第8話

 ところでわたしの向かいのベッドの人は忙しないことこの上ない。頻繁におそらくまったく用のない出入りを繰り返し、ベッドの傍でも立ったまま独り言を呟いている。別に危害を加えられるわけでもなく、内容も聞こえないので奇妙な見た目であるが嫌な感じはない。

 単純に見ていて本当に愉快な人なのだ。


 あいさつ程度で会話を交わしたわけではないが、他の人に愛想よく喋りかけるのを見ていると決して悪い人ではないらしい。独り言を言ってそれで自己都合で笑っていられるなら幸せだ。しかし彼を見ているのもさすがに飽きたのでわたしはフロアのテレビを見ることにした。相変わらず最前列は例のグレーの毛髪の女性が陣取っていた。テレビ番組への興味もものの三十分ほどで失せたので、わたしは横のガラス扉から中庭に出ることにした。季節的に少し暑くなってくるようだ、上着は脱いだが半袖でちょうど心地いい。


 わたしのいる南北陶の建物は二階建てで中庭はその廊下に長方形に区切られている形だが十分広いので圧迫感はなく、上の空から吹き抜けて落ちてくる風がわたしの肌を柔らかくくすぐる。もちろん建物の内部に作られた中庭なので大木もあるがすべて人工で植樹されたものである。


 花壇には折々の季節の花々が植えてある、しかしそんな意図的な作為溢れる仮に作られた自然であっても十分満足できるほどわたしはこの中庭が好きらしい。人工でありかつ自然なのだ。肺を満たす空気がうまくて仕方なかった。人の作為の下に存在させられたものであっても木々はその存在を横溢させ生きている。まあこんな閉鎖された空間に一日中いるのだから自然がありがたく思えるのは当然かもしれないが……。わたしは噛みしめるように歩き出した、感覚が足の裏に集中し地面の感触をより鋭敏に捉えている。


 ただ何も考えず歩くだけでここまで素晴らしいものか。途中で中ほどにあったベンチに目がいった。中庭を見回すと四つのベンチが設置されていたが、どこにも誰も座っていない。ずいぶんもったいないことだ。わたしは近くのベンチに腰かけた。患者や看護師が時折行き交うがその数はここに居る人間の数と比してさほど多くはない。木々たちはこんなにも綺麗で、誰にも嘘をつかず誠実で、そしてなによりも素晴らしいのは精神を持たないことだ。病みようがない。おいおい君たちこの素晴らしさに気づかず廊下を意味もなくうろうろしているのがおかしいぞと言いたいぐらいベンチで座っているだけで至極リラックスできた。空を見上げると建物の二階の輪郭に沿って区切られておりこれはさすがに興覚めで不自然だなあ、空はもっと自由であるべきだと自分の置かれた境遇を痛感させられる。


 さらに角度を変えていくと、大木を下から見上げる形となり、その大木の存在感をより一層強く感じ取れ圧倒された。無数のクラクラ眩暈がするほど数えきれない葉の裏が見え隠れし光が幾千幾万の断片となってさらにその間をすり抜けて輝いていた。無数の葉がサラサラと音を立て不規則にかつ隣接する葉っぱを見習うかのように揺れていた。その葉の揺れている光景にあまり見とれていると自我がどうかなるんじゃないかと言うぐらい複雑で捉えようがなかった。きっと人が理解をするには複雑すぎる方程式がそこには成立しているのだろう、それが自然と言う名の数式なのか。


 いやそうではない、わたしがわたしであるとの認識は完全にはできていない、その認識は滑落し続ける、だからわたしは常に不完全を感じ止むことはない。しかし木々の細胞だって常に死滅と分裂を繰り返している。常に認識を新たにし続けているのだ。自然はそうであり続けそれ以外を知らない。他へと常に開いている存在なんだ、かと言ってわたしも真に閉じた状態ではない、そうであるならばわたしはわたしをまったく認識できない。だからわたしは自然に憧れ続けるのだろう。偶然であり必然でもあるがそれは絶対に奇跡なんかじゃない、奇跡なんてあまりに人間臭すぎるじゃないか、だってそうだろう。


 この景色は整然として美しくわたしはそれらを見続けても飽きることがまったくなかった。内なる心象風景に意識が傾き、省察もしくは思索めいたものに集中した。しかし大樹の木陰はなぜ思索に向いているのだろうか。釈迦が菩提樹の下で悟り開いたと言われているが、正確には北インドに旅に出てその旅路の途中で女性の弟子が作ったキノコ料理にあたって体調を悪くした。自然の中において毒を口にしてしまったのだ。そして弟子に川の水を持ってきてくれと言い、弟子は汚いからそれは無理だと言う。だが釈迦はいいから持って来いと言い、弟子が川に行ってみると川の水は澄んでいたと言われている。そして釈迦はその水を飲み「ああおいしい」と言いあっけなく死んだ。釈迦は本当に毒にあたったのだろうか、また最後に清らかな水を飲んでしたんだと言われているのは本当だったんだろうか。逆ではなかったかとわたしは何となく思えるのだがそんなことなどどこの文献にも書かれていない。


 さすがに首が疲れたので頭を下げて周囲に目を向けると、昨日も通りすがりに見かけたのだが中庭のアスファルトの上に無数に落ちている木の葉を拾って一か所に集めて歩いている老人がいた。よく飽きないものだ。そう思いながら彼を眺めている間にも木の葉は風に揺れ落ち続けている。

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