第4話

「夕食です」

 そう声を掛けられてわたしはベッドの上で目覚めた。夢は見ていなかったが長くて短い悪夢を見たような気分だった、できれば目覚めたくなかった。現実が悪夢に近いからだろうか。どんなところでも永遠に目覚めなければなにも感じないし、それでよかったのに。

 空腹でもなかったし、この状況で差し出された食事を喜ぶ酔狂などいるのだろうか? 絶望が具現化していく。トレイをカートからベッドサイドのテーブルに移された。どうやらベッドに腰かけたまま食べるらしい。コップにほうじ茶が入り、箸がついていた。箸は持ってくるのを忘れていたのでちょうどよかった。食器はアルミ製と漆器だった。

 白米、主食、野菜の副食、汁物だった。量は全体的にかなり少ないが健康には良さそうなのはわかった。その配慮はわたしには勝手で余計なお世話そのものだったのだが……。味はかなり薄味だったでとき卵の汁物がありがたかった。しかし閉口したのは白米がかなり柔らかく炊かれていることだ。おそらくここには年齢の高い人も相当数いるので喉に詰まらせない配慮なのだろうがこれはこれから辛くなるだろうなと思われた。

 わたしは三分で箸を付けるものがなくなりかなり閉口した。食欲はあまりなかったものの、主食の肉や魚類が決定的に不足して感じられた。だがこれでいい、全部食べれば粗末な食事でも余計な声を掛けられなくて済むだろう。ベッドに再び横たわっているとカラカラとカートでトレイを回収に来たので無言で頷いた。その時気づいたのだが部屋の隅っこで監視カメラがキラリと光った。別に不都合はない、わたしはおとなしくしているだけだ。

 時刻は腕時計、小型の置時計を持ってこなかったのでわからない。時間は重力と関係と関係があるらしく、強力な重力を発生するブラックホールでは物質が飲み込まれる瞬間、その重力下に置かれるので一瞬が無限に引き延ばされるので永遠に静止して見えると聞いたことがある、本当だろうか? と取り留めのないことを考えはじめてしまった。

 そう言えばこの部屋の無機質さはどこか虚無と通ずるものがあるように思われたが、そのことについて深く考えるのはまるで不毛だろう。とにかくすることがないので、個室から出て外を歩いてみた。当然知らない顔が立ち止まったりしていたのだが、喋りかける気にはまったくなれなかった。そしてかなり意外だったのだが、女性も少なからずいたことだ。こういった施設では男女別なんだろうなと勝手に思い込んでいた。女性らしく何人かで話し込んでいる。当たり前だがここは閉鎖空間である、対人関係をこじらせると非常に面倒なことになるので、迂闊に積極的に話しかけるわけにもいかない。相手がどんな人間かわかったものではないからだ。

 それとなく視線を周囲に送りながら探ってここの住人たちの性質がどんなものか憶測を飛ばすしかない。見るからに凶暴というのはいなさそう、しかし目元が怪しい奴がかなりいるのも事実だった。話しかけられないようにとわたしは速すぎず遅すぎず歩き続けた。

 しかししばらく歩いても突き当りで立ち止まるという事態には遭遇しなかった。わたしの歩いている廊下は長方形をなしていたのだ、だからわたしはそれに気づかずしばらくずっと歩き続けた。しかしわたしにあてがわれた個室がどこにあったのかわからなくなったので、施設の職員と思わしき白い制服を着た人に、ここは初めてなんですが部屋はどこですかと尋ねた。


 ああ初めての方なんですね、はいそうですと答えてその人の後についていった。すると見覚えのある出入り口らしきところについたので一心地ついて個室に入ろうとした。その時視界の端に隣の個室が目に入った。その男はわたしよりずいぶん年上で老人と言ってもよかった、男は部屋の中央で寝ていた。いや寝かされていたと言うのが正確だろう。だってその男はベッドの上で少なくとも四つの白い帯のような幅の広い紐で拘束されていたからだ。おそらく腰もベッドに固定されているだろう。手足がまったく動かせないわけではないが、可動域は著しく制限されている。身体のどこかがかゆいとか触りたくなってもきっと駄目なんだろう、ベッドの端から尿を通す管が落ちバケツにひっそりと差し込まれていた。大きいのはきっとオムツにしているのだろう。その人は白髪で顔は彫りの深い人だった。たぶん暴れて自分や人に危害を加える恐れがあると判断されたのだろう。わたしは正視できずにあまりよく見ないようにして無言で通り過ぎた。それはわたしをここまで誘導してくれた施設の人には当たり前の光景だったようですぐに出ていった。

 部屋に戻って一人で立ちながら隣室の住人のことをどうしても考えてしまった、あのような姿になって、そうまでされて、人は本当に生きなければならないのだろうか? だが個人の意思が反映されないからといって何かを勝手に断罪できるものではないだろう。ともかくまったくの他人なんだ、関係のないわたしが感情を煩わせられることもないだろう。

 わたしはそういうものなんだと言い聞かせることにした、することもないのでベッドに座った。隣室からは何も音がしない、ようやくこの施設でのわたしの日常がどのようなものになりそうか、またはいかなる可能性があるのか思い知らされた気がした。部屋の壁は白ばむばかりで何も答えてくれない。不毛な戦いだがこの感情と対峙するしかない。わたしはじっと耐えるようにベッドの上で考え込んだ。

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