飛び降りる男

藤原くう

飛び降りる男

 季節は五月になろうとしている。新生活が始まってほぼ一か月。観光客の姿はめっきり減ってしまった。


 わたしは、橋の欄干にもたれかかってため息。


 すごく暇だ。ついこの前は猫の手も借りたいくらいだったというのに、今はどうだ、閑古鳥の鳴き声が両側の山から聞こえてくるかのよう。


 目の前には、睦月村の名物であるバンジージャンプがある。ここらでは一番の高さから飛び降りるのは、爽快感があり楽しいともっぱらの評判である。近くには温泉があり宿があるから、そちらの客がよく訪れたりもするスポットであった。


 現在はレジャースポットとは思えないくらい閑散としている。同僚があくびをしているほどに暇だ。春休みという繁盛期を過ぎたから、というのもあったが、宿の方で殺人事件があったのも関係ないとは言えないだろう。気を休ませに来ているのに、いわくつきの宿に泊まるやつは事件を調査しに来た警察官とか記者とか、あとはオカルトマニアくらいだ。


 そんなわけで、わたしは働いているのに暇という状態に陥ってしまったのだった。


 遠くを眺めてぽけーっとしていると、時間の流れがゆっくり感じる。こうやって、外を眺めているだけでお金がもらえるんだからいいじゃないかと思われるかもしれない。わたしだってずっとそう思っていたし願っていた。でも、実際自分の番となると、退屈で退屈でこれはこれで大変である。


 と。向こうのトンネルから一台の車がやってくる。セダンタイプの普通車だ。その車は、そろそろと速度を落として、そばの駐車場に入っていった。バタンと音がして、中年男性がこちらへと歩いてくる。


 間違いなく客である。客じゃなかったらいったい何だというのだろう?


「さ、佐藤先輩っ」


 活字を追いかけていた目が、わたしへと向けられる。その鋭い目に、わたしはたじろいでしまう。夜はパンク系のボーカルを務めるという佐藤先輩は、見た目からしてすごく怖い。高校時代に着ていた制服をびりびりに破いて、それを身にまとっている。すらりとした脚を包むのは黒いストッキングだけど、それだっていたるところが伝染していて、その下の真白な肌が露わになってしまっている。清純なイメージが付きまとうセーラー服を改造して生まれたその恰好は、どこかインモラルな感じがあった。ブーツは男物のごついもの。それがまた似合っている。


 そんな佐藤先輩が読んでいたのは、何やら難しそうな本。ちらりと見えた題名は「動く点P殺人事件」。タイトルから察するにミステリなんだろうけど、動く点Pってなんだ。


「なに」見られているのが気に障るのか、佐藤先輩は本を閉じる。


「え、えっと。久しぶりにお客さんが」


「……マジ?」


 コクコクと頷いて、やってきている男性を指さすと、佐藤先輩の切れ長の目が、大きく見開かれた。


「こんな時期にやってくるなんて、どうかしてんじゃない?」


「わたしもそう思いますけど……。あ、客が少ないと考えてやってきたとか?」


「なるほどね」


 佐藤先輩は、本を椅子に置くと、バンジージャンプの準備をし始める。準備といっても、たいていのことは終わっているから、点検くらいのもの。わたしもその手伝いをすることにする。別に手伝わなくてもいいんだけど、だらけているとは思われたくなかった。


 そうこうしているうちに、男性はわたしたちの前までやってきた。


 その男性は、くたびれたジャケットにスラックス、それから年季の入った革靴といったいでたちをしている。佐藤先輩と比べるとあまりに地味だ。年がら年中ジーパンに白Tのわたしが言えたものじゃないけども、バンジージャンプをやりに来たというよりは聞き込みに来た刑事コロンボ、といった雰囲気があった。


「ここでバンジージャンプをやらせてもらえると聞いたのだが」


「ああ。ここでできるよ」


 佐藤先輩はぶっきらぼうに言い――この人は相手が客であろうとも雇用主であろうとも、神様に対してだってこんな調子だ――男性へと手を差しだした。そうすると、男性が不思議そうな顔をして、佐藤先輩のことを見返していた。


「えっと、引換券です。あっちの営業所の方でもらえたと思いますよ」


「あれか。ちょっとまってくれ」


 男性はジャケットのポケットをあーでもないこーでもないとひっくり返すように探す。なかなか見つからない。わたしと佐藤先輩は顔を見合わせる。


 声をかけようとしたところで、


「見つかったぞ」


 掲げるように突き出された手には確かに引換券。受け取ったのはさっきだっただろうに、その引換券はもうぐしゃぐしゃである。わたしは苦笑いを浮かべる。隣の佐藤先輩も顔を引きつらせていた。


