屍人の口添え

加賀 安芸 

プロローグ:死を内包する病院

 八重町。

 近畿地方の太平洋沿いに広がり、同時に内陸側を山に覆われた、山と海に囲まれた町だ。

 人口は八万人弱で、その広大な土地のわりに人口は少なく、中年層に人気の牡蠣のしぐれ煮が特産品の、典型的な田舎町。町の太平洋側は港町としての体裁を保ってはいるが、戦前のような派手な鰯漁は辞めてしまったらしく、今は小規模の魚市場で、地産地消を図るばかりである。内陸側には一本の高速道路が通っているが、厳かな山の合間を縫うように通ったそれは、八重町と外界を繋ぐ、一本の細い糸のようでもあった。その一本の細い糸に光明を見出すかの如く、内陸側は山沿いに、群がった街を形成している。

 東はのどかな海の町、西は忙しない山の町。それが、八重町の性格であった。人によっては、太平洋沿いの八重町を「町」と称し、山沿いの八重町を「街」と称したりもするそうだが、少なくとも八重町に根を下ろす住人達は、「東町」、「西町」と、しきりに区別しているようだ。

 この場合、海沿いの田舎町を「東町」、山沿いの郊外を「西町」と区別する。

 それは、町に住む者達と、街に住む者達との、互いのコンプレックスが生み出した軋轢でもあったのだろう。都会の喧騒を嫌い、自然との共存を是だと言うのであれば、態々西町の者達を非難して区別する必要もない。逆もまた然りである。自然と共存する不便さを嫌い、近郊の刺激を是とするのであれば、態々東町の者達を非難する必要は、やはり無いのである。

 畢竟、二つの性質は意思を以て互いに互いを、青い芝生だと捉えていたのである。

 そんな歪な町にも、平等に命は生まれるし、そして平等に、死もやってくる。


 やませが仄かに潮風を運び、西町の端から中までコバルトブルーに染め上げる中、西町のシンボルの一つとも言える医療病院の金字塔、大條大学病院は、その棟内の空気を灰色で染めていた。

 松島鶴美。

 つい数時間前に、鬼籍に入った老齢者の名である。

 約一カ月前に、郊外にある介護施設にて脳溢血を起こし、大篠大学病院に救急車で運ばれてきたが、ここ数日は、何かと明朗快活といった様子で、溌剌としていた。慢性的な認知症や、杖に頼った歪な歩行が、まるで蒸発してしまったかのように消えて無くなっており、異質な程に、生命力に溢れていたのだ。

 最近病院にデスクワークとして派遣されてきた臨時職員や新人看護師などは、鶴美の様子に驚きつつも、肯定的に捉えていた。

 しかし、院長を筆頭として、地獄を煮詰めたオーバーシュートを何度も体験してきた職員などは、鶴美のそういった様子を見て、その死期を既に悟っていた。

 そして事実、鶴美が活力を取り戻して数日後、彼女はあっさりとその魂を手放した。健康体に確実に近づいていると思われていたその肉体は、呆気なく腐るだけの肉塊と化していた。

 元気な姿を院内に振りまいていただけに、最近入ってきた職員達は衝撃や悲愴な雰囲気を隠しきれていなかった。

 そんな空気の中、有縞月雄だけは悲しみや驚きという感情に心を染めず、ただ一つの緊張を胸に抱えて、院長室まで足を運んだ。院長室は、棟内の内装とは無意識的に区別されている。潔癖と慈愛を綯交ぜにしたクリーム色の壁に包まれた棟内と違って、院長室の中は、清潔感のある白磁の壁によって包囲されている。

 良く言えばシンプルでさっぱりとしたデザインのそれは、悪く言えば普遍に対して排他的で、その場にいる事自体がイレギュラーである事を直感的に意識づけられるような、言わば緊張感を常に泳がせている、そんな場所であった。

 そこで資料を精査している初老の男性、大篠洋司もまた、その部屋の特徴に似て厳かな様相で、その部屋に存在していた。

 静かに開けられた扉に反応すると、少しだけ物々しい表情で、扉を開けた月雄に声をかけた。

 「やあ……、鶴美さんの事だね」

 ハスキーだがよく通る声をした洋司は、端的に月雄の要件を確認した。

 陰鬱な空気は、この部屋にも浸透していた。

 「はい。旧四棟に行きます」

 思いのほか、軽いトーンでそう告げると、その言葉の内側を読み取った洋司は、少しだけ悲嘆の表情を浮かべて、月雄に、存在する筈のない旧四棟への入棟許可証を出してくれた。

