第5話

 そこにまた施設の人があくまで業務の一環とした風情で来た。

「夕食後の薬です」

 そう言って薬を手渡されたのでわたしはそれをコップの水で飲み下した。就寝前の睡眠薬もここに持ってくると言われた。それまではすることがないので寝て過ごしていたが睡眠薬は思いのほかすぐに持ってこられたのでわたしはそれを服用して目を閉じているとすぐに部屋の明かりが消された。消灯時間らしい。

 わたしは睡眠薬の助けを借り、部屋の暗黒に溶け込もうとした。起きているより寝たほうがずっといい。しかしわたしは強度の不眠症であるためやはりと言うべきか睡魔は簡単に訪れてくれなかった。一時間過ぎ二時間が過ぎた、部屋の闇は不気味さを増していくばかりでその濃度に嫌気が差したのでわたしはそれを振り払うために部屋付きのトイレで用を足した。枯れた感情は今更戻らないがなぜわたしだけが眠れないのかと腹が無性に立った。


 どうせ眠れないだろうと覚悟しながらベッドに横になっていると朝食だと声を掛けられて起こされた。持ってこられたものは食パンとマーガリンとジャムと牛乳だった。牛乳以外ほとんど残した、さすがに慣れない環境で迎えた朝は気分が悪かった。ある意味ここでわたしだと主張できるのはわたしの存在という極めて不確かで心許ないものを除けば著しく少ないのが現状だろう。元から自尊心は著しく低いもののこの施設ではそれをさらにこそぎ取られ低下させられる感覚が強い。これからもこの環境に慣れるまでその傾向は続くだろう。


 この日はなぜこれほどの早朝からというぐらい早くに採尿と血液検査があったので受けたが、それ以外は三度の食事と寝る前の睡眠薬をカウントに入れると四度の投薬があるだけだった。わたしは自室からあまり出なかった。それは翌日も同じで三日目の昼頃に部屋を移れと言われた。この部屋からの移動は状況的に好転に思われた、実際後から考えてみると確かにそのようだったようでこの三日間はカメラで異常行動がないかを監視されていたのだろう。わたしは大部屋で他人と寝起きしても問題ないとの人物評価を下されたらしい。わたしは言葉もなく荷物を手早くまとめ職員の後について従った。その時だ、意識しないでふっと次のような言葉が口から出た。


「あなたは看護師ですか?」

 彼は歩を進めながら不審そうにわたしを振り返った。


「そうですよ」

「じゃわたしは患者?」


「ですねー、わたしもそう接しますしあなたがそう思っているならそうなんじゃないですか。ただここにいる間は揉め事はできるだけ避けてくださいね」

「仕事が増えるんですか?」


「そうですね、わたしらも結構忙しいんですよ」


 なるほどそういうことかと妙に納得したがやはり今の質問は不用意だったなと後悔してした。ある意味自明の理ではないか、返ってくる答えなんてわかりきっていたじゃないか。わたしは馬鹿ですと相手に効果的に伝えたのと一緒じゃないか。


――そうなのだ、わたしは自分が誰だか完全には把握しきれていないのだ――。

 しかしこれは曖昧なわたしの人格にとってこの場所における双方の役割の確認であって、そうすることにより自ずと個を規定したかったのだ。人は社会的動物であると言われるのはその辺りにあって、これは想像より遥かに自我や立場を強制的に規定され行動を悪く言えば抑圧される。

 しかしこの施設にいる今わたしに見える限りのこの人たちはそれとはまるで無縁に生活しているようにも一見感じられるが、そんなことはない。ここでどんな立場か理解しているからこそ騒がず静かに佇んでいるのだろう。ここの人たちも確かにこの施設にくる前には劇的な変化を伴う決定的なのかあるいは慢性的な状況があったのであろう。ここではあらゆる人たちが患者になる。それが強要されたものなのか自発的であるのかは知らないが……、正直あまり知りたくなかった。


 囚人は監獄が作るのだ。人は目の前で溺れている人がいると反射的に手を差し伸べると聞く、それと同様に人は目の前の他者にこうだろう、こう行動して欲しいと自分で規定したことに無意識のレベルで従おうとする、これは人の本能、性と言っていいだろう。猿も自然に囲まれて原始の科学者として演繹法は採る。だからこの人たちが奇妙なぐらい落ち着いているのは一見異常に見えるかもしれないが、見方によっては正常であるとも言える。

 おかしなやつこそ誤った推論を根拠にして暴れるのだろう。

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