「わ、わかりました」


 ではこちらに、とわたしが言う。


 男性に命綱を装着するのは、先輩の役目である。その鮮やかな手並みといえば、男性がまじまじと見つめるほどであった。……一歩引いたところか見ると、おっさんが若い女性を下品な視線を向けているようで、ちょっと気持ち悪い。


 それだからだろうか、佐藤先輩のカウントダウンはかつてないほどにぞんざいで、背中を押すときなんか嫌悪感からか、突き落としているのではないかと思ってしまうほどの勢いがあった。


 男性が落ちて行く。その背中に繋がれた命綱が伸びて伸びて、ピンと伸びきる。男性の体が収縮する命綱に引っ張られて浮き上がり、また落ちる。びょんびょんと跳ねる体からは、悲鳴一つ上がっていない。


「変な人ですね」


「気持ち悪いの間違いじゃない」


「それはそうかもしれないですけど。邪気を感じないっていうか」


 わたしも女性の端くれ、女っ気のない服装ばかりするとはいえ、おじさんにじろじろ見られたことは何度だってある。もっとも、佐藤先輩と一緒にいたら、すぐそっちに行っちゃうんだけど。


 とにかく、さっきの男性の目つきは疚しさといったものとは無縁のように感じられた。単純な好奇心によるものなのではないか。


「どうだか。ってかそれってバカにされてるってことじゃねえか?」


「なんか、そういうのとも違うような?」


「曖昧じゃねえか」


 すみません、とわたしが言う。謝るな、と言い、佐藤先輩は本を持ち上げて再び文字の海を泳ぎ始める。男性が戻ってくることはないだろう。船で待機している係員によって命綱を外されたら、あとは自由である。たいていは川辺のカフェで茶をしばいてそれで帰る。男性もそうだろうとわたしも佐藤先輩も考えていた。


 実際は違ったのである。



 おじさん再び。


 階段を上ってこちらへと近づいてくる姿を見た時、わたしは声を上げてしまっていた。佐藤先輩がうろんな目を向けてきたけども、男を見るや、盛大な溜息をついた。


 本が勢いよく閉じられる。機嫌はわたしが知る最低ラインを割っていた。


「いやあ、楽しかった」


「……そう」


「もう一度落ちたいのだが」


「……引換券を」


 不機嫌さを隠そうともしない先輩もさすがだけど、それに気が付かない男もある意味すごい。


 男は平然と引換券を渡し、先輩はそれをひったくる。


 それでも、職業的なものは忘れてはいなくて、安全具をつける際はすごく丁寧であった。むしろ、自分が不機嫌なのを理解しているかのように、その手つきは慎重だった。


 男といえば、先ほどと違って先輩のことを見ていない。何事かを考えるように視線は斜め上を向いていた。


 それで、飛び降りることになったのだけど。


「背中向いても?」


「別にいいが」


「できれば、殺すつもりで押してもらえると助かるのだが」


「…………」


 あまり驚かない佐藤先輩が、大きく口を開けていた。たぶん、男の意図がわからなかったのだろう。わたしもそうだ。


 何を言ってんだこの人。


 そう思って見ていたけれど、男はやっぱり気にしていない。精神がタフ過ぎないだろうか。


 先ほどまで先輩から滲んでいた嫌悪感はどこへやら。そこにはすでに、未知のものへの恐怖しかなくて、わかった、と先輩は言うなり、可能な限り強く男のことを突き落としたのであった。


 男が落ちる。先ほどとは違って、その時の表情がよく見えるわけだけど、それはもうある意味で怖かった。


 だって目をこれでもかと開いていたのだから。



「なんなんだあいつは!」


 そんなことを叫ぶ佐藤先輩を、わたしはどうどうと宥めようとする。読んでいた本を手渡すと渋々といった調子で、本を読み始めた。


 でも、わたしも佐藤先輩と同じ気持ちだった。


 先ほどの言葉は、不思議を通り越して気持ち悪い。鳥肌が立ってしまうほどだったけれど、落ち着いていられたのは、わたしよりも動揺していた人がすぐそばにいたからだ。


 それしても、先輩って意外と怖がりなのかな。


 姿だけ見ていると、ガラが悪い。不良少女というか、ヒャッハーと叫ぶ世紀末の住人に見えるというか。だから、怖いものなしだと思っていたんだけども、実際はそうではなかったというわけだ。


