無粋
白州智也
第1話 薄ラワ氷
弟の顔が嫌いだったから、殴った。
ヘラヘラと笑うその顔が嫌いだったから殴った。
俺に殴られても、変わらずそのむかつく顔をやめないから、また殴った。
そのうち鼻から血が垂れ始め、血相を変えた母親に制止されるまで俺は弟の顔を殴った。
母親は困惑と怒りの境を見失い、怯えたような顔で俺を叱る。
何故殴ったのか。
殴っていいと思ったのか。
常識を問う母に俺もまた困惑していた。
人を殴っていいわけないじゃないか。
そんな当然なことを説いてくるな。
母もまた言葉を失う。
では何故弟を殴ったのか。震える声で俺に尋ねる。
俺は答える。
──嫌いだから殴った。気に食わないから、殴った。
弟はそんな中でも、笑っていた。
──────
俺の弟はどうやら頭が悪いらしい。
俺といると殴られるとわかっているはずなのに、何故かニヤニヤと俺の側を離れない。
母を悲しませまいと、俺はあの日から弟を殴る頻度を減らした。
どうしてもそのニヤケ面が気に食わなくなったときだけ拳を振るうようにした。
変わらず笑う弟。何がそんなに面白い?
殴った後に少しばかり落ち着いたので聞いてみた。
「別に、なにも。」
弟は真顔でそんなことを宣う。
不思議と頭にこなかった。いや、理解ができないという疑念から怒りなど心中に沸く余裕がなかったのだろう。
──俺に殴られたいのか?
「痛いのは嫌だな。」
──じゃあ何故笑う?
弟は少し考えた後に、
「そうしないと、笑えないから。」
と、言った。
まったく意味がわからない。俺は拳を握ってみせる。
弟は肩を竦ませ、歪な笑顔を作る。
「痛いのは、みんな嫌いだよ。」
俺は弟を再び殴った。
──────
弟を殴ればこの気が収まると思い、どうしようもない時は弟の顔を殴る。
だがどうしてもこの腹の虫が鳴き止むことがない。俺は弟の顔が気に食わないことよりもこの感情の正体が気になり始めた。
嫌悪か、敵意か、怒りを持つということは、弟の顔にそういった特別の不快感を感じていることになるのではないか。
殴るだけでは満たされない。
それは何故か。
あの笑顔が崩れることがないからだろう。
ではあの笑顔が苦悶に
中学生のある日、母がアイロンをかけているタイミングを狙った。
俺は自分の部屋でケータイから自宅の固定電話にかける。
母はアイロンを中断して電話をとる。電話口の遠鳴りのテレビの音に母が気を取られているうちに、俺は母が先ほどまでいた場所へ足音を殺しながら滑り
弟は当然のように俺の後についてきていた。
腹立たしい笑顔だ。
──おい、笑うな。
「ダメかな?」
──ダメだ。今すぐ笑顔をやめろ。
弟は渋々と眉間に皺を寄せたが、
「やっぱ無理だよ。」
と、曇った笑顔を作る。
俺だってこんなことは間違っていると自覚している。
しかし、知りたかった。
弟の笑顔が嫌いだったのか。
その顔が苦しみに染まれば、この心は悦を満たせるのか。
俺は弟を押し倒した。首を掴み、弟の抵抗を封じる。
少し力を入れたので、弟はその手を払おうと両の手で首を絞める俺の手に掴み掛かる。
殺してやろうだなんて微塵も考えていない。
ただ、俺のために、少しは苦しそうにしてくれ。
俺は母が置いたままにしたアイロンを弟の顔面に押し当てる。
途端に絶叫する弟。家中に響く悲鳴に母が駆け寄る。
俺は母に渾身の勢いで跳ね飛ばされ、アイロンともども弟から引き剥がされる。まさか母にそれほど力任せに突き飛ばされると思っていなかったので、俺は無様な尻もちをついた。
しかし今はそんなことどうでもいい。
アイロンを置き、弟の顔を凝視した。
弟の顔の右半分は痛々しく焼け爛れていた。
その痛みに弟は顔を緩ませることはできず、赤子のように喚き散らしていた。
恐れに歪む母の顔、苦痛に睨む弟の瞳。
俺は言葉にできぬ高揚に支配される。
身震いが止まらず、頬は異質に釣り上がり、苦しいほどに勃起していた。己が気味悪く無様な様が鏡を見ずとも想像できた。
それほどまでに俺は初めての感情に支配されていたのだ。
母の言葉にならない罵倒など耳を過ぎる。今の俺には誰の声も届かない。
絶頂から成る静寂に、耳障りな笑い声が聞こえてくる。弟は未だ怯えた顔で俺を睨んでいるので違う。
俺だった。俺はこの2人の前で嗤い声をあげずにはいられなかった。
気色の悪い嗤い声に俺はピタリと息を止め、荘厳と吐き捨てる。
──笑うな。
──────
自分でも異常なことをしたと認識している。
その事件以来、俺は母の元を実質的に追い出され、別居中の父の元で暮らすことになった。俺自身、未曾有の悪意を戒めるためにその意を汲む。
ただ、父との二人暮らしが始まって
俺は何故ここにいる?
