空っぽな私達

丸井まー

空っぽな私達

『白の森』という場所がある。そこはいつも濃い霧に覆われていて、時折、森の中から人が現れる。『白の森』から出てきた人は、何もかもを失っている。服も、持ち物も、記憶も、言葉さえも失っている。生まれたばかりの赤ん坊のように、自分では何もできなくなった状態で『白の森』から現れる。


 ポーも『白の森』から現れたらしい。『白の森』の近くには、保護施設がある。年に十人近く「白の森」から人が現れるので、十年前に国が保護施設をつくったそうだ。

 ポーは二年前に保護された。ポーは何も持っていなかった。何処で生まれたのかも、家族がいたのかも、何をしていたのかも、何も覚えていない。言葉すら覚えていなかった。排泄も厠に行って一人ではできなかった。風呂に入ることもできなかった。フォークを使って食事をすることもできなかった。ポーと名付けられた男は、保護施設の職員達に根気よく教えられて、二年かけて、漸く言葉を話せるようになり、自分のことは自分でできるようになった。保護施設にいられるのは最大で五年間だ。その後は、保護施設を出て、自力で生活をしていかなければならない。言葉を覚え、日常生活ができるようになったポーは、新たに職業訓練や家事訓練を受けながら、日々を過ごしている。


 保護施設では、保護された人同士の交流を推奨している。沢山喋り、人と接することに慣れる為だ。特に保護されたばかりの頃は、無気力で、本当に何もできない。保護されたばかりの人を手助けするのも、一年以上保護施設にいる者の役割であった。


 ポーは保護施設に隣接する広い畑から保護施設の自分の部屋に戻ると、着替えを持って共用風呂へと向かった。

 ポーは恐らく四十代だろうと職員から言われている。幼い者は十代前半、老いた者は六十代まで、男女問わず、今は三十人ほどが保護施設にいる。

 ポーが短く刈っている淡い金髪をわしわし洗っていると、風呂場の戸が開き、ポーと歳が近い男が入ってきた。ポーと殆ど同時期に保護施設に保護されたダンである。ダンが頭を洗うポーの隣に座り、身体を洗い始めた。



「ポー。私はお腹が空きました」


「私もです」


「今日の晩ご飯は肉が食べたいです」


「私は魚が食べたいです。ダン。頭も洗いましょう」


「はい。ポー。身体は洗いましたか」


「まだ洗っていません」


「身体を洗いましょう」


「はい」



 ポーは頭の泡をシャワーで流すと、洗いタオルに石鹸を擦りつけ、身体を洗い始めた。

 二人とも頭も身体も洗ったら、広い浴槽のお湯に浸かる。なんとなく隣り合って温かいお湯に浸かっていると、ダンが声をかけてきた。



「ポー。貴方は此処を出たら、何をしますか」


「分かりません」


「私もです。何をしたらいいのか分かりません。何をしたいのか分かりません。私は外で生きていけるのでしょうか」


「分かりません。まだ三年あります。その間に『普通の人』になっているでしょう」


「……本当に『普通の人』になれるのでしょうか。何もない私達が」


「……分かりません」


「ポー。私は怖い。此処を出て、外で生きることが怖いです」


「……私も怖いです」



 ダンの気持ちはなんとなく分かる。ポーもずっとなんとなく不安を感じている。言葉は覚えた。自分の身の回りのことはできるようになった。農作業や簡単な大工仕事もできるようになってきた。だが、ポーには何もない。やりたいと思うことがない。死ぬのは怖いと思う。でも、生きているのも怖い。自分が何者で、どこでどんな風に生きていたのか、まるで覚えていない。ポーの痩せた身体には、所々に古傷がある。何故、こんな傷跡があるのかも分からない。ポーは一体何者だったのだろうか。隣に座るダンは、細身ながら筋肉質な身体をしている。ダンは肉体労働が得意だ。言葉を覚えるのもポーよりもずっと早かった。