「人って見かけによらないなあ」


 なんてついうっかり独り言を漏らしても、佐藤先輩は耳を貸さず、読書に没頭しようとしていた。目なんか血走っていて、これじゃあむしろ集中できていないのでは、なんて思ってしまう。


「その本ってどんな本なんですか」


 佐藤先輩の顔がばっと上がる。怒られるんじゃないかと思って、わたしは身構える。でも、違った。


 早口で、本の説明をしてくれた。


 それによると、数学的な要素の強いミステリなんだとか。変人の名探偵が出てきて、真面目そうな助手がそれに振り回されながら難事件を解決していく……というお話。


 それ以外にも先輩は事細かに教えてくれたんだけど、覚えてるのはそのくらい。なんだか『シャーロックホームズ』みたい、とわたしが言ったがぶん殴られた。


 とにかく。


 話を聞く限り面白そうである。もしくは、熱を上げて説明してくれた先輩が面白かっただけなのかもしれないけど、読んでみたいという気にはなった。


「読み終わったら貸してください」


「……わかった」


 やけに素直なのは、トラウマじみたことがあったからに違いない。これなら、何回でもあの人来てほしいけどな。


 なんてわたしが思っていた矢先のことである。


 近づいてくる足音。そちらの方を見れば、三度目のおじさんがやってきているではないか。


 わたしは驚いて心臓が止まりそうになってしまう。


 バタンと、隣で音がした。


 見れば、佐藤先輩が倒れていた。



 佐藤先輩の命に別状はなかった。


 ただ単に気絶しただけらしい。てきぱきと脈をとり呼吸を確認した男はそう言った。


 わたしはほっと一息つく。


「多分過労なんじゃないかな。熱中症とは思えないけど、一応は日陰に寝かせておこう」


 というわけで、佐藤先輩は日陰で横になっている。その表情は苦しそう。たぶん、佐藤先輩の状態を確認して運んでくれた男のせいなんだとは思うんだけど、口にはしない。手伝ってくれた人にそんなことを言えるほど、わたしの面の皮は厚くないのだ。


「どうぞ」


 戻ってきた男がそう言った。声とともに差し出された両手にはペットボトルが二本。


「一本はそちらの方が目覚めたら渡してください」


「ありがとうございます」


「いえいえ」

 

 なんて言いながら、男は、離れていく。その途中で、止まった。


 男の視線は、椅子の上に置かれた本へと注がれていた。


「あの、その本がなにか?」


「や、なんていうか、その」


 言いながら、男は頭をかいていた。額には汗がにじんでいる。


「歯切れが悪いですけど、これは商品じゃないですよ?」


「いやいやそんなことわかっています。そうじゃなくて」


 男は体を身もだえさせて、それから諦めたように大きくため息。


「その本、私が書いたんです」


「へ?」


「私は作家なんです」


 わたしの口から驚きの声が飛び出していった。


 さっかぁー!?


 その大音声は、両側の山にぶつかり、反響し、谷間に沿って広がる温泉街に響き渡っていった。


「ちょっと! 叫ばないでください!」


「ご、ごめんなさい。でも、どうして隠してるんですか?」


「恥ずかしいからです。それに、顔が知られていたら、面と向かって酷評されるかも……!」


「それは考えすぎだと思いますけど。あ、作家ってことは。もしかして取材の一環で?」


 わたしの脳内をある考えが稲妻のように駆け巡る。


 温泉街で起きた事件。作家。


 わかった、わかったぞ。


「殺人事件を調査しに来たんでしょ!」


「バンジージャンプを経て、突き落とされる感じを勉強したくてね」


「あ、そうなんですね」


 二回のバンジージャンプで飽き足らず、三回目に挑戦しようとしていたのは、取材だったから。


 おかしいと思っていたことが、作家であるとわかった途端、当たり前のことのように思えてくるから不思議だ。


 不思議な人、不思議な行動が、作家というだけで正当化されていく感じ。


「やっぱり、人は見かけによらないなあ」


「何か言いました?」


「なんでも」


 わたしはそう言って、あ、と本を手に取る。


 そして、差し出す。


 サインがあったら、気絶していた佐藤先輩も機嫌がよくなるかもしれないな、と思いながら。

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