INEDIBLE BONE 〜少女髑髏〜

じょにおじ

第1話

「いいか、クシナ。喧嘩するとき狙うのは顔だ。相手の顔を狙うんだ」


そんなことを言ってた父さんの顔を、今でもたまに思い出す。


太い腕に太い眉と大きな目をして、子供の泣き出しそうな怖い顔で笑うお父さん。


友達からは、よく鬼みたいだって言われて怖がられてた。


「もう、クシナは女の子なんだから。そんな物騒なこと教えないで」


お母さんが困ったように怒りながら、私を抱き寄せる。


卵焼きみたいな甘くていい匂いのする、私が一番好きな匂い。


「せっかくおしとやかに育ってるんだから、乱暴なことなんて知らなくていいの」


父さんを叱る母さんは、私のことをいい子だっていつも誉めてくれた。


大人しくて手のかからない、物静かな子供だって。


父さんはそんな私たちを見て、困ったように苦笑するのがいつもの決まりだった。


でも父さんがそんな風に私を心配するのも、少しだけ理解出来る。


私は友達より、喋る言葉が極端に少なかった。


運動も勉強も、飛び抜けて得意ってほどでもない。


両親でさえ、私が何を好きで何を嫌いか、大きくなるまであまり分からなかったと言っていた。


だから父さんは私がいじめられるんじゃないかと思って、ケンカのやり方ばっかり教えてくれたんだと思う。


「顔には目とか鼻とか大事なパーツが集まってるからな。そこを殴ればイチコロだ!」


太い腕を前に突き出しながら教える父さんを、母さんはよく呆れた目で見ていた。


父さんは大工さんで、母さんは縫製工場のパートタイマーをやっている。


どっちも忙しい時期になると、家に帰る時間が遅くなる仕事だった。


だから私は小学校低学年のころから鍵っ子で、家で一人両親を待つことがほとんどだった。


数少ない友達を呼ぶこともあったけど、どちらかといえば一人遊びしている方が私の気には合っていた。


お気に入りの遊びは、人形ごっこ。いくつかのぬいぐるみに囲まれて、私は短い間、お姫様になる。


その中でも特に私が好きだったのは、ドクロをモチーフにしたぬいぐるみだった。


そのぬいぐるみは、本当なら男の子が好むはずの、戦隊ヒーローの敵役のぬいぐるみだ。


いかめしい骸骨の顔はかわいらしくデフォルメされて、倒されるべき相手とは到底思えない。


それを誕生日にプレゼントしてくれたのは、父さんだった。


女の子の気に入るものが分からないから、仕方なくそれにしたんだって。


母さんはもっと選ぶものがあったでしょうと言って怒っていたけど、私はすぐにそれを一番目立つ場所に置いた。


そうして満足げな顔をする私に、父さんは誇らしげに胸を張っていたのを今でも覚えてる。


それ以来そのドクロのぬいぐるみは、困ったお姫様を助けるヒーローの役目を任されることになった。


私が泣いていても、困っていても、すぐに飛んできて私を助けてくれる。敵役なんて、とんでもない。


私は、父さんと母さんが好きなのと同じくらい、そのぬいぐるみのことが大好きだった。


そうやって、東京の端っこで幸せな暮らしをしていた私たち。


それに翳りが見え始めたのは、私が中学へ上がった時のことだった。


その兆しとしてまずあったのは、長年愛され続けていた戦隊ヒーローシリーズが、打ち切られたこと。


その頃にはもう私の好きだったドクロぬいぐるみは色褪せて、シリーズもとっくに別のものへ切り替わっていた。


約一年で一つのシリーズが終わるのだから、私が小さい頃にやっていた戦隊ものはとっくに過去のものだ。


けれど、無口な私はこの年齢になっても、戦隊ヒーローの活躍を追うことを止められていなかった。


たとえドクロの敵は出なくても、テレビの中で戦い続けるヒーローたちは、私の心を掴んで離さなかったから。


母さんは父さんの影響でそうなったと嘆いていたけど、それでも止めるつもりはない。


男子がそれを好むよりも強い気持ちで、私はヒーローの活躍に心を踊らせていた。


それが唐突に打ち切られるという事実に、私は強いショックを隠しきれなかった。


普段感情をあまり表に出さない私が動揺しているのを見て、両親も困惑してしまった程だ。


どうしてと思い調べると、そこには思いもよらない事情があった。


『昨今の世情を鑑みて、怪人の出演する当シリーズは子供に悪影響を及ぼすとのご指摘があり、シリーズの継続を断念することとなりました。』


戦隊ヒーローの特撮を撮っていた会社のホームページには、そんな記述が載せられていた。


怪人。それはテレビの向こう側の話ではなく、私たちの暮らす場所のすぐそばにある危機。


その文面を読んで、私の頭には、父さんと母さんがいつか交わしていた会話が思い出されていた。


『どうも最近、この辺でも怪人の被害が増えてきてるらしいな』


『嫌ねぇ……もっと治安のいい田舎に引っ越した方がいいのかしら』


不安げに曇る母さんの顔は、それまでに見たことのないものだった。


いつも力強い父さんでさえ、腕組みをして悩ましい顔をしていた。


怪人という脅威は、それほどまでに私たちの近くに存在して、いつ誰が襲われるか分からないものだった。


だけどそれを分かっていてなお、戦隊ヒーローシリーズが打ち切られたことに、私は納得行かなかった。


だって、テレビの中のものは現実と関係がない。本物の怪人が、テレビの真似をして悪事に挑むはずもない。


それなのに、怪人を扱ってるってだけで続けることが出来なくなるなんて。


好きだったものが理不尽に奪われて無くなってしまうことに、私は恐れに近い感情を抱くようになった。


母さんはそんな私を見て、内心では少しホッとしてたかもしれない。


言葉には出さないけど、私が男の子みたいにヒーローへ憧れるのに、あんまりいい気持ちを持ってなかったはずだから。


だから私は、好きだったものの終わりを噛み締めて、何も言わずに黙っていることにした。


それがいつもの、私のやり方。それ以外の自己表現の方法を、私は知らなかった。


モヤモヤは薄れるどころかどんどん強くなって、私はその解消法が分からなかった。


ますます黙りこくるようになってしまった私を見て、母さんも父さんも本気で心配していた。


心は沈んで、時が解決してくれるのを待つしかないと思われた、ちょうどその時。


私の住む街で、とある大事件が起こった。


それは密室殺人という、およそミステリー小説の中でしか聞いたことのないような事件だった。


子供を含む一家三人が、鍵のかかった部屋の中で残忍な殺され方をしたというショッキングな事件だった。


「鍵は家の中にあるのに、窓も玄関も施錠されてたんだって。ヤバくない?」


「めっちゃ怖いよね〜。犯人早く捕まるといいのに〜」


私の学校でもその話で持ちきりで、生徒は元より先生まで、登下校時に注意を促すほどだった。


それに後押しされる形で、私は次第にヒーローシリーズの打ち切りを忘れようとしていった。


それどころではなかったというのが本当のところだったけど、いつまでも落ち込んでいられるほど、世間は私のことを待ってはくれない。


だから前を向いて、今起こっていることに対処する。それが最善の方法だと、その頃の私は信じて止まなかった。


けれど、私はそれからそんなに間を空けず、思い知ることになる。


どれだけ最善を尽くそうと、地獄への落とし穴は突然その口を大きく開けて待ち構えているものなのだ、と。


