自然界を旅する23の法則

@Namastation

部屋

頭顱の内側から声がする。


それは一つではない、複数だ。

声が重なって聞こえることはなく、一つ一つが順を成し、明確に語りかけてくる。


それでいてその声は、どこか親しげだ。

聞いていると安堵さえした。


まるで自分が卓の最奥に座り、それらの声を一つ一つ引き受けているような――そんなイメージがふつと脳裏に浮かんだ。


だが、"彼ら"の表情まではわからない。


天井から光明が卓に差し込んでいる。


その光はあまりに強く、卓の天板に反射して濃くなった影が、彼らの眼前に黒いベールをかける。


姿こそ見えないが、彼らの声はこの世で最も尊く、それでいて信憑に値する。


声に耳を傾ける時間は至福であり、それが永劫続くかのようにすら思えた。


――ずっとここにいたい。


しかし、この時間に終節が訪れることは少し前から分かっていた。


ただ、これが最期でないことも同時に理解している。


惜しみない恩礼と、限りない寵愛をここに置いていく。


"男"は卓を離れると、暫時の別れの言葉を述べた。



--



"青年"がここにきてから91日が経った。


彼の住むこの部屋はひどく質素で、それでいて簡素だ。


置いてある家具は白いベッド一つに、白いテーブルと白い椅子。

洗面台とトイレはそれら家具と同じように、何ら隔たりなく部屋の隅に置かれている。

いわば監獄のようだと、青年は思ったものだ。


天井に明かりがあるが、その点け消しを自由に行うことはできない。

その代わりとは言えないが、時間帯によって明るさが自動的に変わる仕様となっている。

朝目覚めたときは薄明りだが、時間が経つほどにその明度は上がり、就寝の時間が近づくにつれまた明かりが消えていく。

部屋の白い壁には外窓はなく、その明かりが青年の一日を示す日時計となっている。


扉が一枚あるが、これは青年が"ここ"に来て以来一度も開いていない。

鍵穴はなく、青年が押しても引いてもその扉が開くこともない。


しかし、扉の横に小窓がついている。


この小窓は特殊で、引き出しのような構造になっており、ここから物の搬入と搬出が行える。

しかしその構造上、窓の向こう側の様子をうかがうことはできなかった。


一日に三回、この小窓から物が運ばれる。

一回目は食事とタオル。

二回目は食事のみ。

三回目は食事とタオル、そして替えの衣服が入っている。

使用した食器、タオルや衣服は、搬入時の受け取りと引き換えに引き出しへ入れると自動的に回収された。

誰がそれを回収しているか、当然青年は知らない。


食事については、味は程々であったが量は十分にあった。

一回目と三回目の食事を終えると、青年は洗面台でタオルを濡らし、服を脱いで全身と髪をゆっくりと時間をかけて拭くのが習慣となっている。

三回目の食事のあとは、タオルで身体を拭き終える頃に丁度明かりが完全に消え、就寝のタイミングを迎える。


最初の4日間ほどは勝手がわからなかったものだが、やがて今の形に落ち着いた。


青年は食事と洗体以外の主な時間を、考え事に費やす。

当然、それ以外にこの部屋ですることがなかったからだ。


なぜ自分がここにいるのか。

いつまでここでこうしていればよいのか。

そもそもここはどこなのか。


そして、自分はいったい誰なのか。


青年は、ここに来るまでの一切の記憶を欠落させていた。

いや、明確には"一切"といえば噓になる。

例えば、自分が座っているのは椅子で、食べ物は口に運び、タオルは体を拭くものということは覚えている。

しかし、どのような経緯で青年がこの白い部屋に閉じ込められているのか、そもそも自分はどのようにして今まで生きてきたのか、彼はその一切を覚えていなかった。


この部屋には鏡がなく、いまだ青年は自分の顔すら見れていない。

溜めた水面にチラと顔が映るがよく見えず、食器は樹脂製で反射もしない。


ただ青年は、自分が"青年" であることはわかる。

手や足は丈夫に動き、皴も少ない。

やや低くも、しわがれのないよく通る声が出る。

背丈もそれなりで、髪質や肌艶も壮年のそれとは異なる。


幸い、精神的な失調も今のところ見られていない。

閉鎖的な空間に長い時間閉じ込められれば、自身がおかしくなってしまうのではないかと青年も当初ある程度は不安には思っていたが、別段そのような揺らぎは感じていない。

