消失

石橋めい

泣かせて、祈らせて

 ふと目が覚めた。連日続いた熱帯夜が、嘘のように心地が良い夜だった。

 私はゆっくりと寝返りをうつ。寝間着のショートパンツから伸びた太ももが使い慣れたタオルケットで音を立て、人肌に温められたシーツを離れたつま先がまだ冷たい部分に着地した。カーテンの隙間から覗く闇が深くて、まだ起きるには早すぎると伝えている。寝付けずに寝返りを繰り返す私の体は妙に重くて、この夜に溺れてしまいそうだった。



 通勤ラッシュの電車に揺られる体から、大きな欠伸が一つこぼれ落ちた。始発駅から電車に乗る私は殆どいつも決まった席に座っている。リュックを抱えて目を閉じれば、タタンタタンと一定のリズムを刻む車体がゆりかごみたいで私の意識が上下した。

 黒いシャツを纏った背中が車窓を突き刺す朝日に焼かれて暑い。意識がぼんやりと覚醒しない。

 普段は汗が目立つからと殆ど着ない黒い服を上下に纏っているのも、どんなに忙しい時だって基本は欠かさず摂る朝食をまだ口にしていないのも、昨夜変な時間に目を覚ましてしまったせいだと思う。ポケットの中で震えるスマートフォンを確認するのが億劫なのだって、きっとそのせいだ。なんだか心臓か脳味噌のどちらかにぽっかりと穴が空いたような虚無感が身体に広がっていて、朝なのに夕方のような気だるさが体を覆っていた。

 目は閉じたまま、リュックにつけた小さなチャームに触れる。愛してやまない俳優が好きだと公言していたキャラクターのそれは、子どもっぽくならないようにとできるだけシンプルで小さなもの選んでつけた。私はそれを結構気に入っている。私が好きなものではなくて好きな人が好きなものだけど、不思議と私の好きなものとイコールになった。

 はあ、と小さくため息をつく。黒い服を着ている本当の理由も、朝ごはんを食べる気にならなかった原因も、この気怠さの種だって、本当は全部わかっているのに、本当のところは何一つわからなくて、私にはため息をつくことしかできない。

 感情とかいうものは本当に厄介だ。ああ、と今度は少し大き目にため息をつく。感情そのものを吐き出してしまえたらいいのにと思った。リュックを抱えなおして、チャームを撫で続ける。そのまま会社までの十五分を静かに過ごした。

 だってまだ、たーくんが、原田たいち(本名は原田泰智)が、私の好きで好きで仕方がなかった俳優が、死んでしまったなんてどうにも信じられないから。



 昨夜午前二時ごろ、彼は自室で死を選んだらしい。なんで、どうして、どうやって、そんなことは何一つ明らかにされていない。ただ彼が死んだのだというニュースだけが伝えられた。無名ではないけれど、今をときめくほどではない彼の訃報はネットニュースが中心に伝えている。だがどのページを開いても、たーくんが既に死んでいること、早朝からの仕事に来ないのを心配したマネージャーが発見したこと、そのくらいしか書かれていなかった。

 私は朝六時のアラームを止めると共にそのニュースを見た。ページをスクロールして、とにかく信じられないという感情を抱えたまま情報を拾った。報じられてから数時間が経過してるのに、情報は何も増えてはいなくて、きっとこの後も増えることは無いだろうと私も察した。それから震える手で開いたSNSには「信じられない」というコメントが溢れていて、私だけに伝えられた嘘のニュースじゃないんだな、なんて馬鹿なことを考えた。

 朝食や身支度の時間を潰して、なにか情報は無いかと開いたたーくんの公式アカウントは、二日前にアップされた青空と入道雲の写真で止まっている。『夏だね。暑いね。でも、青空の写真はすごく気持ちがいいね』なんてコメントがつけられていた。私は既につけていた「いいね」を消す。もしもこの頃から彼が何かに悩んでいたのだとしたら「いいね」なんて言うもんじゃ無いと思ったからだ。

 それから、昨夜ふと目を覚ましたのは私と彼の運命なんじゃないかとか、どこかで何かが繋がっていたんじゃないかとか、そんなありもしないことを想像した。




「ああ、生きてた!」


 改札を出ると、二つ歳下の真由子が私を食べんばかりの勢いで寄ってきた。眉尻は下がり、顔には大きなハの字を書いている。いつだって感情そのものみたいな彼女は今、間違いなく心配と安堵の感情を示していた。