 大篠大学病院は、戦前より権威ある医学者グループによって創建された、日本でも有数の大学病院である。千を超える病床数と高度な医療技術、そして長期的な入院に配慮された様々なバリアフリーが顕著にみられる、海外医療業界でも一目置かれる存在である。

 千九百六十年代の高度経済成長の中で医療業界に投資する成り上がりの資本家が次々と生まれる中、大篠大学病院にも大きな医療系総合企業がスポンサーにつき、千九百八十年代後半には、現在になるまで使われている新棟が建てられた。

 以前まで本棟であったそれは、「旧」というレッテルを貼られて、排他的な社会の風潮に抵抗する力も持たずに、あっという間に淘汰されていった。代わりに、時代の最前線を担う外資系医療コンサルを基軸に置いた先鋭的な、当時に於いては奇抜であり無謀とも言える経営方針に則って、「新」を冠する、現在の大篠大学病院という一つの権威を築き上げたのである。

 しかし、建設に合わせて旧棟の殆どの設備が新棟で一新され、旧施設が準備室や保管室として流用されていく中、ぽつりと取り残されるように、時代に見放される様に、しかしそれでも猶、一抹の必要悪に堅牢な鎖で繋ぎ止められて、旧四棟だけはその内装を今も引き継いでいた。

 特殊遺体安置所。

 それが、旧四棟が内包する本質であった。

 特殊遺体安置所とは、旧四棟がまだ本棟として盛んに利用されていた千九百六十年当時、まだ解明の進んでいない様々な病気を抱えて命を落とした患者を、患者の家族の同意を得た上で解剖して治療方法を確立させる、病理解剖のために設けられた遺体安置所である。

 その性質上、通常の遺体安置所とは違い、長期間の解剖に耐えられるように防湿処理が施されており、更には、当時最先端の医療技術によって、医療用冷蔵庫などにも使われるペルチェ素子を利用した、より長期、より高度な遺体の保管を可能としていた。

 月雄は、少々の寂寥を胸に秘めつつ、同時にとある使命感の様なものに駆られて、旧四棟の古びた扉を両手で押し開けた。

 錆びて緩んだ蝶番がギチギチと醜い金属音を唸らせるが、月雄はそれを無視して安置所へと向かった。安置所は、旧四棟の地下にある。

 旧四棟の中は、不気味なくらい薄暗かった。

 廊下を照らす等間隔の蛍光灯は最低限にしかその意味を成しておらず、闇に沈んだ薄暗い廊下は、不気味な雰囲気を醸し出している。

 疎らに明滅する昼白色の頼りなさに、不安を否応なしに煽られる。いつ消えてしまってもおかしくない光が、奥に抜けていくにつれて一層儚く、淡くなっていく。

( ——、屍人の魂が……、現世に繋ぎ止められているみたいだ…… )

 儚い明滅が魂の放浪を意味すると、無意識に月雄はそう思ったのであった。そして同時に、熱い鼓動と共に生きる者達の、生者の持つ魂は確かに、轟々と燃える焔の如き性質を有するのだと、それもまた無意識に月雄は思い込んでいた。

 薄気味悪い廊下を通り抜けると、地下へ続く階段が口を開けている。階段の向かう先は切り抜いたような暗黒で、この施設がもう使われていない事を如実に表していた。しかし、今の月雄にはそんな抽象的な恐怖を跳ね除けるだけの、確固とした意志がある。暗がりに潜む抽象的な魔物たちは、月雄の烈火の如き意志によって焼かれるばかりである。

