第9話 遺品のカメラ

「……い……しろ。……い。おいっ、しっかりしろ!」


 何度も。

 途切れることなく、何度も声をかけられていた。

 その声をうるさいと感じた瞬間、体が一気に感覚を取り戻していく。


 左肩と、腹に激痛が走り、そして頭が割れるように痛い。呼吸するたびに体が内側から破裂するように痛んで、目も開けていないのに視界がチカチカと明滅するのを感じた。

 耳鳴りがひどい。吐き気もする。頭の右半分が泥になったかのように、重い。


「おい、お前! ちゃんと生きてるな!? 俺の声、聞こえてるか?」


 あまりにも耳元で怒鳴るように叫ばれるから、わずかに頭を振って返事をする。すると声の主がホッとしたように息を吐く音が聞こえた。


「悪ぃな。来るのが遅れた。アレは俺たちの仕事だった」


 アレ、と聞いて脳裏によみがえるのは岩崎の姿だ。途端巻き戻る記憶にパッと目を開くと、見たことのない中年の男がそばに立っているのが見えた。

 夜の闇に煌々と光るのは、警察車両の赤い回転灯だ。廃ビルを見上げていることから、夏目は自分が担架に乗せられていることを知る。


「岩崎の身柄は確保した。後ほどこちらで適切な処理をする」

「……かつら、ぎ……は……?」

「……あぁ。お前が回復したら教えてやる。いまは体を治すことだけ考えてろ」


 濁された言葉の奥に、葛城がもう無事ではないことを悟ってしまう。それでも葛城の姿を確認したくて首を動かすと、男の固い手のひらに目元を覆われ、夏目の視界は完全に遮られてしまった。

 急速に落ちていく意識の中で夏目が覚えているのは、男から漂う強い煙草の匂いだけだった。



 ***



 夏目が目を覚ましたのは、事件から二週間後のことだった。

 岩崎に撃たれたのは左肩と腹部で、応援に来た警察官が救護に当たっている間、夏目は一時心肺停止状態になったという。その後の精密検査で脳に異常がないことが確認されたが、夏目の右目はどういうわけか視力を完全に失ってしまった。


 だと言うのに、鏡に映る自分の顔の右半分に、「それ」が見えるのだ。ぐにゃりとした軟体動物のようなものが、右目を中心に蠢いている。

 初めは脳に異常が起こったのだと考えていたが、右目に宿るそれが「マガモノ」と呼ばれる蟲であると知らされた時、夏目の中に溜まっていた消化不良の謎が一気に繋がった気がした。


 マガモノの存在を教えてくれたのは、あの夜、夏目に声をかけてきたた、煙草のにおいのする男だった。


「特務、零課……」


 死体に寄生する蟲がいること。混乱を避けるため、組織の存在を公にはしていないこと。その蟲「マガモノ」に憑かれた死体を回収し、極秘に焼却して蟲ごと退治する組織が特務零課なのだと。そう説明した中年の男は、橘と名乗った。


「相方には悪いことをしたな」


 葛城は、助からなかった。

 橘たちが廃ビルに着いた時、間を置かずに銃声が二度響いたという。急いで五階へ上がった橘が見たのは、銃弾を受けて瀕死の夏目と、胸から血を噴き出させて倒れている葛城の姿だった。

 血のにおい充満する部屋の闇に紛れて、どこからか調子の外れた鼻歌が聞こえる。音を辿って顔を向けると、暗がりの中、ガラス片を包丁のように動かして葛城の左手を切断している岩崎の姿があった。


 現場を一瞬で判断した橘はまだかろうじて息のある夏目の保護を優先し、自身は岩崎を捕縛。すべてが終わったあとで廃ビルの五階へ戻ると、現場から葛城の遺体が消えていた。

 残っていたのはおびただしい血痕と、部屋の外へ続く鮮血の足跡。そして血だまりの中に転がる、切断された左手だけだった。


「葛城は……マガモノに憑かれたんですね」

「その可能性が高い。こっちでも行方は追っているが、あまり期待はするな。マガモノについてはまだわからないことが多いんだ。もしかすると体を捨ててるかもしれねぇしな」

「……それでも」


 相棒を失い、いままで歩んできた道がぷっつりと途切れてしまったようだ。続く道の先は一条の光も差さない闇の中。まるで視力を失った右目が視る世界のように、どこまでも暗く、進むのを躊躇うほどに恐ろしい。

 けれど、その深淵の闇のなかで、唯一動くものがある。

 それは希望でも、光でもない。葛城を殺し、葛城を連れ去った蟲は、進むべき道を失った夏目にとっての新たな目的となる。


「それでも、俺は葛城を見つけたい」


 そう言って夏目はまっすぐに橘を見つめた。



 ***



 ぬるい風が吹いて、夏目の前髪を揺らしていく。少し長めに伸ばした前髪は、鏡に映る自分の右目を直視しないためだ。それでも三年も経てば、右目に宿るマガモノの姿にもだいぶ慣れてきたかもしれない。少なくとも、あの夜の記憶が強制的にフラッシュバックすることはなくなった。


「葛城。……お前、どこにいるんだ」


 手に持っていたカメラに向かって、静かに問いかける。当然カメラが答えるはずもなく、けれど語りかけずにいられなかったのは、そのカメラが葛城の遺品だったからだ。カメラの扱いはわからないからと、彼の妻が夏目に譲ってくれたのだ。


 本当なら、このカメラが映すのは葛城が好きだった季節の花々だ。花を愛でる彼の妻の姿も、きっとたくさん撮っただろう。

 だから夏目はマガモノを映すたびに、できるだけ花と一緒に遺体の写真を撮っている。そうすることで、カメラを浄化しようとしているのかもしれない。


 馬鹿なことだと、本当はわかっている。所詮カメラは無機物だ。マガモノを撮ったからといって汚れるわけでもなく、花を撮ったからといって綺麗になるわけでもないのだけれど。


「助けられなくて、ごめん」


 そっと、カメラを墓石に向けてみる。

 お盆の時期に死者が戻ってくると言うのなら、葛城の魂はもしかして今、ここにいるのかもしれない。


 そう淡い期待を抱いてファインダーをのぞいても、右目の世界はあの夜と同じ漆黒に塗り潰されたままだった。




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