「あたし、しばらく先輩はお休みするんじゃないかって思ってました」


 私を薙ぎ倒さんとする勢いで来たのに、きちんとパーソナルスペースを守りながら話すのは彼女の良いところだと思う。


「そりゃあまあ、来るよ。だって休みの申請も出してないし、上司にどう説明すればいいかもわかんないし」


「でも、だって、たーくんが……先輩のたーくんが……説明なんてどうにでもなりますよ」


 なんでか彼女の方が泣きそうな顔をした。だから私は眉毛を少し下げて困ったみたいに笑う。


「たーくんは、私のじゃないよ」

「それはそうですけど! そういうことじゃなくて!」


 今度は怒った顔をする。


「うん、わかってる。わかってるよ。でもさ、なんというかさ、今はまだたーくんがいないのわかんなくて。だから悲しむとか落ち込むとか、上手く出来ないんだよね」

 

 だってほら、と口にしながら私はスマートフォンを取り出す。画面には通知がいくつも並んでいた。SNSやニュースの通知で、全部、たーくんに関するものだった。それらの通知をスライドで消していく。消した先には見慣れた笑顔がこちらを向いていて


「まだ、笑ってるじゃん」


やっぱり、信じられなかった。





「あたし泣きそうです……。今日はもう無理かも」


 向かい側でパソコンを叩く真由子が大袈裟に肩を落とした。こうもオーバーに物事を表現する人を、私は彼女以外に知らない。だけど私はそんな彼女を好いていた。

 元々妙に気を使うところがある彼女とは、初めのうちはなかなか打ち解けることができなかったが、私のたーくんへの気持ちが漏れてからは早かった。彼女は大手アイドルグループの中心メンバーである男をデビューする前から追いかけていて『アイドルがアイドルでいる限り、ファンである私はそのアイドルを愛さなければならない』と使命の如く情熱を注いでいる。どこかそんな自分と私の間に近しいものを感じたのかもしれない。その日から彼女は饒舌になった。


「なんで真由子が泣きそうなの」

「そんなのあたしにもわかりません」


 彼女はそのアイドルと恋人になりたいとか、そんなことを願いはしないらしい。それからよくある『古参vs新規』みたいな争いも大嫌いだという。だけど数字の若いファンクラブの会員ナンバーや昔のロゴが入ったグッズには誇りを持っている。でもひけらかしはしない。さりげなく、見せつける。そうやって彼女は彼女なりのファンとしての矜持を持って追いかけ続けていた。


「仕事しよ。働かないと推しにご飯を食べさせてあげられないよ」

「それはわかってますけど、先輩見てると悲しくなるんです」


 彼女はいつも言う、『あたしのお金が、彼のご飯の一粒になればいい』それから『彼はあたしの生きる意味で、そんなあたしは彼が生きるのに必要な、ちっちゃな糧にでもなれれば本望』と。そんな彼女の言葉はその通り。私もそう思って生きている。いや、生きてきた? 否、まだ私は思っていたい。

 恋でも愛でもない、ほとんど執着みたいなこの感情もはたから見ればただただ無駄で馬鹿げたものかもしれないけれど、私にとっては大切で、簡単に捨てて割り切ることなんてできはしない。


「仕事しなきゃだよ」


 真由子に向けて口を開きながら、ほとんど自分に向けて言った。

 私だって集中できない。頭ではモヤモヤと形のない感情が彷徨っていてどうにもならない。人の死とはもっと明確でリアルな形を持って遺された人間を押し潰しにくるはずなのに、たーくんの死はどこか判然としなくて私自身が認識できない。だから悲しむに悲しめなくて、落ち込むに落ち込めない。それなのに妙な消失感だけが私の中に立ち込めているからどうしようもない。


「今日は適度にちゃんと仕事して、定時で帰って、たーくんのことちゃんと整理するんだ」

「先輩、偉い。あたしだったら熱愛出ただけでも有給休暇取るのに。それも最低二日は」

「うん。そうだね」


 私も前はそう思っていた。芸能に関する様々なニュースが出るたびに、たーくんの熱愛報道が出たら? たーくんが芸能界を引退したら? この芸能人がたーくんのことだったら? そう考えては私もひどく落ち込むだろうと思っていた。