「ここから引っ越すか」


ある日の夕飯を食べ終わった後に、父さんが何気ない風にそう告げた。


私はいきなりだったせいもあって、お箸を片付ける体勢のまま父さんと母さんの顔を見比べた。


「このところ、物騒な事件も多くなって来ちゃったでしょう? だから前々から、お父さんと話し合ってたのよ」


母さんは私より早くそのことを知ってたみたいで、驚きもなく私を諭すように父さんの後へ続いた。


「ごめんな。お前にはもっと早く話しておきたかったんだが……」


「お仕事の都合とかで、後手後手になっちゃったの。でも、クシナなら分かってくれるわよね?」


そう言って父さんと母さんは、語るに足らない自分の都合ばかりを私に聞かせた。


話によると二人は、東京を離れて神奈川の一軒家を購入する予定みたいだった。


すでに物件の当たりもつけて、今週末に内見しに不動産屋さんを訪れるそうだ。


確かに、殺人事件の起こった街になんか長く住み続ける理由はない。けど、どうせなら私にも、もっと早く話して欲しかった。


家族にさえ除け者にされたみたいで、私は肩を落としてシュンとする。


するとそれをどう勘違いしたのか、父さんも母さんも見当違いの慰めをし始めた。


「今度住む家はクシナの部屋もあるから、一国一城の主になれるぞ!」


「そうねぇ。友達と離れるのは悲しいと思うけど、クシナならきっと大丈夫よ」


私は唇を噛んで、その言葉が耳を通り過ぎるのを待っていた。


一体、何を思って私が大丈夫だと思っているんだろう。


私だってこの場所に愛着はあるし、離れ難い気持ちも少なからずあるのに。


だけど、その言葉はついに私の口を割って出ることはなかった。


涙を飲んで頷いた私は、全てを了承する意思を、両親に表示する。


この時もしも私が嫌だと言えていたなら、この後に起こる惨劇は防げたんだろうか。


でも、仕方ない。私は両親へ一時の安堵を与えるために、そうせざるをえなかった。


嫌なことほど忘れるには時間がかかり、また忘れたと思っても不意にフラッシュバックして思い出してしまうことがある。


忘れようとする行為自体が、脳に嫌な記憶を思い出す回路を作ってしまう行いなのだそうだ。


だとしたらこの記憶は、死ぬまで永遠に忘れることの出来ない記憶となるに違いない。


その日は金曜日で、珍しく両親が先に家へ帰っているはずの日だった。


翌日の土曜日に住む家を内見しに神奈川まで行くため、仕事を早く切り上げて前日から準備しておく予定だったからだ。


この後に起こることを知っていれば、仕事で帰りが遅くなった方が良かったとさえ思う。


だから私は今でも、引っ越しに反対出来なかった自分の弱さを悔やみ続けている。


ほぼ一日掛かりの遠出になるから、私も着いていって一緒に家を見るように誘われた。


中学生にもなって両親と出掛けることが、楽しいと思えるはずもない。


それでも、新しい家を見て自分の部屋を決めておくのは、少しだけ心が弾んだ。


私は必要最低限の荷物だけをまとめて、両親もバタバタと準備していた。


「引っ越しの準備は、クシナも手伝ってくれよな! 父さんだけじゃ大仕事になっちまう」


「ちょっとあなた。クシナに力仕事なんてやらせないでよ! 怪我したらどうするの!」


寝る前に交わしたその言葉が、記憶の一番最後に残った両親との会話になるなんて、思いもしなかった。


そう、だから。


学校から帰ってドアを開けたら、いつものようにいかめしい顔をした父さんと、甘い香りのする母さんが待っているはずだった。


そのはずだったんだ。


私がバッグから家の合鍵を取り出して、鍵を開けようとする。でも、玄関のドアに鍵は掛かっていなかった。


私たちが住んでいるのは公団住宅のマンションの一室で、いくらでも人の出入りはある。


こんな夕方から、まして物騒だから引っ越そうとしている矢先に、鍵も掛けずにいるはずがない。


それでも私の頭に嫌な予感なんてものは一瞬も掠めず、ただ鍵を掛け忘れたのかなとしか思っていなかった。


私がようやく違和感を覚えたのは、ドアを開けて足元を見たときだった。


玄関先の狭い上がり框には、両親の靴が散乱していた。


父さんは礼儀にうるさい人で、靴は毎回きちんと揃えていないと叱られてしまう。


それが今日に限って、率先して散らかしたかのように種類もサイズもバラバラに散らかされていた。


私はそっと靴を脱ぐと、短い廊下の先にある居間へ目をやった。


普段なら開けられている居間の戸が、閉められている。


2LKの狭い室内は、そのせいで余計に狭く堅苦しい印象となっていた。


大工をしている父さんは、その空間の狭苦しさが嫌で、よほどのことがない限り居間の戸を閉めない。


父さんがそこにいるなら、戸が閉められているのはおかしい。


二人の声は、どちらも居間から聞こえてこない。それどころか、引っ越しや遠出の準備をしているような音さえもしない。


私の心臓は、握りつぶされたように早く、ドクドクと唸りを上げて高鳴っていた。


どうかこの薄ら寒い嫌な予感が、勘違いでありますように。


祈るような、すがるような気持ちで、私は居間の戸を細く、音がしないように僅かに開ける。


そこに立っていたのは、私の両親とは似ても似つかない、知らない誰かだった。


その姿を、私は何と形容すればいいのだろう。


衣服を着ていない体は、人の肌とはかけ離れた色彩で彩られ、強いて例えるならそれは全身にべったりと貼り付いた迷彩模様だった。


頭髪のあるはずの部分に毛は一本も生えておらず、頭は途中から潰したかのように扁平になっている。


極彩色の巨大なネジが床に突き立てられていたら、目の前のこれと同じような印象を受けるかもしれなかった。


そして、その指先からは何かの液体が滴り落ちており、足元には。


その、足元には。


「ヒッ…!!」


普段どんな状況にあろうと声を上げなかった私が、思わず悲鳴を漏らしていた。


そこには、折り重なるように倒れて血を垂れ流す、私の両親が横たわっていた。


二人の胴体には大きな傷が斜めに走っており、そこから赤黒い液体が床を汚している。


尻もちをついた私は、居間の戸へ足をぶつけて派手な音を立ててしまう。


居間にいる何かが、その物音に気づいて振り返った。


「子供がいたか……それも女の個体。運のないことだ」


のそのそと、亀のような歩みで、その生き物は私のいる方へと近づいた。


暮れかけた夕陽は、明かり越しにその生き物の姿を仔細に照らし出す。


指先から滴り落ちていたのは、床に流れるものと同じ赤い液体だった。


誰の?


決まっている。それは床に倒れている、私の両親の血だ。その事実に私はゾッとして、頭を混乱させた。


尻もちをついた体を起こすことが出来ず、私は玄関まで這いずるようにして逃げようとする。


けれどその生き物は、私の頭上を一足跳びに跳躍して、玄関の鍵を閉めてしまった。


「……俺はお前に、何の憐憫も抱かない。懐柔も、恫喝もしない。捕食とはそういうものだからだ」


「それでもお前にこうして言葉を掛けるのは、我ら怪人が言語を理解する形態を持ち合わせているからに過ぎない」


余裕ぶったその生き物は、ガタガタと震えの止まらない私に座って視線を合わせる。


喋る言葉は人間のそれなのに、私はまるで人と話しているような気がしなかった。


怪人? この生き物が?


