第7話

「こんばんは。ここいいですか?」

 一人の男がゆっくりこちらを向いて答えてくれた。

「いいですよ」

 拍子抜けするぐらい普通のトーンだった。

「ここにこんな時間にいらっしゃるってことは毎晩眠れないって感じですか?」

「ですね」

 もう一人の男も黙ってわたしの方を見ていた。

 近くで見ると年齢が恐らく七十近い人だったので、

「ここは長いんですか?」

 と訊ねた。

「三十年」



 その声を聞いて絶句した。なんとここに三十年いると言うのである、それが本当であるならばだが。なんとも無表情で答えたのが空恐ろしくもあり印象的だった。その無表情さは三十年という年月を勝手に自己解釈してくれと言わんばかりに思われた。横の大柄な男は五十歳ぐらいで少し笑いながら、

「二十年かな」

 とこちらも淡々と答えた。わたしは神妙に頷いてよくわかりますよと同意の態度を示すより他なかった。その時床を擦るような音がしたのでそちらを見た。詰所の窓際に立っていた男が何やら意味不明な小言を漏らしながらへなへなと腰を下ろしていた。その動きは確実に異常だった、残念ながらそうとしか表現のしようがなく、それ以上考えてしまうと彼に失礼な気がした。

 看護師が出てきて自室に戻るように促したが、いつもそうなのかあくまでおざなりに終始した、きっと毎夜のことなのだろう。大柄な方の男がさらに付け加えてこう言った、

「僕は後三日でここを出るんですよ」

「へえ、そうですか。よかったですね」

 男はずっと口元を緩め満面の笑みをたたえている。それはわたしに形容できない感情を想起させた。後になってわかったことだが、その人はずっとこの施設にいた。そして毎日日中は相手が誰だかわからないが荷物が届かないと揉めていた。床に張り付いていた男は看護師に本格的に部屋に追い立てられていった。まあ彼は長いことここにいるしかないのだろう。二人から聞いた話ではわたしのいる北棟は比較的穏やか、南棟は長期の入所、行ったことのない東棟は急性など特に注意が必要な人が入っていると言うことらしい。


 確かに南棟の廊下にいる人の中で若い顔はあまり見かけない。この二人も南棟らしいが年上の人は歩行具なしには歩けないらしい。少し突っ込んだ形の話しの聞きようになったが、彼は死ぬまでここでいいんだと言い悲しみや切なさの宿る諦観はまるで籠っていなかった。日常の延長戦がおそらく将来の自分なのだとわたしに伝えようとしているかに思えた。長くこの施設にいる過程を通じてこの老人は一見持続可能な肯定的な態度になっているようだ。それもここでの一つの適応なんだろう。それをわたしには否定できるはずがなかった。

「あなたもそうですよ、今があるから未来がある、今は過去が作ったのです。覚えておきなさい。今から過去に向かって確実に帰納できるかといえばそうでないのはわかるでしょう」

 聞き方によってはニヒルで魅力的だがなんのことかよくわからなかった。

「覚えておきましょう」

 どれくらい話し合っただろうか、色々教えてもらったので二人に礼を述べてここから去ることにした。時計を確認すると午前二時だった。時計は廊下の壁の要所要所に掛けてあるもので確認していた。そのあとはよく眠れた。

 翌朝も六時三十分の起床だったがわたしは朝食が届くまでずっと寝ていた。その日もパンと驚くほど粗末な惣菜だった、わたしはパンを牛乳で流し込んで嚥下した。朝食を作る係の職員がまだ来ず毎朝昨晩のうちに作り置きされたものを食べさせられているのだろう。以後数時間は就寝前の薬があまりに効かないのでわたしは逆に朝方から昼間まで毎日眠くて仕方がない。

 トレイを戻して三十分後の朝の投薬まで再び眠るが、たびたび起こされるのが非常に苦痛だ。昼食時でも起きているのにも少しきつく感じる。だがその後も寝て過ごしていると夜また眠れない悪循環に陥ってしまうので我慢するしかない。誰かにそうはっきりと言われたわけではないが、わたしはちゃんと夜眠れるようになったらここに居なくていいような気がする、しかしここ以外の世界をわたしは知らない。実際わたしが直面している現実がどうだかとかそんなの関係ない、ただそういうことなんだ。

「誰か眠り方を知らないか?」

 そんなことを意味もなく呟きたくなった。

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