むしろ、日に日に落ち着きを持ってしまっていることに恐怖を感じるほどだ。

確かに暇な時間が多く、食事以外の娯楽も存在しない無機質な日々だが、青年にとってそれは全く苦痛になりえなかった。



しかし、その日は唐突に訪れる。


部屋の明かりが点いてからまだ薄暗いほどの時間。

この時間に青年は目覚め、鏡のない洗面台で口をゆすぐ。

そうしているうちに、やがて小窓から1回目の食事とタオルが搬入されるはずだが、今日はまだ行われていない。


ここにきて初めての出来事だった。

当たり前に行われてきたことが途端に打ち切られるということは、青年にとって十分死活に関わる。

もしこのまま食事が運び込まれてこなければ、一日や二日耐え忍べても、やがて限界が来る。

部屋の明度が上がるごとに青年の焦燥感が駆り立てられる。


小窓は依然として開かない。

小窓の引き出しの構造として、向こうが押せば、こちらから押し返すことはできたが、こちらから引くことはできない。

つまり引き出しが動かなければ食事が運び込まれてくることはない。


もうどれほどの時間が経っただろうか。

部屋の明るさからして、当然1回目の食事は終わっている時間だ。

タオルで身体を拭き、2回目の食事が来るまで考え事にふける時間でもある。

いつもは平坦だった時間が、嫌に加速していく感覚を味わう。


動揺が隠せない。

気が付けば小窓の前で青年はただ立ちすくんでいた。

こんなにも長い時間小窓の前に立っていたことはこの90余日で初めてのことだ。


汗が止まらない。

室温はいつも青年が寒いとも暑いとも感じない適温だったが、今日はやけに暑いし、寒い。


そうなって初めてわかる、青年はこの部屋で"生かされていたのだと"

それは当たり前のことだったが、さも自分で生きていると思っていた傲慢さに愚かしさを感じる。


何か行動を起こすべきだったのか。

受動でいることが悪だというのであれば、いっそ錯乱でもすればよかったのか。

青年は自分の息遣いが荒くなっていることに気づかぬまま、引き出しの取手をただ掴んでいた。



ふと、部屋に風が入る。


今までに嗅いだことのない香りが部屋を吹き抜けていく。


青年は掴んでいた引き出しを見るが、いまだ動く気配はない。


であればその出どころは一つしかない。


――部屋の扉が開いている。


これもまた青年にとっては目覚めてから初めての出来事だった。


もうすでに感じていた焦りや不安感は立ち消えとなり、今はただその扉を眺めることしかできない。


その間、ものの数秒であったが、青年にとっては永い時間が過ぎる。


その刹那とも永久とも取れる時間が青年の前を通り過ぎると、やがて扉から人が一人入ってきた。


男だ。


彼は聖職者の着る丈の長い黒いキャソックに身を包み、手を後ろに組んでゆっくりと部屋に入ってきた。


背丈はそれほど高くはないが、どこか気品があり、他を寄せ付けない赤黒い気配を一身に纏っている。


彼は部屋に入るなり、初めは青年には目もくれず部屋の中の様子を伺っていたが、途端にその金色の瞳が青年を睨みつける。


また、青年の心臓が揺れる。


鋭利そのものを研いだかようなその眼光は、青年の身体をその場に留めて離さない。


は白髪であったか。なんとも御し難い...そうか...」


男はあまりに大きい独り言を青年に言い聞かせる。


「まあ私が出向くまでもなかったが、この目で確かめたかった。無論、問題は無い」


この男の言葉は幸いにも記憶を失っている青年にも聞き取ることができた。

それとは裏腹に、この男の話している内容は何一つ理解できない。


「名は」


「...」


「お前の名前だ、何という」


男に話しかけられていることに気づくのに寸刻かかったが、青年は答える。


「わからない…」


「そうか、ならそれでいい。悪いが、これから私についてきてもらうことになる」


「どこへ...」


そう言いかけた時にはもう意識の混濁が始まっていた。

朦朧とする視界の中で、青年は立っていることすら難しくなる。


「そう、ゆっくり倒れるといい。次に目覚めたとき、また会おう...」


そう言いながら男は青年の眼前にまで迫り、瞼が閉じ切るのを見守っているようだった。


男のその金色の瞳に映る"白髪の青年"の姿は、やがて失われていく意識の中で、静かに見えなくなっていった。

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