声を押し殺して、私は両親が倒れている居間まで、這って引き返した。


戻ってどうにかなるはずもないのに、そうするしか出来ない。


その後を、怪人を名乗る謎の生き物は悠々とした態度で追いかけてくる。


「言語を解さない虫や植物に話しかけるのは無意味……しかしこれから殺される人間に掛ける言葉は意味がある」


「好きなように逃げろ。好きなように叫べ。お前にはその権利がある。残り少ない権利の行使は有意義に使うべきだ」


その生き物は無茶苦茶なことを言いながら、事もなげに指を鳴らしていた。


殺される。私も両親と同じように、あっさりと。自分の余命を意識してしまい、私の目からは涙が零れ落ちる。


振り向いた私はベランダの戸を開けて、助けを呼ぼうとした。


けれど戸は何をしても開かず、鍵を開けようとしても接着されたように微動だにしなかった。


「無駄だよ、子供。俺の名は怪人『バスターゲート』。どんな入口も開けることが出来、どんな出口も不通にすることが出来る」


「ここは俺の魔法によって擬似的な密室になっている。開けるには俺を殺すか、魔法が解けるのを待つ他にない」


その言葉の中身も、ほとんど聞き取れないほどに私は怯えてしまっていた。


声も出せず、顔色は蒼白になって呼吸が苦しい。極度の緊張で膝はガクガクと震えていた。


けれどその怪人は、一向に私を殺そうとしなかった。


代わりに私からある程度の距離を保って、好き勝手なことをペラペラと喋り続けている。


「怪人というのもこれでなかなか大変でね。俺はどうやって世間に名を売るかをずっと考えていたんだよ」


「鍵を開け閉めして閉じ込めるだけの魔法なんて、地味で見栄えがしないだろう? だからわざわざ密室殺人なんて演出して、人間達を盛り上げていたんだ」


私はその言葉に、学校で誰かが話していたのを思い出した。あの密室事件の犯人は、今目の前にいるこの怪人だったんだ。


「君たち家族は、その二番目の犠牲者だ。そんな俺の苦労を、一人くらい知ってから死んでくれてもいいとは思わないか?」


全く理解出来ない理屈で、怪人は私の心を追い詰める。


心臓は今にも止まってしまいそうで、冷や汗は幾ら時間が経っても止まってくれなかった。


私は、怪人の喋る隙をついて逃げ出そうと走った。戸が開かないのは分かっていたけれど、動かずにいるのはもっと嫌だった。


それは、猫に追い詰められた鼠の狂走と同じものだった。


目的があって逃げ出したんじゃなく、ただ目の前の現実から逃げ出すために体を動かさずにいられなかったんだ。


当然そんな動きが見過ごしてもらえるはずもなく、怪人は逃げようとした私に足を掛けて簡単に転ばせた。


「逃げるなとは言わないさ。追われる獲物は必ず逃げ道を探すものだ。好きなだけ探して足掻くといい」


その悠長な口調も、私をいつでも殺せるからだと思うと絶望的な気持ちしかしなかった。


前のめりに床へ倒れると、私は悲鳴を噛み殺して尻もちをついたまま後ずさる。


視界はボヤケて不明瞭で、相手とどれだけ離れているかも正確に測れない。


ただ狭い室内を這いずり回って、どうにか怪人と距離を置こうと、そればかり考えていた。


でも、その逃避にも次第に終わりが見え始めた。狭いマンションの一室に、逃げるだけのスペースがそんなにあるはずもない。


私はおろおろとハイハイ歩きを続けた結果、倒れた両親の体に背中を預けるようにして行き場を失った。


「なるほど、最後としては悪くない。先立った両親の横で死ぬのなら、それもまた一興だろう」


怪人は空気の漏れるようなフフフという厭らしい声で笑って、血塗られた指を長い舌でベロリと舐めた。


その指が、みるみるうちに何かの形に変形していく。


それは、一本一本が鋭利に薄く煌めく、家の鍵の形だった。


本当なら武器になるはずもないただの鍵が、その時はどうしようもなく恐ろしい剣のように見えて仕方なかった。


きっと私の父さんと母さんも、あの指に切り裂かれて死んだんだ。


背中に感じる冷たい両親の体に、私はこれまで感じたことのない圧倒的な絶望感を覚える。


「今回は運が悪かっただけだ。もしも生まれ変わりがあるなら、次はこうならないよう祈ればいい」


怪人が冷たく言い放ち、その腕を私の喉へ向かって振り下ろした。


目を固くつむり、体を強張らせる。空を裂く爪はどう足掻いても、軌道を逸したりしないと分かる。


その鍵の指の切先が、私の皮膚を破り血管を引き裂こうとする、まさにその瞬間。


私の胸から、突然夕陽よりも眩い光が溢れて、部屋の中を満たした。


「うッ……!?」


怪人は狼狽えて腕を引っ込め、私の喉から素早く手を引いた。


その光は私の胸の前で一塊に集まると、今度は威嚇するように怪人の周りをぐるぐると周回する。


「クッ……!!」


怪人は腕を振り回してその光を迎撃しようとするものの、ひらひらと攻撃を躱す光には一度として当たらない。


やがて光は一通り怪人を翻弄すると、私の顔の前に降り立った。


その光の中に、私はかつて自分が愛して止まなかった懐かしいものの顔を見ていた。


「あ……あっ……!?」


私の口からは、声にならない声が漏れ出ていた。それは戦隊ヒーローの敵役の、ドクロを模したぬいぐるみそのものだった。


大きさは本物よりこぢんまりしているけど、見慣れたその姿形を見間違うはずがない。


本物は経年劣化で色褪せているのに、その光の中では父さんに贈られた日の姿のまま、静かな紫の色合いを放っている。


数秒声も出せず見つめ合っていると、突然ぬいぐるみからドクロの仮面がスッと消え失せた。


「えっ…!?」


思わず声を出してしまった。その下にあった顔は、私のものとそっくり同じだったからだ。


小さく簡略化されてはいるけれど、目鼻立ちは完璧に私の特徴を捉え、そうと分かるほどの造形になっている。


訳の分からなさに、私は新たな恐怖を感じてじりじりと後ろへ下がってしまう。


それが怪人と同じものでないと、ハッキリとは言い切れなかったからだ。


その後退する私の体が、父さんと母さんの横たわる体にぶつかった。


にじり去ろうとする余り、後ろに二人の体があったことを私はすっかり忘れてしまっていた。


その時、ほんの少し触れた私の肌が、トクンと脈打つのを感じた。


トクン、トクンと規則的に弱い鼓動を鳴らしているのは、肌に触れた母さんの腕だった。


生きてる。弱々しくて頼りないけど、まだ脈がある。まだ助けてあげられるかもしれない。


そのことに安堵するより先に、その生を確実なものにしたいという焦りが勝った。


私が振り向いて母さんの安否を確認すると同時に、光のぬいぐるみは怪人へ向かって飛びかかっていた。


「ステークスか……まさかこんなとこで、魔法少女の誕生にお目にかかるとは……!」


怪人は叫んで私に斬りかかろうとしたけれど、飛びついたぬいぐるみの光に視界を奪われ、右往左往し始めた。


私はぬいぐるみの稼いでくれた時間を使い、怪人へ背を向けて母さんの方を真っ直ぐに向いた。


父さんが上になって、母さんを庇うようにして倒れている。


きっと父さんは最後の瞬間まで、母さんを護ろうとして死んでいったんだ。


そんな簡単なことにも、私は気づけてなかったなんて。


そして父さんの下敷きになった母さんの体の、その細い指先が小さくか細く細動したのを、私は見逃さなかった。


生きている。少なくとも、母さんだけは。


この絶望的な状況に差した光は、私の暗かった視界をこの場に呼び戻した。


助けたい。私のことはどうなってもいいから、途切れかけたこの命だけは助けなきゃ。


そう思った時、私の足の震えは止まっていた。大きく深呼吸をすると、怪人の方を真っ直ぐに向いた。


私から飛び出した私の顔をしたぬいぐるみは、怪人の周囲を飛び回って翻弄し続けていた。


怪人が無視して私を襲おうとしても、それはしつこく纏わりついて離れようとしない。


あのぬいぐるみは何なんだろう。たしか怪人は、ステークスと言っていたような気がするけど。


でも、それが私の中から出てきた以上、怖いものじゃないはずだ。


現にそれは、私を逃がそうとするように怪人へ挑みかかっている。


そう考えて、私はハッとした。あのぬいぐるみが私を逃がそうとしているのなら、今すぐ母さんを連れて外へ逃げなきゃいけない。


けれど、怪人の魔法のせいで私に逃げ道は残されていない。


だったらなんで、あのぬいぐるみは時間を稼ぐようなことをしているんだろう。


母さんだって、あんまり時間が長引けば死んじゃうかもしれないのに?


そう思った矢先、突然私の頭にはその答えが閃いていた。


『開けるには俺を殺すか、魔法が解けるのを待つ他にない』


怪人はさっき、私にそう説明していた。つまりここから逃げるための一番早い方法は、この怪人を倒すことだ。


もしかして私から飛び出したあのぬいぐるみは、私に怪人を倒せと言っているんだろうか。


そんなの、出来っこないはずなのに。気弱な私はまたへたり込みそうになって、光るぬいぐるみのやり取りをずっと見つめていた。


「チィッ、鬱陶しいぞ!!」


けれど光に慣れてきた怪人は、ついにその鍵爪の手で大きくぬいぐるみを払い飛ばした。


勢いよく投げ飛ばされたぬいぐるみは私の方へ飛んできて、胸に収まる。


「小賢しい……人間なぞ簡単に殺されていればいいものを!」


明らかに怒りを感じさせる声音で、怪人が私へと迫る。


ついに時間稼ぎも終わってしまった。あとはもう、さっきみたいに逃げ惑うしか出来ない。逃げなきゃ。早く、早く。


『逃げなきゃ?』


そんな時私の胸に響いたのは、ぬいぐるみからの声だった。


喋ることに驚く間もなく、ぬいぐるみは一際強い光を放つ。


その顔は、眉を吊り上げ口をへの字に曲げて、怒ってるように見えた。


私はそれが何に怒ってるのか、理解出来ずにいた。


そうしている間にも、怪人は怒りのまま私へ走ってきている。


なんでそんなに怒ってるんだろう。怒りたいのはこっちの方だ。


理不尽に親を殺され、恐怖に追い詰められ、そのうえなんで怒られなきゃいけないの?


そう思った時、私は胸の中のぬいぐるみと目を合わせた。しかめっ面のその子は、一度だけこくりと頷く。


そうか。そうだったのか。この子は、怪人の理不尽な仕打ちに怒っていたんだ。


だから私が、この怪人を倒す覚悟を決めるまで時間稼ぎしてくれたんだ。


そう思うと、曇っていた私の心は急激に煮え滾った。


どうして私たち家族が、こんなことに巻き込まれなきゃいけなかったの?


どうして私が、我慢しなきゃいけなかったの?


どうして私が、逃げる側なの?


