第9話

「なぜそんな無意味な行為に没入しているのか?」


 それを訊ねるほどわたしも野暮ではない。ここの人だ、問うただけで逆鱗に触れる可能性だってある、好きにするがいいさ。老人がわたしの横を通り過ぎる時、ほんの少しちらっと見てきた。その目は、


「君は若いのだから見てないで少しでも手伝ったらどうかね?」


 そう言いたげだったが、動く気にはなれない、永遠に終わらない作業なんてまっぴら御免だ。しかし彼にとってはそこが重要なのかもしれない。ストイックで精神的な行為とも言える、わたしたちが考えるところの目的とはよく考えれば一体なんなのだろう、無為に帰すだたの消耗が悪いだなんて誰が決めたんだろう。わたしはわたし彼は彼、好きにするがいいさ。

 わたしは再び無残に切り取られ無限ではなく有限に限定された空を自由に飛び回り行き来する鳥に意識がいった。鳥たちはまったく自覚がないと思うが自由そのものである。人は誰しも囚われの身である。鳥には鳥の制約があってその生をまっとうするのだろうがわたしは素直に鳥になりたい、そこからわたしを俯瞰したらどんな気分になるのだろう。


 二時間ほど中庭で過ごしているとさすがに感興をそそられなくなってきたので棟に戻ることにした。夕方の詰所前のフロアのテレビは主に老人たちが席を独占し見ている時間だったので、いつものように相撲が映し出されていた。わたしはなぜか椅子に座りたくなかったので壁に背をもたせてそれを見ることにした。

 相撲は何日か見続けると面白くなるのは知っているが、今は誰が強いのかすらわからない。そうだった、おれはかつて近鉄バファローズのファンだったのを今になって思い出した。当時近鉄は異質な球団だった。時代は西武黄金期で優勝などほとんど望めない状況だった。しかし近鉄はいかに負けが込もうとも負け展開の試合でも最後まで諦めず巨大戦力に矢尽き刀折れた状況でも地面に刺さった刃こぼれだらけの刀を拾って一撃で亡き者にしようと虎視眈々と機会を待っていた。わたしがなぜ近鉄に強く惹かれたのか、それは近鉄バファローズが赤穂浪士たりえたからだ。整わない現有戦力で強大な敵に立ち向かうのは魅力的だ。


 わたしの集中しようとする意識を阻む声がさっきからずっとこのフロアに響いていた。一人の男が実況のアナウンサーの声を一声もたがえず復唱するのだ。悪びれる様子も一切なく声も高らかに……。さすがにこれは異常だ。相撲を熱心に鑑賞している老人たちは邪魔で仕方ないらしく怒号が飛び始めた。


「静かにできないなら部屋に帰れよ! こっちは見てんだから」


「すいません」


 復唱する男はその度謝るが、肝心の復唱を一向に辞めようとしない。その男は常にヘルメットを被り、聞いた話ではバイクで頭部をひどく損傷したらしい。ヘルメットを脱ぐと頭部がいびつに変形している。他の人も同様に復唱をやめるように声を荒げるが、やがて諦める。復唱の声は誰よりも正確に続く。それをあざ笑うかのように相撲の取り組みがゆったりとしたペースで進んでいく。どちらもひどく滑稽だ。そしてついに注目の一番がやってきた。テレビの中の場内がヒートアップしてきたのでわたしも少し興奮して見た。さあどっちが勝つ?


「みなさん夕食です。部屋に戻ってください」


 壁の時計を見やると六時だった。時刻を失念していた。もう少しなんだから見せてくれてもいいのに。仕方なく老人たちの言うところのは一世一代の大勝負の結果を見届けることなくフロアを後にするしかなかった。部屋に戻って簡素な夕食を無言で食べた。夕食後の服薬も済ませわたしは再び中庭に出た。夜の顔もまた違う魅力がありすばらしかった。息を吸う度ひっそりとしながら確実に生息している草木の息吹を強く感じる。わたしはそれらの生命力を確認するように歩きながら、例のベンチに座り夜空を見上げる。このあたりの光源で星は見えない。誰もわたしの存在を気に掛ける者はいないと思いベンチに寝転がることにした。なお一層夜空の下の空気が濃密に感じ取れた、遠くに月が見える。かすかに風が香り木々が揺れる、他には何もない。

 わたしはその中でそれまで抱えていた無数の誤解が解決していくように感じられた。しかしそれはただの錯覚だとの自覚も十分あった。まあ考えても仕方ない、こうして夜気を自由に吸えるだけでもきっとありがたいのだろう。わたしはただ純粋にこの日の夜のこの光景を刹那の一瞬とも悠久の無限とも感じていた。本当にそうとしか言いようないのだ、これはここで毎日飲まされている薬によるものだろうか? それともここに来る前からの本来のわたしの性質か? 

 それを考えると怖くなる、なぜなんだろう。日々看護師たちから渡されている薬は……。取りとめのない疑惑に駆られ拘泥し懊悩しているわたしを木々たちは言葉もなくあざ笑っているかのように思われた。それが自然の素晴らしいところだが。無駄な考えを巡らすのはやめておこう、ここに居る限りわたしの時間は止まったも同然なのだ、過去や未来は意味をなさない。

 ここにいる限りにおいては時系列なんてあまりに無価値なな存在に成り下がるのだ。この施設から出ていく者、一生を過ごすであろう者、果たしてどちらが幸せなのだろうか? とにかくわたしは態度を決めきれずに入りたてのよくわけのわからない傍観者を気取ろうとしている。果たしてそれが正しいことなのだろうか。そんなことを漠然と澱みながらなんとなく夜空を凝視していたが誰もその問いに答えてくれない。自分で考え判断し行動するより他ないのだろう……。

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