第10話
寝ころんでいると人の話し声がどこからともなく聞こえてきた。それも複数だ。近づいてくる。
「この辺でいいんじゃないかな?」
ガタンとアスファルトに物を置く固い音がする。
「あとは椅子を六つぐらいか」
女の声だ。
様子を窺うとどうやら中庭に机と椅子を持ち出してささやかな夜の宴を開くようだ。夜陰に隠れ潜むようにしてわたしは彼らに視線を向けない。人見知りはよくないのはわかっているが、なんて声を掛ければいいのかわからない。
わたしはまだこの施設において知らない人と積極的に関わるべきではないと考えている。退屈だが我慢できないわけでもない。どうやら暇を持て余した患者同士で仲良しグループができているらしい。人が椅子を持ってぞろぞろと出てきた。こんな夜に宴を開くのか、なかなか趣味は悪くない。どこからともなくポップミュージックも聞こえてきた。この手の施設ではよく持ち込まれるラジカセだろう。
昼間に開いている売店で買ったであろうお菓子類の袋を開ける乾いた音が聞こえる。わたしはこの宴に素直に感興をそそられた、ここに来てはじめて人に興味が湧くのを感じた。しかし何を話しているのか耳をこらすものの内容までは聞こえなかった。わたしはひたすらベンチの上で樹を見て漆黒の闇に同化しようとしている。知らない誰かが胸を躍らせこの闇で何かを話している、わたしにはそれだけで十分だった。何者か知らない人たちの小さくそして確実に今ここに存在しているという確固たる意思を頼りに、わたしはそれらをこの大気に打ち付けたアンカーのようにしてフワフワと空へと舞い上がり、同時に地中深くに落ちていくようだった。
クソッ、またあの感覚だ。時間が意味をなさなくなるあれだ、三半規管がおかしくなり目が回って、同じ光景が左から右にスライドする感覚と似ている。人の感覚に頼る認識はどこまで行っても生物のそれであってやはり感覚はあてにならないと言わざるを得ない。
しかしなぜかその感覚に魅了され身をゆだねてしまう。気付けばこのところこの症状に悩まされている。この中庭の宴から漏れ聞こえてくるかすかな声さえ正直なところ曖昧な印象だ。
次の日目覚めるとベッドの上だった。記憶がなくなっているとかそういったものではない。確かにわたしは人がいなくなってから自分の足で帰ったのは覚えている。しかし爽快な目覚めとは程遠い。わたしは何か根源的な事柄から目を背けようとしているのではないか? だがここにいる限りどうしようもないように感じる。わたしがわたしに突き付けられた現実とはなんだったのか?
よくわからない、例えるならわたしは草むらに立っているだけだ、現実なんて実質存在していないようなものだし機能してない。ただ眼前に認識と呼ばれるものが広がっているだけでわたしのそれは荒廃しきっている。しかしそれはわたしの認知機能がきっと歪んでいるからそういう光景が広がっているのだろう。わたしがおかしいのだ、だがそれがわかったところでどうすればいいのだ? この眼前の世界はわたしがどう感じようが止まってはくれず否応なく進んでいく。
完全な停止なんて思考の中でしか存在しえない状態なんだ。気が付くと目の前に女の子が立っており、わたしを不思議そうな目で見ていた。そしてその子はわたしに声を掛けてきた。決してわたしからではない。彼女の切り出し方はどんなだったか、よく覚えていないがそれは自然な感じだったのだろう。それは掴めない朧げな光のような感覚に似てどことなく魅力があった。目の前の女性は話す。
「なんだ、話せるんだ」
何だと?
「喋れない人かと思ってた」
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