滾る怒りの念に応えるかのように、ぬいぐるみは私の胸の中へ溶けて消えてゆく。


それと同時に、今度は私の全身を包むように、神々しい光が部屋を覆った。


光は収束し、私の体に吸引されるようにくっついて、衣装の形を成していく。


「おっ、お前……!?」


今度は怪人が、私の前から数歩後ずさっていた。けどそれも当然のことだと思う。


光の中から現れた私の姿は、それはもう尋常なものじゃなかったから。


私は、部屋に置いてある姿見に写った自分の格好を確認する。


それまでの学校の制服はどこかへ消え、短いスカートの中にレギンスのようなものを履き、ヒラヒラした不思議なコスチュームに身を包んでいる。


けれど、特筆すべきことはそこじゃなかった。


華やかなコスチュームから一転して、私の頭はおどろおどろしい紫色のドクロに包まれていたのだ。


口を開こうとすれば、開閉したドクロからは瘴気のように吐息が漏れる。


視界は良好だけど、目は本物のドクロを模したかのように黒色の紗幕に覆われている。


それを見れば、怪人でさえ後ずさるのも無理はないような気がした。


でも、それで良かった。


怪人でさえのけ反るほどじゃなければ、母さんを助けることなんて出来やしない。


私は姿見から目を離し、数メートル先でおののいている怪人を目に捉えた。


さっきまでと違って、私は落ち着いて怪人の様子を観察することが出来た。


初めて出遭った時はネジを床に突き立てたみたいだと思ったけど、そうじゃない。


怪人の体はよく見ると左右非対称に歪んでひしゃげ、人間のように滑らかでなくギザギザだった。


地平線の彼方のビルのようなその凹凸は、その体自体で鍵の形を現しているように見えた。


扁平な頭はネジ穴ではなく、鍵の持ち手部分だったのだ。


冷静に見れば、なんてふざけた格好をした怪人だろう。こんな怪人に、私たちの生活が脅かされたなんて。


冷静な観察の後に再度訪れたのは、こみ上げるような怒りだった。


一体何人の人が、この怪人の手に掛かったんだろう。


そしてまた、幾人の人をこの先殺めるつもりだったんだろう。


私の、父さんのように。


途方も無い怒りは紫の光となって、私の頭蓋に纏わりついた。


「それが何だと言うのだ!!」


怪人は動揺を隠すようにして、鍵爪となった腕を私に振り下ろす。


けど、恐怖はもう感じなかった。


だって『それが何だと言うのだ』は、私の言いたいセリフだったから。


私が一歩跳躍すると、体は鳥の羽根よりも軽く動く。


そして突き出された腕をドクロのヘルメットで受けると、ガラスが割れるより簡単に鍵爪はへし折れた。


「ぎゃあぁぁぁあああ!!!」


さっきまでの余裕ぶった声とは打って変わって、怪人は情けない叫び声を上げて床に倒れた。


指は粉々に粉砕しており、いくら怪人でも元に戻ることはなさそうだった。


でも、容赦はしない。その体が動かなくなるまで、私は止まらない。


言葉はいらなかった。様々な感情は力となり、内側から迸って私を包んでいる。


それは、私がこれまで押し殺し、表に出すことのなかった感情たちだった。


─── 私が子供の頃、背中叩きという下らない遊びが男子の間で流行って、私はよくその標的にされた。


遊びといってもそれは名前の通り幼稚なもので、歩いている人の後ろから忍び寄って背中を叩いて逃げるというだけのものだった。


それは主に登下校時にやられることがほとんどで、その理由は登下校の時ならランドセルを背負っているからだった。


ランドセルを背負っていれば、ある程度強く叩いても緩衝材の役割を果たしてくれる。


だから男子はそれを免罪符にして、大人しい子たちばかりをわざと狙っていたように思う。


時々力加減を知らない男子が強く叩き過ぎることもあって、そういう時は気の強い友達が私の代わりに怒ってくれたりもした。


やがてそのイタズラは先生にも知れ渡ることとなり、全面的に禁止されたことで廃れていった。


その時、私のクラスを受け持っていた担任の先生はこう言っていた。


「自分より弱い人を叩いて楽しいんですか? 恥を知りなさい!」


それは間違っていない言葉のはずだったのに、私は自分が弱いと言われたみたいで納得いかない顔をしていた。


そして今。私はハッキリと、この目の前の怪人に『』。


この怪人という腹立たしい生き物に、後ろから無防備な背中を強く叩きつけられたのだ。


いつもの私なら、何も言わずにそこで相手が通り過ぎるのを待っていた。


そうするより他に、大人しい私が抵抗する方法なんてなかったから。


でも、違う。それは正しい方法じゃなかった。


背中を叩かれたら、怒らなきゃいけない。誰よりもまず自分のために、怒るべきなんだ。


今ならハッキリと理解出来る。あのぬいぐるみは、私と同じ顔をドクロの下に隠していた。


あのぬいぐるみの怒りは、そっくりそのまま私の感じた怒りの感情だったんだ。


私の頭は、怒りに燃えながらも冷静だった。怪人は体を起こし、改めて私の前で構えている。


「なりたての魔法少女ごときが、俺に敵うと思うな!!」


そしてまた、壊れていない方の手で私の肉を抉ろうと迫る。


怒りに任せて殴りかかったところで、私のパンチじゃ怪人に傷は与えられないのは分かり切っていた。


キックもそうだろうし、他のどんな攻撃だって通用するはずもない。


けれどさっき私のヘルメットは、軽く受けただけで怪人の手首から先を粉砕してみせた。


つまりこのドクロのヘルメットは、弱々しい私の拳よりずっとずっと固い装備のはず。


私は頭の中に、父さんの言っていた言葉を思い浮かべる。


『いいか、クシナ。喧嘩するとき狙うのは顔だ。相手の顔を狙うんだ』


『顔には目とか鼻とか大事なパーツが集まってるからな。そこを殴ればどんな相手でもイチコロだ!』


その教えだけを信じて、私は走り寄る怪人の手を避けることに専念した。


ただ真っ直ぐ突っ込んで来る怪人の手を、避けるのはとても簡単だった。


体はするりと軽く動き、怪人の懐へ私は一歩で潜り込む。


イメージは、炸裂するロケットエンジン。それを、コイツの顔面に衝突させる。


背をのけ反らせた私は、勢いをつけてドクロのヘルメットを叩きつけた。


ヘルメットは怪人の鼻の骨を砕き、頬骨が折れて肉に突き刺さる感触がした。


「おがっ……!?」


怪人が吐息を漏らし、変な声を上げる。でも、まだだ。まだ私の怒りの炎は、燃え尽きてなんかいない。


嫌な感触の残る額を剥がして、私は二発目の頭突きを怪人へと見舞った。


二発目の頭突きは、怪人の顔の真ん中へ大きなクレーターを作った。


代わりに、床を踏ん張りすぎた私の足の裏の皮が音もなくべろりと剥けた。


三発目の頭突きは、怪人の右の眼球を破裂させ水晶体を外へ垂れ流した。


代わりに、怪人の肩を強く掴みすぎた私の両手の爪が縦方向にピシリと割れた。


四発目、怪人の前歯が全てへし折れた。


代わりに、私の指の骨も何本か折れて、飛んできた歯が露出した腕へと突き刺さった。


五発目、怪人の顔は、もう顔と認識出来ないほどに崩れ果てた。


代わりに、私の全身は怪人の返り血で真っ赤に染まっていた。


その時点で怪人の体は力なく床へ崩れ落ち、ボロ雑巾のように床を舐めた。


そこでようやく私は、死体となった怪人へ頭突きを食らわせるのを止めた。


たぶん、二発目の時点で怪人の命はとっくに尽きていたと思う。


それを知っていて、それでも私はわざと攻撃の手を止めることをしなかった。


その行動が気持ちいいなんて、私はさっぱり思わなかった。


たった五回の頭突きを放っただけで、私は精も根も尽き果ててしまっていた。


それに比例するみたいに、ドクロのヘルメットは紫色の光を次第に弱まらせていった。


そうだ、母さん。母さんを、助けないと。


そう思っているのに、体が言うことを聞かない。病院へ電話するため立ち上がろうとしても、足に力が入らない。


攻撃は一切受けてないのに、私の全身は軋んで悲鳴を上げていた。


意識は朦朧と霞み始め、視界からは血の気が失せて幕が下りるように暗くなってゆく。


倒れまいとして、体を起こしているのさえ苦痛だった。


父さん、母さん、ごめんね。私、助けを呼ぶことも出来なかった。


それを最後に、私の体は前のめりに倒れて行こうとする。


途切れ、流れていくその意識の糸を繋ぎ止めたのは、小さな音だった。


ガチャリ。


玄関から、鍵の開く音が聞こえた。


聞き間違いかと思ってドアの方を向くと、ドアの隙間から徐々に光が差し込んでくる。


怪人の手によってドアは中から施錠されていたし、鍵は私たち家族が持っているものだけのはず。


それなのに、玄関の扉は勝手知ったる我が家のように簡単に開いた。


「あーっ! ケイクちゃんみてみて! 怪人はっけんしたよ!」


勢いよく居間へ飛び込んで来たのは、ふわふわした髪と衣装の、背の低い女の子だった。


その後ろから、少々場違いな感じのする女の人がついてくる。


その格好は、おばあちゃんの着ている割烹着と、エプロンを合体させたような姿だったからだ。


「やっぱりこの辺にかいじんいたね! 早く他の子も呼んでこよ!」


忙しなくピョンピョンと飛び跳ねる女の子の肩に手を置き、割烹着風の女の人はその子よりも前へ出てきた。


「よく見て、ハート。この子は怪人じゃないわ」


女性は私の前で膝を着き、よく通る気持ちいい声で語りかけた。


「あなた、魔法少女ね。名前と所属は言える?」


私は聞かれたことの意味が分からず、ふるふると首を横に振る。


それでも、何らかの助けが来てくれたことを悟った私は最期の力を振り絞った。


「か、さん、を……たす、けて……おね、がい……」


掠れきった声でそれだけを口にして、私は女性の方へ向かって力無く倒れる。


「あらあら……随分と無茶な戦いをしたのね。スカルヘッドのお嬢さん?」


割烹着の人は血まみれの私を拒むこともせず、優しく抱き止めてくれた。


その体からは、母さんと同じ甘い卵焼きみたいな匂いがしていた。


────

  ─────

     ─────


次に目が覚めた時、私は見知った布団の上じゃなく、柔らかなベッドの上に寝かされていた。


最初は病院かなと思ったけど、何か違和感を感じて首だけで周囲を見回す。


白い蛍光灯の明かりじゃなく、ほんのりと黄色い明かりが私の頭の上を照らしている。


衝立で仕切られたベッドは、昔どこかで見た覚えがあるような気がした。


衝立のカーテンは一部開けられていて、そこからは大小様々な瓶のしまわれた薬棚が見えた。


病院なら、患者のベッドのすぐ側に薬棚は置かれないはずだ。病院というより、ここは学校の保健室に近い内装をしてるように見えた。


一体ここはどこなんだろう。そうだ、母さん。母さんは、助かったの?