 だけど現実はどこか違う。受け入れられないのではなく、何一つ理解ができない。劇中で壮絶な死を迎えた原田たいちは、私にボロボロと涙を溢れさせたくせに、たーくんの死は私を泣かせることも悲しいと思わせることもしてくれなかった。

 いつも昼休みは真由子と二人、この画像がかっこいいとか、この演技が忘れられないとか、このグッズが欲しいとか、とめどなく色々な話をするのに、今日は二人とも無言だった。ただ静かに咀嚼して、スマートフォンをスクロールする。たーくんの死に関する追加情報はほとんどなかったが、憶測や嘘、こうであって欲しいという願望に近い情報が既に溢れ始めていた。真由子が「どうして死んじゃったんだろう」と口にする。「さあ」と返す私は過去の画像をネットの海から漁っていた。この時はまだ全部生きている。今度は「推しは推せる時に推せ、ですね」と聞き慣れた言葉を呟く彼女に、私は「うん」と同意した。言葉のついでに噛み締めた歯の間で、コンビニで買ったサラダのミニトマトがパチンと弾けてドロリと種が流れ出る。SNSを開いた画面をスクロールすれば真由子が口にした言葉と同じ言葉がいくつも流れる。大好きだった人の死がこんなふうに使い古された安い言葉に飲み込まれていくのを見るのは悔しかった。黙ってその流れを見つめることしかできない私はただただ無力だ。

 結局、一日中どこか上の空で仕事をした。経理の仕事を担当しながら数字を見るのが嫌になって、並んだ数字のうちの一つがたーくんの誕生日と同じ並びだと思った時にはため息が出た。毎年彼の誕生日には小さなケーキを買って食べる。今年もあと少しの筈だったけど、今年はもう来ない。来年も、再来年も、ずっと先まで。

 頬杖をついて適当にマウスを彷徨わせていたら真由子と目が合う。悲しい顔してへにゃりと笑った。多分あれは、元気づけたいけどどうしていいかわからないという顔だ。この顔をさせたということは私の上の空がきっとバレていて「仕事しなきゃ」と言った私がろくに働いてきないことにも気づかれている。

 だけど仕事は楽でいい。こうやってパソコンの前に鎮座して、仕事をしているフリだけで金をくれる。だけどこの金で何をしようか。何を楽しみに、何に期待して生きろというのか。思考が飛躍する。たーくんの死が、私に様々な思考を呼んだ。

 エクセルの帳票に『原田たいち』と無駄に打った。それをバックスペースキーで一文字ずつ消していく。何一つスッキリしない。そうやって書いては消してを繰り返し、定時を待った。





 ほとんど定時ちょうどに会社を抜けた。私の去り際「よく食べて、寝てください」と言った真由子には「うん」とだけ言った。電車を待つ八分間、車両に揺られる十五分間、ひたすら画面をスクロールする。葬儀は家族だけでひっそりと行うこと、ファンとのお別れの会は予定がないことだけが新たな情報だった。あとは首を吊ったとか、薬を飲んだとか、練炭を使ったとか、どこからきたのかわからない情報が画面いっぱいに踊っている。

 目で追って、想像する。たーくんが部屋で首に紐をかける姿、薬のゴミに囲まれる姿、見えないものに苦しめられていく姿、どれも上手く想像できなかった。部屋の間取りも部屋着もなにもかも知らないのだから当然だ。この情報を書き上げた人たちのどれだけがたーくんのそれらを知っているのだろう。

 実は誰かと付き合っていたとか、誰と不仲だったとか、そんな話にも反吐が出る。たーくんと交流のあった人の名前や一緒に写った写真をあげて、心配だなんだって書き連ねた投稿にも嫌気がさした。その投稿に何十、何百、何千と「いいね」が付いていることが許せない。何がいいのかと問いただしたい。この記事を読む何人が、ここに「いいね」を押す何人が、本当にたーくんのファンなのだろうか。

