第6話
しばらく付き従って歩くと開閉させるドアが備わってない出入り口でここです、とわたしに声を掛けて入ったのでおとなしく続いた。奥の外界に接する壁面には大きな窓がありそこからうららかな陽光が射していて室内はそれまでいた個室と比べ遥かに明るかった、そして天井も高く広かった。室内には四つのベッドが置かれており、そのスペースを区切るようにカーテンのレールが天井にあった。四人部屋か。わたしは入って右奥のベッドのところで、ここですと言われたのでリュックをベッドのそばに置いた。個人用の小型のデスク兼鍵付き荷物入れがあった。
横の窓からガラス越しの風景を見たいと思ったが、そこには複雑な形をした柵が見えるだけだった。しかしその柵越しからでも必要十分な陽光が感じ取れる。わたしは近づいて窓を開けてみようとしたが、五分の一も開かなかった。身を乗り出して出入りはできない、残念ながらそういうふうな造りになっている。しかしそのわずかな隙間から外の空気が確かに頬に感じ取れた、季節は初夏というところか……。
しかし視覚より嗅覚の方がより情動を揺さぶられるらしく、記憶を呼び覚ます効果が強いのは匂いだそうだがわたしは何も思い出せなかった。わたしは記憶が曖昧で朧気であるのにほとんどそれが気にならないのはなぜなんだろう?
リュックの着替えなどを引き出しに押し込み、コップと歯磨き粉を机の上に置いた。わたしは所在なさげにベッドの上に座って足をブラブラさせた。同室の三人は全員部屋におり仰向けになって寝ているか、こまごまと何やら作業していた。お互い同室だからといって積極的に会話を交わす人はなく当然わたしにも話しかけてこない。これには一安心した、同室の人間が凶暴な性格であったり、むやみやたらにこちらに興味を持たれたのではたまらない。わたしは個人の時間を大事に思うたちのようだ、おしゃべりではない。誰もこんな所で知り合いを増やそうだなんて酔狂を起こさないだろう。
しばらく部屋にいて飽きてきたのでわたしは廊下を歩くことにした。廊下の幅は五メートルほどだろうか、この施設はまず今わたしがいるところは北棟で反対側には南棟がありそれを繫いでいるのが長方形の両端をなす廊下である。
廊下は長い辺が百メートル、短い辺は五十メートルといったところだろうか。廊下の内側は中庭となっている。その中庭には十メートルを超す大木も三本ほど植わっている。ベンチも四つほどあるので猫の額のようなとの呼び方はふさわしくないだろう。短い辺の東側にある入り口を中央にして等分に看護師の詰所がある。
わたしがここに入ってくる時初めて入ったフロアで、廊下ではなく人が集まれる余裕のあるスペースで大型のテレビがあり机と椅子が多数ある。ここで食事を取るのもままならない患者が補助してもらって食べていたのを見たことがある。スプーンを使いながらそのスピードはものすごく遅かったりするのだが、補助する女性があまり乱暴でないように見受けられるのが救いだった。
その反対側である西側の廊下も同じようなスペースがあるがこちらは詰所はなく出入り口もない。東側にある詰所の間にある唯一行き来できるところは午前十時から午後四時まで開いているらしい。そこを出た建物の外は日光が直接降り注ぎそこには七、八台洗濯機と一つだけ乾燥機があったがほとんどの人は物干し竿に干して乾燥させているようだ。だが残念ながらそのスペースはフェンスと忍び返しがついていてその光景を見ても心はまったく踊らないものだった。一部の困難な人を除き洗濯は自分で行うらしい。困難な人は袋に入れて洗濯後受け取るようだ。そこを過ぎるとまた別の建物の入り口があり中を進んでいくと大きなフロアに出る。この施設ではおそらく一番広い場所だろう。二台の大型テレビと椅子が多数置いてあり、小規模な売店もある。この売店にはお菓子類をはじめカップ麺やパンとジュース類の他下着と簡単な衣服、ボディーソープ、洗剤などが置いてあった。
しかしたばこは置いてなかった、この施設は全面禁煙なのだ。売店の横には看護師が二人常時詰めて座っており、外出の許可の下りた者だけが看護師に断りを入れて外に出られる。たばこを吸いたければここからこの施設内にある喫煙スペースに行かなければならない。だがわたしにはまだ外出の許可が下りてない、だから一本も吸えていない、そろそろかなりのストレスになってきている。しかし許可が下りるまで二週間ほど掛かると言われておりあと一週間とちょっと完全禁煙になる。外出に制限があるのは外でおかしなことをしでかしたり遁走したりする可能性のある人物がいるからなのだろう。わからないでもない、実際いたりもしたのだろう。だがなかなかわたしのニコチンへの誘惑は収まってくれなかった。