 なんとなく、ポーはダンの手を握った。ゴツゴツしている温かい手だ。ダンもポーの手を握り返してきた。



「ポーは温かいです」


「ダンは温かいです」



 身体がしっかり温もるまで、ポーはダンと手を繋いでお湯に浸かっていた。


 夕食を終えた後、ポーは枕を持って、ダンの部屋を訪ねた。ダンと寝ると、不思議と胸の奥が日向にいるようにぽかぽかと温かくなって、よく眠れる。保護施設に来て半年くらい経った頃から、ポーはよくダンと一緒に寝ている。

 ダンの部屋に入ると、もうベッドの布団の中にいたダンが、寝転がったまま手招きした。ポーはダンのベッドに近寄り、ベッドに上がって、ダンの体温で温まっている布団の中に潜り込んだ。今は寒い季節だ。ダンの温もりが心地よい。ダンにぴったりとくっつくと、ダンがゆるくポーの身体を抱きしめた。



「ポーは温かいです」


「ダンは温かいです」


 ポーはダンとぴったりくっついたまま、穏やかな眠りに落ちた。





 ------

 季節は穏やかに過ぎ去り、四年目の温かい季節がやって来た。ポーは今日は町に行く。買い物をして、『店』で食事をとり、夕方に保護施設に帰る。ポーは一人では不安だったので、ダンと一緒に町に行くことにした。職員からも許可が出たので、ポーは財布が入った肩掛け鞄を持って、ダンと一緒に保護施設を出て、町の中心部へと向かった。職員と一緒に歩いたことがある道を歩きながら、ポーはドキドキと心臓を高鳴らせていた。怖い。ダンが一緒でも、外は怖い。肩掛け鞄の紐を両手で握りしめているポーに、ダンが声をかけてきた。



「ポー。手を握ってください。私は怖いです」


「……私も怖いです」



 ポーは差し出されたダンの温かい手を握った。ダンの手を握ると、ふっと少しだけ楽に息ができるようになった。ダンの手はしっとりと汗ばんでいた。ポーの手も同じだから、別に気にならない。

 ポーはダンと手を繋いだまま、職員から渡された買い物メモを片手に、色んな『店』を回った。

 昼時になり、美味しそうな匂いが漂っていた『店』に入り、『注文』をして、料理が運ばれてくるのを待っていると、ダンが小さく溜め息を吐いた。



「私は疲れました」


「私は疲れました。ダン。食べ終わったら、人がいない場所を探しましょう」


「はい。人が多くて、此処は怖いです」



 テーブルの上で手を繋いでいるポーとダンのことを、周りの人達がジロジロと見ている気がする。自分達は何かおかしな事をしているのだろうか。よく分からない。ただ、ダンの手の温もりがあるから、こうして保護施設の外でもなんとか過ごせている。しかし、もう疲れてしまった。何処か人がいない場所に行きたい。

 ポーは料理が運ばれてくると、ダンの手を離し、ダンとポツポツ喋りながら、ゆっくりと料理を食べた。

『金』を払って『店』を出ると、ポーはダンと手を繋いで、人気が少ない場所を探して歩き始めた。


 小さな広場には人がいなかった。木陰に小さなベンチがあり、他に人の姿は見えない。ポーはほっとして、ダンと一緒にベンチに座った。



「ダン。一年でこれに慣れるのでしょうか」


「慣れなくてはいけないのでしょう」


「私は怖いです」


「私は怖いです。ポー」


「はい」


「ずっと一緒にいませんか。私達は歳が近いです。きっと死ぬのも同じくらいです」


「ダン。私は貴方と一緒がいいです」


「一緒に生きましょう。『普通の人』になれなくても、ポーがいたら生きていけます」


「ダン。私はダンが一緒だとぽかぽかします」


「私とポーと一緒だと、ぽかぽかします。お揃いです」


「お揃いです」



 ポーは夕方が近くなるまで、ダンと二人でベンチに座り、これから先の事をポツポツと話した。





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 保護施設に保護されて四年半で、ポーはダンと一緒に保護施設を出た。二人で小さな家を借りて、商家で下働きとして働いている。ダンは計算が得意だし、ポーは文字を綺麗に書くことができる。二人は商家でちゃんと働くことができていた。


