がらんどう

ディメンションキャット

あなたはだれですか?

「なら、ベビーカーをお願い。それも私の子に相応しい特別なもの、安物じゃダメよ」


 A子は、黒いスーツに身を包み怪しげな笑みを貼り付けた中肉中背の男に話し掛けた。

 タワーマンションの中途半端な階から見える夜景を背後に、彼女は赤いソファに身を沈ませ、手に持つ葡萄ジュースが注がれたワイングラス越しに奇妙な客人を観察する。





 ゆっくりとオフィスビルが明るさを失ってゆく時間、A子は夫の帰りを待ちながらソープオペラを最小の音量で点けておく。 せめて気分だけは、とアルコール代わりに葡萄ジュースを手に持ちながら。

 時計の針が溶けてゆく、そのゆったりとした時間の静閑は予告無しに砕かれた。 魔人の来訪によって。


「こんにちは。 いや、こんばんは、でしょうか」

「……っ誰!?」


 80インチのテレビをぼうっと眺めるなか、背後からの耳に覚えのない男の声がする。 A子はその事実に条件反射的にソファから飛び上がり、男と正面から相対する。 その唐突な動きで葡萄ジュースが彼女の衣服を彩る。

 それを見た魔人は少し笑った。


「おやおや、驚かせてしまったようで」 


 おどけた様に魔人はそう笑って、黒いボーラーハットの鍔を親指と人差し指で挟んで少し頭を下げる。


「誰か、でしたよね。 簡潔に言いましょうか。 私は魔人です」


 魔人は深い皺をいっそう深くさせて、にこりと微笑む。 人当たりが良いのか悪いのか、読めない表情で。

 A子が魔人という非現実的な単語にいっそう訝しげに眉をひそめたのを、彼は気に留める様子も無く言葉を続ける。


「さあさ話をしましょうか」


 魔人の瞳は黒く、そして暗く。そのままA子の姿を反射していた。






「あ、でもベビーカー以外にも子育てにはたくさんの物が必要よね。 そうね、オムツも貰える? あとはベビーベットかしら。それと、おもちゃも何個かお願い」


 黒目を左上に寄せながら、指を立ててA子が要望を口にするのを魔人は立ったままじっと見る。


「随分と簡単に信じるのですね」


 何のことか、無論彼が魔人であるということだ。 彼の問いにA子は少し困ったような顔をしながら視線を落として赤子を宿す腹部を見た。


「信じる……というか信じざるを得ないでしょ」


 A子は理論的に物事を捉えることが出来た。 事実として、目の前の男が人ならざる者であることは確定していた。


「鍵は締まってる、暗証番号が無ければこの建物にすら入れない。 なのに、貴方はどこからともなく現れたじゃない。 ……それに、あんなの見せられちゃったら、ね」


 彼女はそう言いながら、赤紫色に染まっていたはずのネグリジェが元通りになっていることを、ひらひらと摘んで示す。

 魔人の一声で零れたはずの飲み物がグラスへと還ったのだ。 いとも簡単に起こる奇跡は、彼女から現実を忘れさせた。


「なるほど、まぁ話が早くて好都合です」


 魔人は、ゆっくりと足を踏み出してA子が座るソファを中心に円を描くような歩きながら口を開く。


「さて、今一度説明しておきましょう。 貴方が欲しい物を何でも与える代わりに、私は貴方の物から一つ頂きます」


 室内だというのに、魔人は真黒な革靴を履いていた。 だが、彼がいくらフローリングの床を歩いても一切の音が立たないことにA子は気付いた。


「貴方の物、とは手で触れる物に限定し、概念的なものは含まれません。 もちろん貴方自身も含まれません」


 丁寧に、ゆっくりと彼はA子の周りを回りながら説明を続ける。 彼の声は低く優しく、なにより深かった。


「貴方の物、その中で十分に天秤がつり合う物が複数存在した場合、何を貴方が捧げるかに関しては交渉となります。 しかし、一つしかない場合は問答無用で頂きます」


 魔人の言葉に、A子は大きく頷いた。


「ふふ、つり合う物なんて幾らでも有るからどうしようかしら。あっ、でも先に持っていったらダメなものは言っておくわ」


 彼女はそう言って、自分の持つブランドのバッグや服の名を羅列していく。

 長い長い時間、彼女は自分自身を飾る為だけに過ぎない、ブランドの名だけを冠し価値も分かっていない、数々のくだらない物を大事そうに口にしていく。

 それだけが彼女の価値なのだ。 それすらも夫の稼ぎから無理言って捻出されたものに過ぎないと言うのに。

 魔人はそれを理解した上で黙って待つ。


「うん……これぐらいかしら。あとは好きに持って行っていいわよ、もちろん最後に確認ぐらいはして欲しいけど」


 彼女はぶどうジュースに口を付けて言葉の羅列を終えた。


「なるほど。それでは……」


 魔人は真っ直ぐA子の目を見つめ、ゆっくりと右手を前に向けた。


「ソレを頂戴致します」


 魔人がぴん、と指を張って指した先はA子のお腹だった。


「……?」


 A子は彼の言った意味を理解しようと下を見る。そして、再び彼女が顔を上げた時には彼は姿を消していた。

 彼が居た場所にはベビーカーやオムツなど様々な育児用品が残された。

 今となっては無用なそれらを。


「え……」


 力が抜ける、視界が歪む、膝から崩れ落ちる。 クエスチョンマークが脳で繁殖する、絶え間無く無尽蔵に増殖する。


「ただいま」


 A子が呆然としていると、夫が神妙な面持ちで帰ってきた。


「早速で悪いけど、これにサインしてくれるかい?」


 A子の夫は、離婚届を持っていた。

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