分がいる。 

 そんなにも、僕は無意識に常識を、普通を、法則を、科学を、道徳を、倫理を、観念を、妄信していたのだ。

 少しだけ心を落ち着かせ、呼吸を大袈裟な深呼吸で整えた月雄は、母さんの棺桶にも手を伸ばした。

 もう一度息を整えて、月雄は棺桶を開けた。

 

 「つき……お……?」

 

 心臓が跳ね上がった。

 鼓動が鼓膜を強く打ち付ける。体中から、冷や汗がとまらない。悪寒が最高潮まで達し、強い眩暈が視界を暗くする。一気に、月雄の中の秩序が、世界が崩れていくのを目の当たりにした。

 月雄の母は、虚ろな双眸を、体だけは寝かした状態で、しかし、しっかりと月雄に向けていた。

 僕はオカルトを信じない。

 このスタンスとは、今夜限りで終わる関係となってしまった。

 

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屍人の口添え 加賀 安芸  @akizhong

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