疑問がようやく母さんのことまで辿り着くと、私は起き上がって連絡の取れそうな場所を探そうとした。


けれど、途端に体が猛烈な痛みの信号を発して、私は死体のように横になるしか出来なくなる。


関節が、指が、筋肉が、金切り声のような悲鳴を上げて叫びだす。


こんなことしてる場合じゃないのに、私の体は全然言うことを聞いてくれなかった。


「あら、目が覚めたのね。無理して体起こしちゃダメよ?」


その時、衝立の向こうのドアが開かれる音と共に、女の人が部屋の中へ入ってきた。


その声は、おぼろげながら記憶の中から思い出すことが出来る。怪人との戦いで倒れかけていた私を、助けてくれた人だった。


「経過は良好だけど、まだ起きれる状態じゃないでしょ。ゆっくりとお休みなさいな」


女の人は、私の枕元に立つと、優しく肩を押してベッドへ横にさせた。


「良かったら、お茶でも淹れるわ。紅茶と日本茶、コーヒーもあるし、それに……」


楽しげにそんなことを言いながら、彼女は私が不安げな顔をしてることに気づいたのだろう。


「あぁ、ごめんね、お母さんのことが気になってるのよね。大丈夫、あなたのお母さんは無事よ。今は病院で治療を受けてるわ」


その言葉に、私は分かりやすく安堵のため息をついた。


「けど、お父さんの方は……どうにもならなかったの。本当にごめんなさい」


目を伏せて謝る女の人に、私は謝らなくていいという意思を伝えるため、服の袖をそっと引く。


たったそれだけの動作でも、指とそれに連なる筋肉が、痺れるような痛みの警告を発している。


けれど、私が何度もこくこくと頷くことで、その意思はちゃんと伝わったみたいだった。


「お腹空いてたらお茶よりもご飯にするけど、どうする?」


それに私は、ぶんぶんと首を横に振って今じゃないと伝える。


空腹なんかよりも、今私がどういう状況に置かれているかを知る方が先だと思った。


「そうねぇ……私もあなたに説明しなきゃいけないことがあるし、そっちから済ませようかしら」


「名乗りが遅れたけど、私の名前は一条しえ。魔法少女統括組織『学園』で、人々を怪人から守る仕事をしてるわ」


魔法少女。一応、そういう人たちがいるって聞いたことはある。


警察でも軍隊でも敵わない怪人を、魔法の力で退治する女の子たち。


けどその活動が表沙汰にされることはほとんどなくて、謎に包まれた存在だった。


女の人、しえさんは、次いで私へ驚くようなことを口にした。


「簡単に説明するわね。あなたは怪人に襲われたことで、魔法少女としての力に目覚めたの」 


「私たち学園は、あなたのその力を貸してほしいと思ってる。私たちと一緒に、戦ってくれない?」


それはまるで、街中でアイドルにスカウトするかのような気安ささえも感じられた。


私が、魔法少女?