 なんだかたーくんの死が食い物にされている気がしてならなかった。まだ私が消化しきれていないこの事実が、ネットをザワザワと揺らしているのが気に入らなかった。逃れるようにSNSの画面を閉じればホーム画面でたーくんが笑っている。写真フォルダを開けば色々なたーくんが画面いっぱいに広がった。

 やっぱりたーくんが死んだなんて嘘だと思った。全部全部、悪い冗談だ。これはたーくんの死を利用したい誰かが撒いた嘘なのだ。

 家に帰るとテレビをつけて、たーくんが映ったドラマを手当たり次第に流していった。スマートフォンでも過去の映像を再生する。見れば見るほど、死んだことへの実感がなくなっていくから不思議だ。話して、笑って、動いているのに、なぜ彼が死んだことになっている? 

 好きな食べ物は? という質問にハンバーガーとはにかむ。どんなハンバーガーが好きなの? と訊かれれば大手ファストフードの名前をあげる。好きなメニューは? と問われたら、しなしなのポテトって答えて、笑うと切れ長の目がスッと細くなる。ハンバーガーじゃないじゃんとつっこまれたら楽しそうに声を上げる。彼は大きく笑う時、口元に手を寄せた。

 たーくんが初めて出演したバラエティの映像が手の中で流れている。何度も繰り返し見たせいでたーくんの言葉はほとんど覚えた。私がたーくんのファンになる前に撮影されたものだからリアルタイムでは見られなかったけれど、探し出して記憶するくらいには何度も見た。

 たーくんの家族は祖父母と妹が一人で、父は幼稚園の時に、母は高校生の時に病気で亡くなったらしい。大学を出るまではその祖父母、妹と共に暮らしていたという。

 たーくんは妹のことが大好きで妹の話になると身を乗り出した。シスコンだねと言われたら間髪入れずにそりゃそうでしょうと口を開く。私だって、何がいけないの? って肩を持つ。彼にとってはたった一人と妹のだもの。

 バラエティ番組の動画が終わったスマートフォンが、自動的にたーくん関連の次の動画を再生し始めた。誰かが作ったらしい、たーくんのまとめ動画だった。安っぽいフリー音源と無料ソフトで作ったような写真と動画の羅列。どうにも反吐が出る。私はスマートフォンの画面を閉じてベッドに潜った。





 朝、目が覚めると体が怠かった。熱を測ったら三十七度ちょうどで微熱というには足りなかったけど、結局そのまま会社を休むことにした。シャワーを浴びる。体はサッパリとしたのに、何かがモヤモヤと晴れなかった。


─ 先輩、生きてます?


 真由子からの生存確認メッセージがスマホを揺らす。充電器に繋いでいなかったから、バッテリーがかなり少ないけどそれでもいっかと充電はしなかった。


─ ちょっと熱でた


 そう返したら「心労ですね」と文字が返る。それから立て続けに「確実に」と付け足された。私は「うん、間違いなく」と適当に返事をする。


─ 明日もお休みしますか?

─ わかんない、明日の体調次第…ごめん

─ 有給休暇は権利ですから!


 私はポコンとクマのスタンプを一つ送ってからスマホを置いた。たぶん昼頃には充電もなくなるけど、それでもいい。ゴロリと寝返りをうって天井を見つめたら壁紙の切れ目が少しだけ気になった。

 はあ、とわざと大きなため息をつく。それからノロノロと起き上がって棚に収めた雑誌を全て引っ張り出した。たーくんが載っているものを可能な限り全て集めたけれど、数はそこまで多くない。だけど私がファンになる前に発売されたものも古本屋やバックナンバーの取り寄せでなんとか集めて並べている。取り出した雑誌をパラパラとめくってインタビュー記事を眺めていく。どれもこれも好青年という印象を与え、時に真面目で時に可愛い彼の魅力の一部を作っていた。

 ファンは彼のことをゴールデンレトリーバーといった穏やかな大型犬だと評した。たーくんもそれを気に入っていて、いつだったかのインタビューで「いつかゴールデンレトリバーを飼ってみたい」と言っていた。結局、飼うことなくたーくんはこの世からいなくなったけど、どうしていなくなったのかはどのインタビュー記事にも載っていない。眺め終わった雑誌をもう一度棚に戻していくとき、左から古い順に並べていたらどうにもたーくんの生まれてから死ぬまでのカウントダウンをしている気持ちになって途中で辞めた。代わりにスタイリングや写真の雰囲気が好きな順に並べてみると少しは気持ちが軽くなる。なかなか決めきれなくて時間がかかったせいか、終わる頃にはスマートフォンの電池はすでに切れていた。背伸びをするとパキと関節が小さく鳴って、有って無いような微熱のせいか妙な重さが体にかかった。

