第8話 死んだはずの男(※若干のグロ表現あり)

 ビルの内部は想像以上に荒れ果てていた。壊れた壁の瓦礫やガラスの破片がそこかしこに散らばっていて、注意していないとうっかり踏んで音を立ててしまいそうだ。捨てられた空き缶のいくつかは比較的新しいので、不良の溜まり場になっているのだろう。スプレー缶で描かれた品のない落書きが、壁や床の至る所に確認できた。

 彼らが岩崎と鉢合わせにならなければいいと思いながら進んでいると、五階の方からわずかな物音が聞こえてくる。足を引きずる音だ。


 銃を握る手に、じっとりと汗が絡みつく。

 五階へ上がると、右奥の広い部屋の方でブツブツと呟く男の声がした。

 そうっと中をのぞくと、月明かり差し込む薄暗い部屋の真ん中に男がひとり立っていた。灰色のパーカーを着て、頭にはフードを目深に被り、調子の外れた鼻歌を歌いながら体を小刻みに揺らしている。

 

「……手。……左……欲しい。……女、の……手……きれい。きもちい、い」


 ゆらゆら、ぐらぐらと体を揺らしていた男が、ゆっくりと夏目たちの方を振り返る。薄い月光に照らされたその顔は、岩崎本人のものだ。


「警察だ! 動くなっ!」


 先に飛び出したのは葛城だ。夏目も後に続こうとして、そしてふと不気味な違和感に気付いてしまった。

 岩崎の顔は乾いた血がこびり付いており、それは灰色のパーカーにまで染み渡っている。右足は折れているのか変な方向に曲がったままで、よく見れば右腕も折れてぶらりと垂れ下がっていた。

 フードがずり落ちたのは、岩崎が体を揺らしたからではない。割れた頭からこぼれ落ちたがフードにたまって、その重みでずり落ちたのだ。

 びちゃり、と不快な音が響く。その音を踏み付けて、岩崎が口から涎を垂らしながらニタリと笑った。


「……手……ほしい。お前の左、手……ほし、い。ほしい……ほしいほしいほしいっ!」


 折れた足をものともせず、岩崎が脳を撒き散らしながら飛びかかった。死んだ人間が動いているという現実に、葛城の判断がわずかに遅れる。それでも構えた銃の照準を岩崎の心臓に合わせてしまったのは、刑事として体に染みついた癖だ。


「葛城っ、待て!」


 既に死んでいる者に銃が効くはずもなく、葛城の撃った銃弾は岩崎の心臓を無意味に貫いただけだった。


「葛城っ!!」


 逃げるべきだった。

 相手が既に人間ではないと脳が理解した時点で、逃げるべきだったのだ。


 廃墟を揺らして、二度目の銃声が響く。銃弾を肩に受けながらも勢いの止まらない岩崎が、葛城を巻き込んで床に倒れ込んだ。その手に握られているのは、ナイフほどに鋭利なガラス片で。


「手……。手……、左手ぇぇぁぁぁぁっ!」


 およそ人とは思えない奇声を上げたかと思うと、葛城に馬乗りになった岩崎が、手にしたガラス片を勢いよく振り下ろした。


「岩崎、やめろっ!」


 銃では役に立たない。夏目は岩崎を背後から羽交い締めにして、葛城からむりやり引き剥がした。そのまま力任せに放り投げると岩崎は近くの瓦礫にぶつかって倒れ、手足のない芋虫のようにもごもごと蠢いた。

 片足が折れているからか、瓦礫に突っ込んだ岩崎はなかなか立ち上がることができないでいる。その隙に葛城のそばへ駆け寄った夏目だったが、視界に映った光景はあまりにも悲惨な現実だった。


 赤く染まった胸元に、まるで楔のように大きなガラス片が突き刺さっている。脈はかろうじてあるが、見開いた瞳には徐々に闇が迫りつつあった。


「葛城! しっかりしろっ!」


 胸に刺さったガラス片は抜かない方がいいと判断し、救援を呼ぼうと携帯電話を手にしたところで、夏目は背筋がぞくりと震えるのを感じた。

 光を失いかけた葛城の目が、何かを訴えるように見開かれる。かすかに夏目の背後を指差した葛城の、その右手に握られていたはずの銃がない。


 弾かれたように振り返った夏目の視界に、葛城の銃を構えてニヤリと笑う岩崎の姿が映った。




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