父との生活は不快こそないが充実たりうるものではない。
ずぼらな父は衣食住も張りがなく、俺もよほど健康的とは言えない生活を強いられる。
無論父は元来そういう人間であるが故に期待なぞしていなかった。
捩れる不満は母へと向く。
満ち足りぬ生活の嫌気が、母への不信へと繋がる。
だってそうじゃないか。
何故俺はここにいる?
あの時弟の顔を熱したのは悪いことである。が、今の俺には何故あのようなことをしたか、皆目見当がつかないのだ。
何故か。
弟の顔への嫌悪がなくなったからだ。
あんなにも常々嫌っていたはずなのに、今ではその悪感を微塵も思い出せない。
あの感情は果たしてなんだったのか。
さらなる惑を生むことになる。
鏡に映る自分の顔が、果てしなく鬱陶しい。
今まで弟に向いていたであろう悪意が、鏡面の男に向いている。
こんなにも憎たらしい顔をしている。
俺はこの男が許せなかった。
鏡を叩き割る。弟に振るっていた拳を、そのまま反射する己に叩きつけた。
鏡は大きな亀裂を走らせ、さながら万華鏡のように俺を乱反射する。
力いっぱい殴ったが、どうにもこの腹の虫は収まらない。
再び鏡を殴り、破片が幾許か飛び散る。拳からは血が垂れ、散り散りの俺を赤く染める。
その姿に、僅かに安らぎを感じた。
理解に難を要したが、俺の脳内には“あの日”の弟の顔が鮮明に浮かんだ。
半身爛れた顔。
鏡に映る男に、弟と同じ位置になるように、溢れ出る血を塗りたくる。
顔に浴びせた生臭いインクに眉を顰めたが、欠片に映る男を見た瞬間、あの日の激情が溢れ出した。麻薬のような幸福感が指の端まで支配する。
大きめの破片を手に取り掌に突き刺す。
痛みはないまま、幸福が溢れ出す。
俺は再び鮮血を顔面に塗りたくる。
真っ赤に染まった俺の顔が、如何なる芸術にも負けない高美を漂わせる。
しかし、何かが足りない。
緩急もなく、ただ一色に染まったこの顔面に高揚はあったが、何かに欠けていると思う。
これ以上白紙のキャンバスはない。赤に上塗れる赤はもうない。
どうすれば、満ち足りるのか。
あるいは、満ち足りすぎているのか。
取り憑かれたように台所から包丁を持ってくる。
大きめのかけらを覗き込み、息を飲む。
震える手に切り傷をつける。未だ痛みはない。
ならば、躊躇うことはない。
俺は握りしめた狂気の先を顔面に突き立てる。
頬の芯部から赤い涙が伝う。
笑うな。手元が狂うだろ。
それに、不快だ。
俺は赤塗りのキャンバスに薄く刃先をなぞらせる。
少しずつ。少しずつ。
笑顔を削ぎ落としていく。
洗面台が真っ赤に染まる頃、目眩と共に芸術が完成した。
その瞬間、俺は弟が堪らなく愛おしくなった。
無粋 白州智也 @Shirazirasiizo
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