それは言葉だけ聞いてみても、全く実感の湧かないことだった。


でも私は実際にあの時変身して、勝手にボロボロになりながら怪人を倒している。


「といってもまだいまいち分からないでしょうし、順を追って教えなきゃいけないわよね」


「私たち魔法少女は、生まれた年代や場所は違っても、ある一つの共通点を持って覚醒する。それは怪人に襲われてなお、自分の信念を抱き続けることなの」


しえさんは、母親のような話し方で私へ優しく語って聞かせる。


内容が内容なら、声だけで眠りに導かれそうな話し方だった。


「怪人と相対した時、その心は魔法の力と反応して『ステークス』と呼ばれる妖精を生む」


「ステークスは魔法少女の良心であり、心の象徴でもある。魔法少女になったあなたなら、理解できるんじゃないかしら?」


ステークス。私の、心の象徴。そういえば私を襲ったあの怪人も、そんな名前を口にしてたような気がする。


私は突然体から飛び出した、ぬいぐるみのことを思い出していた。


最初ドクロの面を被って現れたのは、それが私の心の象徴だったからなのかもしれない。


私はやや興奮気味に、しえさんへ頷いて返す。それを見たしえさんは、目尻を笑みの形にして、言葉を続けた。


「あなたがあなた自身の心を受け入れた時、少女は魔法少女へ変身する。その時、私たちの力は怪人に匹敵するか、それを凌駕するものとなるのよ」


しえさんの説明してくれることは、ある程度分かりやすくて納得いくものだった。


あの時私は確かに、封じられていた自分の心が解放されるような晴れがましさを感じていた。


きっとあれが、ステークスを受け入れたということなんだろう。


けれど、それでも疑問は残る。私は怪人と戦ったあの時、なんら魔法らしいようなものを使った記憶はなかった。


ただ怪人に向かって伸びをして、頭突きを食らわせ続けていただけだ。


子供のケンカとも言えないようなあれが、魔法少女の戦い方なんだろうか。


そんな疑問が顔に出ていたのか、しえさんはそれにも答えを用意してくれていた。


「あなたはきっと、肉体強化の魔法が使えるのね。自分の体を強化して、肉弾戦で戦うことを得意とする魔法少女もいるの」


「その代わり、自分の体も反動で傷ついてしまう。慣れないうちに全力を出したせいで、余計に体は保たなかったみたいね」


大人びたその微笑みが私を照らし、急に恥ずかしくなってしまった。


自分が子供じみた怒りに駆られて、とんでもないことをしでかしたような気がしてしまったからだ。


痛む両手では顔を覆うことも出来ずに、私はしえさんから顔を背ける。


「フフフ…何も恥じらうことはないわ。あなたの感情は誰にも否定出来ない、正しいものですもの」


「怒り、怯え、正義、妥協、悲哀……どんな感情でも、力に変えて前へ進む。それが魔法少女なんだから」


しえさんは、私の体が痛まない程度に緩やかに背中を撫でてくれた。


昔、母さんが寝付けない時によくしてくれたような撫で方だった。


「さて、前置きはこれくらいにして、本題に入りましょうか」


しえさんは、背中を撫でていた手をパンパンと慣らして、私へ声をかけた。


「ここから先の話は、あなたにとってとても重いものになります。だから休憩が必要だったりお腹が空いてたりしたら、遠慮なく先に済ませてね?」


私はその言葉に、しえさんの方へ再度振り向いた。真剣そのものの眼差しに、私はハッと息を呑む。


その表情だけで、今からの話が並々ならないものだというのが、伝わってくるみたいだった。


私はまたしえさんの袖を握って、何度か引っ張る。しえさんはそれを了承の返答と認識して、改めて背筋を正す。


「あなたには、これから二つの選択肢があります。一つは魔法少女としての記憶を封じ、元の生活へ戻ること」


「二つ目は、魔法少女として学園に所属し、怪人と戦う生涯を背負うこと」


「そのどちらにもメリットはあり、そしてデメリットもある。それを教えるから、よく考えて答えを出して?」


しえさんの言葉は、真綿に水を含ませるように私の中へ染み込んできた。


「まず、魔法少女として怪人と戦うことを選べば、元の生活へは戻れません」


「あなたのお母さんとも別れなければならないし、今後の長い人生で再会出来ることはまずないでしょう」


「その中で取り返しのつかない深手を負うことも勿論あるし、それで亡くなった魔法少女もたくさんいます」


しえさんのキッパリとした物言いのおかげか、私はさほどショックも受けず聞き入れることが出来た。


「何故記憶を封印するのかは、怪人と対したあなたなら分かるわよね? この力は、悪用すればそれこそ怪人と大差なく悪事に行使することが出来る」


「だから我々は、戦わないことを決めた魔法少女には魔法のことを忘れるよう予防線を張ることに決めているの」


どうやらテレビや漫画みたいに、魔法少女であることを隠しながら生活するということは出来ないみたいだった。


「逆に記憶を封じて普通に暮せば、また怪人と敵対した時に対処する手段は何一つないとも言えます」


「そしてその時、再びあなたが魔法少女として覚醒する保証はありません」


「そうなればあなたは、自分と自分の愛した人の死の際に、今度こそ立ち会わなければならなくなるかもしれない」


じっと私を見て話すしえさんを、私は食い入るように見つめ返した。


きっとこの人は、これまでに何度もこうして説明をしてきたんだろう。


そう思わせるような、芯の強い眼差しだった。


「戦うか、戦わないか。選べるのはどちらか一つだけ。私はそれを強制しない」


「答えは急がないから、ゆっくりと考えてね? 特に、ご家族を亡くした直後にお母さんと離れるのは辛いと思うから」


しえさんはそこで席を立って、私を一人にしてくれた。


私はその背中を見届けてから、ぼんやりと天井を見上げた。


慌ただしさのせいで忘れていた感情がようやく蘇り、父さんがもういないことを思い出した。


もしも私が魔法少女になったら、母さんは一人ぼっちになってしまう。


けどもし母さんの側にいると決めて、また怪人に襲われたら、その時私に母さんを助ける術はない。


涙が頬を伝い、悲しみが堰を越えて押し寄せようとする。


ぐずる子供がするような泣き方で、私は涙をぽろぽろと溢した。


私には決められない。どちらが最良かなんて、分からない。


いっそ誰か、私のことを知らない他人が決めてくれればいいのに。


感情の置き所を無くした私は、しばらく泣きながら、ぼんやりと天井を見つめていた。


そんな私が泣き止んだのは、突然の来訪者が現れたからだった。


「やっほー! げんきー?」


そう言って医務室に入ってきたのは、背の小さくてふわふわの髪の毛をした、愛らしい女の子だった。


