第11話

 ずいぶん直截な表現だ。しかしここに来てから深夜に部屋から抜け出して人に話しかけたきり、誰とも会話を交えていなかったのでそんな誤解を持たれてもしかたないのだろう。わたしが無言で暇を潰すために廊下を際限なく行き来していた間、どうやら遠巻きにそして慎重に観察されていたらしい。


「見た感じは普通っぽい人に見えたけどね」


 確かに残念ながらここにいる人たち全員と会話を楽しむのは不可能だ、それは事実だ。ただそれだけのことなのである。わたしは自分で考えている限りにおいては自己同一性は言語によって獲得しているつもりだ、そして言語で世界を認識している。しかし中には言語以外で自己同一性を獲得する人がいるらしい。

 いや自己同一性を獲得し損ねているのだろうか、わたしが言葉を話す時これを言うと相手はおそらくこう思うだろうとの考えに至り言葉を選択する。その瞬間強く他者の存在を意識している。だが他者の存在をお構いなしにする人は言葉を選択する基準が曖昧模糊としているのだろう。 

 もっと言えば他者を認識しにくいから存在者としての自分自身も認識しにくい状態にあるのだろう。それをここでは異常と呼んでいるらしい。だが目の前にある物を認識すると言っても完全な認識なんて存在しえない。

 純粋な意味で存在は存在しえない。ここに来てまだ間もないがこれはわかる、同情で他者に流す涙ほど無礼なものはない。前提として自分は鍵括弧つきで何者かと意識しているからだ。どこの世界でも完全にという言葉を多用する奴は詐欺師と判断してよい。この人たちは自分に十分充足している、それでいい。

 彼女はどうやらわたしに話しかけて品定めをして合格と判断したらしい。人間とは社会的動物だと言われている、人との会話が大嫌いなわたしですらまったくないとなるとおかしくなってしまう。

 話す行為を通じて他者をまるで鏡のようにして自分がどのような人間でどう思われているかを確認、担保するのだろう。またこの施設は特に刺激と呼ばれるものが極端に少なく単純に暇を潰せそうだとの判断もあった。あとになって考えるとこれが大きな判断ミスだった、こんなところで人と関わりあうことほど危険なものはなかったのだ。


 わたしはあまり周囲の視線を集めることを好まないので陰に紛れるように生きている。この時もそうすればよかったのだが、それは仕組まれた流れだったのかもしれない、用心深いわたしですらこの周到に準備され隠された意図にまったく気付かなかった。今でも防ぎようがなかったと思う。とにかくわたしは大いなる意図に徐々に飲み込まれ翻弄されはじめていたのだろう。潮の俯瞰は困難だ。しかしその端緒は至って当たり前でポップな感じを伴ってやってくる。

「ここ暇だよね。なんだろうね? ここって。なんでここに連れてこられたのか不明なんですけど……」

 彼女はカラカラと笑った。彼女はAさんと呼ぶことにしよう。わたしはあいまいに頷くことしかできなかった。彼女はわたしの来た翌日にここにやってきたらしい。そう言えば個室にいた時出入りしている姿を見かけたことがある。しかしその時点ですでに彼女は他の女性と懇意そうに話しをしていた。

 だからわたしよりずっと古株だと勘違いしていた。女性とは適応力がある、わかりやすく言うとおしゃべり好きである、それはわたしに欠如している能力だが女性のほとんどは生得的に所持して生まれてくるらしい。

 しかしAはわたしがまったく知らない女性に親しげに声を掛け仲間を増やし火を見るより明らかに大事にされる気配が漂いだした。ここにいるのはいい人たちばかりではないからだ。要らぬ厄介に巻き込まれる可能性が十分に無視できないレベルで大きくなりつつあるのを痛感したが手遅れだ。その新たに加わった女性も親しげに必要のない些事を聞いてきたり大いに狼狽したが、拒否して疎まれるとここでの生活自体が著しく困難になるので適当に相槌を返すよりなかった。

 わたしは女性相手に言葉を慎重に選んだ、さらなる質問を呼び込むかもしれないしいきなり激高される可能性だってある。彼女は自分からは言わないがわけがあってここに来ているのだ、なにも理由がないなんてあり得ないのは周知の通りだ。閉鎖された環境では関わる人を選べない。わたしは適当なところで如才なく話を切り上げた。離れていきながら困ったことになったなと心底頭を抱えた。


 ここには本当に何もない、普通なら選ばない選択肢だが彼女たちと接触を持つ以外ないだろう。わたしのこの行動を詳細に見てほくそ笑んでいる連中がいると知らずに……。確かにこの施設は監視するのにはうってつけの場所だった。それは間違いない。

 それはお茶会と彼女らは親愛の情を込めてか呼んでいた。昼に開いている売店で買った菓子類や飲み物を持ち合い、フロアの机を寄せてみんなで囲む、おしゃべりをするのだ。わたしが最も苦手とする行為だ、行為自体に没入できず行為と意識してしまってどうしても無意味だと考えてしまう。よくないとはわかっている。

 わたしはほとんど何も語らず、眼前で繰り広げられる会話を「見て」いた。人と人の間に存在する言葉を不思議になって眺めていたのだ。そうすると不思議なことに彼女らがより一層際立って感じられた。わたしは会話に参加することなく、話し相手に関心を持つ素振りさえ見せようとしなかった。

 わたしがどこか風変わりなのは承知している、しかしそれを改善しようとする努力や気概はとうにどこかに霧散してしまっている。やはりこの会に参加しているのは軽微な人たちばかりで、会話困難な人は座っていない。

 男はわたし以外三人いた。女性に比べたら無口だがわたしのようにまったく話さないわけではない。時折口を開いている、わたしは座っているだけ、しかし誰も不審がる人はいない。自由でいさせてくれる。

 すべてを許される場所ではないが、寛容な会ではあった。

 しかし明確な目的もなに一つない。だからわたしはそれなりに夜会を楽しんでいるとも言えた。決して無たりえはしない。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

超人計画 ラッパー 伝説 @neonoizumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