この一件でもこの施設でわたしの行動は著しく制限されているのが一目瞭然だが特に自尊心が損なわれるといったふうにはまったくならない。なぜならそれが今のわたしに課せられた役割なのだろうから。わたしはこの棟のフロアの椅子に腰かけていた。誰がなんと言おうがわたしの時間だけは掃いて捨ててもおつりがくるほど有り余っている。食事と投薬の時だけ自分の部屋に戻っていればいいのだろう。わたし以外にも幾人か椅子でただ座っている人もいれば、売店で買ったお菓子を食べている人、ここで知り合った人と談笑している人などがいた。
少し奇妙な光景であるが平和な時間が流れていた。だが見ているとここにもまた別の場所に繋がっているようだった。どうやらわたしのいる北、南以外にも棟があるらしい。そこも同じような人がいるのだろうか……。わたしは喉が渇いたので自販機でペットボトルのジュースを買うために立ち上がった。このような場所では甘い飲料を飲むのですら娯楽になる。身体を動かさなので喉は基本的にほとんど乾かないから三度の食事と三時頃一度だけやかんを持って配られるほうじ茶以外は水分補給しない。 緑茶も飲む機会がなかったのでコーラが飲みたくて仕方なかった、普段はカフェインの摂取とかあまり意識しないがこういった施設では敏感になるようだ。それにしても給水機があっても良さそうなものだが、水中毒と呼ばれるがあると聞いたことがある、際限なく水を飲む副作用だ、そうすると血圧の関係で心臓に負担が掛かり、亡くなる人もいるという。
わたしは炭酸の刺激を時間を掛けて楽しんだ。そのうち昼頃になったので部屋に帰って運ばれてきた食事を食べた。夕食まで暇であろうと思われたのでフロアの椅子に座ってテレビを見ていた。ここでの娯楽のメインがテレビの鑑賞になるわけか……。わたし以外にも数人いたが全員無言でテレビを見ていた。何度かここを通りがかった際にいつもそうだったのだが、一番前に陣取っている女性は綺麗なグレーの髪色をしているが顔はその髪色とはまるで不釣り合いなぐらい若かった。だから印象に残っているのだが、わざと染めてグレーになった風では決してないように思われた。わたしもこの人たちにならって無言でテレビを見ていたが放送内容にまるで興味がなくほとんど頭に入ってこなかった。新入りなのでチャンネルを変える権利もないだろう。
しかし見事なぐらい他の人は身じろぎもしなかった。しばらくはそれを何とも思わなかったが、ふとこの人たちは本当に内容を理解しているのだろうかと考えるとぞっとした。彼らを後ろから見る頭の角度は微動だにしない、そう言えばこの人たちが喋っているのを見たことないぞ、わたしの心はそれらの考えに支配されて鬱々となって沈滞していった。しかしそれは憐憫でも同情でもなく、何とも形容しがたいものだった。しかしこれらを理解し解釈づけようとしたアドラーがわたしは大嫌いである。本を読んだが本当にこれでも精神医学者かと疑ってしまうような愚にもつかないことばかり書いてあった。彼は言語を信頼しているふりはしているが完全にその実馬鹿に仕切って、そして自分の下を訪れた患者を同列に扱う。矛盾の極みだ。真摯さがまるで欠如している。すべての病状を己が開陳してやると言う下品な下心が鼻について仕方ない。フロイトも下品な奴に違いないが同様にアドラーは今にも通ずるカルトセミナーの匂いをより一層強く放散している。この二人は思想家として扱うべきではない、現象に疑似科学で拘泥する言葉を尽くす馬鹿だと思えばいい。わたしはここにいる人たちを直観するだけでいい、それは思考停止エポケーではない。わたしの目に映る光景がゆるゆると意味を喪失し融解していった。
そして次の日を迎えた。ここは午前六時三十分に起床、七時に朝食、十二時に昼食、十八時に夕食、二十一時に就寝となっている。食事は巨大な保温機能の付いてるカートで一つの棟の全員分が持ってこられ自分で廊下に出て取ってベッドの横で食べ終わったら廊下のカートに返す。
夕食には必ず汁物がつくが正直すでにもう飽きている。わたしは今日も相変わらず誰とも喋らず一日を過ごし、また眠れない夜が訪れた。今夜もわたしは闇に声を掛けられ損ね仲間に入れてもらえなかった。これは日頃から慣れているとは言え、さすがに暇を持て余す、眠前に飲まされている薬は何の薬なのか? 本当に睡眠薬なのか? 姿勢を色々変えたりしたもののやはり寝付けなかったのでわたしは靴を履いて部屋の外に出た。誰もいない、あたりを不気味な静謐が支配している。看護師の詰所は煌々と明かりが灯りフロアを薄く照らしていた。
しかしまったくの無人かと思っていたらそうではなかった。椅子に二人、壁際に一人が立っていた。影がもぞもぞ動いている。さすがに夜も更けているのでわたしは自販機でオレンジジュースを買って少し離れた椅子に座ってとりあえず静観することにした。話している内容は一切聞こえてこないが二人は何やら熱心に顔を寄せ合っている。わたしは他の人がいないのをいい機会だと判断して、話しかけることにした。
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