 毎晩、二人で一つのベッドで寝ている。ポー達くらいの年齢の男が二人で一緒に寝るのはおかしいことらしいが、家の中では誰も見ていないので、気にしないことにした。

 布団の中で、ダンがポーの手を握り、声をかけてきた。



「ポー。ずっと一緒にいてください」


「はい。ダン。ずっと一緒です」


「私達はおかしいのでしょうか」


「分かりません。でも、私はダンが一緒がいいです」


「私もポーが一緒がいいです」



 ダンが顔だけで此方を見た気配がしたので、ポーも顔だけでダンの方を向いた。



「ポー。一緒に生きて、一緒に死にましょう」


「はい。ダン。ずっと一緒です」



 ダンが目尻や口元に皺を寄せて、小さく『笑った』。『白の森』から現れた人は、ポーやダンも含めて、基本的に無表情だと言われる。ダンが保護施設の職員のように笑ったのが不思議と嬉しくて、ポーも頬をゆるめた。



「ポー。笑っています」


「ダン。貴方も笑っています」


「『普通の人』みたいですね」


「そうですね。きっと嬉しいから笑っているのでしょう」


「私は嬉しいです」


「私も嬉しいです。ダン」


「はい」


「私はきっとダンを『愛している』のだと思います。ダンと一緒なら、何処でだって生きていけます」


「私もポーを『愛している』のでしょう。ポーと一緒だと、いつだって温かいです」


「私達はどこかおかしいのでしょうか」


「分かりません。でも、これでよいのではないでしょうか」


「そうですね。二人で生きていきましょう。ずっと。ずっと」


「はい。いつまでも一緒です」


「私は嬉しいです」


「私も嬉しいです」



 ポーはもぞもぞと寝返りをうち、ダンと向かい合った。

 そっと額を合わせて、至近距離でじっとダンの淡い青色の瞳を見つめる。ダンの瞳は澄んだ硝子玉のようだ。ポーはすりっとダンの鼻先に自分の鼻先を擦りつけた。ダンの目が嬉しそうに細まり、ダンもすりすりと鼻先をポーの鼻先に擦りつけた。





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 二人はずっと一緒に暮らし続けた。そのうち、『普通の人』のように笑うのが当たり前になり、ポーはダンの隣でいつも穏やかな笑みを浮かべていた。ダンの隣は温かくて、不思議と何も怖くなくなる。

 空っぽだったポーは、同じく空っぽだったダンと一緒に、二人で心の空箱に色んなものを詰めていった。それは本当に些細な思い出ばかりだが、どれも『幸せ』と呼べるものばかりだった。


 二人で二十年程働くと、商家の仕事を辞め、町外れの小さな古い家に引っ越した。そこには狭いが畑があり、食うには困らない。

 庭に置いた小さなベンチに座り、ポーはダンの手をゆるく握って、穏やかな笑みを浮かべた。



「ダン。風が気持ちいいですね」


「はい。眠くなります」


「お昼寝をしましょうか」


「いいですね。ポー。一緒に寝ましょう」


「はい」



 黒かった髪がすっかり白くなり、皺が増えたダンが、穏やかに笑って、ポーの指に自分の指を絡めた。ポーはなんだか胸の奥がぽかぽかと温かくなって、ふふっと笑った。


 ベンチに座ったまま、寄り添って眠る老いた二人を、柔らかい風が優しく撫でた。


(おしまい)

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空っぽな私達 丸井まー @mar2424moemoe

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