 堂々と、階段を降りていく。

 階段を降り終えると、隅から色の落ち始めている薄青の壁が織りなす廊下が再び続いていた。廊下は左と右、そして真ん中に枝分かれしていたが、月雄は迷わず左へ進んだ。

 そして何度かうねる廊下を蛇行した末、目的地にたどり着いた。

 特殊遺体安置所、第二安置室。

 安置室の扉の前に立つと、扉の隙間から染み込んできた冷ややかな空気が、月雄の肌を撫でた。

 異質な冷気に煽られて反射的に肌を震わせつつ、月雄は躊躇せずに、しかしゆっくりと安置室の扉を開けた。中にいる人物に、配慮するためだ。

 安置所に足を踏み入れると、冷気はより一層分厚くなり、うねりながら部屋の中を漂っていた。

 その冷気のうねりの中心に、一つの肉塊が横たわっていた。

 小柄な体に、死に装束を身にまとう老躯。骨に皺を着せたかの様に細身であった、一人の老人。

  松島鶴美の遺体である。

 数時間前まで芯の一本通った、はっきりとした声で、棟内の職員達に挨拶をし、普段は米もおかずも均等に残す朝食を、ここ最近は完食して頬を緩めていた、松島鶴美。

 それは、数分前に、更新されることのない絶対の過去となった。

 今は、安置室の無機質な病床に体を預けて、その魂を何処かに解き放ってしまった。

 だから。

 

 「——うぅ」


 冷気のうねりの中心から、音が生まれた。

 うめき声だ。その声を、月雄は聞き逃さなかった。

 依然として冷気に体を覆われる中、月雄はある種の不遜な義務感と愚かな優越感に浸りながら、平常を取り繕って声をかけた。

 鶴美の遺体に。

 「僕です、月雄です」

 月雄は、有声音である事を心掛けた最低限の小声で、鶴美の遺体に向かって言葉を投げかけた。

 すると。鶴美の遺体は、その言霊に呼応するかのように、反応を示した。

 より正確には、鶴美の、血色を失った唇がゆっくりと開閉した。

 「あ……う……く……」

 無秩序な文字列を吐いたうめき声は、段々と理性を取り戻していくにつれて、次第に統一性と整合性を帯びていく。

 「つき……お……くん……かい……?」

 文字列が、意味を成した。

 屍人の口から、月雄の名前が吐き出されたのだ。

 そこに、一抹の喜びを確かに月雄は感じ取った。しかし、それは鶴美と再び言葉を交わせることによる喜びではない。月雄は、今現在、この時、確かに屍人の声を聴いている、鼓膜が振るわされているという事実に、歓喜しているのであった。

そしてこの屍人との会話こそが、月雄がこれからやろうとしている大がかりな復讐劇の、その最初の一歩になると、そう確信したのだった。

 しかし、屍人とのコンタクト自体は、これが初めてではない。

 故に、屍人の声を聴く上での禁忌、所謂タブーというものも、月雄は理解していた。

 その一つとして、まず、屍人の呼びかけには絶対に反応してはならない。屍人に何を聞かれても、それには答えず、一方的に自分の質問を押し付けなければならないのだ。

 「……、『紲』という男について、知っている事を話してください」

 本来、もう聞ける筈のない屍人と話せるというのに、月雄の口調は実に平坦で無機質なものであった。これを屍人への冒涜だと唱えるのも結構だが、死後に猶も口を開かせている時点で、冒涜や禁忌などと考えるのは無意味に等しい。

 それに、月雄には屍人を冒涜してでも成し遂げたい事がある。この目的を達成させるためであれば、屍人を愚弄するという精神的な重圧など、いくらでも耐える事ができる。

 月雄は、紲という一人の男について、冷淡な口調で屍人に質問した。

 鶴美の死体が、乾いて血の抜けた唇をゆっくりと動かした。

 「…………せ……つ…………」

 光情報を一切受け付けていない虚ろな双眸で、鶴美は意思の感じられない言葉を紡いだ。

 「紲について、知っている事を話してください」

 改めて、月雄は同じ質問を依然冷たい口調で繰り返した。しかしそこには、隠し切れない緊張が付きまとう。

 「……し……」

 鶴美の二度目の言葉が鼓膜に届くと、一気に心臓が跳ね上がる。

 屍人は基本的に、質問を一度では聞き取れない事が多い。一度目で聞き取れない時は、こちらが質問した内容の一部を繰り返したりする。今回もそういったパターンである。

 月雄は、呼吸を乱しつつ、慎重に答えを待った。

 絶妙な静けさの中で、生者と死者は、確かに交錯していた。

 鼓動を持つ者、持たざる者。魂を持つ者、持たざる者。

 否、屍人は魂こそ持たずとも、その欠片は……、或いはその残滓は、持ち合わせている。故に屍人なのである。少なくとも月雄は、そう解釈し、「屍人」と「死者」を区別していた。

 果たして、屍人は言葉を紡いだ。


 「し……ら……ない…ねぇ……」

 

 その言葉が紡がれると同時、鶴美は屍人から死者へと変貌し、二度とその口を開くことはなかった。

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