 たーくんはもう、この重くて不便な肉を捨てたらしい。一番右に並べた雑誌をもう一度手に取って、たーくんの美しい顔や肉体を目に映す。ネットの記事が、葬儀は明日執り行われることを伝えていた。日本は火葬の国だ。つまり明日にはこの美しいたーくんの肉体は焼かれて形のない煙や軽い灰になる。百八十センチの大きな体は骨だけになって小さな骨壷に納められ、妹か祖父母に抱えられて帰路につくのだ。妹はどんな気持ちで兄の肉を見送り、骨を拾うのだろうか。

 自分が母の骨を拾い上げた日を思い出そうとしてみた。しかし情景も感情もうまく頭に浮かばなかった。母の匂いも声も何もかもが煙のように消えていく。いつかこのたーくんに注いだ情熱も感情も消えてしまうのだろうかと、そう思うと人はなんとも無情だと思った。

 食べてないせいで軽いはずの身体はなんとも重たいままで、私は引き摺るようにしてたーくんに関するさまざまな物を整理した。それから今日も黒い服を纏って外に出る。買わねばならぬものが幾つかあった。





 どうしてこうも毎日暑いのだろうか。蝉の声が唸り、陽炎がアスファルトの上で揺れている。皮膚感覚ですら暑いのに聴覚も視覚も暑さを認識して気が滅入る。暑さのせいか、蝉のうるささのせいか、殆ど何も食べてない肉体のせいか、気持ち悪さが胃を握りしめて眩暈がした。コンビニで買ったスポーツドリンクを流し込んで、溢れそうな何かになんとか蓋をする。手の甲で口元を雑に拭って一先ず歩き出したはよかったが、左手に引っ掛けたコンビニ袋がガサガサ音を立てて耳障りだった。つうと一筋、黒いワンピースを纏った背中で汗が流れていく。


「すみません、これを一つ」


 花屋で小さな花束を買う。店の前に置かれたブルーのラッピングのミニブーケだ。


「今日は一段と暑いですね」

「そうですね」


 花束を袋に優しく入れながら、笑顔で話す店員に私は苦笑いで返す。花の準備が整うのをぼうっと待ちながら、花屋ってこんな匂いだったなぁと思った。


「お会計、五百……」

「あの、これも一輪追加でください」


 ひまわりを指差した。一際鮮やかで、夏そのものみたいだ。


「ありがとうございます。夏らしくて可愛いですよね」


 店員が笑う。はいと答えた。


「一輪だけですけど、リボンかけてもらうことできますか?」

「ええ、もちろん。お値段かかっちゃいますけど、何色にしますか?」

「水色で」

「いいですね、黄色いひまわりと空色のリボン。プレゼントですか?」

「はい、大事な人に」


 私がそう言うと彼女はレジに向いていた手をひまわりに伸ばす。太陽みたいに一番綺麗で元気な子を選びますねと楽しそうに包んでいく彼女をじっと見ていた。


「お待たせしました。お会計七百五十円です。お相手の方、喜んでくれるといいですね」


 はいと答えて、私は明日この熱い太陽よりも熱い炎に焼かれて消える人に向けた花を受け取った。水色が好きだと聞いたことはあるけれど、本当に好きな色かどうかは知らない。

 ひまわりはたーくんの誕生花で、花言葉は「私はあなただけを見つめる」。私は今も、あなただけを思っている。

 ありがとうございました、という声を聞きながら私は店を後にした。外は暑い。体は重い。引き摺るみたいに前へ進んだ。ズルズルと進む私の隣を車がすうっと通り過ぎてぬるい風を起こす。スマホは置いてきたから時間はわからないが、影が足の下で小さく縮んでいるのを見るに正午近い。もう少し夕方に出てくればよかったと後悔しながら、今度は文房具屋で額縁と透け感が綺麗な黒のリボンを買った。