確かこの人は、しえさんと一緒に私を助けてくれた人だ。涙を袖で拭って、私は急な来訪者を急いで迎え入れた。


名前も知らないその人は不遠慮なまでにズカズカと枕元へやってきて、私の意思とは無関係に言葉を投げかける。


「あっ、ノックするの忘れてた。ごめんねぇ!」


恐らく悪気はないのだろう、茶目っ気で誤魔化すようにしてその人は謝罪した。


今さらそんなことを謝られても、こっちはどうしようもない。けれどなぜか、その人を怒る気にはならなかった。


呆気に取られた私は、その人がポイポイと渡す何かを受け取るしか出来ない。


「りょーよー中ヒマかなぁと思って色々持ってきたんだぁ。ゲームでしょ、マンガでしょ、お裁縫セットにお菓子もあるし!」


横になった私の膝の上に積まれたそれらは、今にも崩れそうな危ういバランスをようやく保っている。


「ゲーム機は一つ前の世代のだけど、最新のがやりたかったら貸したげる。他にも必要なものあったら言ってね! なんでも持ってきてあげるから!」


そう言われても、すぐには頭に浮かばない。ただでさえ私の考えは、魔法少女になるかどうかでいっぱいなのに。


そんな私の悩みを見透かしたかのように、その人は言葉を続けた。


「あれれ〜、なんだか浮かない顔してるねぇ? どうしたの?」


どうしたのと聞かれても、あれだけのことがあったのだから浮かない顔をするのは当然だと思う。


この人は、少しデリカシーの足りない人なんだろうか。


「悩み事がある時はステークスにお話するといいよ、ステークスはウソつかないから! ムムムって念じてお喋りしよーって思えば、ステークスはいつでも来てくれるよ!」


とりとめのなさすぎる説明に、私はポカンとしたまま返事も出来ずにいる。


そしてパタパタと可愛らしい足音を鳴らしながら、その人は私に背中を向けた。


「ホントはもっとお話したいんだけど〜、ほーこくしょとか書かなきゃだからまた後でね。スカルヘッドちゃん!」


バタンと音をさせてドアは閉まり、私はまた一人になる。


かと思うと、出ていったはずの彼女がドアを半開きにして顔だけ覗かせた。


「お名前教えてなかった! 私の名前は平こころ、また後でお話しよーねー!」


そして目まぐるしく回転する竜巻みたいに、今度こそこころさんは去っていった。


嵐のような彼女を見届けて、私はまた一人でぽつねんと、考え事に耽る。


こころさんは、悩みがあるならステークスを頼るようにと言っていた。


ステークスは魔法少女が魔法少女となるために必要な、妖精のようなもので合っているだろうか。


それが私の偽らざる本心だというなら、確かに呼び出してみてもいいかもしれない。


やり方はよく分からないけど、とにかく今はやってみよう。


私は自分の胸に両手を置いて、静かに念じる。


お願い、ステークス。私の呼びかけに応えて。私あなたとお話がしたいの。


すると思ったよりもすんなりと、心の妖精は私の思いに応じてくれた。


ふわりと煙が立ち上るように私の胸から光が飛び立ち、それはやがて人形のような形になって宙に浮かんだ。


私の心の妖精は、初めて出会った時と同じようにドクロの仮面をつけてフワフワと浮いていた。


その仮面は数秒経つと消え去り、その下からは私の顔とそっくり同じ顔が現れる。


改めて見ても、不思議な生き物だと思った。


その生き物は私の姿を見るや、小動物のようにすり寄って、額を擦りつけてくる。


その仕草に、悲しみにくれていたはずの私から思わず笑みが溢れていた。


細く頼りない指を持ち上げて、私は小さな生き物の頭を指で搔いてあげた。


怪人との戦いで爪を傷めてしまった両手の指には、大げさなほどに包帯が巻かれている。


ズキリと強い痛みが走ったけど、それ以上にステークスは愛らしくて触れずにいられなかった。


彼女は下から私の顔を見上げて、くるりと空中で一回転する。


すると、その顔がまたドクロの仮面で覆われていた。


そして胸を張り、堂々とその姿を私の目に写す。


何がしたいのだろうと考えたけれど、何となくその答えが理解出来たような気がした。


この妖精が私の本心だとしたら、きっと魔法少女になるべきかどうかという私の悩みにも気づいてるはずだ。


だとすると、ここでまたドクロの仮面を被るのは、それに対するステークスの返答なのかもしれない。


私はその意味を考えるべく、ドクロの仮面の元となった悪役のことを思い出していた。


そのキャラクターも敵キャラながら、哀しい過去を背負っている。


高い戦闘能力を持ったドクロの敵は、闇の組織に連れ去られて改造された一般人だった。


家族から引き離され、記憶をも奪われた彼は、それでも何者かへの強い怒りだけは失わず主人公たちと敵対する。


やがてその執念深さから幹部まで登り詰めた彼は、最強のライバルとして暗躍し、彼らを終盤まで苦しめることとなる。


そして戦いの中で記憶を取り戻したドクロ仮面は、その怒りの根源が自分の日常を奪った組織へのものだと思い出した。


その復讐の刃を主人公たちへ向けられなくなったドクロ仮面は、哄笑を残しながら組織の秘密基地で自爆して、壮絶な最後を遂げるのだ。


子供向けとは思えないその底知れない感情に、まだ小学生だった私は圧倒されっぱなしだった。


その怪人の名前は、「ドクロの魔人ヒューリ」。


大きくなってから、私はヒューリという名前の語源が「怒り」を意味する英語の「Fury」だと知った。


その最後がどうしても忘れられず、私は歳を重ねてもドクロの仮面を忘れることが出来なかったのだ。


単なる悪役として終わらない、理不尽な仕打ちに対する怒りの権化。


それは、私が魔法少女として覚醒するに至る経緯ととても似通っているように思えた。


仮面の下に渦巻くのは、どこへぶつけることも叶わなかった紫色の炎。


それを消し去って日常に戻ることなんて、出来ればしたくなかった。


何より、かろうじて生き残った母さんがまた傷つくようなことがあれば、今度こそ後悔なんて言葉では足りないくらい悔やむはずだった。


それだけはしたくない。ドクロの魔人ヒューリのように、最後は燃え尽きて散るのだとしても。


ステークスを見下ろすと、彼女はいつの間にか仮面を外して、顔を笑みの形にして宙に立っていた。


そして私の決心を見届けるかのように、フッと前置きもなく消え去ってしまう。


ほんの少し寂しさを感じたけれど、私と彼女は一心同体のはずだ。


それならきっと、どんな決断をしても私と彼女が離れることはない。


私は、私の怒りを忘れずに立つ。ステークスの姿を見て、そう決断することが出来たのだから。


その後、私は二人して部屋へやってきたしえさんとこころさんに、魔法少女になる決心を伝えた。