 家に帰ると、一番気に入っていた雑誌から一番気に入っていたたーくんのページを切り離す。一冊しかないから、丁寧に丁寧にカッターの刃を当てていく。集中していたせいか、最後の繋がりが切れてプツンとページが落ちた瞬間に鼻が一気に大気を吸った。切り離したそれを額縁に納めたらリボンをかける。黒のリボンが巻かれた写真にはきちんと遺影の様相もあったけど、透け感のあるデザインにしたおかげかデコレーションのように見えなくもなかった。本棚の上に額縁を置いて、ミニブーケとひまわりを並べる。真っ黒なリボンにしなかったのも、鮮やかなミニブーケとひまわりにしたのも、私なんかがそんなに仰々しく弔って良いのかと思えたからだ。それに私が一番気に入っているこの写真、草原ですうっと真っ直ぐにこちらを見つめるたーくんの写真にはこれが一番似合うと思った。

 私は一人、たーくんの葬儀を執り行うことにした。誰のためでもなく、私のために。たーくんの死は、母の死とは違う。身近でありながら、最も遠い存在の死だ。それはどうにも理解し難く受け入れられない。理解が及ばないから整理ができない。だから区切りをつけるために準備を進める。たーくんの死を感じるために。





 朝起きて、体を綺麗に整えた。喪服を身に纏って髪も整える。会社にすみませんと頭を下げて、いつもより丁寧に朝食を摂った。ご飯とお漬物とお吸い物を二人分よそって、一人分はテーブルに、もう一人分はたーくんの遺影の前に並べる。食事を下げたらお線香の代わりにキャンドルを灯して、葬儀の手順は殆どわからないし、たーくんの信じたものが何かも知らないから思いのままに弔うことにした。雑誌をもう一冊取り出して、また丁寧にページを一枚抜き取っていく。

 写真に手を合わせてたーくんの好きなところを心の中で幾つも唱えた。終わりがないんじゃないかと思ったけど、案外すぐに唱え終わった。だから最後に、重要なのは数じゃないよ、その重さなんだよって言い訳みたいなことを付け加える。私はこの葬儀が馬鹿馬鹿しい行為だとは分かっていながらも真剣に臨んでいた。執着とも取れる彼への感情を溶かすには必要な行為だからだ。

 全てをたーくんに伝え終わると、私はたーくんが好きだったキャラクターのぬいぐるみと抜き取った雑誌のページ、ライターを持って外に出る。まだ午前中とはいえ、真っ黒な喪服に身を包んでいるといつもよりも暑い。それでも私は前に進んで、河原でそれらに火をつけた。火に負けた紙が変色し、ボロボロと崩れる様を見ながら私はふと、想像した。父にも母にも、そして兄にも先立たれた妹のことを。何度かSNSにツーショットがアップされていたマスク姿の女の子は、目元がたーくんにそっくりだった。少し気が強そうで、たーくんの二つ歳下。妹の写真を載せるときはSNSで自分のことを『にーちゃん』と呼ぶ。そんなたーくんも好きだった。きっと妹は明け方に起こされて兄のことを聞かされたのだろう。それから兄の元へ向かって、その道中では何を思っただろうか。

 つうと、涙が流れた。顔もよく知らない、会ったこともない女の子が兄に縋り付いて泣く姿を想像して涙をこぼした。私は、知りもしない妹の存在からたーくんの死を認識することしかできないらしい。それでも泣いた。馬鹿みたいに泣いた。これで私は、この執着にもにた愛慕の情を弔うことができるだろうか。

 透明な空気に混ざる白い煙が、青空に溶けていく。たーくんが投稿しいていた青空によく似ていた。





 彼が死んだ日から四十九日が経過した。私は案外普通に生きてる。弔ったとてすぐには立ち直おれないと思っていたのに、私はやっぱり無情な人間なのかもしれない。

 それから最近ふと思う、彼を殺したのは私じゃないかって。彼はファン想いで真面目な人だったから、私たちを悲しませないように芸能人でいることをやめなかったのかもしれない。私が彼の逃げ道を奪ってしまったのなら、もしも私が彼に『原田たいち』でいることを強要していたのなら、なんと謝れば良いのだろうか。

 だけれどたぶん、私にその権利はない。

 だからせめて──


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

消失 石橋めい @May-you

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説