「そう……分かったわ。あなたの決断ならそれは最大限尊重します。過酷な日常になるかもしれないけど、私達はずっとあなたの味方よ?」


「やった〜! またまほーしょうじょが一人増えた〜! いっしょに頑張って働こーね!」


感情を押し殺したようなしえさんと、喜び勇んで私に抱きついてきたこころさん。


二人はそれぞれ全く違う反応を示して、魔法少女となった私を歓迎してくれた。


「それじゃ〜、名前考えなきゃだね! まほーしょうじょとしての名前!」


こころさんが、無邪気な顔をして私へ提案する。


魔法少女の名前。そんなこと、全然頭に浮かんでなかった。


ぴょんぴょんと飛び跳ねるこころさんに苦笑しながら、しえさんもそれに同意した。


「そうねぇ、今すぐ決めないといけないってことはないけど、早めに決めておくに越したことはないかもね」


「ねーね、スカルヘッドちゃんにしようよ! そしたら見た目そのまんまだし、みんなすぐ覚えてくれるよ!」


こころさんは、ビシッと私を指さして私に命名する。


そういえばしえさんも、私を怪人から救ってくれた時にそう呼んでいたような気がする。


だけど、それはズバリそのものすぎやしないかなと私は思った。


ドクロの魔人ヒューリという名前が、私にとっては神様の付けた名前かと思うくらい綺麗で美しくて尊いものだったからだ。


だから見た目そのままのスカルヘッドというネーミングは、どうにもしっくりと来ない。


しばらく考えた私は、脳に浮かんだ名前を一言、口にした。


「……スカーレット。スカーレット=ジオ」


スカーレットは、スカルヘッドを文字った語感で決めた。


ジオは、しえさんが初めて私を呼んだ「スカルヘッドのお嬢さん」という呼び方から取った。


スカルヘッドのお嬢さん、スカルヘッド嬢。それを変換して、スカーレット=ジオ。


正直に言えばただの駄洒落だけど、スカルヘッドという安直な名前よりは良いように思える。


その名前を、しえさんは口を手で覆って笑いながら肯定してくれた。


「スカルヘッドから少しだけ変えてみたのね。私はいいと思うな」


「え〜、スカルヘッドちゃんの方がいいと思うけどなぁ〜」


こころさんにはやや不評だったものの、本人の意思を尊重するというしえさんの言葉から、渋々引き下がってくれた。


スカーレット=ジオ。それが、魔法少女としての私の始まりの一歩。


心の中で私のステークスも、その名付けに満足して笑っているような気がした。


それから怪我が治るまでの療養期間と、見習いとしての訓練期間を経て、私は本格的に魔法少女としてデビューする。


そこに至るまでの訓練は、それはもう一言で言い表せられないほど過酷なもので、挫けそうになるのを歯噛みして何度も堪えなければならないほどだった。


しえさんもこころさんも、こんな厳しい訓練を全て乗り越えたのか。魔法少女たちがどれだけ凄いか、嫌でも分からせられてしまう。


泣きそうになる度に私は心の中のステークスにすがり、ドクロの魔人ヒューリを思い出していた。


これは、私が後悔しないために選んだ道だから。もう二度と背中を叩かれて、誰かに泣かされたくはなかったから。


そうして何度も地に足をつけ、頭突きを叩きつけるうち、ドクロのヘルメットは言葉よりも雄弁に固くなっていった。


慣れたせいもあってか、自分の攻撃で自分の体を傷めるようなことは滅多に無くなった。


昔よりほんの少し強くなった私は、今では怪人たちの脅威として日夜千仁町の平和を守っている。


「クシナちゃんすごいね! スカーレット=ジオって、今では怪人たちが一番戦いたくないまほーしょうじょって言われてるんだって!」


別勤務のこころさんからそう報告されて、私は満更でもない気持ちでヘルメットをカリカリと指で搔いてみせる。


それはドクロに隠されて見えない私の、せめてもの照れ隠しだった。


こうして毎日怪人と戦っていれば、それが離れた母さんの平和にも繋がっているはずだ。


そう信じて私は今日も、心に怒りの炎を宿して怪人たちと戦っている。


紫の炎の色は、夜明けの地平線と同じ色なのだから。


────

  ─────

     ─────


千仁町に存在する、とあるマンションの一室。


そこに一人の、やや枯れた印象の中年女性が住んでいる。


かつては三人家族で住んでいたマンションも、彼女一人では持て余すほどの広さに感じられる。


洗濯物を畳んでいた彼女は、その手を止めて数秒、机の上へ目をやった。


机の上には紫色の花が数輪、慎ましげに生けてある。


そして窓辺には、同じ色の花が紐を掛けて吊るされ、ドライフラワーとなっていた。


その花は何重にも重なり、列を成して窓辺の一辺を埋め尽くしている。


詳しい知人に聞いたところ、それはスミレの花の一種らしかった。


彼女が一人になってから、差出人不明のその花は毎月彼女の元へ届けられている。


それは娘である大津クシナが失踪してから、空くことなく贈られてくる花であった。


警察に掛け合ってみても、怪人絡みの事件は捜査が困難だとしか言われず、難色を示された。


怪人事件の被害者が生死不明の場合、警察は怪人による捕食行動と断定し、捜査を早々に打ち切ってしまう。


そのため残された家族は自らの手と足を使い、その消息を可能な限り辿るしか出来ないのである。


無論一人で生きる彼女にコネや財力のあるはずもなく、警察の出した「少女一名が行方不明」という結論を受け入れるしかなかった。


そうして悲嘆に暮れる彼女のもとへ数年前に送られてきたのが、この生け花だった。


律儀にとでも言えばいいのか、その花はいつも亡くした夫の月命日に送られて来る。


そのせいもあり、彼女は明言されずともそれが誰からの贈り物なのか察することが出来た。


「まったく、手紙でも一筆添えてくれればいいのにねぇ……」


そうぼやいてはみるものの、何も言わずに花だけ送るという行為こそ、ひたすらに無口だった我が娘らしいという気もしてくる。


わざとらしく手紙など添えてあったら、却って誰かのイタズラを疑っていたかもしれなかった。


心配は絶えない。一人で生きる苦労もまたひとしおである。


それでも彼女は、その花の届く限り娘の存命を信じて生きられるだろう。


同じ町の、同じ空の下、しかしもう二度と交わらない娘と母の道。


生きていてくれさえすればと、母は祈る。


その祈りもまた少女の抱く仮面の力になると知らず、母は娘へと無償の愛を注ぎ続けるのであった。



<了>

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INEDIBLE BONE 〜少女髑髏〜 じょにおじ @johnnyoji

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